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4 黒葺山の白狐嬢
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翌朝は良く晴れた。常葉と保見は十分に休んだことで元気を取り戻し、目的地を目指して黙々と歩いていた。
黒葺山。木々が黒々と茂るこの山には遊女ならぬ遊妖たちが集まる色里がある。妖怪のみならず、色欲にまみれた人間達をも魅了し、生気を全て吸い取られて死ぬまで通いつめる常連も少なくない。遊妖達はそれを面白がり、たっぷりと生気を吸って腹を肥やすのである。なかでも、白狐嬢といえば最上級の大遊妖で、白狐嬢に会いたいが為に通いつめ、ついに会えぬまま命を落とす人間は数が知れないという。
常葉と保見は不思議な老人と別れてから五日かけて黒葺山の麓までやってきた。常葉の足であれば二日とかからない距離だったが、保見の体力に合わせて、常葉はゆっくりと歩んだ。
何十もの黒い鳥居がまっすぐ立ち並ぶ石階段を、二人は登っていく。両脇に吊るされた提灯が怪しく紅色に辺りを照らしていた。途中、太った人間の男がふらふらと階段を下って来て二人とすれ違った。暗くてよく顔が見えなかったが、保見はすれ違いざまひやっとした空気を感じた。思わず常葉の袂を掴む。
「大丈夫だ。離れないようについておいで」
常葉は保見にそう言うと、また階段を登り始めた。さっきよりもぴったりと保見は常葉にくっついて歩いた。
大鳥の襲来の件は、保見に尋ねてみても記憶に無いらしく、結局常葉が気を失ってから何があったのかわからないままだった。懐にしまっておいた烏文を読み返し、常葉は文の送り主に会いに行くことにしたのだ。この先の色里の筆頭、白狐嬢の元に。
階段を登りきると、大きな御殿が現れた。階段の雰囲気とは一変して、煌びやかに提灯や松明で飾り付けられており、深い山奥にあることを忘れてしまうほどの華やかさである。二人が近づくと、入り口で人間の女の姿をした妖怪が さあさ、さあさ、と謡いながら奥へと促した。赤い暖簾をくぐると、金色の壁に真紅の毛氈がひかれた玄関だった。銀色の器に奇抜な大花が生けられており、天井からは玉が散りばめられた見たこともない証明器具が下がっている。そこへ真っ赤な蝋燭を手にした美しい女が奥から現れた。白い頭巾を被っていたが、頭巾の形が普通の人間よりふっくらしている。頬には白い猫のひげのようなものが生えており、背にはふっさりとした尻尾がゆらゆらしていた。
「おいでやす。さあさ、お上がりゃんせ」
そう言うと、ぱっと二人の履物が自然に脱げて、下足入れまでぽうっと飛んでいった。保見はえらく驚いて、わあっと声を上げ、自分の下駄の行方を見送ったが、常葉は慣れているのか、平然として女の前まで出向いた。
「今宵は、お部屋のみのご利用で?」
首をしなっとくねらせて、保見、常葉の順に目配せすると女はそう言った。
「馬鹿言え。オレだ。常葉だよ」
顔を覆っていた布をさっと取りながらそう言うと、女はまあっと驚くそぶりをして、失礼しました、と言って続けた。
「いつもお一人でいらしゃいますもんで、分かりまへんでしたわぁ」
そう言ってくすっと笑う。
「その子、連れたまま姉さんにお会いするんどすか?」
「えっ? ……あぁ、そのつもりだけど」
女はもう一度くすっと笑うと、こちらどす、といいながら歩き始めた。さっきからずっと下駄を眺めていた保見に「行くぞ」と声をかけて呼び寄せると、二人は並んで女の後について行った。歩きながら女は、
「ご無沙汰かと思えば、女の子つれて来はるなんてぇ、常葉はんいけませんわぁ……」
「はぁ……」
「姉さん心配してらしたんよ?」
「うん……文を貰った。………………まずいか? 保見を連れていったら?」
女はうふっと口元の笑みを手で押さえて隠すと、そのあとはすっかり黙ってしまった。
その後、しばらく沈黙したまま歩き続け、長い迷路のようなくねくねした廊下をひたすら進み、階段を登ったり降りたりしながら進んでいく。御殿の内部は相当複雑な造りになっているようだ。
「知りませんよ」
