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上手に啼いて
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かちりとロックがかけられる。首に付けられた首輪と鍵。
大輝は鍵がかかったのを確認するように、ぐいと引っ張った。
身体が動き、転んで彼にぶつからないように前に出した手をその胸についた。
***
大輝と番になったのは10歳の時。
発情期が来た、初めての時。
大輝の父親に家族で招かれた広い家で、初めて大輝と出会った。
同い年の僕たちはアルファとオメガという違いはあれど幼く、何の問題もなく少しの距離を縮め遊び始めた。
広い家に負けないような広い庭には色とりどりの花が咲き、青々とした木々が風に揺れていた。綺麗に整備された庭は迷路のような作りになっていて、10歳の僕は冒険だと喜んだ。
追いかけっこをしていたが足の速い大輝に追いつけず、いつの間にかかくれんぼのようになっていた。薄紅色の薔薇のアーチをくぐり、時には背伸びをし、時にはしゃがみ込んで草の向こう側を見ようとした。
彼はいったいどこに行ってしまったのか、懸命に探す。
あの時は、僕たちだけではなかったはず。
大輝の父親は会社を経営していて、僕の父親はそこで働いている。家族で招かれたのだ。他の従業員も招かれていた気がする。
同じように子供もいて、大輝の母親は沢山の手作りお菓子も用意してくれていた。
だから僕らは2人だけで遊んでいたわけではない。
でも記憶を探ってもあの瞬間、僕らはただ二人だった。
天気が良く強い日差しが降り注ぐ。
くらりと眩暈がした。
大輝の姿を見た気がして、精一杯の声で呼んだ。倒れた僕に「日射病かもしれないから家に入ろう」と、幼い彼は声をかけてくれた。花の匂いが充満する庭で、彼は僕を起こそうと手を伸ばす。
あの時、僕は日射病ではなくただの眩暈でもなく、初めて発情期を起こしていた。個人差があるとしても僕の発情期は早く、精通だってしたばかりだった。
意図せずしてアルファの大輝を僕はオメガとして誘うことになってしまった。
大輝はその手で引き起こした僕に、まるで光に虫が寄っていくように吸い付いた。
「痛い」
首を強く噛まれ声を上げる。彼はそれでも噛むことをやめず、僕はひたすら叫び続けた。
掴まれた手も離れないようにぎゅっと握られ、起こされた身体は再び土に倒れ込んだ。
「やめて。痛い。離して」
声を出すたびにその歯は食い込んだけれど痛くて、先ほどまで遊んでいた大輝が豹変して襲い掛かってきたことが怖くて、叫んだ。
声に気付いた大人が庭に来た時には随分と時間が経っていたように思う。そんなことは無いのかもしれないけれど、僕にとっては随分と長い時間だった。
僕らはそうして、番になった。
オメガが発情期の度にアルファを誘うということを、学校で習った。習うよりも前に僕らは番になってしまった。
でもあの時僕たちは性行為をしていない。番になるよりもまず行為をしたがるんじゃないかと習った時に思ったけれど、よく、わからない。
番になってしまったことを大人たちは騒いだ。騒いだが、僕は後に大輝の家に引き取られることになる。
結婚をするわけではない。養子になるわけでもない。ただ離れて暮らすのもなんだろうと、あの広い庭の薔薇を潰して僕の住処が建てられた。森に住む魔女のようだなと感じたことを覚えている。
番になったあと僕の身体はおかしくなったのか発情期が来ておらず、再び大輝に会うまで何の問題もなかった。
父親からそれも伝えられており、まだ体が未発達だからだろうと結論付けられてもいた。
僕の住処は大輝の、白石家の六畳ほどの離れだ。キッチンは狭いが風呂もトイレも用意されていたし、特に不満はなかった。
白石家の家政婦さんが僕の分のご飯も作ってくれて、時間になると僕は母屋でまるで家族の一員のように過ごさせてもらった。
大輝のご両親はそれぞれ忙しく、皆が揃うことはめったになかったけれど、それでも僕は邪険にされたことがない。されてもよかったはずなのに、大事な長男を誘惑してしまったオメガなのに、優しかった。
食事が終わりご両親もいないとき、大輝は離れに来た。
大輝は僕と友達になろうとしていた。僕は最初それを喜んで受け入れたのだ。
状況が変わってきたのは、僕に再び発情期が訪れてからだ。
番になった時と同じように、庭の薔薇が満開の時だった。
いつも通り夕食を食べ終え片付けてから、大輝は離れに来た。テレビもない僕の部屋は集中できると彼は言い、宿題を持参していた。通う学校は違ったけれど僕も同じように宿題をした。
開け放った窓からは花の匂いが風と共に入り込み、質素な部屋を華やかに飾った。
僕の宿題は大したことのないもので、なんとはなしに大輝のノートを覗き込む。僕のより毎日の宿題も多い彼は、それでもあと少しで終えようとしていた。
隣に座り大輝が貸してくれた本を開く。字を目で追ううちに、何だか身体が熱っぽくなっていた。
「なんか良い匂いする」
大輝がノートから顔を上げそんなことを言った。
「外の薔薇の匂い?」
僕は風邪でも引いたのかと、額に手を当てて自分の熱を測ろうとしてみた。
「何だろう」
くんくんと大輝は匂いを探し、窓に近寄って嗅いだりもしていた。
「聡から匂いがする」
その時には既に、彼をまた誘惑してしまっていたのだろう。
犬が匂いを嗅ぐように彼は僕に鼻をつけ匂いを嗅いだ。僕はまだその時二度目の発情期を理解しておらず、彼にされるがままだった。
