一の恋

紺色橙

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3 不眠症

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 期末試験も終わり、あとはもう夏休みを待つだけとなった。スマホに届くAさんからの日常的なメッセージ。送られてくるそれからは少し疲れが見えていて、考えた末にお疲れ様ですと返した。常々全てを無くして消えたいと思っているのに、こうしていつも少しだけ届く他愛のない言葉が少し嬉しい。

『土曜日もう少し早く会える?』
 続いてきたメッセージに、時間が合わないのだろうかと思いつつ何時でもと返す。疲れているのなら、残念だけど会えなくても仕方がない。
『21時は?』
 先ほど何時でもと返した通り、俺には何も予定が無い。だから提案された時間に『大丈夫です』と返信した。



 23時に比べ、21時は少し車が多かった。深夜1時まで営業しているボウリング場前にずっと駐車しているのも良くないと、3回目の車に乗り込んですぐに出発した。
「今日大丈夫だった?」
「俺何も予定とかないから、21時でも23時でも平気です」
 いつもより少し混んでいる道路を走る。夏の湿度に加え、今日は雨が降ってきそうな空だった。
「Aさんは、大丈夫なんですか。最近疲れてるみたいだから」
 以前よりも言葉はすんなりと出てきた。3回目ともなれば二人静かに車内にいることにも、Aさん自身にも慣れていた。

「ちょっと妻と話したからね」
 奥さんがいるということを、この時初めて知った。反応に悩み無言になる。
「何年も別居しているんだけど、話さなきゃいけない用事があって」
 そう言ってAさんは小さく溜息を吐く。
 仲が良くないのかとか、いつからどうして別居しているのかとか、聞きたいことが胸の奥から湧いてくる。
「そ、う、だったんですか」
 でも訊けなかった。どこまで世間話として話してくれるのかわからなかったし、それを聞いても自分に何かできるわけでもなかった。だからただ相槌を打つ。
「うちは子供が出来なくてね、うまくいかなくなってしまった」
 子は鎹という諺が思い浮かぶ。それを子供が夫婦の間をつなぐと俺は理解していたけれど、子供がいないだけで崩れてしまったと彼は言った。
「今日はどこかに行く?」
「いえ」
「高速に乗ってもいい?」
「高速? いいけど……」
 話題を変えたAさんは、「目的地はないけどね」といつものように言った。だから俺は奥さんのことには触れない方が良いのだろうと、それ以上詳しく聞くのをやめた。

 車は信号で曲がり、まっすぐの道を反れていく。高速の出入り口がどこにあるのかも俺は知らないが、きっとそこを目指しているのだろう。
 再び信号を曲がり道を行き、いずれ高速の入り口についた。一般道から坂道を上りスピードが上がる。何の感情も持っていないようなAさんの横顔を窺いつつ、体を跨ぐシートベルトを力も入れずに握った。

 時速80kmの世界。高速道路は所々ガタンと車体を揺らした。
「この定期的に揺れるのって何?」
「繋ぎ目?」
 地面を見ると等間隔で色が変わっていて、何かがあることがわかる。繋ぎ目で揺れるのか、と知らないことに納得した。

 1か月近く話していると慣れるもので、自分より倍も年上だと言ったAさんに対しても丁寧語は無くなりつつあった。それを咎められもせず受け入れられる。

 夜の高速道路は一般道とは景色が違っていて、絵本を思い出させた。暗闇に等間隔で佇むオレンジ色のライト。縞模様を地面に作り出すそれが、なんだか幻想的だった。

 ずっと感じている胎内音のような音と振動、そこに増えた繋ぎ目の強い振動、縞模様のライト。なんだか眠りに誘われるようで、欠伸をする。
「眠かったら寝ていいよ」
「うん」
 座席に深くもたれかかり、おさまりの悪い頭を窓に寄せる。振動にともすれば頭を打ちつけそうだったが、それでも座席につけているよりかは楽だった。目を閉じても感じる一定の振動。Aさんが音量を下げたのか、流れていた曲が小さくなる。こんなに外部の音が遮断される場所はそんなに多くはないだろう。余計な音はせず、導かれるように眠った。