牡丹と白い狐が描かれた豪勢な襖の前で女は立ち止まり、常葉に言った。
「姉さん、きっと怒りますわ。では……」
そう言うと、廊下の奥の暗がりへ溶け込むようにすうっと消えていった。
「縁起でもないことを……。保見、ちゃんと挨拶するんだぞ。これから白狐の妖怪さんに会うんだ。失礼の無いようにな」
「うん」
保見は常葉の袂をぎゅっと握った。
「白狐嬢! 常葉だ! ……入るぞ?」
牡丹の襖へそう呼びかけると、中からどうぞ、と落ち着いた声がした。常葉はそっと襖を開けた。その瞬間、鮮やかな景色が目前に現れた。部屋の天井から無数の艶やかな着物が飾りつけられたように吊るされており、色とりどりの原色の生地の合間に、金銀の飾り糸がきらきらと光を反射している。着物達の奥、金屏風の前で銀色の長髪の美女が煙管を吹かしていた。髪の間から、ふさふさした白狐の耳がぴょこっと生えている。切長の目尻に鮮やかな紅をさしているのもあり、長い白いまつ毛が際立って見える。
「久しぶりだな。白狐嬢」
「こんにちは……」
常葉と保見は部屋の中に入り、常葉が襖を閉めようとすると、
「待ちな!」
白狐嬢はそう言うと「箕狐! 箕狐!」と大声で叫んだ。先ほど案内をしてくれた、赤い蝋燭を持った女が閉めかけた襖の向こうに現れて「はい姉さん」と言った。
「その、おちびさんを連れていきな。……丁重にな」
箕狐はクスリと笑うと「はいな」と言って保見の手をとった。
「えっ! ……ちょっと……」
常葉が手を伸ばして保見を引きとめようとした時には既に保見と箕狐の姿は消えていた。
「どういうこ――」
振り向きざまに白狐嬢に言うが早いか、常葉は胸座をつかまれて持ち上げられた。常葉の両足が宙に浮く。
「こっちが聞きたいね、常葉。どういうつもりだぃ? ここは遊里だ。私は遊妖さ。そこに女を連れ込むなんて、私を馬鹿にしてるのかぃ? えぇ!」
「ふっ……相変わらずの馬鹿力だな」
その一言にかちんときたのか、白狐嬢は常葉を持ち上げたまま左側の襖へ乱暴に押しつけた。その際に部屋に吊るしてあった着物が引っかかって、常葉の体に巻きついた。
「お、おい! 怒るなよ。保見はまだ子供じゃないか!」
「女は女だ!」
怒りの治まらない白狐嬢はさらに強く常葉の体を押しつけた。その拍子にばこっと襖が外れて、常葉と白狐嬢は隣の部屋に重なるように倒れた。
ぼすっ……
常葉が倒れたのは、布団の上だった。二人分の布団がくっついて敷かれた部屋。白狐嬢は常葉の胸に顔をうずめたまま、小さく震えていた。泣いているのだ。常葉は強く握り締められた胸座の白狐嬢の手に、そっと自分の手を添えた。
「……悪かった。ごめんな」
白狐嬢はばっと顔を上げて常葉を見た。大粒の真珠のような涙がぽろぽろと溢れ、常葉の服へと落ちていく。
「あんたが……死んだんじゃないかって……。……人間は脆いから……」
「あぁ……心配かけて済まなかった……」
常葉は白狐嬢の頭を優しく撫でた。
「保見のことだけどよ……あいつ、オレの後継ぎにって思ってさ……」
「じゃあ! あんたもうじき――」
「だけど」
と常葉は白狐嬢の涙を優しく指で拭いながら続けた。
「あいつは、駄目なんだ。あいつ、普通の人間になりたいんだよ。こっちの世界に引っ張り込んじゃ駄目なんだ。あっちの世界へ、送り届けてやるつもりさ。オレの小さい頃に似てるんだよ。ほっとけないんだ」
「そう……」
と白狐嬢は答えた。
「……何も、しないよな? 保見は無事だよな?」
「大丈夫さ。……別なとこで菓子でも食べてるさ」
常葉が保見のことばかり気にするので、少しふてくされたように白狐嬢は口を尖らせた。そんな白狐嬢を見て、ふっと笑うと、
「姫」
そう言ってそっと白狐嬢の身体を抱き寄せた。常葉は二人きりのときは白狐嬢をそう呼ぶのだ。白狐嬢は恥ずかしそうに常葉の胸元に顔をうずめた。
「あれ!?」
気が付いたら保見は箕狐と一緒に小さな部屋の中にいた。畳の床だが、所々草が茂っている部分がある不思議な部屋だった。すすきや杜若、椿に山茶花など、四季の植物が一同に茂っている。保見は初めて眺める異様な光景を夢中で眺めまわした。
「今晩は、私と一緒にここで遊びましょうねぇ」
