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5 退治屋の柳
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常葉と保見は昼過ぎに遊里を出たが、黒葺山を下りきる頃にはもう夕暮れになってしまった。下ってくる途中、昨晩寝ずに箕狐と遊び尽くしたせいであろう、保見が歩きながらうとうとし始めて今にも倒れそうだったので、常葉は背中の荷物を腹に抱え、保見を背負ってやると、すぐに寝入ってしまった。今晩は山の麓の民宿に泊めてもらうことにした。
常葉は民宿に着き、保見をそっと降ろしてやると、女将さんがでてきて、まあまあ、と言いながら布団を敷いてくれた。度々利用してきた宿なので、ここの女将さんと常葉は顔なじみである。
「こんな小さな子、一体どうしたのよ? まさか、あんたのお子さん!?」
いやいや、と常葉は答える。
「知り合いの子を預かってるんです。どうも遊び疲れちゃったみたいで」
あらそうなの~、と女将さんはいつものごとくその後もぺらぺらといろんな事をしゃべり出した。ころころと話題を変えながら、楽しそうに話す女将さんの声に、常葉はにこにこと耳を傾けた。野良猫が毎晩軒先で待っているからついつい晩御飯の残りをあげてしまうだの、近所の悪ガキが苦手な虫を手にして見せに来るので困るだの、昨年漬けた梅干しの出来が良かったから持っていけだの、次から次へと話題は尽きない。
「そうそう! そうよ……!」
同じような女将さんの雑談かと思いきや、次の話題はそうではなかった。
「昨日よ! ちょうどあんたを訪ねてきた人がいたのよ~」
女将さんは常葉が口を挟む隙も与えずじゃべり続ける。
「ここに常葉っていう、変わった風貌の男が良く来るはずだっていうんで、すぐあんただって分かっちゃった! もう、今日来れば会えたのにねえ……その人帰っちゃったわよ。ちょっと待って……」
そう言うと、女将さんは部屋の奥から手紙を一通持ってきて、はい! と常葉に差し出した。
「あんたが来たら、渡してくれって言われたのよ。まさかこんなにすぐに会えるなんてねぇ……。あら嫌だ、お茶まだだったわね、お茶。今出すから!」
ばたばたと女将さんは台所へ引っ込んでいった。「お構いなくー」と常葉が言ったのが聞こえたのか聞こえなかったのかは定かではない。
一体誰からの手紙だろう。ましてや、オレがよくここを利用することをなぜ知っているんだ? ぺらっと手紙を開いてざっと目を通してみると、最後の行に良く知った名が書かれていた。噂をすればなんとやらだ。常葉は文面を読み始めた。
「はい! お茶どーぞ」
最初の一文に目を通したところで、女将さんが湯のみを差し出してくれた。ちゃぶ台をはさんだ向かい側に女将さんが腰をおろすと、先ほどの続きが再開され、ひたすらに話し始めた。常葉はさりげなく手紙を閉まって、女将さんの話に耳を傾けた。
食事と風呂が終わっても保見は目を覚まさなかったので、これはもう朝まで寝ていると常葉は確信した。常葉も寝たいのだが……どうも箕狐が言っていた「口の話」が気になる。自分の知らないうちに、自分の体がなにかしでかすのではないか、という不安が眠りを妨げる。それにしても、どうしてこんなことになってしまったのか……そんなことを考えていると、今まですっかり忘れていた女将さんから受け取った手紙を思い出した。
布団から這い出し、机の上に置いた手紙へ手を伸ばす。窓を開けた。今夜は良く晴れていて月の光で字が読める。寝巻き姿には夜風が冷たく感じられた。鈴虫の音がすぐそこに聞こえる。
読み終わって、長い時間をかけて大きな溜息を一つ吐き出した。どうしたものか……そのまま考えているのも寒くなってきたので、窓を閉め、ぶるぶる震えながら布団へと再び潜ってみる。しかし頭は冴え、様々な考えを巡らしてしまう。その大半はどうしても悪い方へ悪い方へと進んでいく。何度も寝返りをしながら無理やり目をつぶってみるが、寝られない。死が、近いのかもしれない。それだけでも思い悩むのに、自らに託された使命の重みがさらに不安にさせる。もし、しくじったら……どれだけ多くの命を失うだろうか。怖いと思った。そして、保見のこと。この少女をどうするか。放ってはおけない。自分にそっくりなのだ。どうしよう……どうすればいい……そんなことを堂々巡りしているうちに、起きているとも寝ているともいえない狭間で、自分の記憶を思い返しているだけなのか、夢みているのか、とにかく常葉は自らの過去を思い描いていた。
物心ついた頃、常葉は始めて自分が他と違うのだと気づいた。それまでは、妖怪が見えて、妖怪達がしゃべったり、争っていたり、ただふらついている風景が当たり前に皆に見えているのだと思っていた。だからよく「今日はこんなの見たよ」と親にその日見た面白い妖怪の事を熱心に話していた。その妖怪を絵に描いたり、軒先から妖怪をにこにこしながら眺めていたこともあった。あの日までは、母さんも父さんも、「そうなの?」「そうだったんだー」と自分の話を聞いてくれて、理解してくれていると、勝手に思い込んでいた。だから、あの日はすごく驚いたし、悲しかった。
──狐につかれている。祓わねば、一家に祟りがもたらされる──
あの日から、毎日のように霊媒師や祈祷師、陰陽師や霊能力者を名乗る輩が家にやってきては、冷たい水をかけられたり、熱い蝋燭を押し付けられたり、棒でたたかれたり、辛い日々が続いた。どうしてこんなことするの? その言葉に、両親は振り向いてくれなかった。ついに我慢できなくなって、怒った拍子にオレは霊力を飛ばす方法を見つけてしまった。その時、オレを逆さ吊りにしてまじないをしていた霊媒師を傷つけてしまった。高まった感情にともなって起こってしまった現象だった。何が起きたのかも自分では分からなかった。ただ、そのときの自分は、怖くて、苦しくて、辛かったから止めて欲しかっただけだった。
その晩、ぱちぱちと聞きなれない音がして目が覚めた。そして驚いた。辺り一面火に包まれていたのだ。煙にむせながら、オレは別の部屋で寝ているはずの両親を探した。前が良く見えないながらもやっとたどり着いたその部屋には、誰もいなかった。声を張り上げてお母さん! お父さん! と叫んだが、返事はなかった。だいぶ火が迫り、熱くなってきて、ふと思った。自分は、死ぬんじゃないか。そうしたら急に恐ろしくなって、死にたくないと思った。ただ、怖かった。
朝が来て、燃えるものが全て燃えてしまって灰になった木材の中、オレは立っていた。火の中で、ひたすら生きたいと念じていた。傷一つなく、服もそのままだった。火事の騒ぎを聞きつけて集まった人だかりの中に、両親を見つけた。無事だったんだ、良かったと安心した。お母さん! お父さん! そう呼びかけて、駆け寄ろうとした瞬間、お母さんは言った。
──寄るな! 化け物!──
はっと常葉は目を開けた。すごい汗をかいていた。布団から上体を起こし、呼吸を整えようと深呼吸した。心臓がバクバクと体を内側から叩いている。
「……お前は人間だよ。人間だよ。皆同じ人間だよ。それは一番お前が良く知っているね。だから、憎んじゃだめだよ。許しておやり。同じなんだから。人間なんだから」
常葉は小さな声で、呪文のようにそう唱えると、やっと落ち着いた。
「有難うございます……師匠……」
ぽつりと呟く。
「夜が明けたら、あいつに会ってきます。……師匠はオレを選んだこと、後悔していませんか?」
虫の音が流れていく、静かな夜だ。保見の寝息がすぅすぅと聞こえてくる。
常葉は月に向かって語りかけた。
「見ていてください」
