青の時間

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青の時間

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 テロンと音を立てて受信した親伝いの同窓会の知らせ。『行くの?』と問われ、きっかけとなったであろう日が思い出される。


「男が好きとか気持ちわりぃ」
 同級生が大きな声で囃し立てる。騒がしかった教室は、あの時一瞬静まり返った。気にしない振りをして、そちらを窺う教室内。
 俯いた俺の恋人は顔を上げ、自らを嗤うように言った。
「気持ち悪いだろ? だから五十嵐が付き合ってくれてなきゃ、死ぬまで恋人ごっこですら出来ない」

 高校時代、一時俺たちは付き合っていた。友人ではなく恋人としてだ。告白してきたのは確かにあいつの方で、受け入れたのは俺。
 無理に付き合っていたわけではない。でもあの時同級生に茶化され、結局そうだったことになった。

 自然と別れることになった。

 あいつといればまた同じように「気持ち悪い」と罵られ、「付き合わせるのもいい加減にしろよ」とまるで俺の代弁だとでもいうように言葉があいつに突き刺さった。ごめんと謝るあいつにそんなことはないと否定したが、同級生の前で堂々と守ったりはしなかった。
 自然に恋人関係は解消され、それどころか友達も解消された。

 キスしかしたことが無かった。

 あいつの家で、あいつの部屋で、ひっそりとキスだけしかしたことが無かった。まっすぐに俺を見る目が笑う。隣にいるだけで体温を上げて、手を重ね、それでもキスしかしなかった。

 気持ち悪くなんかないと思っていたのに、人に言えなかった。大っぴらに恋人で何が悪いと叫べなかった。確かに子供を作ることは出来ないけれど、好きだという気持ちはきっと同じだろうと思っていた。思っていたのに、言えなかった。
 休みの度にどこへ行くのと母親に聞かれ、「友達の家」と答えた。同級生にも親にも、誰にも、同性の恋人がいると言うことができなかった。

 俺は地元から離れた大学に進学した。高校三年の時点であいつとの数少ないやり取りすら無くなっていて、あいつが――篠崎がどこに行ったのかわからない。進学したのか地元に就職したのか、それとも。

「仕方なかったんだよ」
 独り言。
 十年前はまだ、同性愛は普通ではなかった。今では芸能人が同性の恋人を公表していたりもするが、あの時はまだ時代が違った。大人になれば結婚するもので、結婚するということは子供を作るということで、子供を作るということは異性を愛するということだった。

 あいつは初恋の相手から同性だったと聞いた。中学の先輩を好きになった篠崎は、それを伝えることはしなかった。何で言わなかったのかと聞けばやはりあいつは笑って「無理だろ」と言った。
 まだ恋人をしていなかったその時は、言えばいいのにと思ったんだ。
 言わないと何も伝わらない。口にして言葉にして気持ちを伝えないと、理解はしてもらえない。最初から無理だなんて言っていたら――。そうまるで説教のように言ったから、俺はあいつの恋人になった。

「じゃあ五十嵐、俺の恋人になって。俺は五十嵐が好きだから。恋人になって」

 俺の初恋は小学校の同級生だ。当たり前のように女の子。その次に好きになったのは中学生の同級生で、それも女の子。
 だから馬鹿にしたあいつらのように、俺だって同性愛を理解していたわけではない。だけども毎日同じ時間を過ごす篠崎のことは個人として、気持ち悪いとは思わなかった。

 人に好かれるのは心地良いことで、「いいよ」と答えた俺に篠崎が安心したように笑ったからそれで良かったんだと思った。

 ずっと友達をしていたあいつが恋心を抱いていたことに驚きはしたがそれだけだった。もしかしたら優越感すら持っていたのかもしれない。
 気持ち悪くはなかった。嫌でもなかった。
 だけどあいつは、俺にキス以上を求めてはこなかった。いつもきれいに整えられていたあの部屋のベッドで抱き合ったことは一度もない。



