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7 最後の日

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 宿の離れ。
布団を川の字に並べて、三人は朝を迎えた。常葉と過ごす最後の日になることを、保見は知らなかった。朝から保見は無邪気にはしゃいでいた。
「ねぇねぇ! 私ね、将来、先生のお嫁さんになるんだよ!」
 朝食を運んできた女中に、常葉の腕をとりながら保見は嬉しそうに言った。昨日の夜からずっとこんな調子だ。柳にも何回そう言ったことか。
「まぁ! よかったわね」
 女中はにこやかに保見にそう言うと、保見は、うん! と目を輝かせた。常葉と柳は、内心複雑な想いを押し殺して、笑顔をとりつくろっていた。
「先生! 今日は町に出るんだよね! 保見ね、お買い物したい!」
「ん!?」
「昨日町に行くって言ったよ。先生」
「あぁ……そうだったっけ?」
 そう言いながら、常葉はちらりと柳へ目をやった。柳は朝食の味噌汁をすすると、
「せっかくだから、二人でゆっくり散歩してこい」
 すました顔でそう言った。

 朝食後、常葉は保見に手を引かれながら、賑やかな町へ繰り出した。保見は町を練り歩くなんて初めての経験だった。わぁ! と何度も口にしながら、右に左に常葉の手をぐいぐい引っ張る。保見はふと、着物屋の前で足を止めた。
「そうだな……保見の服もだいぶ汚れてしまったから……新しいのを買ってあげよう。さあ」
 二人で店に入ると、保見は飛び跳ねるようにしてはしゃいだ。
「先生! 保見は、何色が似合うかな?」
「うん?」
 常葉は、保見の前に並べられた三着の着物を眺めた。水色地に淡く映える桜柄の着物。若草色地の背景に、花々の間を黄蝶が舞い飛ぶ柄の着物。黄色地に赤や金の糸で華やかな毬の刺繍を施した着物。どれも女の子らしいな、と常葉は思った。
「そうだな……保見は元気がいいから、黄色いのなんかぴったりじゃないか?」
 えへへ、と照れたように笑うと、保見は、黄色の着物にする、と言った。保見はその場で新しい着物を着させてもらい、常葉の前でくるくると回って見せた。
「うん。良く似合ってるよ」
 保見は満足そうに笑うと、常葉の手をとって店を出ようとした。
「ちょっと待て! お勘定まだなんだから!」
 常葉は慌てて店にお金を払うと、保見に言った。
「いいか? 物をもらったり、なにかさせてもらう時は、しっかりお金を払わなくちゃいけないんだ。覚えておくんだぞ?」
「……うん」
「まあ……」
 常葉はにっこり笑いかけると続けた。
「今日は特別だ。何でも欲しいもの買ってやるから。……あんまり高すぎるものは駄目だけどな……」
 保見は嬉しそうに、うん! と言った。
 二人は手当たり次第に店を回った。陶器屋では、保見が商品を壊しはしないかとハラハラするので、常葉は足早に保見の手を取り隣に本屋があると言って連れ出した。通りかかった金魚売りに興味津々な保見が「これはおいしいの?」と尋ねたので噴出してしまったり、道端で芸を見物している群集に混ざって拍手したり、保見は玩具屋でシャボン玉を買ってもらって、それを吹きながら歩いたりした。
「保見、お腹すいたなぁ。何食べたい?」
「おそば」
 保見は目の前にあった蕎麦屋の看板を指差して言った。本当に蕎麦でいいのか? と尋ねる常葉に、うん、と返事をしたので、二人は蕎麦屋に入った。
 二人で向かい合い、ざるそばをすすりながら、ふと常葉が言った。
「保見、お前、左利きなんだな。」
「そうだよ」
 と保見は笑う。
「先生は、右利き」
「あぁ」
 保見はにっこりと言った。
「こうして向かい合って食べてると、鏡みたいだね」
 保見に言われて、常葉もははっと笑う。保見がそばを箸でつまんで、汁につけてずるずるとすするのを、常葉はそっくりに合わせて同じようにしてやると、保見もきゃっきゃと笑った。
「鏡みたい! 今度は保見が鏡やる! 先生、交代だよ」
 常葉は少し意地悪して、素早くそばをすくい上げるとちゅるりとあっという間にすすり終わってしまった。
「あ! 先生早すぎだよ。もう一回!」
 と保見ははしゃいだ。