地平線へ大きな月が沈む。常葉はそれを一人、見送った。
「保見、起きるんだ!」
常葉は布団で寝ている保見の体をゆすった。外はすっかり明るくなり、朝になっていた。寝ぼけ眼をこすって、保見はむっくりと起き上がる。
「外の井戸で顔洗って来い。目が覚めるぞ。ほら、手ぬぐいだ」
うん……と小さく答えて常葉から紺色の手ぬぐいを受け取ると、保見は下駄を履いて外に出た。朝の風はひんやりと保見の頬と素足を撫でていく。ぶるっと身震いした。台所の方では、既に起き出した女将さんが朝食の用意をしている音が賑やかに聞こえてくる。その音から遠ざかり、井戸端まで来ると、井戸の底へ釣瓶を投げて滑車を回す。見様見まねだった。井戸から水を汲むなんて、保見にとっては初めてだった。一部屋にずっと隔離されて育った保見は、何をするにも鐘を鳴らせば奉公人が飛んできて要望に応えてくれていた。もちろん水は桶に入った状態でやってくるし、飲み物は湯飲みの中に既にある状態で急須と一緒に運ばれてきた。そんな訳で、保見はきゅるきゅると滑車を回し桶を引き上げるものの、上手く水がすくえない。二三度同じように繰返すと桶に少しだけ水がすくえた。顔を洗うにはそれで十分だった。
「ほみー」
常葉が呼ぶ声がした。
「朝飯だぞ。戻って来い」
「うん」
保見は肩にかけていた手ぬぐいで顔を拭くと、ぱたぱたと家の中へ駈けていった。
「お櫃はここに。たくさん炊いといたから、御代わりしてね」
先ほどの部屋にちゃぶ台が出され、魚や漬物が並んでいた。女将さんはすれ違いざまに保見にうふふ、と笑いかけて部屋を出て行った。保見は無言で座ると、箸をもって玄米を食べようとした。
「ちょっと待て、保見。いただきますはどうした?」
保見は箸を持ったまま、きょとんと常葉を見つめた。
「……そうか、知らないのか。……いいか、食べ物を頂く前はな……」
常葉は両手を合わせて保見に見せた。
「いのちを頂くんだ。その命と、自然の恵みに感謝して、心を込めて言うんだ。こうして……」
保見にも同じようにするよう目配せする。保見も真似をして両手を合わせた。
「いただきます」
保見も小さく、いただきます、と言った。
「そうだ、保見。この魚だって、生きてたんだぞ。オレ達の為に、こうしてその命を与えてくれたんだ。こっちの大根だって、土の中で根を張って、生きてたんだ。こうしてオレ達は、あらゆるものに生かされているんだ。……感謝しなければならない」
「……人間の為に、死んだの? ……可哀想。人間なんかの為に……。人間なんてろくでもないのに……」
「ほみ……」
常葉はじっと焼き魚を見つめている保見を、どうしようもない気持ちで見つめた。
「いつか……」
常葉は続ける。
「いつか、お前も、人間を好きになれるといいな。…………さあ、食べよう」
二人は箸を動かし始めた。
「保見。あのなぁ……」
常葉は食事の合間、保見に話しかけた。
「お前を、普通の村で、普通に生活できるようにしてやりたいんだ。お前の力は封じてあるし、もう日常で無意識に人を傷つけたりすることもない。……きっとやっていけるはずだ」
保見は箸を止めると、じっと常葉を見つめた。
「でも……」
保見は首を横に振った。
「無理だよ……。普通になんて……。だって、私……まだ……」
「今すぐにという訳じゃないんだ。心の準備ができたら……。だから、考えてみてくれ。その……人間と一緒に暮らすってことをさ」
「どうして? どうして、そんなに私のこと、気にしてくれるの? 他人なのに……」
常葉は沢庵をつまみながら、
「寂しいこと言うなよ。他人なんて……」
そう言って苦笑いすると、しゃりしゃりと沢庵を食べた。飲み込むと、言った。
「広い世界で、偶然オレ達は出会ったんだ。同じ時代に生まれて、同じ時を生きて、同じ地で、偶然巡りあった。世の中知らない奴らばかりさ。その中でオレ達は、名前も顔も知ってる。知り合いさ。それに保見は特別なんだ」
首を傾げる保見に、常葉は優しく言った。
「似てるんだよ。オレの小さい頃に。オレも色々ひどい目にあったもんだ。……実の親に焼き殺されそうになったんだから……」
えっ、と保見は驚いた顔をした。
「少しは分かってるつもりだよ……お前の気持ち。だから、もう少し信用してほしいな」
朝食が終わると、常葉は荷物をまとめだした。その最中、
「ねぇ……。……なんて呼べばいい?」
保見が常葉にそう言うので、始めは何のことか分からなかったが、少し考えてあぁ、と感づくと、
「オレの呼び名のことか?」
保見はうん、と頷く。常葉は嬉しそうに笑った。その顔がとっても嬉しそうで、保見は今までにこんな笑顔を見た事がないと思った。眩しかった。
「そうだなぁ……呼び捨てでもいいけど……ちょっとなぁ。様とか、さん付けも、他人行儀だしな……」
常葉は荷造りの手をとめて真剣に悩み始めた。保見はずっと、言おうか言うまいか迷っていた。少しためらいの心があったが、思い切って言ってみることにした。
「せんせい!」
「ん? なんだ? ……あ!」
二人はくすくすっと笑いあった。
「決まりだな! 保見!」
「うん! 先生!」
二人は民宿を後にした。
保見の歩幅に合わせながら、二人は見渡す限り広がった水田の間を歩いていく。
「保見。これから人に会う。古い知人だ。まぁ……友達……かな」
「先生は、沢山友達がいるんだね」
「そうでもないさ……今回は、いろいろと用事があってね」
「私、みこちゃんと友達になったんだよ」
へえっ、良かったな、と常葉が言うと、保見は、うん! と元気良く笑った。
「沢山遊んだんだよ。独楽回ししたり、折り紙、お手玉、けん玉……そしてね、髪も切ってもらったの!」
うんうん、と常葉は嬉しそうに耳を傾けながら歩く。
「また、会いたいなぁ……。先生、また行こうよ!」
その言葉に、常葉はどきっとした。そんな常葉を見て、先生? と保見は問い詰める。
「先生、また行こうよ! ねぇ、だめなの?」
常葉は立ち止まると、しゃがみこんで保見と目線を合わせた。
「いいかい? よく聞くんだ。もし、保見が人間と一緒に普通に暮らしていくことを望むなら……もう箕狐みたいな妖怪と会わない方がいい。そういう、言ってみれば、普通じゃない者達との関係は切るべきだ。そうしないと、面倒なことになりかねない。見えてる妖怪も、見えないふりをするんだ。普通の人間として生きたいなら、普通の人間みたいにしてなくちゃいけない……」
「そんな……。やだ! 私、みこちゃんに会えなくなるの、やだ! だって、友達なんだよ?」
「……ごめんな。オレが悪かった。保見をあそこへ連れて行ったのは間違いだった。でも……、そうした方がいい。友達は……きっとまたできる」
保見は半分泣きながら言った。
「だって! みこちゃんは、たった一人なんだよ? 私は、みこちゃんと友達なんだよ? ……初めてできた友達なのに……もう会えないなんて……だって……」
「ごめん! 保見。泣くな。会える、会えるよ! 会えるけど、人間と一緒に暮らすようになったら、会えなくなるってことだ。人間と暮らすことを決めたら、最後に会いに行けばいい」
常葉は保見を撫でてやりながらあやそうとしたが、保見は納得いかないようにわめき続ける。
「いやだ! それもやだ! ずっと会いたい! なんで、なんでだめなの? どうして?」
常葉は上手く説明できなかった。とにかく、保見に泣き止んでもらおうと必死になる。
「分かった! 会える! 会いにいこう、今度な!」
「……絶対?」
「……うん。絶対」
常葉は少し心が痛かった。嘘をつくのは嫌いだ。心の中でごめんな、と思いながら保見の頭を優しく撫でた。大人はよく自分の都合のいいように子供に嘘をついてしまう。そのたびに、子供はひどく傷ついて、だけどどうすることもできなくて、ふて腐れるしかないのだ……。