その手がべたべたと身体を触ってくるのも、子供ながらに舌を絡め合わせるのも、意味を分かっていなかった。
「美味しそう」
めくり上げられたシャツ。露わになった肌を大輝はぺろぺろと舐めてきた。
今ならわかる。
オメガのフェロモンは甘い匂いを発すると言われているから、彼はあの時僕をお菓子のように思っていたんだろう。
胸の突起を噛まれ、腰に痺れが走った。
もう大輝はあの時すでにアルファとして、オスとして機能し始めていた。彼が僕に触れる度に僕も同じようにオメガとしての機能を加速させてしまった。
服を脱がされ、全裸を昼白色の下に晒した。大輝は下着を脱ぎ、生肌を僕の身体に擦りつけた。
何をしているのかわからなかった。
性器を合わせるようにこすり付け、大輝の手で僕の足が開かれる。自分のものが反応を示しているのが子供心に恥ずかしくて、手で隠した。
彼は行為の意味を分かっていたのか、それとも分かっていなかったのか。
体を丸め自分を隠そうとする僕に抱き付き、大輝は手で僕の穴を探ると躊躇いもなく彼のものを挿入した。
なんで、という疑問だけが、彼が動くたびに僕の頭に浮かんでは消えた。
僕自身は置き去りにされたままオメガの身体は彼を受け入れた。アルファの彼も、きっと同じようなものだっただろう。
ほどなくして中に彼のものが放たれた後、それの意味を理解した。
発情期はそれから定期的に来るようになった。
その度に僕は大輝と性行為をして、発情期を治めてもらった。
だから僕はずっと、今までずっと、一度も、抑制剤を飲んだことがない。
中学に上がる頃にはもう自分たちのことを理解していて、頭の中はぐちゃぐちゃになっていた。
普通ならこの年で番なんかいるはずもなく、抑制剤を飲むことが当たり前だった。でも僕は毎度大輝にしてもらっていて、それがいけないことなんだと分かってもいた。
実の両親も大輝のご両親もきっと僕らの関係をわかってはおらず、どちらも僕が薬を飲んでいると思っていただろう。まさか、離れに来てからずっと体の関係を持っているとは思っていなかったと思う。
一年、また一年と経っていく頃には、僕の役割はこれなのだろうと思い始めていた。
番になってしまうと、発情期にオメガは番相手のアルファをひたすらに求める。その為に離れを作ってもらったのだろうが、僕は決していわゆる妻になるわけではないのだ。
大輝が将来可愛く優秀なアルファ女性と結婚するまでに、僕は正しく彼の性欲処理係となれる。僕が発情期の度に求めるのだから、彼から求めるのだって問題ない。
番という名の身体の関係だけを、情けで僕は貰っているのだ。
大輝は、白石家は親切でもって僕を置いてくれている。僕だって番に捨てられたオメガとして彷徨わなくて済むのだから有難い話なのだ。
今は高校も卒業し白石家がいくつかもつ会社の末端も末端で働かせてもらっている。発情期には大輝に処理してもらえるし、オメガへの偏見を放っておけば問題はなかった。
中学の頃から抑制剤は飲まないが避妊薬は飲むようになった。大輝を受け入れ部屋に返した後にすぐ服薬する。彼との子供を作る気はなかった。
大輝と性行為をするようになって、もう10年以上経つ。それなのに子供が出来ないことを彼が気にしたことは無い。それはそれで有難いことだった。
オメガや番のことをよく理解できるようになった頃から僕は、彼に捨てられることを恐れている。
もうとっくに彼には恋人がいてもいいはずで、なんだったら婚約していてもいい年だった。未だに番として離れに住んでいる僕は、大輝の婚約相手次第では捨てられることになる。
子供時代によくわからず番になってしまったのだと告白したところで未だに体の関係はあるのだ。情けを貰っているのだと訴えたところで生理的に受け付けない人もいるだろう。
もし、婚約相手に認めてもらえなければ僕は住むところも仕事も失い、番としての相手も失うことになる。
それがただ怖かった。
番に捨てられたオメガはどうなるのか。詳しくは分からない。抑制剤と同じように薬でも飲めば対応できるのかもしれない。
発情期の始まりに大輝に相手をしてもらえなかったことがある。彼が忙しくそんなことをしていられなかった為だが、僕はその時とても、とても辛い思いをした。
なぜ薬を持っていないのだと自分の頭を掻きむしり、その手にフォークを突き立て痛みで紛らわせようとした。
発情期になってから薬も飲まない状態で病院に行くのが怖くて、大輝のことを呼びながら部屋にこもり自分を傷つけるように自慰をした。彼が謝りながら部屋に来てくれた後はもう、意識を失う程彼を求めた。
あの後薬を貰いに行ったが、結局使わないまま。
ただあの一度の記憶が、恐怖として染みついている。
あれほど強く相手を求めるのに捨てられてしまったらどうなるだろう。薬で本当に抑えられるのだろうか。
***
発情期の一週間前に、大輝に連絡を入れる。彼の予定を聞き、またあの恐怖を味わいそうなら薬を飲まないといけない。
すぐに来たいつも通りの返信に安堵した。
――はずなのに、前日今までは居たはずの大輝がいない。
そわそわして、薬を机に並べた。
何年も前に貰った薬を飲むのはいけないことかもしれないが、そんなことを言っている場合でもない。発情期が予定日きっかりに始まるとも限らないが、もし始まってしまったらどうしよう。いつもなら大輝が準備してくれていて、すぐに行為をして治めてくれるのに。
いつ連絡が来るかと心配で、風呂に入るのもままならなかった。
仕事を休み、部屋に引きこもる。