***



 学年同窓会にあいつは来なかった。同性を好きなことを馬鹿にした奴らだって来る可能性があるから当然かと思う。いくら大人になっていたとしても、会いたくはないだろう。
 幹事をしていた村枝に誘われ、いわゆる二次会的なものに行くことになった。あいつらは来ない、数人の飲み会。健全な学年同窓会は早々に終わり、まだ夕方にもなっていない。電車で二時間もかけてきたのだから少し話していくかと誘いに乗った。

 先に店にいた篠崎は、俺に少し驚いた顔をした。
「久しぶり」
 そこにいる奴らみんなに対して言った。俺がいくらこの同窓会をきっかけに昔のことを思い出していようと、あいつには過ぎ去った過去のことだろう。

「五十嵐髪長いなぁ」
「うち自由だから」
 席に着けば酒を持ってきた太田にぽんぽんと結んだ髪をいじられた。
 向かいの篠崎と真正面から目を合わせることがなんとなく気まずくて、テーブル席に斜めに座る。カウンターには開店準備の大皿と食器が並んでいた。
「ここ太田の店なんだって?」
「そうだよ」
 女性も入りやすそうな綺麗な木目の店内。まだ新しいのかどこも古さは感じない。 
 小さな飲み屋は高校一年の時に同じクラスだった太田が開いた店だと村枝に聞いた。それなら一人くらい突然参加したとしてもいいだろうと、この誘いを受けた。
「五十嵐は、髪短いイメージだった」
 眼鏡をかけた篠崎がぽつりと頭を見て言う。
「高校の時はずっとそうだったからな」
 篠崎と付き合っていた時はずっと短かった。別に運動部で活発に活動していたわけではないが、少なくとも耳にかかるほども伸ばしたことは無かった。
 
 ぐいと酒を飲み、集まった懐かしの顔を見る。同窓会の幹事をした村枝は陽気なまま大人になったようだし、太田は記憶の中より格段に太った。
 篠崎は、俺と付き合っている時には眼鏡をかけていなかった。自然と別れその後に眼鏡をかけ始めたあの時、まるで人目を避けるようだと思った。

「十年も経つと禿げてるやつもいたな」
 唐突に村枝が失礼なことを言った。
「ああ、結城?」
 学年全員が招待される同窓会。全く記憶にない奴も当然いた。
「結城って誰だっけ?」
「ほら、野球部の目立ってたやつ」
 名前だけは憶えがある。でもおそらく同じクラスになったことは無い。
 飲むでもなくグラスを持ち上げ、指先に冷たさを感じた。十月の昼間はまだ暑い日もあり、冷たい飲み物は気持ちよかった。
「野球部坊主じゃん。今でも刈り上げちゃえばいいのにな」
「もったいなく思うらしいよ。俺もじいちゃん禿げてるからなぁ」
 村枝が自分の頭を心配して眉をひそめた。
「潔く無くしちまえ」
 茶化して言えば、うーっと鼻に皴を寄せられた。それを見て笑う篠崎の眼鏡は縁がはっきりとしていて、顔よりも眼鏡を印象付ける。

 みんな今何してんの、と聞こうとして口の中で溶かした。太田は店を開けてくれているからまだしも、俺自身一流企業にいるわけでもない。学生時代とは違い差がつくとしたら仕事のことで、あまり触れるべきではないかと思った。
 学生時代同性と付き合っていることを馬鹿にされたが、それは自分とは違うものだからだ。少数派で、珍しいもので、自分たちとは違うもの。圧倒的大多数を味方につけて下に見てもいいもの。
 二人はあいつらではないが、せっかくだから学生時代の思い出話だけだっていいだろう。自慢話があるのなら自分から披露してくれるはず。実際学年同窓会では、そうしてたいして仲がよくもなかった奴の話を聞いているだけだった。