 ゴツンと頭をぶつけ目が覚めたときには、まだ高速道路の上だった。
「大丈夫?」
 ずいぶんいい音がしたのが聞こえたようで、Aさんに心配される。オレンジ色のライトは相変わらず等間隔に立ち並び、車内の時計はいつの間にか23時になりかけていた。
「凄い、寝てた」
 涎を垂らしていた気がして口元を擦る。もし涎が垂れていたとしても自分の服の上ならいいんだけども。
「寝れたなら良かった」
「うん」
 ふあ、と欠伸が漏れる。
「気持ちよかった」
 修学旅行で乗ったバスは良いものじゃなかった。独特な匂いがして気持ちが悪くて、とにかく早く降りたかった。タクシーも同じで、俺は車というものに向いていないと思っていた。だからこんなに気持ちよく寝れたのが意外だった。

 シートベルトを少し緩め、ぐーっと伸びをする。寝ていた時と同じように窓に頭を付ければ、またゴツンと強くぶつけた。
「大丈夫?」
「平気」
 とてもいい音がしたけれど、それほどの痛みではない。でも少し恥ずかしくて、頭をさするように顔を隠した。
「パーキングエリアに寄るね。トイレも行くだろうし」
 言われると自分の身体の変化を感じた。寝起きだからか尿意も思い出され、どれほどの距離にあるのか分からないパーキングエリアに早く行きたくなった。
「お茶飲みな。声枯れてるよ」
 促され二人の間にあるペットボトルを目に入れる。前回二本あったそれは一本しかない。すいと視線を移すと、もう一本はハンドル近くに置かれていた。
「ありがとう」
 出てきた声は確かに掠れていた。車内の冷房のせいかもしれない。あまり飲むと更にトイレに行きたくなってしまうから、喉を潤すようにゆっくりと飲み込んだ。

「何か食べる?」
「俺は別に……」
 軽食が販売されている自動販売機には既にお金が入れられている。お腹が空いているわけではなかったが、商品の写真を見ているとお腹の中が動いた気がした。きっとこれが入るスペースを作ろうとしている。
「Aさん、いつ帰るの」
「いつまで一緒にいてくれる?」
 Aさんは自分が食べたいのか、ポチっとボタンを押した。ぐおんと自販機が動き出す。
 彼の言い回しにうまく返せず、どもってしまう。
「Aさんちって、俺の家から一時間くらいかかるんだよね?」
「そうだね。空いてればもっと早いけど」
「じゃあ、ちょっと食べるから……」
「良かった。一人で食べてるのもね。お茶は新しいのいる?」
「要らない。またトイレ行きたくなっちゃうし」
 Aさんは笑った。
 出てきたポテトやおにぎりをハイと手渡される。ポケットから出そうとしていた財布を押し戻し受け取った。
「あの、お金」
「要らないよ」
 後で渡せばいいだろうか。思いつつ後について車に戻る。

 車内で財布から札を出しても受け取ってはもらえなかった。
「でもガソリン代とかも」
「こっちが連れまわしてるんだからいいんだよ」
 連れまわすという言葉に唸る。連れまわされているんだろうか。勝手に付いていっているという方が正しいと思う。それに、いつも迎えに来てもらっている。
 どうぞと促されるままに食べた。軽食が出てくる自販機の物を買ったのは初めてだった。

 食べ終わりごみを捨てに行く。車外は夜だというのに暑くじめじめしていて、早くクーラーのついた車内に戻りたいと一歩出ただけで思ってしまう。
 雨の匂いがする。ぽつり、一粒頭に降ってくる。手のひらを上に向け体から腕を伸ばせばそこにもまたポツリ。慌てて車内に戻り雨が降ってきたことを告げた。

 運転席にいるAさんはいつもよりぼんやりとしている。
「少し寝ていいかな」
「どうぞ」
「ごめんね」
 座席が倒され、Aさんが横になった。クーラーで体を冷やしてしまわないだろうか。少し心配になるけれど羽織れる物一つだってありはしない。
「私は不眠症で、運よく眠れる時に少し、寝たいんだ」
「え」
 Aさんはまたゴメンと謝り、眼鏡を外して目を閉じた。すぐに寝入ってしまったのがわかる。右腕で目を覆い隠し、胸は静かに上下している。彼は不眠症だと言った。それはどういうものなのか。漢字から連想するとしたら眠れないというそのままだが、そんな状態で俺に会いに来ていたんだろうか。それとも彼にとっては眠れないのが常なのだろうか。運よく、と言っていたし、常時起きているのだとしたら仕事の疲れどころではないだろう。