いつも通りの発情期前の行動だが、大輝と連絡がつかないのは初めてだった。いつもなら前日には彼が部屋に来てくれて、僕の世話をしてくれる。彼は面倒な番がいることを公表しており、その世話だという名目がたっていることは知っていた。何の嘘偽りでもなく正しいことだったけれど、お荷物でしかないことは少し悲しかった。
友達なんてものはあり得ない話だったけれど、あの太陽の下で友達として終われたらよかったのに。
翌日、朝から予定通りに火照りだした身体に、正確さを褒めながら端末を握りしめた。
もしかしたら昨日は疲れていて眠ってしまったのかもしれない。母屋に迎えに行こうか、それとも待つべきか。目の前に並べた薬を一つ手に取り、また机に置く。
抑制剤は副作用が酷いと聞く。出来るなら使わないでおきたい。でもそんなことも言っていられない。
初めての薬は怖いし、二度目の捨てられる感覚も怖かった。
抑えられる分は自分でどうにかしようと、いつもの大輝を思い出して自分を触る。
頭がそれでいっぱいになっていくのに、涙があふれた。いかに自分のものに触れても満たされず、獣が叫ぶように布団の中で大輝の名前を呼ぶ。
もし、彼が来なかったらどうしよう。
もし、薬を飲んでも効かなかったらどうしよう。
日が傾き始める頃、震えた手で薬を飲んだ。
使用期限は過ぎてしまっているが、それでももうこれに頼るしかなかった。鋏で薄く腕の皮膚を傷つけ、裂けた痛みに意識を移す。薬が効くまでどうにか自分を抑えたかった。それが何分なのか何時間なのかわからないが、そうするしか他なかった。
片手で傷つけた腕を握り、ジワリと滲む血をぺろりと舐めた。
血の味がする。美味しくはない。これは血の味だ。
馴染みのない、けれど知っている味と臭いを意識して、自分を誤魔化そうとする。目は机に置いた静かな端末を見据え、いつ大輝から連絡が来てもすぐに反応ができるようになっていた。
何度もコールしてしまおうか。そうしたら気付いてもらえるんじゃないか。
でもそんなことをして、もし今恋人と一緒にいたらどうしよう。邪魔をしたと怒られやしないか。邪魔者は出て行けと言われやしないか。
発情期の今相手をしてもらえないのなら、追い出されても同じなんじゃないか。なら今大輝を呼び出してしまっても変わらない。
大輝が欲しい。
薬が効いていない。
身体は受け入れる準備が整い、ただ求めている。
震える手で薬のシートを1枚全て開けていく。開けた端から口に入れて齧る。ガリガリ。お菓子のように、薄橙の錠剤を口にする。
早く薬が効いてくれれば大輝に頼らなくて済む。
薬が効いてくれれば、ここから追い出されても大丈夫。
薬さえ効いてくれれば怖くはない。
何度も何度も自分の腕を傷つけた。だんだん傷は深くなり、押さなくても血が流れるようになる。
痛い。
痛い。
なんでこんなことになっているのかと、ふと冷静さがよみがえる。
なのに次の瞬間にはもう、大輝が欲しいと叫ぶ脳みそに支配される。
彼が欲しい。
早くきて。
――目を閉じることもできず、その視界は暗闇の中開かない部屋のドアを捉えていた。コールを何度したところで大輝に連絡はつかず、端末は血でべたつき画面はかすれている。
足も手も動かない。彼がきてくれるのをそれでも待っていて、気づいた時には床に伏せたままドアを見ていた。
なぜ、オメガなんかに生まれたのだろう。
なぜ、オメガなのにアルファの家に行ってしまったのだろう。
なぜ、あの時噛まれてしまったんだろう。
なぜ、ずっと大輝と繋がり続けたのだろう。
「大輝」と口が勝手に動く。
誰かが僕に死ねと言った。
右から左から上から下から、部屋の隅から、庭から、風呂から、端末の中から、死ねと声が聞こえる。捨てられたオメガに生きている価値は無いのだと、大輝が囁く。身体は踏みつけられたように重く、胃液が喉までせり上がりえずく。呼吸の仕方がわからずただ「大輝」と呼べば息が出来た。
火照り彼を求めている身体は指先から冷えていくようだった。
自分の下半身を切り落としたら助かるだろうか。
自分の脳みそを掻きだしたら助かるだろうか。
怖さも不安も、無くなるだろうか。
***
眩しさに開いた目を閉じる。見上げた天井にある電気は明るく部屋の隅々までを照らし出していた。
精液と血と、吐いてしまったのか嫌な匂いが気持ち悪く混ざり漂う。痛みのある手を見ればいくつもの傷があり、記憶の中の自分の行動を思い出した。
身体は体液で汚れ、開かれた足の間には座り込んだ全裸の大輝がいた。
「来てくれたの」と声を出そうにも声が出なかった。喉を通った音は掠れ言葉にはならず口の中で消えた。体を起こす気にもなれず、首に力を入れるのをやめた。
後頭部を布団に付け、乾いた唇を閉じる。
身体は落ち着いていて、行為が終わり発情期が治まっていることが感じられた。彼を待っている時にあった吐き気も幻聴もなく――あれは幻聴だったのだろうか。実際に捨てられた番など生きている価値が無いと、世界に言われていると思った。
大輝は今回も来てくれた。これであと3か月は大丈夫。きちんと管理されているおかげで発情期のずれはほぼなく過ごしてきた。だからあと3か月は大丈夫。
過剰摂取してしまった使用期限切れの抑制剤は、効いたのかわからなかった。でも捨ててしまおう。また新しいのを貰ってきた方がいい。
二度目だ。大輝は来てくれたけれど、彼が遅れたのは二度目。三度目は間違いなく訪れる。
ふと、次はもう最初から薬を飲んでおけばいいのではないかと思い立った。こうして苦しむのではなく、最初から薬で抑え付けて、それでも大輝が相手をしてくれそうなら彼に頼めばいい。発情期の期間中副作用に悩まされるよりは、良い薬との付き合い方になるだろう。