「そうだ、五十嵐連絡先教えろよ」
「ん」
「聞いてよ、こいつ律儀に葉書返してきてさ。でも電話番号の一つもねーの」
 実家に届き、親伝いに教えられた同窓会の知らせ。書かれていた村枝の連絡先に電話をしても良かったが、そのまま親に出席とだけ丸をして送り返してもらった。
 出せと言われ携帯電話を差し出す。村枝はせっせと自分の連絡先を打ち込んでいた。

「まぁ、来ても来なくても良かったんだよ」
 篠崎は来ないだろうとは思っていた。でも会えるとしたら、とも考えた。何か言いたいことがあるわけでもなく、彼の将来を心配していたわけでもなかった。あの時何を考えていたかなんて聞くこともなく、ただ一目懐かしい人物に会うかもしれないとだけ漠然と思っていた。
 そしてそれは叶った。相変わらず自分を隠すような似合わない眼鏡をして、目の前にいる。少し緊張しているのは俺だけで、篠崎はずっと椅子にまっすぐ座っていた。

 料理を見る振りをして窺えば目が合い、そらす。俺たちのためだけに開けてくれた店に他の客はおらず、他に気を取られることもない。

 プルルと定番の電子音が響く。
 篠崎がポケットから携帯を取り出し、開き見る。横を見れば村枝が俺の携帯を操作して電話をかけたようだった。
「それこいつの」
 他人に勝手に渡された連絡先。太田と篠崎に渡された、俺の連絡先。切れた糸が再び繋がる。
「おまえなぁ」
 言いながら取り返したそこには、篠崎の文字があった。



 大した量も飲まないまま夕方になり解散することになった。太田はこれから店を開けるというし、村枝は家に彼女が待っているからまっすぐ帰るという。のんびりとした学生時代の空気は終わり、また二時間かけて家に帰ろうとした所で呼び止められた。
「電車で帰るの?」
「そうだよ」
「なら、一緒に」
 篠崎が今どこに住んでいるのかも知らない。ただ同じく電車に乗るなら、離れているのも気まずいと声をかけたのだろう。

 案内されるように太田の店から駅へと歩く。赤い夕陽と夕方のざわめき。駅から降りてくる人を避けて進む。
 古い駅は来年から改築が始まるらしい。案内を横目に改札を通る。田舎の駅の本数は大してなく、無言のままホームの端で待った。
 昼間暑かった日は沈み、ひんやりとした空気が漂い始める。空は深い青に染まり、オレンジ色の電球が篠崎の横顔を映し出す。

 あの時も、こんな空だった。


 田舎を生かした小さな森の中の野外音楽堂。使われていない時はただのベンチの集合体。
 買ってきたお茶も無くなる頃、篠崎は言った。
「おれは、男が好きなんだよ」
 共学の学校で彼女の一つも作れない俺たち。卒業するまでこのままかもな、なんて話をしていた。何度もそういう話をしてきた。バカな高校生なんてそんなことくらいしか話題が無くて、脳みその中は色のついた光景が広がっていた。それに合わせるのがしんどくなってしまったのだろう。

 篠崎の言葉に、咄嗟に何も出なかった。
 堰を切ったようにその唇から漏らされる思い出話。篠崎が誰にも言わなかった秘め事を俺だけが静かに伝えられる。
「言わないと伝わらねーよ」
 もしかしたら相手だって自分のことを好きだったかもしれない。もしかしたら好きになってくれたかもしれない。言わないと何も伝わらない。察しの良い人間ばかりではないのだと、そう言った。

「じゃあ五十嵐、おれの恋人になって。おれは五十嵐が好きだから。恋人になって」
「いいよ」

 買い言葉だったのかもしれない。少し投げやりに、少し強く言われた言葉に即答した。自分が言ったくせに篠崎は動揺して、お前は馬鹿かと罵られた。
「その馬鹿が彼氏で良いんなら」
 青い空気に包まれて、篠崎は顔を真っ赤に染めた。しどろもどろな喋りで「だって」だの「お前が」だのぶつくさと言いつつ立ち上がり、席一つ分あった隙間が埋まる。それから俺の襟元をぐいと引っ張った。
 俺を見下ろす目は泳いでいる。ただ、見上げた先の突き出た喉仏が口を開くのに合わせて動くのを見た。
 不安げな瞳を隠すようにぎゅっと閉じた瞼。ぶつけるように合わさった唇。そういうことかと納得をして、キスしながら笑ってしまった。



