砂丘

金合歓

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 男は喜びに浸り、うつ伏せた姿勢のまま身じろぎもしないでいた。背にある砂丘の砂粒が時折静かに転がる音を波斯ペルシャの踊り子の銀の鈴に例えてみたり、重たい品々を運ぶ隊商がよじ登ってくる様子を想像してみたりして、ほくそ笑みもした。
 けれども、夢の種はすぐに尽きてしまい、男は窓の外を見やることしかできなくなってしまった。
 丸いガラス球に入った街路灯の光。細かく赤い葉々を繁らせた、背の高い並木。褐色と真珠色の煉瓦を交互に並べた鋪道。
(ああそうか、そんな時刻か)
 人影のない通りを見て、いや、人影のない通りを一人歩いてくる若い女を見て、男はそう思った。
 毎晩、太陽が大地の深くに沈み切った時刻に、彼女は男の下宿の前を通り過ぎていく。周りに人がいる場面に遭遇したことがないので比べようがないが、並の女よりは幾分背が高いように思われる。齢は18,19といったところだろうが、舞台役者のような、輪郭が濃く見える化粧をしているので、40くらいの齢にみえてしまう。この町に舞台など洒落たものはないから、おそらく男相手の仕事でもしているのだろう。
 彼女は月や街路灯の明かり、それに木々の影にまみれて、すぐそこまでやってきた。いつもの夜ならば、男は布団にもぐり込んで、女が、そして夜が過ぎ去るのを待つのだが、今夜に限ってはそんな風に時を費やすのが愚かに思えた。

「やあ、そこのお嬢さん!マドモワゼール!セニョリータ!」

 男は窓を開け放ち、女に呼び掛けた。

「君のガウン、素敵なアラベスク模様だね。もしかして、君、砂漠なんかに興味があるかい?」

 女は下宿のちょうど前に立ち止まり、2階にある男の部屋を見上げた。彼女の顔は案外と彫りが深く、高い鼻の影なのか、深い眼窩の影なのか、あるいは黒いアイシャドウをしているのか、目の周りがやけに暗く見えた。あたかも死神か亡霊のようにさえ思われるくらいだ。それでも橙色の口紅を厚く塗った彼女の唇が微笑を送ると、生の力がみなぎり、それを受けた男の瞳は輝くのだった。

「こんばんは。」

 女の声は、並木の赤い葉々が互いに擦れ合う音によく似ていた。

「砂漠は好きよ。海よりかは、ずっと。」

 それを聞いて、男は受けた微笑をそのまま女の方へ返した。

「それならちょうどいい。今、僕の背中の上に砂丘が一つあるんだ。ね、よかったら見に来ない?」

「あら、初対面の男の方の部屋には、さすがに上がれないわ。職場で禁止されているの。」

「そうかい。じゃあ、月をごらんよ。」

 男が指さした先、黒々とした天に掛けられた金の鏡を見て、女はいささか驚いたようだった。砂丘を背負って寝転ぶ男の姿が、確かにそこに映り込んでいたし、女自身の暗い目元も、その景色の上に重なるように映っていた。

「本当に砂丘だわ…それに、あれは私の目?駱駝の影みたいに、あなたの砂丘に乗っかってるのね。」

「ふうん、駱駝の影か…僕は、この砂の山を背負った僕自身が駱駝みたいだって思ってたんだけど。それはそうと、やっぱり君の目で直接見てほしいな。」

「それじゃ、あした。あしたの昼間に、友達と一緒にあなたの部屋に行くわ。ナイチンゲールみたいな声の友達なの。あなたの砂丘にぴったりよ!」

 そう言うと、微笑を湛えたまま彼女は軽やかに身をひるがえし、歩き去っていった。
 男は後姿を見送りながら、喜びで胸をいっぱいにさせた。そして、その胸の内で強く思った。
 僕の心は体を抜け出して天に舞い上がりそうだ。ああ、本当に体なんか要らない気分だ、と。



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