保見の脇へするっと寄り添うと、ねっとりとした口調で箕狐が言った。保見は常葉はどうしたのか、と尋ねた。
「今頃、きっと姉さんに怒られてるわぁ。そうだ、お名前、保見はんって言うん?」
保見は、うん、と頷く。
「それじゃあ保見はん、特別に面白いもん、見せたげるわぁ。ほうら」
ぱさっと、箕狐は頭巾を取って見せた。先ほどの白狐嬢と同じようなふさふさの耳が、ぴょこっとあらわれた。
「わぁ!」
保見はぱあっと笑顔になった。
「驚かれました? 私も、さっきの姉さんと同じ、狐の妖怪なんよ」
「人間じゃないの?」
「人間じゃあらしません。妖怪ですわぁ」
「私は!? 私は、人間かな?」
箕狐は不審な顔をしながら、
「保見はんは、人間でっしゃろ?」
それを聞くと、保見はにっこり笑った。
「私、人間なんだよね? 私、妖怪じゃないよね? 私ね、ずっと化け物って、言われてきたの。お父さんにもお母さんにも、友達なんてなくて……。……二人目!」
保見は箕狐の手をとって言った。
「人間だって、言ってくれたの。常葉が最初に言ってくれたの。お前は人間だって! 今度はあなたが言ってくれた! 私ね、常葉には言えなかったけど……嬉しかったんだ。諦めてたから……人間でいること、諦めてたから……。ありがとう!」
保見は笑顔で言った。箕狐は哀れむように少女を見つめると、
「ひどい人間も多いですけど……常葉はんみたいな方もいらしゃいますからね……」
そう言って立ち上がると、何処からともなく菓子とお茶の入った湯のみを取り出し、保見に差し出した。
「今晩の保見はんのお相手は、うちです。なんなりとご要望いうてくだしゃんせ」
「じゃあ! 友達になって!」
保見はキラキラと目を輝かせて続けた。
「みこちゃん! ね! 保見ちゃんって、呼んで!」
「ええと……」
箕狐の脳裏に、古くからの妖怪界の言いつけが過ぎった。
──人間と交わることなかれ。人間脆くして、その欲により争い絶えず、深く交われば交わる程、憂い多く、迷い、惑わされ、最後には心まで奪われ心身喪失に陥ること必然なり。恋慕、友情の芽生える予兆ある際は、迷わずこれを断ち切ること。踏み込めば抜けられず、たちまち全てを失うべし──
かつて、白狐嬢と常葉が逢瀬を重ね始めた時、遊里の一同はこの言いつけを白狐嬢に突きつけた。最近人間の男、常葉とかいう者に入れ込み過ぎはしないか。見たところ、生気を吸い尽くすでもなく、純粋に逢瀬を楽しんでいるではないか。危険すぎる、白狐嬢ともあろう者が……と。箕狐も白狐嬢に言ったことがあった。「あの男に会うのはお辞め下さい! 身を滅ぼします、姉さん!」そうしたら、白狐嬢は言ったのだ。「妖怪に寿命は無い。人間は死ぬ。妖怪の楽しみは様々だが、私達遊妖にとっては人間の生気を吸い尽くすこと。でも、長くそんなこと続けてると、それだけじゃもの足りなくなってくるんだよ。何か存在意義が欲しくなるんだ。あたしゃ、あいつに賭けてみることにした。あたしを滅ぼす、最後の相手に常葉を選んだんだよ。先代が逝ったのも、人間の仕業だったねぇ。でも、どうだい? 先代の最後、わたしゃ、あれが幸せってもんだと思ったんだ。思っちまったんだよ……」
「みこちゃん?」
保見の声にはっと箕狐は我に返った。保見は、不安そうな、悲しそうな顔をしていた。
「ごめんね」
そう小さく言ったっきり、保見は黙り込んだ。しばらく沈黙した後、保見は小さく笑って言った。
「みこちゃんの耳、可愛いね」
そう言うと、先ほど箕狐が出してくれたお菓子を食べ始めた。
「──保見ちゃん!」
箕狐は、はっとして急いでそう呼びかけた。保見はにっこりと可愛らしく笑った。その顔を見て、箕狐は思った。姉さん、うちにも分かります……。
「みこちゃん、あそぼ! 私、この屋敷の中、探検したい!」
そう言って、保見は箕狐の手を引いて部屋から飛び出した。ちょっと、だめですよっ、と言う箕狐の言葉も聞かずに。しかし、二人とも楽しそうだった。
夜が明けた。遊妖の里に白狐嬢の声が響く。
「なんだって? 居所が分からない?」
下働きの小妖に向かって白狐嬢がそう言う。この小妖、人魂のように宙にぷわぷわ浮いており、青白い光を放っている。小妖は申し訳なさそうに答えた。