保見は何とか落ち着いて、再び二人は歩き始めた。しばらくはお互い黙って歩いた。もうだいぶ太陽が高い。この先も見渡す限り田んぼ道が続くようだった。ぐぅ~、と保見の腹がなった。それはしっかり常葉にも聞こえた。保見は少し恥ずかしそうに俯いた。
「腹減ったな、ここで昼飯にしよう! 女将さんに弁当作ってもらったんだ」
二人は田んぼを眺めながら、乾いた土の上に腰をおろした。常葉はしょっていた木箱を下ろし、中から笹の葉でくるまれた包みを二つ取り出した。小さな方の包みをはい、と保見に差し出す。
「飲みのもが……これだ」
腰から竹筒を外すと、それも保見に渡した。
「飲み物はそいつ一つしかないんだ。しばらくは同じ竹筒で我慢してくれ。今度保見の分、買おうな」
そう言うと、常葉は両手を合わせた。ちらりと保見に目配せして、二人で声をそろえて、
「いただきます」
そう言ってから笹の包みを開いた。中には、真っ白な握り飯が二つに大きな梅干し一つ、そして鮮やかな黄色の沢庵漬三切れが一列に並んでいた。握り飯を手に取りながら、常葉は話しかけた。
「今まで歩きっぱなしだったけど、大丈夫か?」
「少し……疲れた。足が痛い」
常葉は握り飯をぱくぱくっと口の中に放り込むと、もぐもぐしながら保見の足を見てみた。保見の足は、鼻緒ずれを起こし、皮がむけて赤く傷ができていた。
「大変だ! 痛いだろう? 可哀想に……ごめんな。もっと早く気づいてやれれば……」
そう言うと、食べかけの弁当を脇へ置き、木箱から貝殻と手ぬぐいを取り出した。
「少し傷むだろうけど、我慢な」
そう言うと、薬指で貝殻の内側の軟膏をすくって、保見の傷口に塗ってやった。それから手ぬぐいをびりびりと細く裂いて、包帯のようにして足に巻きつけてきゅっと結んだ。
「これで良し。……まだ歩くからおぶってやろうか?」
「あとどれくらい歩くの?」
「そうだな……日暮れまでには町に出るかな……。それまでは歩きっぱなしだな」
保見は口の中の飯をごくんと飲み混むと不安そうな顔をしたが、
「もうちょっと自分で歩いてみる」
そう言うと、また握り飯にかぶりついた。
「疲れたらおぶってやるから、すぐ言うんだぞ」
常葉のその言葉に、すこし気が楽になって、保見はうん、と笑った。
のどかな田園風景。水を張った田んぼは、大きな鏡のように青空を映す。さわっと風が起これば、波が立って大空を揺らす。きれいだった。畦道に、牛が見える。車を引いて作物を運んでいるようだ。それを見つけると、常葉はしめた、と残りの弁当を一気に飲み込んでから立ちあがった。保見に、ちょっと待ってろ、というと、車目指して駈けて行った。牛の後ろに乗っていた人と何やら会話すると、駈けながら戻って来る。
「おーい! ほみー! 町まで乗せてくれるってよー!」
保見は、荷車の一番後ろに腰掛けて、足をぶらぶらさせながら運ばれていく。常葉は保見を脇に見ながら、荷車を後ろから押して進む。規則的な振動が、保見には心地よかった。周りの風景が、ゆっくりと遠ざかっていく。保見は楽しくなってきて、足を大きくぶらんぶらんさせて遊んでいると、左足の下駄がすぽんっと抜けて飛んでいってしまった。あっと叫んで保見が取りに行こうとすると、常葉がさっと拾ってきてくれた。また飛んでいかないように、下駄は脱いで脇に置き、はだしになって足をぶらんぶらんさせた。常葉に巻いて貰った手ぬぐいも、なんだか嬉しくて、ぶらんぶらんは止まらなかった。
夕暮れ時、町に着いた。大きな町だった。様々な店が立ち並び、人通りも多い。黒葺山の麓の村よりもはるかに栄えていた。二人で荷車の主に礼を言い、荷車を見送ると、常葉は懐から手紙を取り出して広げた。手紙の主はこの町に宿をとっているらしい。通りをうろうろしながら、常葉はその宿を探した。
「あった。この宿だ」
そこは、立派な門構えの、見るからに高級そうな宿だった。門前には松明が設置されており、暗くなっていく町の中で一際明るく感じられた。看板には「竹籠庵」とある。
「あいつ……こんな高そうな宿とってるのかよ……。まいったね……」
そう呟くと、行こう、と保見に声をかけ、宿の門をくぐっていった。
「いらっしゃいませ。お客様、大変申し訳ありませんが、ただいま満室でございまして……」
玄関に一歩踏み込むと、店の女将が出てきていかにも申し訳なさそうにそう言った。ちゃきちゃきした、気の強そうな女性だった。
「あの、ここに泊まってるはずの知人を訪ねて来たのですが……」
そう言うとピンときたのだろう、女将は、あ! というような顔をして、
「もしや、常葉様でいらっしゃいますか?」
そう言うので、
「そうです」
と答えると、お待ちしておりました、さあさこちらへ、と奥へと促された。履き物を脱いで上がると、奥から荷物持ちが出てきて、常葉の大きな木箱を運んでくれた。
「こちらの離れでございます。どうぞ、この下駄をお使いになってください」
そう言われるまま、出された下駄をつっかけて、女将の後に続く。後からついて来る荷物持ちが辛そうにしているので、常葉は、
「重いでしょうから自分で持ちますよ」
と言うと、荷物持ちは、とんでもございません、といって荷物を離そうとしなかったので、そのまま運んでもらった。
「失礼いたします。柳様。常葉様がいらっしゃいました」
女将が部屋の戸へ向かってそういうと
「どうぞ」
という声が中からした。女将は戸を開けると傍へよけて、常葉と保見を先へと促した。二人が部屋に上がると、黒髪を腰まで伸ばした男が浴衣姿で座椅子にもたれてこちらを見ていた。
「ときわ……」
「りゅう……」
再び常葉が口を開こうとすると、息切れしながら先ほどの荷物運びが、
「お客様、こちらの荷物はどちらへ?」
と必死に聞いてきたので、その辺で構わないよ、と言うとどさっと木箱を畳の上へ置いて、急いで部屋を出て行った。常葉は再び浴衣の男に向き合うが、急に静かになったので、気まずくなって、黙り込んでしまった。
「常葉。久しぶりだね。元気だった?……まぁ、座りなよ」
浴衣の男は、やれやれ、といった様子でそう口火を切ると、愛想笑いした。
常葉と保見は、浴衣の男に向かい合うように、机の反対側に横並びに座った。保見は、どこか冷たそうなこの男に少し怯えていた。机の下で、常葉の袖をぎゅっと握る。
「僕は、柳って言うんだ。常葉の古い友人なんだよ。よろしくね」
鋭く切れ長の目で保見をしっかりと見つめながら、男はそう言った。
「君、お名前は?」
その言葉に、どきっとしながら、震える声で保見は言葉を発した。
「私、保見って言います。……はじめまして……」
そう、と柳は笑って応えると、一瞬で真顔に戻り、きっと常葉を睨んだ。
「常葉。何かしゃべれよ」
その言い方がひどく冷たかったので、保見はびくっとした。
「……大体予想はつくが……。柳、オレは妖怪じゃないぜ。噂を聞きつけて、それを確かめに来たんだろう。オレが妖怪なら殺そうと待っていた……そうだろ? 殺気が半端ない」
「…………」
「頼むから殺さないでくれよ?」
じっと常葉を睨んでいた目を一瞬、保見に向ける。
「この子は、婿探しの少女だろ? 妖怪たちの間で噂になっていた……」
「そうだ」
「…………」
再び沈黙が流れた。常葉と柳はしばらくにらみ合うと、突然柳が懐から短刀を取り出し、素早く抜いて常葉の喉元に突きつけた。それは一瞬の出来事だった。保見は何が起きたのか理解できずに、突然素早い動きをした柳に驚いて、きゃあ! と叫び声をあげた。
「常葉……。言い残すことはあるか?」