足元の大輝は項垂れたまま顔を上げず、僕が目覚めたことに気付いていないようだった。もしかしたら彼も疲れていたのに来てくれたのかもしれない。
風呂に入ろうとシーツを指で引っかけば、痛みが走る。指先を見れば爪が割れ血が滲んでいた。ギギギとロボットのように首を動かせば、そこにもまた痛みが走った。身体があちこち傷ついていて、自分は一体何をしたのかと心配になった。風呂に入りお湯をかければきっと沁みる。
それでも部屋に満ちた匂いは良いものではなく、換気をして綺麗にしなければ再び穏やかに眠ることは出来ないだろう。
「大輝、ありがとう」
絞り出せた声に反応し、足元の彼が顔を上げる。
「何でこんなことになった?」
立てていた両膝を下ろし胡坐になった彼に、責めるように問われた。
「我慢できなくて」
「そうか」
身体をゆっくりと起こし、風呂に入ってくると告げた。
自分を傷つけるのに使ったはずの鋏はなく、薬は残っていたものもすべてゴミ箱に入っていた。
「そんなの飲むな」
ゴミ箱を覗き込むのを見られ、彼に言われた。
「今度新しく貰ってくる」
「要らないだろ」
要るよ、と口には出さずに曖昧に笑った。
踏みしめるように床を歩き、風呂に向かう。身体から彼の体液が流れ落ちるのを感じ震えた。
予想していた通り傷は沁みた。痛いと口にしながらぬるい温度のシャワーを緩く出してかける。何にせよ汚いままでは化膿してしまうから、痛くても綺麗にしなければならない。肌を撫でるようにして汚れを流す。
風呂の鏡で見れば首輪は外されていたが、その付近に傷がいくつもついていた。傷む指先はこれを引っ掻いたのだろう。もう番なのに、噛んで欲しいと体が求めていたのかもしれない。
静かに風呂のドアが開き、冷えた空気が入ってくる。あまりドアを大きくは開けず、滑り込むように大輝の身体が現れる。さっさと帰りたいのかとシャワーを渡した。
ざあざあと強められたシャワーは彼の肌を伝い床に落ちていく。僕がつけてしまったのか所々血で汚れてもいて、気付いたところを指先で擦った。乾いていた血液もすぐに流れ、彼の身体はすぐに何もなかったようになった。
使った彼のモノがじゃぶじゃぶとその手で洗われるのを、今更恥ずかしげもなく見る。
ぴしゃっと足元にシャワーで水を飛ばされた。ぼんやりしていた顔を上げれば、手で招かれる。
「洗うから」
彼の手で少しだけ勢いの弱められたシャワーが尻にかけられる。
「足開いて」
丸く尻を撫でられて、鏡を避けて壁に手を付いた。
「指怪我してるから、中洗えないだろ」
猫のように自分の手を見る。割れた爪の間に血はこびりつき、少しシャワーを当てた程度ではまだ汚れたままだった。
促されるまま尻を突き出し、慣れた指が中のものを掻き出すのに任せた。彼の指が中で曲がり、汚れをこそげ落とすように内壁を擦る。いつもは自分でする掃除を他人にされると、まるで性行為のようでやましい気持ちが沸き上がる。
「……んっ」
シャワーのお湯を中に入れるように指で隙間を開けられ、繰り返し出し入れされた。小さく漏れた声はシャワーの水音にかき消される。指の動きに連動するようにひくつく穴を意識して緩め、口から息を吐いた。
彼の手は優しく背中を撫で、首を撫で、彼の体液も僕の血も洗い流してくれた。
ぽんぽんと軽く押し当てるように皮膚の水分を取り、服を着る前に傷薬を塗られた。巻いてもらった緩い包帯を触らないよう下だけを履いて、上半身は裸のまま部屋の換気をする。
部屋を出ていく彼を見送り、拭いてくれたらしい床をもう一度絞ったタオルで拭き掃除をした。汚れたタオルを水で洗いもう一度拭いてから、綺麗なものと交換された布団の上、壁に寄り掛かる。
掃除が終わってすぐ、彼が戻ってこないのを確認してから避妊薬を飲んだ。避妊薬は抑制剤と違い大した副作用はなく、行為の疲れと相まっていつも少しの眠気が起こるだけ。
庭から入ってくる深い緑の匂い。湿り気を帯びた風がぱさぱさになるまで乾かした髪を揺らす。
背中には硬い壁を、足の裏にはさらさらとしたシーツを感じて、無意識のうちにため息をついた。今日をやり過ごせたという安堵と、いつまでこれが続くのだろうという不安。
大輝は僕のことを自分のものだと思っている。だから優しくしてくれる。実際僕はそのように生かされているから文句は無いのだけど、見えない終わりを気にするのは疲れることだった。
抑制剤を飲んでいると寿命が縮むと言われている。でも僕は一切薬を飲んでこなかった。それなら僕は長生きしてしまうんだろうか。平均寿命の80歳まで、こうして。
大輝が若い時の性欲処理としてここに置いてもらった。他のオメガやお嬢さん方に迷惑をかけないように都合のいい存在だったと思う。
でももう僕らはまもなく25になる。隠された恋人がいつ出てきてもおかしくない。そうしたらこの身体の役割も無くなるだろうか。
居させてもらっている会社に大輝はたまに顔を出す。白石家の会社を上から下まですべて見て回っているのだと思う。ベータの女性社員らはその時色めき立つ。毎度大輝の恋人はいるのか、どんな人なのかと聞かれ、僕は知らないと答える。僕はただの彼の番で、恋人でもなく将来の妻でもない。だから知らない。
あの会社で働かせてもらっているからお金はある。こうして家だって与えてもらっているし、自身には何もお金がかかっていないから全て貯金に回っている。
何歳までこうして生きていくのだろう。彼の恋人が僕のことを許そうが許すまいが、僕の人生はどこかで続いていく。
番は糸を断ち切るように解消することはできない。できるのは自然と離れ、アルファの力が弱まるのを待つだけ。