「はい……。私めがお茶とお菓子をお届けした際には、確かに四季八畳の間にお二人ともいらっしゃったんですが……。今朝になって姿が見えませんで……」
この小妖、口もないのに、か細い声で話をする。
「箕狐が連れ出したのかい?」
「いいえ! ……恐らく、あの人間の子供が箕狐様を連れ出して屋敷中を歩き回ったのではないかと……。その……目撃情報がありまして」
ははは!と笑い声を上げたのは常葉だった。
「良い遊び相手が見つかったんだなぁ、保見は」
のんきににこにこ笑っている。
「いいじゃないか、白狐嬢。もう少し遊ばしてやれば」
「こっちだって、勝手に歩き回られたんじゃ困るんだよ。まぁ、箕狐がついているなら心配ないと思うが……。とにかく、暇な者共で早く居場所を突き止めて、元の部屋に連れ戻しておきな」
はい~と情けない声で返事をすると、小妖はぴゅぴゅぴゅと飛んで行った。
「まったく」
と白狐嬢は溜息をつくと、それを見て常葉はくすりと笑う。再び二人だけの静かな空間へと戻った。
「そういえば」
切りだしたのは常葉である。
「ここへ来る途中で、すすきの妖精に助けてもらったんだ……」
「へぇ……あんたって本当に妖精に好かれるんだねぇ……前にもそんなこと言ってたじゃないか」
「うん。子供の時もさ、良く見えてたんだ……妖精達が。でも最近はあんまり見なかったから……少し驚いたよ」
「妖精は心の清らかな人間にしか見えないんだろ? 子供のうちは良く見えるもんだって言うじゃないか。あんた子供っぽいとこあるからね……」
クスクスと笑う。常葉もははっと笑った。二人で笑い合った後、また沈黙が訪れた。
「姫」
急に真剣な面持ちで、常葉は白狐嬢へ向き直った。
「重要なお話が……」
白狐嬢はきたか、といった様子で頷く。
「あの文の件……噂の話……。どうやら本当らしい」
「本当って、あの神羅が復活したってことかい?」
常葉は問いかけに応じずに話し始めた。
「ここに来る前、オレは二回意識を失ってるんだ。一回目は保見と対峙したとき。二回目は大鳥の妖怪に襲われたとき。全く不甲斐ない……。その二回とも、オレが気絶している間に何者かが戦った形跡があった」
「何者かが戦った?」
白狐嬢は不審な顔をした。
「オレじゃない何者かが、保見を守ったんだ。その何か……心当たりは一つしかない」
「神羅だってのかい!?」
常葉は黙って頷く。
「オレの意識がないうちに、一時的に神羅はオレの体を乗っ取って行動したんだと思う」
「そんなっ……そんなことってあるのかい!? あんたの体内に封じられた神羅は、あんたが死ぬか、開放するまで絶対に出てこないって──」
「オレも、先代からはそうとしか聞いてない。しかし……他に考えられない。保見は見てたんだ。その全てを。恐らく、オレの体を使って、神羅が周りの妖怪たちを抹殺する、残酷な場面を……。あの後、オレのことをすごく怖がっていた」
「じゃあ……じゃあ……どうするのさ……。あんたはこれからどうなっちまうのさ!!?」
白狐嬢は常葉を強く揺すった。
「……分からない。だけど、このままじゃいけない。非常に危険な状態だってことは確かだ。後継者への引継ぎを急がねばならない」
「いくらなんだって、早すぎるじゃないか! 先代だって、じいさんになってからあんたに引き継いだんだろ? どうして──」
「オレが!」
常葉が怒鳴ったので、びくっと白狐嬢は硬直した。
「オレが……未熟なせいだ……。オレの霊力が足りなくなったんだろぅ……。オレが死んで神羅が出るのが先か、オレが引き継いで神羅が身動き取れなくなるのが先か、こいつは勝負だ」
常葉は苦々しい表情でそう言うと、申し訳なさそうに白狐嬢を見つめた。
「オレは、何としても勝たなくちゃならない。一人、頼りがあるんだ……」
常葉は真っ直ぐに白狐嬢を見つめた。
「そいつに……引き継いでもらおうと思う」
「そんな……それじゃあ……あんたもうじき……」
悲しげに俯く白狐嬢を、常葉は憐れみながらも愛おしく見つめた。
「あの!」
急に思い出したかのように白狐嬢は早口に訴えた。
