上 下
41 / 59
第5章

2 緊急事態③

しおりを挟む
 駒形橋こまがたばしを渡って墨田区役所を抜けて、向島むこうじまICから首都高に乗った。
 土曜の夜、二十時を回った高速道路は比較的空いていて、このまま目的地まで安定した速度で進めそうだ。

 緑の標識と灰色のフェンス。等間隔に並ぶ街灯。
 代わり映えしない景色が延々と後ろに流れていく。
 事故の知らせの直後だから神経が過敏になっているのだろう、怖いからゆっくりでいいと伊月が言うので、安全な速度を守りながら左車線を走行した。

 車に乗せる時ってろくな時じゃねぇな、と、前回の推し活事件を思い出しながら考える。
 普段は俺たちの間に深刻な空気が流れることなんてほぼないのに、あの日と今日は、伊月も俺も、一人では消化できないものを抱えている。
 それでも、支え合うことはできるんだろう。
 万全じゃなくても、思いやることはできる。
 あの日の伊月がそうだったし、今日の俺もそうだ。
 崩れそうな伊月を見ていたら、さっきまでの悩みは頭から消えた。

 沈黙をかき消すために流しているFMラジオでは、男性のパーソナリティーがリスナーからの投稿を楽しそうに読んでいた。
 内容はあまり真面目に聞いていなかったが、緩いテンションの明るい声色は、黒く塗りつぶされた空の下を不安の根源へと向かって進んでいく重苦しい気持ちを、少しは和らげてくれているように感じられた。

 それにしても、このまま俺の車=不穏みたいなイメージがつくのも嫌だし、今度どこか遊びにでも連れていってやろうかな。
 初夏の気持ちのいい季節が近いから、土日を使って一泊で――そういうとき、一緒に寝るのがデフォルトのソフレは変な空気にならずに誘えるから気楽でいい。

「ごはん、食べていいですか?」
 伊月は足元に置いていた袋を、カサカサという音とともに持ち上げた。
「食べられそうか?」
「わからないけど、気が紛れるし元気出るかもしれないから……」
「そうだな、食え」
「先輩は?」
「俺は病院で待ってる間に食べるからいい。上のほうがお前のだから」
「はい」

 皿を一つ取り出して袋を足元に戻し、伊月はラップを開けた。
 冷えたご飯の匂いとともに、チリソースと炒めた挽き肉がふわっと香る。
「スプーン入ってただろ」
「ありました。はぁ……気乗りしないのにおいしそう」
 その言葉に、思わず笑いそうになったのを、なんとかこらえた。

 カチャカチャとスプーンの音がした後、少しの間があって、伊月がうん、と言った。
「めっちゃおいしい」
「そうか」
「なんだろうこれ、何の香りですか? なんかスパイスっぽい……」
「チリパウダーだろ」
「ちりぱうだー……。いい香りでさっぱりしててトマトの酸味もあって、食欲ないのに食べやすい……」
「偶然だけどよかったな。冷たくないか?」
「まだちょっとあったかいです。はぁ……。おいしい」
 ため息と感想のアンバランスさがおかしくて、今度はこらえられずに笑ってしまったが、それを聞いた伊月もつられたのか笑い声をこぼした。

「なんで先輩こんなに何でも作れるんですか?」
「なんでって……レシピ見てるからじゃね?」
「え?」
「料理なんてレシピがすべてだろ」
「ええー! 違いますよ! 私はレシピ見てもこんなにおいしく作れません!」
「え、なんでだよ」
「いや私が聞きたい」
「材料と作り方を見たら仕上がりの味がイメージできるだろ? それでおいしそうだなと思ったものは、そのとおりに作ればおいしい」
「すみません、何言ってるか全部わかりません」
「あっそ……」
「はぁ、いいなぁ、自分の手でおいしいものを生み出せるって」
「やればいいじゃん」
「天才が言うやつ」
「レシピがまずいときもあるから、そこだけ気をつければいい」
「レシピがまずい。初めて聞く言葉」
 伊月が笑う。 
 どうやら見事に気は紛れたらしい。

 やっぱり暗い顔をしているのは伊月らしくない。
 いつでもくだらないことで感情豊かになって、好きなように言いたいことを言って、幸せそうに笑っていてほしい。
 そう思ってしまうのは、よくある“男のエゴ”なんだろうか。

 ラジオは夜のドライブにぴったりの、どこか儚げでありながら疾走を駆り立てるような、ジャジーな楽曲を流し始めていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

私と継母の極めて平凡な日常

当麻月菜
ライト文芸
ある日突然、父が再婚した。そして再婚後、たった三ヶ月で失踪した。 残されたのは私、橋坂由依(高校二年生)と、継母の琴子さん(32歳のキャリアウーマン)の二人。 「ああ、この人も出て行くんだろうな。私にどれだけ自分が不幸かをぶちまけて」 そう思って覚悟もしたけれど、彼女は出て行かなかった。 そうして始まった継母と私の二人だけの日々は、とても淡々としていながら酷く穏やかで、極めて平凡なものでした。 ※他のサイトにも重複投稿しています。

生臭坊主と不肖の息子

ルルオカ
BL
一山の敷地に、こじんまりと本堂を構える後光寺。住職を務める「御白川 我聞」とその義理の息子、庄司が寺に住み、僧侶の菊陽が通ってきている。 女遊びをし、大酒飲みの生臭坊主、我聞が、ほとんど仕事をしない代わりに、庄司と菊陽が寺の業務に当たる日々。たまに、我聞の胡散臭い商売の依頼主がきて、それを皮切りに、この世ならざるものが、庄司の目に写り・・・。 生臭で物臭な坊主と、その義理の息子と、寺に住みつく、あやかしが関わってくるBL小説。BLっぽくはないけど、こんこんのセクハラ発言多発や、後半に描写がでてくるの、ご注意。R15です。 「河童がいない人の哀れ」はべつの依頼の小話になります。

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

お兄ちゃんは今日からいもうと!

沼米 さくら
ライト文芸
 大倉京介、十八歳、高卒。女子小学生始めました。  親の再婚で新しくできた妹。けれど、彼女のせいで僕は、体はそのまま、他者から「女子小学生」と認識されるようになってしまった。  トイレに行けないからおもらししちゃったり、おむつをさせられたり、友達を作ったり。  身の回りで少しずつ不可思議な出来事が巻き起こっていくなか、僕は少女に染まっていく。  果たして男に戻る日はやってくるのだろうか。  強制女児女装万歳。  毎週木曜と日曜更新です。

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

処理中です...