柳の目がぎらりと光った。突き付けられた刃のゾクリとするような冷たさを首筋に感じながら、常葉はゆっくりと口を開く。
「……いい宿に泊まりすぎだ。しかも離れだし。宿代はお前持ちだろうな?」
それだけ言うと常葉は真面目な顔をして黙り込んだ。ごくりと唾を一飲みする。
「ふふっ……ははははは!」
柳は突きつけた短剣をひっこめて、大笑いしだした。
「悪かったな、常葉。お前は常葉だった。すまんすまん!」
「勘弁してくれ、柳……」
常葉は張り詰めていた全身の筋肉から力を抜くと、ぐったりとうなだれた。
「いや、噂で、人の皮を被って神羅が大暴れしたって言うもんでね……。お前が食われて、神羅がお前の皮を被ってるんじゃないかと思った。……常葉」
まだ何か疑っているな、と、常葉は身構える。
「上半身、見せてみろ」
保見は何が起きるのかと、そわそわした。常葉は、やれやれと手袋を外し、首に巻いた布も取り、帯を緩め、何重にも着込んだ着物から腕を抜き、上半身裸になって見せた。常葉の上半身には、刺青のような文字とも模様ともいえぬ黒い線が、首の付け根から腹、背、手の甲まで張り巡らされていた。保見はそんな常葉の姿を見るのは初めてだったので、驚きや不気味さを感じながら目を丸くして黙り込んでしまった。
柳は常葉の背に回ると、その模様の一部をそっと手でなぞった。肩甲骨から腰にかけてすうっと人差し指でなぞっていく。柳の指がとても冷たかったせいで、常葉はびくっと体を強張らせた。
「おいっ……ちょっと……。……柳…………あぁ! もういいだろ! 着るぞ!」
常葉は両腕を着物に通して、襟元を整えた。
「……確かに、まだ封印は健在のようだ」
はぁっと常葉は大きな溜息をついた。
「なんだ、常葉。顔が赤いぞ? さてはお前、感じ──」
「そんな訳ないだろ! 馬鹿野郎! 子供の前で何言ってるんだ!」
ふふふ、と柳は笑いながら、昔からお前はからかい甲斐がある、と言って、元の席に戻った。
「やっと安心した。常葉、無事で何よりだ」
そりゃどうも、と常葉は気のない返事をした。常葉は一瞬顔を綻ばせたかと思うと、すっと真顔に戻り、
「柳。それが、無事って訳でもないんだ。ちょうどお前に相談しようと思ってたんだが……」
ちらりと保見を見る。
「だいぶ聞いちまったな、保見。どうする? 詳しく聞きたいか? オレの事」
うん、と保見は頷いた。
「じゃあ、オレもしっかり話すから、保見も、知ってること話してくれるか? 協力してほしいんだ」
うん、と保見は頷く。常葉は、よし、と言って保見の頭を撫でてやると、言った。
「そうだな……。じゃあ、まずは、オレと柳の関係から話そうか」
常葉は机の上に肘を付き、両手を組んだ状態のまま、静かに話し始めた。
「オレは幼い頃から周りと違ってた。ちょっとした霊力があって、妖怪が見えたんだ。それで、よくオレの周りで不思議なことが起こった。オレが泣くと、部屋の中の家財が宙に浮いて震えだしたり、烏と友達みたいに寄り添って遊んでたり、崖から落ちてもなぜか無傷だったり……。他の人には見えないものが、見えるって騒いだり……。気味悪がられたよ。親を含め、すべての人たちがオレを変な目で見るんだ」
常葉が保見に語るのを、柳は静かに聴いている。常葉は続けた。
「それで、あの事件さ。実の両親が、オレを焼き殺そうと自分で家に火をつけた。ところが、オレは無傷で生きてた。母親は言ったよ。駆け寄ろうとしたオレに、寄るな化け物……ってね」
常葉は少し俯いて、噛みしめるように言う。
「その時やっと気づいた。あぁ、今まで母さんはオレのこと、化け物だと思ってたんだ……愛してなかったんだ……ってね。飛び出したよ。どこにも行き場なんてないのに……それ以上その場にじっとなんてしてられなかった。重すぎたよ……小さいオレには、その事実はね」
常葉はコホンと咳払いした。
「ここまでは、オレの過去。それで、オレは拾われるんだ。当てもなく歩きつかれて道端で倒れてたところを、師匠にね」
保見が、師匠? と尋ねる。常葉は、あぁ、と言って続けた。
「そう。師匠は、白ひげのお爺さんだったが、足腰はしっかりしてて、厳しくもあるが、とても……とても優しい方だった。師匠は、封じ師をしてた。しかも、ただの封じ師じゃなくて……とても重要な使命を負って旅をしてた。神羅っていう大妖怪を、体内に封印していたんだ。そして……柳は師匠の弟子としてそのときにはもう師匠とともにいたんだ」
「つまり、師匠と僕が旅をしている途中で、こいつを拾ったんだ」
柳は保見に優しく言った。さっきまでの冷たい感じとは違っていた。
「死んでるかと思ったよ。相当衰弱してたからね。感謝しろよ、僕も看病してやったんだから」
常葉は、あぁ、と柳に笑いかけると、再び保見に視線を戻した。
「封じられてる神羅は、代々後継者に引き継がれて、永久に封じ続けなければならないんだ。師匠の旅の目的は、その後継者探しだったんだよ……。それで……」
常葉は決まり悪そうに柳を見る。なんだよ、と柳が細い目をさらに細めて言った。
「正直に言えばいいだろ?」
うん……と常葉は言いよどんだ。
「つまり」
説明を続けたのは柳である。
「師匠は、先に見つけた僕を後継者にしようと思い、僕を弟子として連れていた。しかし、その後で常葉を助けてみると、常葉にも霊力があることが分かった。体は良くなっても、親に殺されかけて、生きる気力を失いつつあった常葉をなんとかしてやりたいと思った師匠は、僕と常葉の二人を後継者候補として競わせることにより、常葉に存在意義を与えた。常葉は喜んで修練したし、僕だって負けたくなかったから鍛錬した。そして……。師匠は、僕じゃなく、常葉を後継者に選んだんだ。…………なっ! ときわ!」
常葉は小さく頷いた。
「常葉がいなければ、僕が後継者になっていたのに……。まさか、お前が選ばれるなんてな。だから、僕は、常葉を目の敵にしてるんだよ……。こんな大役、お前にはもったいないからね。代々後継者は秘密裏に引き継がれるけど、失脚した百年後には妖怪史に名を刻まれる……天地を揺るがす神羅を封じているんだから、妖怪達にとっても、人間達にとっても、英雄として扱われるのさ……」
そう言い捨てると、柳はごろんと畳の上に寝転んでしまった。常葉は大きく溜息を一つつくと、呟いた。
「オレにはもったいないというか……オレでは務まらなかったのかもしれない……」
その言葉にぴくっと反応すると、柳が身を起こして言った。
「何言ってやがる! 音をあげるなんて許さないからな!」
違うんだ、と常葉。
「保見。ここまでの話は理解できたか?」
保見は大きく頷いた。
「じゃあ、オレのこと、分かっただろ?」
うん……、と少し複雑そうに返事をする。
「ここからは、保見の知ってることが必要なんだ」
「どういう事だよ……?」
そう言う柳を正面から見据えて常葉は言った。
「神羅が復活する日が……近いのかもしれない」
真剣な表情だった。柳は少し間をおいてから、まさか、と言って続けた。
「いくらなんでも早すぎる……。こんなに早く封印の力が弱まるなんて……ありえない」
「保見」
常葉は保見の両肩に手をおき、訴えた。
「話してくれ。オレと出会ったあの日、オレの意識がなくなった後、何が起きたのか。オレが深く眠っている間に、どんな不可解なことが起きてたのか……教えてくれ。頼む」
常葉と柳に穴があくほど見つめられて、保見の小さな唇は震えた。
「わ……わたし…………。わたし……」
ぶるっと身震いすると、黙り込んでしまった。
「保見……!」
常葉が必死な顔つきで保見の体を揺らした。保見は恐る恐る言った。
「あれは……先生じゃなかったんだ……。そうだよね……あれは……神羅……?」