「あの約束は! どうなるんだい? あんたが引き継ぐ時、命は落とすが魂は残る。その魂をあたしに……喰らわしてくれるって……。その代わり、あたしはあんたに情報をやる。神羅を封じる後継者に通じそうな情報を集めて、あんたに……やるって……。そういう約束だったじゃないか……今までだって……あんたに色々教えてやったじゃないか……」
「あぁ。約束は守る。オレが後継者に引き継いだら、お前に喰われる為に人魂になって飛んでくるよ……オレの魂は何色だろうね? 黄色か緑色か……姫は……紫色が好きだったね……」
「馬鹿!!!」
白狐嬢はふさふさした耳と尾をばっと逆立てながら怒鳴った。こんな話をしているのに、いつもと変わらないのんきな笑顔を浮かべて話す常葉が憎らしくてたまらなかった。
「ごめんな……」
常葉は真剣な表情でそうつぶやくと静かに立ち上がった。部屋を出て行こうとする常葉の背に白狐嬢は言った。
「昨晩、やけに優しい訳さね……ずるいねぇ、人間は。もう、会えないかもしれないんだろ?」
常葉は胸が痛んだ。しかし、行くしかない。何も言わないのが優しさだと思った。
「承知しないから! あんたが神羅に負けて、魂喰われて落死ぬなんて許さない! 常葉!」
常葉は振り向けなかった。部屋を出て、後ろ手で襖を閉めた。襖越しに
「先に、言っておく。……今まで有難う」
そう言うと、襖の前を離れ、歩き始めた。
馬鹿! 馬鹿! と悪態をつきながら、白狐嬢は泣いていた。
常葉は出口へ向かい、くねくねした廊下を歩いていると、先ほどの人魂小妖がぷわっと現れ、
「常葉様~! おりました! 保見様をみつけました! 裁縫部屋にて、箕狐殿に髪を切ってもらっていたのを発見いたしまして…………終わりしだい、四季八畳の間へお連れしますので今しばし……」
あぁ、と常葉は笑って見せたが、すぐに暗い表情に戻った。
「こちらです~」
小妖に連れられて、すすきや杜若、椿に山茶花などに彩られた四季八畳の間に着くと、寝転がり、一人思案にふけった。
「お待たせしまして……申し訳ありません」
箕狐が保見を連れて部屋に入ってくるなり、膝をつき頭を下げながら常葉に言った。
「いいや。礼を言いたいくらいだ。保見を有難う。保見、楽しかったか?」
保見はうん、と弾けるように頷いた。
「髪を切ってもらったんだって? 良かったな。オレが乱暴に切り落としてしまったから、可哀想だと思ってたんだ」
「髪は女の命ですからねぇ、いけませんよぉ、常葉はん」
箕狐はそう言ってくすっと笑うと続けた。
「常葉はん、今度は何やらかしなはったんどすか? 姉さん沈んでらっしゃいましたわ」
箕狐は軽い気持ちで、常葉をからかってやろうと放った言葉だったが、常葉の反応はいつもと違っていた。うん……と言ったきり、俯いてしまった。
「常葉はん?」
「悪い……今回ばかりは、相当落ち込むかもしれない……。頼むな、箕狐」
そう言って、常葉は立ち上がった。
「どういうことです?」
常葉は背中越しに一言、
「これが最後かもしれない」
そう言うと、
「保見行くぞ」
と声をかけて部屋を出て行った。保見は
「じゃあね、みこちゃん!」
と言って常葉に続いた。
真紅の毛氈の上を歩いて玄関に着くと、下足入れからさあっと履き物が出てきてそれぞれの足元でぴたりと止まった。保見は面白そうに静止したまま浮かぶ自分の草履をいろんな角度から眺めた。常葉が左足を上げると、待ってました! というように常葉の草履が滑り込み、しゅしゅんと紐まできれいに結んで履かせてくれた。同様に右足も草履を履かせてもらう。保見の目は釘付けだった。保見も片足をあげてみると一瞬で下駄の鼻緒がしっかりと指にはまった。
「いつまでやってるんだ? 行くぞ」
保見はもったいないような気がして、もう片方の足を上げるのをためらっている。やれやれ、と常葉は保見を見守っていると、奥から箕狐がやってきた。常葉が視線をやると、手招きした。常葉はすこし驚いたような顔をしたが、小さく頷くと玄関をまた上がっていった。例のごとく草履がひとりでに解けて下足入れへ飛んでいく。
「あ! ずるい! 私ももう一回やる!」
保見は急いで片足を上げて靴を履かせてもらうと、向き直ってまた玄関へと上がろうとした。ぴゅんっと下駄が飛んでいくのを目で追うとにっこりと振り返る……が、そこには常葉の姿はなかった。おや? と不思議に思ったが、すぐ戻るだろうと、その後も一人で下駄を脱いだり履いたりしながら遊び始めた。