捨てられた僕はただ一人、発情期の度に今日のように啼いて自分を傷つけるのだろう。
[終わり]
大輝は鍵がかかったのを確認するように、ぐいと引っ張った。
身体が動き、転んで彼にぶつからないように前に出した手をその胸についた。
***
大輝と番になったのは10歳の時。
発情期が来た、初めての時。
大輝の父親に家族で招かれた広い家で、初めて大輝と出会った。
同い年の僕たちはアルファとオメガという違いはあれど幼く、何の問題もなく少しの距離を縮め遊び始めた。
広い家に負けないような広い庭には色とりどりの花が咲き、青々とした木々が風に揺れていた。綺麗に整備された庭は迷路のような作りになっていて、10歳の僕は冒険だと喜んだ。
追いかけっこをしていたが足の速い大輝に追いつけず、いつの間にかかくれんぼのようになっていた。薄紅色の薔薇のアーチをくぐり、時には背伸びをし、時にはしゃがみ込んで草の向こう側を見ようとした。
彼はいったいどこに行ってしまったのか、懸命に探す。
あの時は、僕たちだけではなかったはず。
大輝の父親は会社を経営していて、僕の父親はそこで働いている。家族で招かれたのだ。他の従業員も招かれていた気がする。
同じように子供もいて、大輝の母親は沢山の手作りお菓子も用意してくれていた。
だから僕らは2人だけで遊んでいたわけではない。
でも記憶を探ってもあの瞬間、僕らはただ二人だった。
天気が良く強い日差しが降り注ぐ。
くらりと眩暈がした。
大輝の姿を見た気がして、精一杯の声で呼んだ。倒れた僕に「日射病かもしれないから家に入ろう」と、幼い彼は声をかけてくれた。花の匂いが充満する庭で、彼は僕を起こそうと手を伸ばす。
あの時、僕は日射病ではなくただの眩暈でもなく、初めて発情期を起こしていた。個人差があるとしても僕の発情期は早く、精通だってしたばかりだった。
意図せずしてアルファの大輝を僕はオメガとして誘うことになってしまった。
大輝はその手で引き起こした僕に、まるで光に虫が寄っていくように吸い付いた。
「痛い」
首を強く噛まれ声を上げる。彼はそれでも噛むことをやめず、僕はひたすら叫び続けた。
掴まれた手も離れないようにぎゅっと握られ、起こされた身体は再び土に倒れ込んだ。
「やめて。痛い。離して」
声を出すたびにその歯は食い込んだけれど痛くて、先ほどまで遊んでいた大輝が豹変して襲い掛かってきたことが怖くて、叫んだ。
声に気付いた大人が庭に来た時には随分と時間が経っていたように思う。そんなことは無いのかもしれないけれど、僕にとっては随分と長い時間だった。
僕らはそうして、番になった。
オメガが発情期の度にアルファを誘うということを、学校で習った。習うよりも前に僕らは番になってしまった。
でもあの時僕たちは性行為をしていない。番になるよりもまず行為をしたがるんじゃないかと習った時に思ったけれど、よく、わからない。
番になってしまったことを大人たちは騒いだ。騒いだが、僕は後に大輝の家に引き取られることになる。
結婚をするわけではない。養子になるわけでもない。ただ離れて暮らすのもなんだろうと、あの広い庭の薔薇を潰して僕の住処が建てられた。森に住む魔女のようだなと感じたことを覚えている。
番になったあと僕の身体はおかしくなったのか発情期が来ておらず、再び大輝に会うまで何の問題もなかった。
父親からそれも伝えられており、まだ体が未発達だからだろうと結論付けられてもいた。
僕の住処は大輝の、白石家の六畳ほどの離れだ。キッチンは狭いが風呂もトイレも用意されていたし、特に不満はなかった。
白石家の家政婦さんが僕の分のご飯も作ってくれて、時間になると僕は母屋でまるで家族の一員のように過ごさせてもらった。
大輝のご両親はそれぞれ忙しく、皆が揃うことはめったになかったけれど、それでも僕は邪険にされたことがない。されてもよかったはずなのに、大事な長男を誘惑してしまったオメガなのに、優しかった。
食事が終わりご両親もいないとき、大輝は離れに来た。
大輝は僕と友達になろうとしていた。僕は最初それを喜んで受け入れたのだ。
状況が変わってきたのは、僕に再び発情期が訪れてからだ。
番になった時と同じように、庭の薔薇が満開の時だった。
いつも通り夕食を食べ終え片付けてから、大輝は離れに来た。テレビもない僕の部屋は集中できると彼は言い、宿題を持参していた。通う学校は違ったけれど僕も同じように宿題をした。
開け放った窓からは花の匂いが風と共に入り込み、質素な部屋を華やかに飾った。
僕の宿題は大したことのないもので、なんとはなしに大輝のノートを覗き込む。僕のより毎日の宿題も多い彼は、それでもあと少しで終えようとしていた。
隣に座り大輝が貸してくれた本を開く。字を目で追ううちに、何だか身体が熱っぽくなっていた。
「なんか良い匂いする」
大輝がノートから顔を上げそんなことを言った。
「外の薔薇の匂い?」
僕は風邪でも引いたのかと、額に手を当てて自分の熱を測ろうとしてみた。
「何だろう」
くんくんと大輝は匂いを探し、窓に近寄って嗅いだりもしていた。
「聡から匂いがする」
その時には既に、彼をまた誘惑してしまっていたのだろう。
犬が匂いを嗅ぐように彼は僕に鼻をつけ匂いを嗅いだ。僕はまだその時二度目の発情期を理解しておらず、彼にされるがままだった。
その手がべたべたと身体を触ってくるのも、子供ながらに舌を絡め合わせるのも、意味を分かっていなかった。
「美味しそう」
めくり上げられたシャツ。露わになった肌を大輝はぺろぺろと舐めてきた。
今ならわかる。