 昼食が終わると、二人で町外れの土手まで歩いた。そこに座りながら、小川がながれていくのを眺めた。
「いい天気だな」
 常葉はそう言うと、大きく背伸びをして草の上に横たわった。そよ風がかすかに常葉の前髪を揺らした。時がゆっくりと流れているような心地がする。穏やかだった。全てが穏やかだった。
「……幸せだなぁ……。きっと、今が一番、幸せなんだ」
 常葉は呟くともいえない小さな声でそういった。
「先生?」
 常葉はうとうとしているうちに、居眠りしてしまった。これまでにないほど、常葉にとっては心地良い眠りだった。
保見は寝入ってしまった常葉に寄り添うと、そっと常葉の顔を覗き込んだ。穏やかな寝顔だった。保見も一緒に横たわろうとした瞬間、常葉の目がばっと開いた。思わずびくっと保見はのけ反った。

「ほみ……。お前はこの男のことが好きなのか? この非力な封じ師のことが……」

 見開いた常葉の目は真っ直ぐに宙を見つめたままだった。常葉は無表情のまま、まばたき一つしないで続けた。

「覚えているだろう? ほみ。お前は二度も死にかけている。二度もこの封じ師はお前を救うことができなかった。オレが助けてやったんだぞ?」

 保見の脳裏には妖怪の大群に襲われた時と、大鳥の妖怪に襲われた時の記憶が蘇ってきた。今思い返しても身震いがする……そうだ、あの時助けてくれたのは……

「あなたは……神羅なのね? どうして私を助けるの?」
「お前の力はオレの役にたつ……。ほみ、お前は常葉じゃなくて、オレに感謝すべきだ……。勘違いしている……。常葉ではお前を幸せにできない……」
「神羅……さん? あの……私を助けてくれたことは……その……感謝しています。でも……私は先生が……」
「こいつがお前に何をしてやった? 優しい言葉をかけて頭を撫でてくれた? それだけでお前は満足なのか? 優しいだけで何にもできない……こんな弱虫が……」
「違う! 先生は……!」
「今に痛い目をみるぞ……それこそこいつを呪いたくなるほどに……。お前の幸せはここには無い……いずれ分かる……お前の居場所はこっちだ……」
「ちがう! 私は人間だ!」

 そう声を張り上げた保見の方を、それまで宙を見つめていた常葉の目がギロリと見射った。瞬間、保見の体は硬直し、ぞくりと悪寒が背筋に走った。
「いずれ答えは分かるだろう……今は……忘れて眠れ。必ず迎えに行く……」
 すうっと保見の目が虚ろになると、寝そべっている常葉の体に寄り添う形で転がった。すうすうと寝息をたてる保見の寝顔をみつめ、憐れむような表情を一瞬浮かべると、常葉の目もまた閉じられた。


 夕日が紅く沈みはじめる頃、常葉は目を覚まし、慌てて起き上がった。脇に寄り添う保見を見つけると、保見の体を揺さぶって呼びかけた。
「保見。起きるんだ。帰るぞ?」
 寝ぼけ眼をこすりながら、保見は起き上がるとあくびした。
「もう帰るの?」
「ほら、日が沈む。早く帰ろう」
「まだ遊びたい!」
 保見はぶつぶつ言いながら、先を歩く常葉の後について行った。保見は眠りに落ちる前の出来事はすっかり忘れてしまっていた。