箕狐に招かれて、壁も床も紺色の部屋に入ると、常葉は気まずそうに箕狐の顔色をうかがった。そっと戸を閉め、常葉に向き直った箕狐は少し怒ったような表情をしていた。
「保見ちゃんのことで……お話が」
常葉は意表を突かれ、保見が? と聞き返した。箕狐は真剣な面持ちで頷くと続けた。
「気になることを話してました。常葉はんの口が、勝手にしゃべったって」
常葉はどきっとした。
「なんだって……?」
「常葉はんが寝てはる時、体は全く動かないのに、口だけが保見ちゃんに話しかけよったそうです。不気味で怖かったぁ言うてました」
「何て言ってたか、分かるか?」
「さぁ……そこまでは聞きませんでしたわぁ」
「……そうか……。……そうか……」
まさか寝ている間にも、ヤツが出てくるなんて思ってもみなかった。これは本当にまずい状態だ。そう思った常葉は思わず冷や汗をかいていた。
「ねぇ……常葉はん。常葉はんは一体、何がしたいん? 姉さんにしか話してない秘密って、なんなん? 最後になる言うんなら、教えてくれてもええじゃないの?」
「ごめん……」
この遊里では常葉の使命を知るのは白狐嬢しかいない。他の妖怪達には、決してそのことを明かさなかった。それだけ重要な、秘密にしておかねばならないことだった。
「なんで? ひどいわぁ……理由もなしに勝手にいなくなる言うなんて……。うちだって、常葉はんのこと心配して待ってたんよ?」
「うん。悪いな。……有難う」
やはり話してくれない常葉を、恨めしく見つめて、箕狐は俯いた。
「姉さんに……きっと怒られるわぁ……」
そうぽつりと呟くと、箕狐はふわっと常葉の胸に飛び込んだ。とっさに常葉は箕狐の体を受け止める。
「またいらしゃいますのを……箕狐はお待ちしております。……もちろん、姉さんも……。どうかご無事で……」
そう言い残すと、箕狐も部屋も一瞬で消えて、気がつくと常葉は玄関に立っていた。
「あ!」
草履で遊んでいた保見が気づいて寄ってきた。
「どこ行ってたの?」
「ちょっと、な……。さあ、行こう」
二人は遊妖の里を出発した。
黒葺山。木々が黒々と茂るこの山には遊女ならぬ遊妖たちが集まる色里がある。妖怪のみならず、色欲にまみれた人間達をも魅了し、生気を全て吸い取られて死ぬまで通いつめる常連も少なくない。遊妖達はそれを面白がり、たっぷりと生気を吸って腹を肥やすのである。なかでも、白狐嬢といえば最上級の大遊妖で、白狐嬢に会いたいが為に通いつめ、ついに会えぬまま命を落とす人間は数が知れないという。
常葉と保見は不思議な老人と別れてから五日かけて黒葺山の麓までやってきた。常葉の足であれば二日とかからない距離だったが、保見の体力に合わせて、常葉はゆっくりと歩んだ。
何十もの黒い鳥居がまっすぐ立ち並ぶ石階段を、二人は登っていく。両脇に吊るされた提灯が怪しく紅色に辺りを照らしていた。途中、太った人間の男がふらふらと階段を下って来て二人とすれ違った。暗くてよく顔が見えなかったが、保見はすれ違いざまひやっとした空気を感じた。思わず常葉の袂を掴む。
「大丈夫だ。離れないようについておいで」
常葉は保見にそう言うと、また階段を登り始めた。さっきよりもぴったりと保見は常葉にくっついて歩いた。
大鳥の襲来の件は、保見に尋ねてみても記憶に無いらしく、結局常葉が気を失ってから何があったのかわからないままだった。懐にしまっておいた烏文を読み返し、常葉は文の送り主に会いに行くことにしたのだ。この先の色里の筆頭、白狐嬢の元に。
階段を登りきると、大きな御殿が現れた。階段の雰囲気とは一変して、煌びやかに提灯や松明で飾り付けられており、深い山奥にあることを忘れてしまうほどの華やかさである。二人が近づくと、入り口で人間の女の姿をした妖怪が さあさ、さあさ、と謡いながら奥へと促した。赤い暖簾をくぐると、金色の壁に真紅の毛氈がひかれた玄関だった。銀色の器に奇抜な大花が生けられており、天井からは玉が散りばめられた見たこともない証明器具が下がっている。そこへ真っ赤な蝋燭を手にした美しい女が奥から現れた。白い頭巾を被っていたが、頭巾の形が普通の人間よりふっくらしている。頬には白い猫のひげのようなものが生えており、背にはふっさりとした尻尾がゆらゆらしていた。