 隣に立つ男は十年前よりは当然老けた。幼さは抜け、細かった体もしっかりしたように思う。
「五十嵐は、明日用事ある?」
「ないよ」
 初めてキスをしたあの時、可愛い奴だなと思った。今そうして振り返ってみればただ懐かしく、自分を好きになってくれたことが嬉しかった。
「じゃあうちに来て話さないか。もう少し思い出話でも」
「いいよ」
 あの時のように瞳は不安げに揺れ動き、断られる覚悟をしているようだった。でも断りはしない。
「お前んち何処? 遠すぎるとさすがに」
「ここから電車で三十分くらい」
「まぁ進行方向同じならいいか。ついてくよ」

 気持ち悪いと同級生に言われる彼を他人事のように見ていた。俺はその時付き合っていた『彼氏』だったのに、自分がもともと好きなのは女性だからって思っていた。
 あいつらの前に一人で立ち一人で戦った、強い篠崎。




 赤い屋根の少しぼろいアパート。一階はブロック塀に囲まれ、二階へと続くのは塗装の禿げた外階段。カンカンと響く音に足音を忍ばせた。
「入って」
 整理された物の少ない部屋は高校時代の部屋を思い出させる。
「綺麗にしてんじゃん」
「もうすぐ引っ越すから」
「へぇ」

 買ってきたお茶を貰い、床に座る。
 部屋の隅に畳まれた布団。小さなテレビと閉じられた茶色の棚。開かれた紺色のカーテン。玄関からキッチン、奥まですべて見えてしまう一人暮らしの部屋。

「今日、村枝に頼んだんだ。連れてきてって」
「さっきの?」
 篠崎は頷く。
「少し会えたらなって思ってて」
「十年ぶりだな」
 昔のように隣に座る篠崎を気にしないように気にかけた。
「昔はよかったなぁ」
「でも昔は……昔よりは今の方が生きやすいんじゃないのか」
 同性愛者なんか滅多にいなかったあの頃。それに比べればまだ今の方がいい気がした。
「恋人いねーの?」
「いない」
 大した酒も飲んでいないのに体温が上がる気がした。
「恋人いなくても結婚してるとかねーよな?」
「ないよ」
 篠崎が笑う。
 社会が普通でなかったものを普通だと思うように変化しつつあったとしても、個人にまでは至っていない。
 冷たいお茶が喉を通る。閉め切った部屋はまだ昼間の暖かさを残している気がしたが、この古いアパートではすぐに夜の冷たさに飲まれるだろう。

 するりと手に手が重なった。
「お願いがあるんだけど」
 十年前に引き戻される。
「何?」
 当時とは違う眼鏡の顔が、眉を下げて薄い唇を開く。
「おれとセックスして」
 
 高校時代、一時だけ恋人として付き合った。それでもキスしかしなかった。綺麗に整理された篠崎の部屋で、唇の皮膚を重ねるだけしかしなかった。篠崎の両親は共働きで夜遅くまで帰宅することは無かったのに、健全な高校生がそれでも、触れ合うことはしなかった。

 返事は決まっていた。

「いいよ」
「ほんとに? 何言ってるかわかってる?」
 自分から言いだしたくせに、篠崎は眉を顰め変なものを見るように強い口調で責め立てた。
「じゃあやめとく?」
「……準備してくる」
 立ち上がり開けられた襖。衣装ケースから取り出された服とタオル。篠崎は俺を見て何か言おうとして、言わずに洗面所に向かった。