はっとして、常葉の顔を見る。常葉は強く一度だけ頷いてみせた。保見も一度、しっかりと頷くと、乾いた口の中から、やっと言葉をつむぎだす。
「わたし……」
常葉は民宿に着き、保見をそっと降ろしてやると、女将さんがでてきて、まあまあ、と言いながら布団を敷いてくれた。度々利用してきた宿なので、ここの女将さんと常葉は顔なじみである。
「こんな小さな子、一体どうしたのよ? まさか、あんたのお子さん!?」
いやいや、と常葉は答える。
「知り合いの子を預かってるんです。どうも遊び疲れちゃったみたいで」
あらそうなの~、と女将さんはいつものごとくその後もぺらぺらといろんな事をしゃべり出した。ころころと話題を変えながら、楽しそうに話す女将さんの声に、常葉はにこにこと耳を傾けた。野良猫が毎晩軒先で待っているからついつい晩御飯の残りをあげてしまうだの、近所の悪ガキが苦手な虫を手にして見せに来るので困るだの、昨年漬けた梅干しの出来が良かったから持っていけだの、次から次へと話題は尽きない。
「そうそう! そうよ……!」
同じような女将さんの雑談かと思いきや、次の話題はそうではなかった。
「昨日よ! ちょうどあんたを訪ねてきた人がいたのよ~」
女将さんは常葉が口を挟む隙も与えずじゃべり続ける。
「ここに常葉っていう、変わった風貌の男が良く来るはずだっていうんで、すぐあんただって分かっちゃった! もう、今日来れば会えたのにねえ……その人帰っちゃったわよ。ちょっと待って……」
そう言うと、女将さんは部屋の奥から手紙を一通持ってきて、はい! と常葉に差し出した。
「あんたが来たら、渡してくれって言われたのよ。まさかこんなにすぐに会えるなんてねぇ……。あら嫌だ、お茶まだだったわね、お茶。今出すから!」
ばたばたと女将さんは台所へ引っ込んでいった。「お構いなくー」と常葉が言ったのが聞こえたのか聞こえなかったのかは定かではない。
一体誰からの手紙だろう。ましてや、オレがよくここを利用することをなぜ知っているんだ? ぺらっと手紙を開いてざっと目を通してみると、最後の行に良く知った名が書かれていた。噂をすればなんとやらだ。常葉は文面を読み始めた。
「はい! お茶どーぞ」
最初の一文に目を通したところで、女将さんが湯のみを差し出してくれた。ちゃぶ台をはさんだ向かい側に女将さんが腰をおろすと、先ほどの続きが再開され、ひたすらに話し始めた。常葉はさりげなく手紙を閉まって、女将さんの話に耳を傾けた。
食事と風呂が終わっても保見は目を覚まさなかったので、これはもう朝まで寝ていると常葉は確信した。常葉も寝たいのだが……どうも箕狐が言っていた「口の話」が気になる。自分の知らないうちに、自分の体がなにかしでかすのではないか、という不安が眠りを妨げる。それにしても、どうしてこんなことになってしまったのか……そんなことを考えていると、今まですっかり忘れていた女将さんから受け取った手紙を思い出した。
布団から這い出し、机の上に置いた手紙へ手を伸ばす。窓を開けた。今夜は良く晴れていて月の光で字が読める。寝巻き姿には夜風が冷たく感じられた。鈴虫の音がすぐそこに聞こえる。
読み終わって、長い時間をかけて大きな溜息を一つ吐き出した。どうしたものか……そのまま考えているのも寒くなってきたので、窓を閉め、ぶるぶる震えながら布団へと再び潜ってみる。しかし頭は冴え、様々な考えを巡らしてしまう。その大半はどうしても悪い方へ悪い方へと進んでいく。何度も寝返りをしながら無理やり目をつぶってみるが、寝られない。死が、近いのかもしれない。それだけでも思い悩むのに、自らに託された使命の重みがさらに不安にさせる。もし、しくじったら……どれだけ多くの命を失うだろうか。怖いと思った。そして、保見のこと。この少女をどうするか。放ってはおけない。自分にそっくりなのだ。どうしよう……どうすればいい……そんなことを堂々巡りしているうちに、起きているとも寝ているともいえない狭間で、自分の記憶を思い返しているだけなのか、夢みているのか、とにかく常葉は自らの過去を思い描いていた。
物心ついた頃、常葉は始めて自分が他と違うのだと気づいた。それまでは、妖怪が見えて、妖怪達がしゃべったり、争っていたり、ただふらついている風景が当たり前に皆に見えているのだと思っていた。だからよく「今日はこんなの見たよ」と親にその日見た面白い妖怪の事を熱心に話していた。その妖怪を絵に描いたり、軒先から妖怪をにこにこしながら眺めていたこともあった。あの日までは、母さんも父さんも、「そうなの?」「そうだったんだー」と自分の話を聞いてくれて、理解してくれていると、勝手に思い込んでいた。だから、あの日はすごく驚いたし、悲しかった。
──狐につかれている。祓わねば、一家に祟りがもたらされる──
あの日から、毎日のように霊媒師や祈祷師、陰陽師や霊能力者を名乗る輩が家にやってきては、冷たい水をかけられたり、熱い蝋燭を押し付けられたり、棒でたたかれたり、辛い日々が続いた。どうしてこんなことするの? その言葉に、両親は振り向いてくれなかった。ついに我慢できなくなって、怒った拍子にオレは霊力を飛ばす方法を見つけてしまった。その時、オレを逆さ吊りにしてまじないをしていた霊媒師を傷つけてしまった。高まった感情にともなって起こってしまった現象だった。何が起きたのかも自分では分からなかった。ただ、そのときの自分は、怖くて、苦しくて、辛かったから止めて欲しかっただけだった。
その晩、ぱちぱちと聞きなれない音がして目が覚めた。そして驚いた。辺り一面火に包まれていたのだ。煙にむせながら、オレは別の部屋で寝ているはずの両親を探した。前が良く見えないながらもやっとたどり着いたその部屋には、誰もいなかった。声を張り上げてお母さん! お父さん! と叫んだが、返事はなかった。だいぶ火が迫り、熱くなってきて、ふと思った。自分は、死ぬんじゃないか。そうしたら急に恐ろしくなって、死にたくないと思った。ただ、怖かった。
朝が来て、燃えるものが全て燃えてしまって灰になった木材の中、オレは立っていた。火の中で、ひたすら生きたいと念じていた。傷一つなく、服もそのままだった。火事の騒ぎを聞きつけて集まった人だかりの中に、両親を見つけた。無事だったんだ、良かったと安心した。お母さん! お父さん! そう呼びかけて、駆け寄ろうとした瞬間、お母さんは言った。
──寄るな! 化け物!──
はっと常葉は目を開けた。すごい汗をかいていた。布団から上体を起こし、呼吸を整えようと深呼吸した。心臓がバクバクと体を内側から叩いている。
「……お前は人間だよ。人間だよ。皆同じ人間だよ。それは一番お前が良く知っているね。だから、憎んじゃだめだよ。許しておやり。同じなんだから。人間なんだから」
常葉は小さな声で、呪文のようにそう唱えると、やっと落ち着いた。
「有難うございます……師匠……」
ぽつりと呟く。
「夜が明けたら、あいつに会ってきます。……師匠はオレを選んだこと、後悔していませんか?」
虫の音が流れていく、静かな夜だ。保見の寝息がすぅすぅと聞こえてくる。
常葉は月に向かって語りかけた。
「見ていてください」
地平線へ大きな月が沈む。常葉はそれを一人、見送った。
「保見、起きるんだ!」
常葉は布団で寝ている保見の体をゆすった。外はすっかり明るくなり、朝になっていた。寝ぼけ眼をこすって、保見はむっくりと起き上がる。
「外の井戸で顔洗って来い。目が覚めるぞ。ほら、手ぬぐいだ」