「おいでやす。さあさ、お上がりゃんせ」
そう言うと、ぱっと二人の履物が自然に脱げて、下足入れまでぽうっと飛んでいった。保見はえらく驚いて、わあっと声を上げ、自分の下駄の行方を見送ったが、常葉は慣れているのか、平然として女の前まで出向いた。
「今宵は、お部屋のみのご利用で?」
首をしなっとくねらせて、保見、常葉の順に目配せすると女はそう言った。
「馬鹿言え。オレだ。常葉だよ」
顔を覆っていた布をさっと取りながらそう言うと、女はまあっと驚くそぶりをして、失礼しました、と言って続けた。
「いつもお一人でいらしゃいますもんで、分かりまへんでしたわぁ」
そう言ってくすっと笑う。
「その子、連れたまま姉さんにお会いするんどすか?」
「えっ? ……あぁ、そのつもりだけど」
女はもう一度くすっと笑うと、こちらどす、といいながら歩き始めた。さっきからずっと下駄を眺めていた保見に「行くぞ」と声をかけて呼び寄せると、二人は並んで女の後について行った。歩きながら女は、
「ご無沙汰かと思えば、女の子つれて来はるなんてぇ、常葉はんいけませんわぁ……」
「はぁ……」
「姉さん心配してらしたんよ?」
「うん……文を貰った。………………まずいか? 保見を連れていったら?」
女はうふっと口元の笑みを手で押さえて隠すと、そのあとはすっかり黙ってしまった。
その後、しばらく沈黙したまま歩き続け、長い迷路のようなくねくねした廊下をひたすら進み、階段を登ったり降りたりしながら進んでいく。御殿の内部は相当複雑な造りになっているようだ。
「知りませんよ」
牡丹と白い狐が描かれた豪勢な襖の前で女は立ち止まり、常葉に言った。
「姉さん、きっと怒りますわ。では……」
そう言うと、廊下の奥の暗がりへ溶け込むようにすうっと消えていった。
「縁起でもないことを……。保見、ちゃんと挨拶するんだぞ。これから白狐の妖怪さんに会うんだ。失礼の無いようにな」
「うん」
保見は常葉の袂をぎゅっと握った。
「白狐嬢! 常葉だ! ……入るぞ?」
牡丹の襖へそう呼びかけると、中からどうぞ、と落ち着いた声がした。常葉はそっと襖を開けた。その瞬間、鮮やかな景色が目前に現れた。部屋の天井から無数の艶やかな着物が飾りつけられたように吊るされており、色とりどりの原色の生地の合間に、金銀の飾り糸がきらきらと光を反射している。着物達の奥、金屏風の前で銀色の長髪の美女が煙管を吹かしていた。髪の間から、ふさふさした白狐の耳がぴょこっと生えている。切長の目尻に鮮やかな紅をさしているのもあり、長い白いまつ毛が際立って見える。
「久しぶりだな。白狐嬢」
「こんにちは……」
常葉と保見は部屋の中に入り、常葉が襖を閉めようとすると、
「待ちな!」
白狐嬢はそう言うと「箕狐! 箕狐!」と大声で叫んだ。先ほど案内をしてくれた、赤い蝋燭を持った女が閉めかけた襖の向こうに現れて「はい姉さん」と言った。
「その、おちびさんを連れていきな。……丁重にな」
箕狐はクスリと笑うと「はいな」と言って保見の手をとった。
「えっ! ……ちょっと……」
常葉が手を伸ばして保見を引きとめようとした時には既に保見と箕狐の姿は消えていた。
「どういうこ――」
振り向きざまに白狐嬢に言うが早いか、常葉は胸座をつかまれて持ち上げられた。常葉の両足が宙に浮く。
「こっちが聞きたいね、常葉。どういうつもりだぃ? ここは遊里だ。私は遊妖さ。そこに女を連れ込むなんて、私を馬鹿にしてるのかぃ? えぇ!」
「ふっ……相変わらずの馬鹿力だな」
その一言にかちんときたのか、白狐嬢は常葉を持ち上げたまま左側の襖へ乱暴に押しつけた。その際に部屋に吊るしてあった着物が引っかかって、常葉の体に巻きついた。
「お、おい! 怒るなよ。保見はまだ子供じゃないか!」
「女は女だ!」
怒りの治まらない白狐嬢はさらに強く常葉の体を押しつけた。その拍子にばこっと襖が外れて、常葉と白狐嬢は隣の部屋に重なるように倒れた。
ぼすっ……