オメガのフェロモンは甘い匂いを発すると言われているから、彼はあの時僕をお菓子のように思っていたんだろう。
胸の突起を噛まれ、腰に痺れが走った。
もう大輝はあの時すでにアルファとして、オスとして機能し始めていた。彼が僕に触れる度に僕も同じようにオメガとしての機能を加速させてしまった。
服を脱がされ、全裸を昼白色の下に晒した。大輝は下着を脱ぎ、生肌を僕の身体に擦りつけた。
何をしているのかわからなかった。
性器を合わせるようにこすり付け、大輝の手で僕の足が開かれる。自分のものが反応を示しているのが子供心に恥ずかしくて、手で隠した。
彼は行為の意味を分かっていたのか、それとも分かっていなかったのか。
体を丸め自分を隠そうとする僕に抱き付き、大輝は手で僕の穴を探ると躊躇いもなく彼のものを挿入した。
なんで、という疑問だけが、彼が動くたびに僕の頭に浮かんでは消えた。
僕自身は置き去りにされたままオメガの身体は彼を受け入れた。アルファの彼も、きっと同じようなものだっただろう。
ほどなくして中に彼のものが放たれた後、それの意味を理解した。
発情期はそれから定期的に来るようになった。
その度に僕は大輝と性行為をして、発情期を治めてもらった。
だから僕はずっと、今までずっと、一度も、抑制剤を飲んだことがない。
中学に上がる頃にはもう自分たちのことを理解していて、頭の中はぐちゃぐちゃになっていた。
普通ならこの年で番なんかいるはずもなく、抑制剤を飲むことが当たり前だった。でも僕は毎度大輝にしてもらっていて、それがいけないことなんだと分かってもいた。
実の両親も大輝のご両親もきっと僕らの関係をわかってはおらず、どちらも僕が薬を飲んでいると思っていただろう。まさか、離れに来てからずっと体の関係を持っているとは思っていなかったと思う。
一年、また一年と経っていく頃には、僕の役割はこれなのだろうと思い始めていた。
番になってしまうと、発情期にオメガは番相手のアルファをひたすらに求める。その為に離れを作ってもらったのだろうが、僕は決していわゆる妻になるわけではないのだ。
大輝が将来可愛く優秀なアルファ女性と結婚するまでに、僕は正しく彼の性欲処理係となれる。僕が発情期の度に求めるのだから、彼から求めるのだって問題ない。
番という名の身体の関係だけを、情けで僕は貰っているのだ。
大輝は、白石家は親切でもって僕を置いてくれている。僕だって番に捨てられたオメガとして彷徨わなくて済むのだから有難い話なのだ。
今は高校も卒業し白石家がいくつかもつ会社の末端も末端で働かせてもらっている。発情期には大輝に処理してもらえるし、オメガへの偏見を放っておけば問題はなかった。
中学の頃から抑制剤は飲まないが避妊薬は飲むようになった。大輝を受け入れ部屋に返した後にすぐ服薬する。彼との子供を作る気はなかった。
大輝と性行為をするようになって、もう10年以上経つ。それなのに子供が出来ないことを彼が気にしたことは無い。それはそれで有難いことだった。
オメガや番のことをよく理解できるようになった頃から僕は、彼に捨てられることを恐れている。
もうとっくに彼には恋人がいてもいいはずで、なんだったら婚約していてもいい年だった。未だに番として離れに住んでいる僕は、大輝の婚約相手次第では捨てられることになる。
子供時代によくわからず番になってしまったのだと告白したところで未だに体の関係はあるのだ。情けを貰っているのだと訴えたところで生理的に受け付けない人もいるだろう。
もし、婚約相手に認めてもらえなければ僕は住むところも仕事も失い、番としての相手も失うことになる。
それがただ怖かった。
番に捨てられたオメガはどうなるのか。詳しくは分からない。抑制剤と同じように薬でも飲めば対応できるのかもしれない。
発情期の始まりに大輝に相手をしてもらえなかったことがある。彼が忙しくそんなことをしていられなかった為だが、僕はその時とても、とても辛い思いをした。
なぜ薬を持っていないのだと自分の頭を掻きむしり、その手にフォークを突き立て痛みで紛らわせようとした。
発情期になってから薬も飲まない状態で病院に行くのが怖くて、大輝のことを呼びながら部屋にこもり自分を傷つけるように自慰をした。彼が謝りながら部屋に来てくれた後はもう、意識を失う程彼を求めた。
あの後薬を貰いに行ったが、結局使わないまま。
ただあの一度の記憶が、恐怖として染みついている。
あれほど強く相手を求めるのに捨てられてしまったらどうなるだろう。薬で本当に抑えられるのだろうか。
***
発情期の一週間前に、大輝に連絡を入れる。彼の予定を聞き、またあの恐怖を味わいそうなら薬を飲まないといけない。
すぐに来たいつも通りの返信に安堵した。
――はずなのに、前日今までは居たはずの大輝がいない。
そわそわして、薬を机に並べた。
何年も前に貰った薬を飲むのはいけないことかもしれないが、そんなことを言っている場合でもない。発情期が予定日きっかりに始まるとも限らないが、もし始まってしまったらどうしよう。いつもなら大輝が準備してくれていて、すぐに行為をして治めてくれるのに。
いつ連絡が来るかと心配で、風呂に入るのもままならなかった。
仕事を休み、部屋に引きこもる。
いつも通りの発情期前の行動だが、大輝と連絡がつかないのは初めてだった。いつもなら前日には彼が部屋に来てくれて、僕の世話をしてくれる。彼は面倒な番がいることを公表しており、その世話だという名目がたっていることは知っていた。何の嘘偽りでもなく正しいことだったけれど、お荷物でしかないことは少し悲しかった。
