青の時間

紺色橙

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おまけ

ささやかなもの

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「しばらく……いや、あんまり、会わないほうがいいかな」
「なんかあんの?」

 換気のために開けられた電車の窓。冷たい風が吹き込む中、足はヒーターで温められ鼻と耳だけがやたらと冷たくなった。
 電車で三十分の距離。十年の月日はとうに流れ去り、代わりに生まれたほんの少し足を延ばせば届く距離。

「このご時世だから」
「だから?」
「おれ人に会う仕事なんだよ」
「知ってる」
「お客さんのとこに呼ばれたら行くし、そのお客さんにはこれまた多数のお客さんがいるわけで」
「うん」
「だから、おれは毎日ほんとにたくさんの人と接してることになるから」

 今までできていたことに制限がかかる。歯を見せて笑っていた口元が隠される。

「もしおれが病気になったら、五十嵐に間違いなくうつしちゃうと思って」

 最低でも週に一度は会っている。意図せずともそうなるだろう。
 インフルエンザだとわかっているときに人に会わない。風邪っぽいと思っているときにキスなんかしない。今はそれの延長線上にある。ただ、それがいつまでなのかがわからないだけ。

 あっさりとした相槌を打ちながら話を聞いてくれた五十嵐は、玄関に一歩入ったところで立ち止まるおれの腕を引いた。段差で躓きそうになり反対の腕を伸ばして壁に掴まる。

「入って」

 今日はこれ以上入らないつもりだった。でもそう促され、その場でコートを脱ぐ。軽く畳み床に置いて靴も脱いだ。
 習慣づけられた手洗いうがい。荒れるようになった手に、今まで買ったこともないハンドクリームを塗るようになった。
 抱き着きたいのを我慢して、まずはやることをやった。そうしなければ今日の話は進まない。

「で?」
「言ったとおりだよ」

 部屋の中は温かく、加湿器が音と湯気を吐き出していた。

「別れんの?」
「や、やだ……」

 別れたくなんかない。別れ話をしに来たわけじゃない。

「でも家で仕事してるお前が感染したら、間違いなく原因はおれだもん。だったら会わないようにするしか」
「いつまで?」
「わかんないよ」

 誰にもわかるわけがない。今のこの状況がいつ終わるのか。線を引くような終わりはきっと来ないだろうとも思う。

「子供は学校に行って、親は仕事で家を出る。もちろんスーパーに買い物にも行く」
「うん?」

 突然五十嵐が話し出す。

「それ別に普通のことだろ」
「うん」
「みんなそれぞれ接する人間がいて、枝葉のように広がってる。じゃあさ、子供はもう親に会わないってなる?」
「はぁ?」
「親は外に出る仕事を休めない。子供は集団で狭い部屋にいて、子供らしく近い距離で話す。だから、そんな状況が不安だから親と子供を分離させるってなる?」
「なるわけないだろ。家族なんだし」
「じゃあ俺とお前は?」
「おれたちは」

 おれたちは――。

「俺たちも家族になればよくね? そうしたら少しはその不安も無くなるだろ」

 五十嵐はこともなげに言い放った。

 こいつは昔からそうだった。再び会えたあの日だってそうだった。至極簡単に、おれの欲しい言葉を言ってくれる。脳内で反復するだけで喉の奥で詰まってしまうようなことを、当たり前のように口にする。
 家族になるなんて簡単なことじゃないだろう。とっさにそう反発したくなる。でもおれの気は抜けてしまって、もやもやしていた何かだって消えてなくなる。口先だけで反論しようとするけれど、どうしたって心が喜ぶ。

「パートナーシップ? 結婚みたいなのあるだろたしか」

 曖昧な情報を頼りに、それでも五十嵐は何でもないことのように言う。

「普通に結婚したって離婚するときあるんだし、同じだろ」
「離婚なんかしないし」

 別れる気なんか少しもない。
 五十嵐が選択肢の一つとして提示してきたそれにむっとして言い返す。

「それなら、家族になって一緒に住んだ方がいいだろ。うちまで三十分かけて電車に乗って来てるのに、仕事で色んな人と接してるからなんて言い訳するよりさ」

 別れたくなんかない。ずっと、ずっと、毎日五十嵐の顔を見ておやすみと言いたい。明日のことを気にして終電間近の電車に乗って帰りたくない。

 立ち尽くすおれの頭を、五十嵐の手がポンと撫でた。そのままぎゅっと抱きしめられる。目の前のシャツに、滲んだ目元を擦り付けた。

「こんなのプロポーズじゃん」
「あ? そうなるな」

 茶化すように言ったのに、あっさり認められた。
 じわりとまた涙がにじむ。嬉しくてにやけてしまって、これでもかってほど抱き着く手に力を込めた。五十嵐はそれに文句を言わず、またおれの頭を撫でた。

「死ぬまで、ずっと一緒にいたい。お前がいなかった時間上書きしたい」
「長生きすれば、"これから"は人生の半分よりも長いな」
「じゃあ長生きして」
「俺あんまり……」
「長生きして」

 もし60歳で死ぬのならもう半分は過ぎている。でももし100歳で死ぬのなら、半分にもまだ遠い。

 学生の頃、毎日が長く感じていた。いつになれば苦しまずに生きていけるだろうと罵りを受け入れながら数えていた。五十嵐といる時だけ時間が早く過ぎて、その時だけは「もっと」と願った。ほかの時間をすべて短縮してその分今にもって来れたらいいのにって、手のひらで隣の体温を感じ願うのだ。
 あの頃と変わらない体温を、今はもっと深くで感じている。

 五十嵐の襟元にわしわしと目元を擦り付けてから顔を上げれば、優しい目と目が合った。じっと見ていれば理解してくれて、「ちゅっ」とキスされる。もっと、と言わずに目を閉じたままいれば、今度は深い口づけを貰えた。
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