 とりあえず、と立ち上がりカーテンを閉めて布団を敷いた。紺色のカーテンは部屋を一層静かにし、敷いた布団は狭い一人用だった。手持無沙汰にお茶をまた飲み、狭いワンルームで断続的な水音を聞く。
 篠崎はさっき何を言わずにいたのか。もし躊躇いがあるのならしないほうが良いと思う。たとえばあいつに今好きな人がいて、その人に昔と同じように好きだと言えずにいるのだとしたら。俺は昔の恋人としてあいつを理解はしてやれるだろうが、それだけだ。

 立ち上がり洗面所に向かう。半透明のドアをコンコンと叩いた。
「なぁ、俺も」
 返事がある前にドアを開けた。床に膝をつきシャワーを浴びる篠崎は驚いた顔をして、「待って」と言った。
「俺も綺麗にしたほうが良いんじゃねーのって」
「いい!」
 少しだけ空けた隙間は閉ざされた。
 昼間は暖かく少し汗ばんだし、さっきまで酒も飲んでいたから酒の匂いだってあるだろう。体を綺麗に準備するべきだというのなら篠崎だけの話ではないと思ったのに。

 そう間を置かず篠崎は風呂から上がり姿を現した。
「もう少し待って。お前が突然来るから頭濡れた」
 文句を垂れてすぐにドライヤーの音がする。体だけ洗う予定で頭を洗う予定はなかったのだろう。短い黒髪は櫛も使わずにわしゃわしゃと風を浴びていた。

 長袖のシャツに下着だけのその姿。
「電気、消すから」
 まだ少し湿っているだろう頭が揺れる。眼鏡をかけていないその顔は、昔と変わってはいなかった。

 電気を消してしまえば部屋は暗く、キッチンの小さな窓から光が入る。
 白い布団の上に座った幽霊のような男に招かれた。ぼんやりと白いシャツが動く。俺の横から抱き付くように腕を回され、その体温を感じた。
 ズボンを履いていない足に触れると、びくりと体が反応した。昔よりは筋肉がついただろう体。日に当たらない箇所は白いが、貧弱さは感じられない。
「触ってもいい?」
「いいよ」
 控えめに手が下りてくる。緩められたズボンのファスナー。篠崎は俺の肩に頬を寄せる。その眼は俺の下半身を真剣に覗き、指先は大胆に俺の形をなぞっていた。
 柔らかいものが反応を見せ始め、布を押し上げる。それが嬉しいのか、指先だけで触れていたものは手のひら全体へと移り行く。
 左手にその腰を引き寄せた。篠崎は上目遣いに俺を見て「五十嵐の触っちゃった」と小さく笑った。こつんとその頭に頭をぶつける。
 あの頃――こいつを可愛いと思っていた頃が思い出される。
 肩から頬が離れ、あの頃と同じようにキスをした。触れ合うだけのキスは自然と変わり、覗いた舌がぺろりと俺を唇を舐めた。力を抜けば閉じた唇をこじ開けられ舌が絡む。背中を掴まれ、服に首が引っ張られる。そのまま押し倒すように篠崎を布団に寝かせた。

「あ、ごめん」
 下着に手をかけると、篠崎はするりと体の下から抜け出ていった。
「おれは女の子じゃないから」
 音もなく開いた棚がパチンと閉じる。
「そのまましたほうがよかったかな」と小さな独り言。
「何?」
 暗闇の中でその手ごと引き寄せる。
「ごめん。やっぱりそのまま――」
 何もなかったかのようにまたキスをしてくる篠崎を軽く受け入れ、肩を掴んで離す。慌て事を進めようと下着を脱ぐ姿を横目に、布団の横に転がされたそれを手にした。
「これ必要なんじゃないの? つか今更だけど男とやるのだって避妊具必要だよな」
 手にしたボトルをやんわりと取り上げられる。
「ゴムするの?」
「しないの? 無い?」
「ある……」
 再び立ち上がった篠崎は、下着を脱いだ姿のまま先ほどと同じ棚に向かった。体のラインをぼかす白いシャツに日に焼けていない白い足が伸びる様は、本当に幽霊のようだ。足のある幽霊。
「おれが五十嵐につけていい?」
「ほんとにつけるか不安?」
「違う。おれがしたいだけ」
「サービス精神旺盛」
 篠崎は笑った。先ほど一瞬曇った反応が戻るようで安心する。
 その手がパッケージを開き、平均的な俺に触れる。すでに臨戦態勢のそれを準備する様は嬉しそうだった。
「てか避妊具って言い方」
「男だと避妊じゃないけどさ」
 でも相手を思いやるという点では同じだと思う。こんなもの一つ否定してまですることでもないと思った。
 先ほど奪われ転がされたものを拾い上げ、篠崎がその右手にとろりと垂らす。何をするのかと見ていたら、左手で俺の頬を抑え隠すようにキスされた。
 見られたくないものなのかと目を閉じる。篠崎の右手が何をしているのか、かすかに揺れる体を支えるようにその背中に手を回す。舌が絡むたびにその吐息が熱を持った。