友達なんてものはあり得ない話だったけれど、あの太陽の下で友達として終われたらよかったのに。
翌日、朝から予定通りに火照りだした身体に、正確さを褒めながら端末を握りしめた。
もしかしたら昨日は疲れていて眠ってしまったのかもしれない。母屋に迎えに行こうか、それとも待つべきか。目の前に並べた薬を一つ手に取り、また机に置く。
抑制剤は副作用が酷いと聞く。出来るなら使わないでおきたい。でもそんなことも言っていられない。
初めての薬は怖いし、二度目の捨てられる感覚も怖かった。
抑えられる分は自分でどうにかしようと、いつもの大輝を思い出して自分を触る。
頭がそれでいっぱいになっていくのに、涙があふれた。いかに自分のものに触れても満たされず、獣が叫ぶように布団の中で大輝の名前を呼ぶ。
もし、彼が来なかったらどうしよう。
もし、薬を飲んでも効かなかったらどうしよう。
日が傾き始める頃、震えた手で薬を飲んだ。
使用期限は過ぎてしまっているが、それでももうこれに頼るしかなかった。鋏で薄く腕の皮膚を傷つけ、裂けた痛みに意識を移す。薬が効くまでどうにか自分を抑えたかった。それが何分なのか何時間なのかわからないが、そうするしか他なかった。
片手で傷つけた腕を握り、ジワリと滲む血をぺろりと舐めた。
血の味がする。美味しくはない。これは血の味だ。
馴染みのない、けれど知っている味と臭いを意識して、自分を誤魔化そうとする。目は机に置いた静かな端末を見据え、いつ大輝から連絡が来てもすぐに反応ができるようになっていた。
何度もコールしてしまおうか。そうしたら気付いてもらえるんじゃないか。
でもそんなことをして、もし今恋人と一緒にいたらどうしよう。邪魔をしたと怒られやしないか。邪魔者は出て行けと言われやしないか。
発情期の今相手をしてもらえないのなら、追い出されても同じなんじゃないか。なら今大輝を呼び出してしまっても変わらない。
大輝が欲しい。
薬が効いていない。
身体は受け入れる準備が整い、ただ求めている。
震える手で薬のシートを1枚全て開けていく。開けた端から口に入れて齧る。ガリガリ。お菓子のように、薄橙の錠剤を口にする。
早く薬が効いてくれれば大輝に頼らなくて済む。
薬が効いてくれれば、ここから追い出されても大丈夫。
薬さえ効いてくれれば怖くはない。
何度も何度も自分の腕を傷つけた。だんだん傷は深くなり、押さなくても血が流れるようになる。
痛い。
痛い。
なんでこんなことになっているのかと、ふと冷静さがよみがえる。
なのに次の瞬間にはもう、大輝が欲しいと叫ぶ脳みそに支配される。
彼が欲しい。
早くきて。
――目を閉じることもできず、その視界は暗闇の中開かない部屋のドアを捉えていた。コールを何度したところで大輝に連絡はつかず、端末は血でべたつき画面はかすれている。
足も手も動かない。彼がきてくれるのをそれでも待っていて、気づいた時には床に伏せたままドアを見ていた。
なぜ、オメガなんかに生まれたのだろう。
なぜ、オメガなのにアルファの家に行ってしまったのだろう。
なぜ、あの時噛まれてしまったんだろう。
なぜ、ずっと大輝と繋がり続けたのだろう。
「大輝」と口が勝手に動く。
誰かが僕に死ねと言った。
右から左から上から下から、部屋の隅から、庭から、風呂から、端末の中から、死ねと声が聞こえる。捨てられたオメガに生きている価値は無いのだと、大輝が囁く。身体は踏みつけられたように重く、胃液が喉までせり上がりえずく。呼吸の仕方がわからずただ「大輝」と呼べば息が出来た。
火照り彼を求めている身体は指先から冷えていくようだった。
自分の下半身を切り落としたら助かるだろうか。
自分の脳みそを掻きだしたら助かるだろうか。
怖さも不安も、無くなるだろうか。
***
眩しさに開いた目を閉じる。見上げた天井にある電気は明るく部屋の隅々までを照らし出していた。
精液と血と、吐いてしまったのか嫌な匂いが気持ち悪く混ざり漂う。痛みのある手を見ればいくつもの傷があり、記憶の中の自分の行動を思い出した。
身体は体液で汚れ、開かれた足の間には座り込んだ全裸の大輝がいた。
「来てくれたの」と声を出そうにも声が出なかった。喉を通った音は掠れ言葉にはならず口の中で消えた。体を起こす気にもなれず、首に力を入れるのをやめた。
後頭部を布団に付け、乾いた唇を閉じる。
身体は落ち着いていて、行為が終わり発情期が治まっていることが感じられた。彼を待っている時にあった吐き気も幻聴もなく――あれは幻聴だったのだろうか。実際に捨てられた番など生きている価値が無いと、世界に言われていると思った。
大輝は今回も来てくれた。これであと3か月は大丈夫。きちんと管理されているおかげで発情期のずれはほぼなく過ごしてきた。だからあと3か月は大丈夫。
過剰摂取してしまった使用期限切れの抑制剤は、効いたのかわからなかった。でも捨ててしまおう。また新しいのを貰ってきた方がいい。
二度目だ。大輝は来てくれたけれど、彼が遅れたのは二度目。三度目は間違いなく訪れる。
ふと、次はもう最初から薬を飲んでおけばいいのではないかと思い立った。こうして苦しむのではなく、最初から薬で抑え付けて、それでも大輝が相手をしてくれそうなら彼に頼めばいい。発情期の期間中副作用に悩まされるよりは、良い薬との付き合い方になるだろう。
足元の大輝は項垂れたまま顔を上げず、僕が目覚めたことに気付いていないようだった。もしかしたら彼も疲れていたのに来てくれたのかもしれない。