うん……と小さく答えて常葉から紺色の手ぬぐいを受け取ると、保見は下駄を履いて外に出た。朝の風はひんやりと保見の頬と素足を撫でていく。ぶるっと身震いした。台所の方では、既に起き出した女将さんが朝食の用意をしている音が賑やかに聞こえてくる。その音から遠ざかり、井戸端まで来ると、井戸の底へ釣瓶を投げて滑車を回す。見様見まねだった。井戸から水を汲むなんて、保見にとっては初めてだった。一部屋にずっと隔離されて育った保見は、何をするにも鐘を鳴らせば奉公人が飛んできて要望に応えてくれていた。もちろん水は桶に入った状態でやってくるし、飲み物は湯飲みの中に既にある状態で急須と一緒に運ばれてきた。そんな訳で、保見はきゅるきゅると滑車を回し桶を引き上げるものの、上手く水がすくえない。二三度同じように繰返すと桶に少しだけ水がすくえた。顔を洗うにはそれで十分だった。
「ほみー」
常葉が呼ぶ声がした。
「朝飯だぞ。戻って来い」
「うん」
保見は肩にかけていた手ぬぐいで顔を拭くと、ぱたぱたと家の中へ駈けていった。
「お櫃はここに。たくさん炊いといたから、御代わりしてね」
先ほどの部屋にちゃぶ台が出され、魚や漬物が並んでいた。女将さんはすれ違いざまに保見にうふふ、と笑いかけて部屋を出て行った。保見は無言で座ると、箸をもって玄米を食べようとした。
「ちょっと待て、保見。いただきますはどうした?」
保見は箸を持ったまま、きょとんと常葉を見つめた。
「……そうか、知らないのか。……いいか、食べ物を頂く前はな……」
常葉は両手を合わせて保見に見せた。
「いのちを頂くんだ。その命と、自然の恵みに感謝して、心を込めて言うんだ。こうして……」
保見にも同じようにするよう目配せする。保見も真似をして両手を合わせた。
「いただきます」
保見も小さく、いただきます、と言った。
「そうだ、保見。この魚だって、生きてたんだぞ。オレ達の為に、こうしてその命を与えてくれたんだ。こっちの大根だって、土の中で根を張って、生きてたんだ。こうしてオレ達は、あらゆるものに生かされているんだ。……感謝しなければならない」
「……人間の為に、死んだの? ……可哀想。人間なんかの為に……。人間なんてろくでもないのに……」
「ほみ……」
常葉はじっと焼き魚を見つめている保見を、どうしようもない気持ちで見つめた。
「いつか……」
常葉は続ける。
「いつか、お前も、人間を好きになれるといいな。…………さあ、食べよう」
二人は箸を動かし始めた。
「保見。あのなぁ……」
常葉は食事の合間、保見に話しかけた。
「お前を、普通の村で、普通に生活できるようにしてやりたいんだ。お前の力は封じてあるし、もう日常で無意識に人を傷つけたりすることもない。……きっとやっていけるはずだ」
保見は箸を止めると、じっと常葉を見つめた。
「でも……」
保見は首を横に振った。
「無理だよ……。普通になんて……。だって、私……まだ……」
「今すぐにという訳じゃないんだ。心の準備ができたら……。だから、考えてみてくれ。その……人間と一緒に暮らすってことをさ」
「どうして? どうして、そんなに私のこと、気にしてくれるの? 他人なのに……」
常葉は沢庵をつまみながら、
「寂しいこと言うなよ。他人なんて……」
そう言って苦笑いすると、しゃりしゃりと沢庵を食べた。飲み込むと、言った。
「広い世界で、偶然オレ達は出会ったんだ。同じ時代に生まれて、同じ時を生きて、同じ地で、偶然巡りあった。世の中知らない奴らばかりさ。その中でオレ達は、名前も顔も知ってる。知り合いさ。それに保見は特別なんだ」
首を傾げる保見に、常葉は優しく言った。
「似てるんだよ。オレの小さい頃に。オレも色々ひどい目にあったもんだ。……実の親に焼き殺されそうになったんだから……」
えっ、と保見は驚いた顔をした。
「少しは分かってるつもりだよ……お前の気持ち。だから、もう少し信用してほしいな」
朝食が終わると、常葉は荷物をまとめだした。その最中、
「ねぇ……。……なんて呼べばいい?」
保見が常葉にそう言うので、始めは何のことか分からなかったが、少し考えてあぁ、と感づくと、
「オレの呼び名のことか?」
保見はうん、と頷く。常葉は嬉しそうに笑った。その顔がとっても嬉しそうで、保見は今までにこんな笑顔を見た事がないと思った。眩しかった。
「そうだなぁ……呼び捨てでもいいけど……ちょっとなぁ。様とか、さん付けも、他人行儀だしな……」
常葉は荷造りの手をとめて真剣に悩み始めた。保見はずっと、言おうか言うまいか迷っていた。少しためらいの心があったが、思い切って言ってみることにした。
「せんせい!」
「ん? なんだ? ……あ!」
二人はくすくすっと笑いあった。
「決まりだな! 保見!」
「うん! 先生!」
二人は民宿を後にした。
保見の歩幅に合わせながら、二人は見渡す限り広がった水田の間を歩いていく。
「保見。これから人に会う。古い知人だ。まぁ……友達……かな」
「先生は、沢山友達がいるんだね」
「そうでもないさ……今回は、いろいろと用事があってね」
「私、みこちゃんと友達になったんだよ」
へえっ、良かったな、と常葉が言うと、保見は、うん! と元気良く笑った。
「沢山遊んだんだよ。独楽回ししたり、折り紙、お手玉、けん玉……そしてね、髪も切ってもらったの!」
うんうん、と常葉は嬉しそうに耳を傾けながら歩く。
「また、会いたいなぁ……。先生、また行こうよ!」
その言葉に、常葉はどきっとした。そんな常葉を見て、先生? と保見は問い詰める。
「先生、また行こうよ! ねぇ、だめなの?」
常葉は立ち止まると、しゃがみこんで保見と目線を合わせた。
「いいかい? よく聞くんだ。もし、保見が人間と一緒に普通に暮らしていくことを望むなら……もう箕狐みたいな妖怪と会わない方がいい。そういう、言ってみれば、普通じゃない者達との関係は切るべきだ。そうしないと、面倒なことになりかねない。見えてる妖怪も、見えないふりをするんだ。普通の人間として生きたいなら、普通の人間みたいにしてなくちゃいけない……」
「そんな……。やだ! 私、みこちゃんに会えなくなるの、やだ! だって、友達なんだよ?」
「……ごめんな。オレが悪かった。保見をあそこへ連れて行ったのは間違いだった。でも……、そうした方がいい。友達は……きっとまたできる」
保見は半分泣きながら言った。
「だって! みこちゃんは、たった一人なんだよ? 私は、みこちゃんと友達なんだよ? ……初めてできた友達なのに……もう会えないなんて……だって……」
「ごめん! 保見。泣くな。会える、会えるよ! 会えるけど、人間と一緒に暮らすようになったら、会えなくなるってことだ。人間と暮らすことを決めたら、最後に会いに行けばいい」
常葉は保見を撫でてやりながらあやそうとしたが、保見は納得いかないようにわめき続ける。
「いやだ! それもやだ! ずっと会いたい! なんで、なんでだめなの? どうして?」
常葉は上手く説明できなかった。とにかく、保見に泣き止んでもらおうと必死になる。
「分かった! 会える! 会いにいこう、今度な!」
「……絶対?」
「……うん。絶対」
常葉は少し心が痛かった。嘘をつくのは嫌いだ。心の中でごめんな、と思いながら保見の頭を優しく撫でた。大人はよく自分の都合のいいように子供に嘘をついてしまう。そのたびに、子供はひどく傷ついて、だけどどうすることもできなくて、ふて腐れるしかないのだ……。
保見は何とか落ち着いて、再び二人は歩き始めた。しばらくはお互い黙って歩いた。もうだいぶ太陽が高い。この先も見渡す限り田んぼ道が続くようだった。ぐぅ~、と保見の腹がなった。それはしっかり常葉にも聞こえた。保見は少し恥ずかしそうに俯いた。
「腹減ったな、ここで昼飯にしよう! 女将さんに弁当作ってもらったんだ」