 布団に伏せ尻を上げた篠崎は、その指先で自らの穴を示し広げるようにした。
「お願い」
 腰骨に手をやり、自分のものを片手で持ちつつそこにあてがう。爪が切られた二本の丸い指先が開くそこに押し入った。
「んっ」
 先端が入ってしまえばあとはそのまま勢いで奥へ奥へと進んでいく。篠崎は深く息を吐いた。
「辛いか?」
「大丈夫」
 先ほど篠崎がしていたのは、ここを慣らすことだったのだろう。ぬるりとした物は負担を軽くしてくれる。
 中は狭く絡みついてきて、自分を求めてくれていると錯覚する。
「こんなに気持ちいいんだな」
 勝手に腰が動く。軽く律動すれば篠崎から微かな喘ぎが漏れた。篠崎がしていたように、今度は俺の両手でその穴を広げるようにして腰を打ち付ける。自分の全てを受け入れて欲しいという欲望。緩やかな動きは次第に激しくなり、その尻をしっかりと押さえつけていた。

「篠崎」
 篠崎は枕に顔を埋めるようにしていた。声は全てそこに飲み込まれているのか、はち切れそうな欲をいくら押し付けても聞こえない。
「おい、篠崎」
 後からでは顔も見えず、相手が実際にどう感じているのかもわからない。伏せた顔を見たいと思った。
「嫌なら――」
「嫌じゃない。続けて」
「じゃあ、顔見せろ」
 繋がったまま無理やりにその体を横にする。篠崎は少しだけ呻き、相変わらず抱えたままの枕に顔を埋めていた。
「あのさ、お前が誘ったから嫌でもしないといけないって思ってるのかもしれないけど、痛いとか嫌なら言えよ」
「嫌じゃない」
 その返事と同じように、おそらく故意に締め付けられる。体の向きを変えたせいで浅くなった繋がりをまた深く結ぶ。
「嫌じゃないなら、枕どかして」
 その顔を隠す枕を引っ張ると、抵抗もなく離された。しかし腕で顔が隠される。
「お前なぁ」
 恥ずかしいんだろうか。
 その腕を歯を立てずに唇で食んだ。閉じた足の間にある篠崎のものに触れる。
「あっ」
 顔を覆っていた腕が、慌てたように伸びてくる。
「恥ずかしい? 嫌? それとも俺が下手糞過ぎてやってらんねー?」

「おれ男だから」

 その答えに、理解した。
 やる前から言っていた女の子じゃないという言葉。避妊具を付けることに疑問を持った様。
「俺は男の篠崎とセックスしてんだよ」
 ぎゅっとその象徴を握る。服に隠された胸は平たく、股間には女性にはないものがついている。子供を産む穴もない。
「俺が下手糞でやってらんねーってのは、童貞だから許して」
「え? ――え?」
「何」
「五十嵐、したことないの?」
「だから童貞捨てさせてよ」
 ぐいと腰を押し付けると、隠されていなかった顔が驚く。
「うそ。そんな、え?」
 理解できないというように篠崎の目は泳いでいたが、こっちはそれどころではない。きゅうきゅう締め付けてくるのに我慢が出来ず、横向きの足を抱えただ奥を目指す。一度引き抜くように戻して、また奥へ。
「あ、あっ、五十嵐」
 先端を引っかけるようにするのも、奥を揺らすように突き動くのもたまらない。
「あー、気持ちいい。やば」
 こんなの童貞には長くもつはずがない。
「篠崎、あんまり気持ちよくさせてやれなくてごめん」
「おれだって、気持ちいい」
 伸ばされた指先に口付ける。カッコイイ余裕のある男は演じられない。
 欲望のままに動き、もう出そうだと告げれば惚けた瞳に促された。