風呂に入ろうとシーツを指で引っかけば、痛みが走る。指先を見れば爪が割れ血が滲んでいた。ギギギとロボットのように首を動かせば、そこにもまた痛みが走った。身体があちこち傷ついていて、自分は一体何をしたのかと心配になった。風呂に入りお湯をかければきっと沁みる。
それでも部屋に満ちた匂いは良いものではなく、換気をして綺麗にしなければ再び穏やかに眠ることは出来ないだろう。
「大輝、ありがとう」
絞り出せた声に反応し、足元の彼が顔を上げる。
「何でこんなことになった?」
立てていた両膝を下ろし胡坐になった彼に、責めるように問われた。
「我慢できなくて」
「そうか」
身体をゆっくりと起こし、風呂に入ってくると告げた。
自分を傷つけるのに使ったはずの鋏はなく、薬は残っていたものもすべてゴミ箱に入っていた。
「そんなの飲むな」
ゴミ箱を覗き込むのを見られ、彼に言われた。
「今度新しく貰ってくる」
「要らないだろ」
要るよ、と口には出さずに曖昧に笑った。
踏みしめるように床を歩き、風呂に向かう。身体から彼の体液が流れ落ちるのを感じ震えた。
予想していた通り傷は沁みた。痛いと口にしながらぬるい温度のシャワーを緩く出してかける。何にせよ汚いままでは化膿してしまうから、痛くても綺麗にしなければならない。肌を撫でるようにして汚れを流す。
風呂の鏡で見れば首輪は外されていたが、その付近に傷がいくつもついていた。傷む指先はこれを引っ掻いたのだろう。もう番なのに、噛んで欲しいと体が求めていたのかもしれない。
静かに風呂のドアが開き、冷えた空気が入ってくる。あまりドアを大きくは開けず、滑り込むように大輝の身体が現れる。さっさと帰りたいのかとシャワーを渡した。
ざあざあと強められたシャワーは彼の肌を伝い床に落ちていく。僕がつけてしまったのか所々血で汚れてもいて、気付いたところを指先で擦った。乾いていた血液もすぐに流れ、彼の身体はすぐに何もなかったようになった。
使った彼のモノがじゃぶじゃぶとその手で洗われるのを、今更恥ずかしげもなく見る。
ぴしゃっと足元にシャワーで水を飛ばされた。ぼんやりしていた顔を上げれば、手で招かれる。
「洗うから」
彼の手で少しだけ勢いの弱められたシャワーが尻にかけられる。
「足開いて」
丸く尻を撫でられて、鏡を避けて壁に手を付いた。
「指怪我してるから、中洗えないだろ」
猫のように自分の手を見る。割れた爪の間に血はこびりつき、少しシャワーを当てた程度ではまだ汚れたままだった。
促されるまま尻を突き出し、慣れた指が中のものを掻き出すのに任せた。彼の指が中で曲がり、汚れをこそげ落とすように内壁を擦る。いつもは自分でする掃除を他人にされると、まるで性行為のようでやましい気持ちが沸き上がる。
「……んっ」
シャワーのお湯を中に入れるように指で隙間を開けられ、繰り返し出し入れされた。小さく漏れた声はシャワーの水音にかき消される。指の動きに連動するようにひくつく穴を意識して緩め、口から息を吐いた。
彼の手は優しく背中を撫で、首を撫で、彼の体液も僕の血も洗い流してくれた。
ぽんぽんと軽く押し当てるように皮膚の水分を取り、服を着る前に傷薬を塗られた。巻いてもらった緩い包帯を触らないよう下だけを履いて、上半身は裸のまま部屋の換気をする。
部屋を出ていく彼を見送り、拭いてくれたらしい床をもう一度絞ったタオルで拭き掃除をした。汚れたタオルを水で洗いもう一度拭いてから、綺麗なものと交換された布団の上、壁に寄り掛かる。
掃除が終わってすぐ、彼が戻ってこないのを確認してから避妊薬を飲んだ。避妊薬は抑制剤と違い大した副作用はなく、行為の疲れと相まっていつも少しの眠気が起こるだけ。
庭から入ってくる深い緑の匂い。湿り気を帯びた風がぱさぱさになるまで乾かした髪を揺らす。
背中には硬い壁を、足の裏にはさらさらとしたシーツを感じて、無意識のうちにため息をついた。今日をやり過ごせたという安堵と、いつまでこれが続くのだろうという不安。
大輝は僕のことを自分のものだと思っている。だから優しくしてくれる。実際僕はそのように生かされているから文句は無いのだけど、見えない終わりを気にするのは疲れることだった。
抑制剤を飲んでいると寿命が縮むと言われている。でも僕は一切薬を飲んでこなかった。それなら僕は長生きしてしまうんだろうか。平均寿命の80歳まで、こうして。
大輝が若い時の性欲処理としてここに置いてもらった。他のオメガやお嬢さん方に迷惑をかけないように都合のいい存在だったと思う。
でももう僕らはまもなく25になる。隠された恋人がいつ出てきてもおかしくない。そうしたらこの身体の役割も無くなるだろうか。
居させてもらっている会社に大輝はたまに顔を出す。白石家の会社を上から下まですべて見て回っているのだと思う。ベータの女性社員らはその時色めき立つ。毎度大輝の恋人はいるのか、どんな人なのかと聞かれ、僕は知らないと答える。僕はただの彼の番で、恋人でもなく将来の妻でもない。だから知らない。
あの会社で働かせてもらっているからお金はある。こうして家だって与えてもらっているし、自身には何もお金がかかっていないから全て貯金に回っている。
何歳までこうして生きていくのだろう。彼の恋人が僕のことを許そうが許すまいが、僕の人生はどこかで続いていく。
番は糸を断ち切るように解消することはできない。できるのは自然と離れ、アルファの力が弱まるのを待つだけ。
捨てられた僕はただ一人、発情期の度に今日のように啼いて自分を傷つけるのだろう。
[終わり]
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