 音をたてないようにお茶を飲み、眠るAさんを見ていた。パーキングエリアには大して車もおらず、もとよりドアを閉じた車内は静寂が支配している。死体のように眠るAさんから寝息が聞こえ始めるのに安堵した。自分が座っている席もあのように倒せるのだろうかと思ったが、やり方がわからず諦める。頭だけを彼に向けて同じように目を閉じた。さっき気持ちよく眠ってしまったものだから眠気はないが、Aさんの寝息を聞いていると安心する。

 5分、10分ほどだろうか。Aさんに当たっているかもしれない冷風を閉じておこうと立ち上がり手を伸ばしていたら目覚めた彼と目が合った。今の状況がわからないようで何度か瞬きをしている。眼鏡をかけていないからもしかしたら見えていないのかもしれない。ドスンと助手席に座り込み、Aさんの意識が戻るのを待つ。

 ゆっくりと肘をつき体を起こしたAさんは、慣れた手つきで座席を戻すと眠そうな声のまま俺に手を伸ばした。
「手を、繋いでほしい」
 望まれるままに右手を差し出す。ありがとうと返ってきた声は見えているのかいないのか、やんわりと俺の手を取った。夏場の湿り気などないようなざらつき乾燥した指に手の甲を撫でられてから、ふにふにと手のひらが揉まれた。手の形というものを確認するように指一本一本をつままれる。くすぐったくて手を引こうとすると、ぎゅっと掴まれた。
「Aさんまだ寝てていいよ」
 ぐったりと座席に倒れている頭。きっと首には力が入っていない。
「もう起きてるよ」
 まだ眠そうだから言ったのに、返ってきた声はしっかりしていた。手はまだ繋がれたままで、寝ぼけていないことに狼狽える。俺の手を握り込むようにしていたものが、形を変えて上から重なる。指の間にAさんの指を入れられその感触に耳が赤くなった。

 今まで彼女の一人もいなかった。こんな手の繋ぎ方をしたこともない。Aさんは奥さんがいるというから、俺よりはるかに経験が多いことは分かっている。こうして手を重ねるのはまるで恋人がすることのようで、じわりと手に汗をかいてしまうのが気になった。

「Aさん」
「こっちの方がいいかな」
 手のひらがぴたりと合わさった。さきほどのAさんの手が上から覆いかぶさるような形ではなく、指先が絡む。
 心臓がドキドキと鳴るように頭の中が白くなる。静かな車内で更に音が消えるみたいだった。
「あの、何で」
 少し力を入れられれば指の関節が圧迫されて痛んだ。Aさんの分厚い手が俺の手を握り込む。
「人恋しいのかな。触りたいって思って」
「さ、触りたいって……Aさん絶対寝ぼけてる」
「そうかな」
「絶対! ねぼけてる!」
 強く言えばAさんは笑い、握られていた手は離れていった。安心したのに、その熱が無くなったことが寂しく感じた。手には緊張からか汗をかいていて、隠すようにこっそり拭いた。

 Aさんはこれに触って気持ち悪くなかっただろうか。気持ち悪いから手を放したんじゃないだろうか。

「帰ろうか」
 ドアポケットに入れていた眼鏡をかけ直しAさんがいつも通りの声で言った。現在時刻は23時半過ぎ。いつもなら会ってからまだ30分しか経っていない時間。でも今日は随分と経っている。
「えと……」
 もう少し一緒にいたいと思った。
「シートベルトしてね」
 もう少しと思うけれど、口からは出てこなかった。

 家近くの雨は止んでいて、地面が色を変えているだけだった。所々道の端に小さな水溜まりが残り、夜を反射させている。


 手を繋がれた後もAさんはいつも通りだった。一人体温の上がってしまった体にシャワーをかけ、かさついた指先を思い出しながら薄い布団に潜り込んだ。

 俺はこうして布団に入ればいずれ眠れる。うまく眠れないときだって当然あるが、毎日ではない。でもあの人は毎日眠れていないんだろうか。まだ3回しか会ったことのない俺の目の前で無防備に意識を手放して、怖くはなかったんだろうか。例えば俺がお金を盗んだりすることだってあるわけで、そんな心配よりも運良く訪れた眠気が勝ったんだろうか。

『おやすみなさい』
 送ったメッセージ。きっとまだ帰宅途中だろう。返事は帰ってこなかった。
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