二人は田んぼを眺めながら、乾いた土の上に腰をおろした。常葉はしょっていた木箱を下ろし、中から笹の葉でくるまれた包みを二つ取り出した。小さな方の包みをはい、と保見に差し出す。
「飲みのもが……これだ」
腰から竹筒を外すと、それも保見に渡した。
「飲み物はそいつ一つしかないんだ。しばらくは同じ竹筒で我慢してくれ。今度保見の分、買おうな」
そう言うと、常葉は両手を合わせた。ちらりと保見に目配せして、二人で声をそろえて、
「いただきます」
そう言ってから笹の包みを開いた。中には、真っ白な握り飯が二つに大きな梅干し一つ、そして鮮やかな黄色の沢庵漬三切れが一列に並んでいた。握り飯を手に取りながら、常葉は話しかけた。
「今まで歩きっぱなしだったけど、大丈夫か?」
「少し……疲れた。足が痛い」
常葉は握り飯をぱくぱくっと口の中に放り込むと、もぐもぐしながら保見の足を見てみた。保見の足は、鼻緒ずれを起こし、皮がむけて赤く傷ができていた。
「大変だ! 痛いだろう? 可哀想に……ごめんな。もっと早く気づいてやれれば……」
そう言うと、食べかけの弁当を脇へ置き、木箱から貝殻と手ぬぐいを取り出した。
「少し傷むだろうけど、我慢な」
そう言うと、薬指で貝殻の内側の軟膏をすくって、保見の傷口に塗ってやった。それから手ぬぐいをびりびりと細く裂いて、包帯のようにして足に巻きつけてきゅっと結んだ。
「これで良し。……まだ歩くからおぶってやろうか?」
「あとどれくらい歩くの?」
「そうだな……日暮れまでには町に出るかな……。それまでは歩きっぱなしだな」
保見は口の中の飯をごくんと飲み混むと不安そうな顔をしたが、
「もうちょっと自分で歩いてみる」
そう言うと、また握り飯にかぶりついた。
「疲れたらおぶってやるから、すぐ言うんだぞ」
常葉のその言葉に、すこし気が楽になって、保見はうん、と笑った。
のどかな田園風景。水を張った田んぼは、大きな鏡のように青空を映す。さわっと風が起これば、波が立って大空を揺らす。きれいだった。畦道に、牛が見える。車を引いて作物を運んでいるようだ。それを見つけると、常葉はしめた、と残りの弁当を一気に飲み込んでから立ちあがった。保見に、ちょっと待ってろ、というと、車目指して駈けて行った。牛の後ろに乗っていた人と何やら会話すると、駈けながら戻って来る。
「おーい! ほみー! 町まで乗せてくれるってよー!」
保見は、荷車の一番後ろに腰掛けて、足をぶらぶらさせながら運ばれていく。常葉は保見を脇に見ながら、荷車を後ろから押して進む。規則的な振動が、保見には心地よかった。周りの風景が、ゆっくりと遠ざかっていく。保見は楽しくなってきて、足を大きくぶらんぶらんさせて遊んでいると、左足の下駄がすぽんっと抜けて飛んでいってしまった。あっと叫んで保見が取りに行こうとすると、常葉がさっと拾ってきてくれた。また飛んでいかないように、下駄は脱いで脇に置き、はだしになって足をぶらんぶらんさせた。常葉に巻いて貰った手ぬぐいも、なんだか嬉しくて、ぶらんぶらんは止まらなかった。
夕暮れ時、町に着いた。大きな町だった。様々な店が立ち並び、人通りも多い。黒葺山の麓の村よりもはるかに栄えていた。二人で荷車の主に礼を言い、荷車を見送ると、常葉は懐から手紙を取り出して広げた。手紙の主はこの町に宿をとっているらしい。通りをうろうろしながら、常葉はその宿を探した。
「あった。この宿だ」
そこは、立派な門構えの、見るからに高級そうな宿だった。門前には松明が設置されており、暗くなっていく町の中で一際明るく感じられた。看板には「竹籠庵」とある。
「あいつ……こんな高そうな宿とってるのかよ……。まいったね……」
そう呟くと、行こう、と保見に声をかけ、宿の門をくぐっていった。
「いらっしゃいませ。お客様、大変申し訳ありませんが、ただいま満室でございまして……」
玄関に一歩踏み込むと、店の女将が出てきていかにも申し訳なさそうにそう言った。ちゃきちゃきした、気の強そうな女性だった。
「あの、ここに泊まってるはずの知人を訪ねて来たのですが……」
そう言うとピンときたのだろう、女将は、あ! というような顔をして、
「もしや、常葉様でいらっしゃいますか?」
そう言うので、
「そうです」
と答えると、お待ちしておりました、さあさこちらへ、と奥へと促された。履き物を脱いで上がると、奥から荷物持ちが出てきて、常葉の大きな木箱を運んでくれた。
「こちらの離れでございます。どうぞ、この下駄をお使いになってください」
そう言われるまま、出された下駄をつっかけて、女将の後に続く。後からついて来る荷物持ちが辛そうにしているので、常葉は、
「重いでしょうから自分で持ちますよ」
と言うと、荷物持ちは、とんでもございません、といって荷物を離そうとしなかったので、そのまま運んでもらった。
「失礼いたします。柳様。常葉様がいらっしゃいました」
女将が部屋の戸へ向かってそういうと
「どうぞ」
という声が中からした。女将は戸を開けると傍へよけて、常葉と保見を先へと促した。二人が部屋に上がると、黒髪を腰まで伸ばした男が浴衣姿で座椅子にもたれてこちらを見ていた。
「ときわ……」
「りゅう……」
再び常葉が口を開こうとすると、息切れしながら先ほどの荷物運びが、
「お客様、こちらの荷物はどちらへ?」
と必死に聞いてきたので、その辺で構わないよ、と言うとどさっと木箱を畳の上へ置いて、急いで部屋を出て行った。常葉は再び浴衣の男に向き合うが、急に静かになったので、気まずくなって、黙り込んでしまった。
「常葉。久しぶりだね。元気だった?……まぁ、座りなよ」
浴衣の男は、やれやれ、といった様子でそう口火を切ると、愛想笑いした。
常葉と保見は、浴衣の男に向かい合うように、机の反対側に横並びに座った。保見は、どこか冷たそうなこの男に少し怯えていた。机の下で、常葉の袖をぎゅっと握る。
「僕は、柳って言うんだ。常葉の古い友人なんだよ。よろしくね」
鋭く切れ長の目で保見をしっかりと見つめながら、男はそう言った。
「君、お名前は?」
その言葉に、どきっとしながら、震える声で保見は言葉を発した。
「私、保見って言います。……はじめまして……」
そう、と柳は笑って応えると、一瞬で真顔に戻り、きっと常葉を睨んだ。
「常葉。何かしゃべれよ」
その言い方がひどく冷たかったので、保見はびくっとした。
「……大体予想はつくが……。柳、オレは妖怪じゃないぜ。噂を聞きつけて、それを確かめに来たんだろう。オレが妖怪なら殺そうと待っていた……そうだろ? 殺気が半端ない」
「…………」
「頼むから殺さないでくれよ?」
じっと常葉を睨んでいた目を一瞬、保見に向ける。
「この子は、婿探しの少女だろ? 妖怪たちの間で噂になっていた……」
「そうだ」
「…………」
再び沈黙が流れた。常葉と柳はしばらくにらみ合うと、突然柳が懐から短刀を取り出し、素早く抜いて常葉の喉元に突きつけた。それは一瞬の出来事だった。保見は何が起きたのか理解できずに、突然素早い動きをした柳に驚いて、きゃあ! と叫び声をあげた。
「常葉……。言い残すことはあるか?」
柳の目がぎらりと光った。突き付けられた刃のゾクリとするような冷たさを首筋に感じながら、常葉はゆっくりと口を開く。
「……いい宿に泊まりすぎだ。しかも離れだし。宿代はお前持ちだろうな?」
それだけ言うと常葉は真面目な顔をして黙り込んだ。ごくりと唾を一飲みする。
「ふふっ……ははははは!」
柳は突きつけた短剣をひっこめて、大笑いしだした。
「悪かったな、常葉。お前は常葉だった。すまんすまん!」