 町の店は、どこも暖簾を終い始めていた。あっ! と保見は何か見つけると走りだした。常葉も後から追いかけると、保見は小物屋の店先で、キラキラと輝くとんぼ玉を眺めていた。
「いらっしゃい、お嬢さん」
 店じまいの支度をしていた店員の女性が、にこやかに保見に言った。
「きれいでしょう? とんぼ玉っていうのよ。ガラスでできているの」
「うん。きれい。すごく」
 その様子を後ろから見ていた常葉は、そっと保見に近づいて言った。
「どれにするんだい?」
 ばっと常葉の顔を見ると、いいの? と保見が目を輝かせた。
「どれでも好きなのを買ってあげるよ」
 保見は急いでどれにしようか選び始めた。ゆっくり選んでいいのよ、と店員が言ってくれた。保見が迷っている脇から、一つのとんぼ玉を指差して、常葉が言った。
「これ、大きいね。いくら?」
 枇杷の実ほどの大きさの、紐が通った青色のとんぼ玉を指差して、常葉は店員に尋ねた。
「あぁ……そちらは……」
 店員が常葉にそっと耳打ちすると、
「ふぅん……。保見。これ、どうだ?」
 そう言った。
「いいの?」
 そう言う保見に、常葉は笑顔で頷くと、店員にお金を払い、保見の首にそのとんぼ玉をそっとかけてやった。
「ありがとう! ……本当にいいの?」
 いいんだよ、と言うと、常葉は店員に礼を言い、保見の手をとって店を出た。保見は繋いでいない方の手で、とんぼ玉をいじりながら、何度も「きれい」と呟いた。夕日に透かしてみると、内側に満点の星空と稲妻とが混在しているかのように、銀色の点と線がチカチカして輝いた。常葉は、何度も何度もとんぼ玉を覗き込んでは嬉しそうに飛び跳ねる保見を眺めながら、保見のことを愛しいと思うのと同時に、申し訳なく思っていた。後もうしばらくすれば、保見は常葉のことを忘れてしまうのだ。今までの思い出を全て、もちろん今日あったことも、全て忘れてしまうのだ。

 宿の離れに戻ると、柳が何やら巻物を広げていたが、戻ったか、と言うと、さっと巻物を閉まって、女中に夕食の用意を言いつけた。
「楽しめたか?」
 柳の問いに、あぁ、と常葉は返事した。

 夕食を食べ終わると、常葉はおもむろに立ち上がった。ごそごそと荷物をまとめ始めたので、保見は尋ねた。
「先生? 今夜ここをでるの?」
「ん? いや……少し整理しておこうと思ってね」
「ふうん……」
 常葉は支度を済ませ、今までの楽な浴衣から、旅の装いに着替えた。首には埃っぽい布を巻きつけ、顔を隠すかのように笠を深く被った。これはおかしいと保見が思った時には、常葉は大きな木箱を背負っていた。
「先生? 出掛けるの? 私も──……」
 そう言いかけた保見の頭に、常葉は手にしていた錫丈の先端を突きつけた。ぴたっと保見の動きが止まり、目がうつろになる。
「汝の記憶、奥深くへと……常葉という男の記憶を一切封じる」
 常葉は瞬きもせず、真剣な表情で静かに唱える。
「汝の意識の奥深くへと……沈め……沈め……沈め……再び日の目を見ぬよう……記憶の底まで……」
 唱えながら、常葉の瞳から一筋の温かい涙がすうっと頬に線をひいた。
記封きふう、十段式!」
 保見は虚ろな目をしたまま畳に倒れた。常葉はそのまま、柳に一言「頼む」と告げると、素早く部屋を後にした。

 常葉が出て行った部屋で、柳は倒れた保見を抱き起こすと、
「あいつ……記憶封じの最高方式、十段を使うなんてな……」
 そう呟きながら、気を失った保見を布団に寝かせてやった。

 常葉は飛ぶように町を抜け、真っ暗な道を走った。なるべく遠くへ……常葉はひたすらに走った。
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