 ゴミを片付ける間、ずっと篠崎は独り言のように信じられないと繰り返していた。
「童貞で悪いか。おかげさまで卒業したわ今」
 括っていた髪が汗ばんでいる。
「こんなことならもっと早く、五十嵐に連絡取ればよかった」
「んー?」
 布団に座り込んだ篠崎が泣きそうな顔をするから、その前に胡坐をかいて座る。
「おれ色んな人とした。五十嵐に似てる短い髪の人に相手してもらってた。目が似てるとか鼻が似てるとか、そのちょっと厚い唇が似てるとか探して、五十嵐の代わりをしてもらってた。おれはもう……」
「それ実質俺とセックスしてたってことじゃん? 俺のことまだ好きだった?」
「……ずっと、好きだった」
 暗闇でもわかる。涙を溜めた目がキラキラと光り、ぽろりと一粒落ちていく。
「俺はさー、やるってなったら出来なかったんだよ。だから不能かなって思ってて、今お前とも出来ないかなって思ってたんだけど」
 結果としては問題なく、できた。彼女といい雰囲気になったとしてもいざとなると役に立たなかった俺のものは、篠崎相手にはきちんと働いた。

「おれ五十嵐のこと忘れたかった。でも、何かある度にお前が恋人してくれてた時のことを思い出してた」
「なんで忘れんだよ」
「だって……」
 言葉が涙に滲んでいく。いくら涙がシーツを濡らそうと、どうせ変えてしまうのだからいいだろう。
「お前と付き合ってた時、ずっとこうやってセックスしたかった。でもそれを求めたら、五十嵐だってさすがに嫌がるかなって思ってた。お前は女の子を好きだったから、キスは出来ても実際体を見たらダメになるって」
「試してみればよかったのに」
「五十嵐だってしたいって言わなかったじゃん!」
「まぁ、そうだけど」

 こいつと別れてからの十年。自慰は出来ても相手の居るセックスをすることができなかった。風俗に行ってみようかとも考えたが、そこまでするものでもないと思っていた。『恋人』だった篠崎としなかったから、しないのもおかしなことではないだろうと思っていた。

「男同士のセックスって知らねーし、お前が言ってこないなら無理するもんでもないと思ったんだよ」
「おれはいつも、お前が帰った後一人でしてた」
「マジで?」
 睨まれる。
「悪かったって」
 もしかしたら、あの頃俺はゲイという少数派の人間に選ばれた人間だと思っていたのかもしれない。あの馬鹿にした奴らと同じように篠崎を珍しいもの扱いしていて、それに選ばれた特別な人間だと思っていたのかもしれない。その代償がこの十年の不能だったとしたら。――そんなことは、言えやしない。
「今度からは、一人でしないで誘ってよ」
「お前はまたそういう!!」
「なんで怒るんだよ。恋人とセックスするの普通だろ? もうやり方わかってるし」
「恋人って」
「違うの?」
 涙も止んだへの字口の篠崎は、ぎゅっと目を閉じて一言「ずるい」と言った。



 一緒に風呂に入り服を借りた。汗をかいてしまった服とシーツをビニール袋に入れコインランドリーで洗濯をする。
 引っ越しの予定を聞けば俺の家から30分くらいのところだった。
「すぐ会えるじゃん」
 言えば篠崎はまた微妙に泣きそうな顔で「十年分取り返す」と笑った。
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