「勘弁してくれ、柳……」
常葉は張り詰めていた全身の筋肉から力を抜くと、ぐったりとうなだれた。
「いや、噂で、人の皮を被って神羅が大暴れしたって言うもんでね……。お前が食われて、神羅がお前の皮を被ってるんじゃないかと思った。……常葉」
まだ何か疑っているな、と、常葉は身構える。
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保見は何が起きるのかと、そわそわした。常葉は、やれやれと手袋を外し、首に巻いた布も取り、帯を緩め、何重にも着込んだ着物から腕を抜き、上半身裸になって見せた。常葉の上半身には、刺青のような文字とも模様ともいえぬ黒い線が、首の付け根から腹、背、手の甲まで張り巡らされていた。保見はそんな常葉の姿を見るのは初めてだったので、驚きや不気味さを感じながら目を丸くして黙り込んでしまった。
柳は常葉の背に回ると、その模様の一部をそっと手でなぞった。肩甲骨から腰にかけてすうっと人差し指でなぞっていく。柳の指がとても冷たかったせいで、常葉はびくっと体を強張らせた。
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常葉は両腕を着物に通して、襟元を整えた。
「……確かに、まだ封印は健在のようだ」
はぁっと常葉は大きな溜息をついた。
「なんだ、常葉。顔が赤いぞ? さてはお前、感じ──」
「そんな訳ないだろ! 馬鹿野郎! 子供の前で何言ってるんだ!」
ふふふ、と柳は笑いながら、昔からお前はからかい甲斐がある、と言って、元の席に戻った。
「やっと安心した。常葉、無事で何よりだ」
そりゃどうも、と常葉は気のない返事をした。常葉は一瞬顔を綻ばせたかと思うと、すっと真顔に戻り、
「柳。それが、無事って訳でもないんだ。ちょうどお前に相談しようと思ってたんだが……」
ちらりと保見を見る。
「だいぶ聞いちまったな、保見。どうする? 詳しく聞きたいか? オレの事」
うん、と保見は頷いた。
「じゃあ、オレもしっかり話すから、保見も、知ってること話してくれるか? 協力してほしいんだ」
うん、と保見は頷く。常葉は、よし、と言って保見の頭を撫でてやると、言った。
「そうだな……。じゃあ、まずは、オレと柳の関係から話そうか」
常葉は机の上に肘を付き、両手を組んだ状態のまま、静かに話し始めた。
「オレは幼い頃から周りと違ってた。ちょっとした霊力があって、妖怪が見えたんだ。それで、よくオレの周りで不思議なことが起こった。オレが泣くと、部屋の中の家財が宙に浮いて震えだしたり、烏と友達みたいに寄り添って遊んでたり、崖から落ちてもなぜか無傷だったり……。他の人には見えないものが、見えるって騒いだり……。気味悪がられたよ。親を含め、すべての人たちがオレを変な目で見るんだ」
常葉が保見に語るのを、柳は静かに聴いている。常葉は続けた。
「それで、あの事件さ。実の両親が、オレを焼き殺そうと自分で家に火をつけた。ところが、オレは無傷で生きてた。母親は言ったよ。駆け寄ろうとしたオレに、寄るな化け物……ってね」
常葉は少し俯いて、噛みしめるように言う。
「その時やっと気づいた。あぁ、今まで母さんはオレのこと、化け物だと思ってたんだ……愛してなかったんだ……ってね。飛び出したよ。どこにも行き場なんてないのに……それ以上その場にじっとなんてしてられなかった。重すぎたよ……小さいオレには、その事実はね」
常葉はコホンと咳払いした。
「ここまでは、オレの過去。それで、オレは拾われるんだ。当てもなく歩きつかれて道端で倒れてたところを、師匠にね」
保見が、師匠? と尋ねる。常葉は、あぁ、と言って続けた。
「そう。師匠は、白ひげのお爺さんだったが、足腰はしっかりしてて、厳しくもあるが、とても……とても優しい方だった。師匠は、封じ師をしてた。しかも、ただの封じ師じゃなくて……とても重要な使命を負って旅をしてた。神羅っていう大妖怪を、体内に封印していたんだ。そして……柳は師匠の弟子としてそのときにはもう師匠とともにいたんだ」
「つまり、師匠と僕が旅をしている途中で、こいつを拾ったんだ」
柳は保見に優しく言った。さっきまでの冷たい感じとは違っていた。
「死んでるかと思ったよ。相当衰弱してたからね。感謝しろよ、僕も看病してやったんだから」
常葉は、あぁ、と柳に笑いかけると、再び保見に視線を戻した。
「封じられてる神羅は、代々後継者に引き継がれて、永久に封じ続けなければならないんだ。師匠の旅の目的は、その後継者探しだったんだよ……。それで……」
常葉は決まり悪そうに柳を見る。なんだよ、と柳が細い目をさらに細めて言った。
「正直に言えばいいだろ?」
うん……と常葉は言いよどんだ。
「つまり」
説明を続けたのは柳である。
「師匠は、先に見つけた僕を後継者にしようと思い、僕を弟子として連れていた。しかし、その後で常葉を助けてみると、常葉にも霊力があることが分かった。体は良くなっても、親に殺されかけて、生きる気力を失いつつあった常葉をなんとかしてやりたいと思った師匠は、僕と常葉の二人を後継者候補として競わせることにより、常葉に存在意義を与えた。常葉は喜んで修練したし、僕だって負けたくなかったから鍛錬した。そして……。師匠は、僕じゃなく、常葉を後継者に選んだんだ。…………なっ! ときわ!」
常葉は小さく頷いた。
「常葉がいなければ、僕が後継者になっていたのに……。まさか、お前が選ばれるなんてな。だから、僕は、常葉を目の敵にしてるんだよ……。こんな大役、お前にはもったいないからね。代々後継者は秘密裏に引き継がれるけど、失脚した百年後には妖怪史に名を刻まれる……天地を揺るがす神羅を封じているんだから、妖怪達にとっても、人間達にとっても、英雄として扱われるのさ……」
そう言い捨てると、柳はごろんと畳の上に寝転んでしまった。常葉は大きく溜息を一つつくと、呟いた。
「オレにはもったいないというか……オレでは務まらなかったのかもしれない……」
その言葉にぴくっと反応すると、柳が身を起こして言った。
「何言ってやがる! 音をあげるなんて許さないからな!」
違うんだ、と常葉。
「保見。ここまでの話は理解できたか?」
保見は大きく頷いた。
「じゃあ、オレのこと、分かっただろ?」
うん……、と少し複雑そうに返事をする。
「ここからは、保見の知ってることが必要なんだ」
「どういう事だよ……?」
そう言う柳を正面から見据えて常葉は言った。
「神羅が復活する日が……近いのかもしれない」
真剣な表情だった。柳は少し間をおいてから、まさか、と言って続けた。
「いくらなんでも早すぎる……。こんなに早く封印の力が弱まるなんて……ありえない」
「保見」
常葉は保見の両肩に手をおき、訴えた。
「話してくれ。オレと出会ったあの日、オレの意識がなくなった後、何が起きたのか。オレが深く眠っている間に、どんな不可解なことが起きてたのか……教えてくれ。頼む」
常葉と柳に穴があくほど見つめられて、保見の小さな唇は震えた。
「わ……わたし…………。わたし……」
ぶるっと身震いすると、黙り込んでしまった。
「保見……!」
常葉が必死な顔つきで保見の体を揺らした。保見は恐る恐る言った。
「あれは……先生じゃなかったんだ……。そうだよね……あれは……神羅……?」
はっとして、常葉の顔を見る。常葉は強く一度だけ頷いてみせた。保見も一度、しっかりと頷くと、乾いた口の中から、やっと言葉をつむぎだす。
「わたし……」
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