常葉が倒れたのは、布団の上だった。二人分の布団がくっついて敷かれた部屋。白狐嬢は常葉の胸に顔をうずめたまま、小さく震えていた。泣いているのだ。常葉は強く握り締められた胸座の白狐嬢の手に、そっと自分の手を添えた。
「……悪かった。ごめんな」
白狐嬢はばっと顔を上げて常葉を見た。大粒の真珠のような涙がぽろぽろと溢れ、常葉の服へと落ちていく。
「あんたが……死んだんじゃないかって……。……人間は脆いから……」
「あぁ……心配かけて済まなかった……」
常葉は白狐嬢の頭を優しく撫でた。
「保見のことだけどよ……あいつ、オレの後継ぎにって思ってさ……」
「じゃあ! あんたもうじき――」
「だけど」
と常葉は白狐嬢の涙を優しく指で拭いながら続けた。
「あいつは、駄目なんだ。あいつ、普通の人間になりたいんだよ。こっちの世界に引っ張り込んじゃ駄目なんだ。あっちの世界へ、送り届けてやるつもりさ。オレの小さい頃に似てるんだよ。ほっとけないんだ」
「そう……」
と白狐嬢は答えた。
「……何も、しないよな? 保見は無事だよな?」
「大丈夫さ。……別なとこで菓子でも食べてるさ」
常葉が保見のことばかり気にするので、少しふてくされたように白狐嬢は口を尖らせた。そんな白狐嬢を見て、ふっと笑うと、
「姫」
そう言ってそっと白狐嬢の身体を抱き寄せた。常葉は二人きりのときは白狐嬢をそう呼ぶのだ。白狐嬢は恥ずかしそうに常葉の胸元に顔をうずめた。
「あれ!?」
気が付いたら保見は箕狐と一緒に小さな部屋の中にいた。畳の床だが、所々草が茂っている部分がある不思議な部屋だった。すすきや杜若、椿に山茶花など、四季の植物が一同に茂っている。保見は初めて眺める異様な光景を夢中で眺めまわした。
「今晩は、私と一緒にここで遊びましょうねぇ」
保見の脇へするっと寄り添うと、ねっとりとした口調で箕狐が言った。保見は常葉はどうしたのか、と尋ねた。
「今頃、きっと姉さんに怒られてるわぁ。そうだ、お名前、保見はんって言うん?」
保見は、うん、と頷く。
「それじゃあ保見はん、特別に面白いもん、見せたげるわぁ。ほうら」
ぱさっと、箕狐は頭巾を取って見せた。先ほどの白狐嬢と同じようなふさふさの耳が、ぴょこっとあらわれた。
「わぁ!」
保見はぱあっと笑顔になった。
「驚かれました? 私も、さっきの姉さんと同じ、狐の妖怪なんよ」
「人間じゃないの?」
「人間じゃあらしません。妖怪ですわぁ」
「私は!? 私は、人間かな?」
箕狐は不審な顔をしながら、
「保見はんは、人間でっしゃろ?」
それを聞くと、保見はにっこり笑った。
「私、人間なんだよね? 私、妖怪じゃないよね? 私ね、ずっと化け物って、言われてきたの。お父さんにもお母さんにも、友達なんてなくて……。……二人目!」
保見は箕狐の手をとって言った。
「人間だって、言ってくれたの。常葉が最初に言ってくれたの。お前は人間だって! 今度はあなたが言ってくれた! 私ね、常葉には言えなかったけど……嬉しかったんだ。諦めてたから……人間でいること、諦めてたから……。ありがとう!」
保見は笑顔で言った。箕狐は哀れむように少女を見つめると、
「ひどい人間も多いですけど……常葉はんみたいな方もいらしゃいますからね……」
そう言って立ち上がると、何処からともなく菓子とお茶の入った湯のみを取り出し、保見に差し出した。
「今晩の保見はんのお相手は、うちです。なんなりとご要望いうてくだしゃんせ」
「じゃあ! 友達になって!」
保見はキラキラと目を輝かせて続けた。
「みこちゃん! ね! 保見ちゃんって、呼んで!」
「ええと……」
箕狐の脳裏に、古くからの妖怪界の言いつけが過ぎった。
──人間と交わることなかれ。人間脆くして、その欲により争い絶えず、深く交われば交わる程、憂い多く、迷い、惑わされ、最後には心まで奪われ心身喪失に陥ること必然なり。恋慕、友情の芽生える予兆ある際は、迷わずこれを断ち切ること。踏み込めば抜けられず、たちまち全てを失うべし──
かつて、白狐嬢と常葉が逢瀬を重ね始めた時、遊里の一同はこの言いつけを白狐嬢に突きつけた。最近人間の男、常葉とかいう者に入れ込み過ぎはしないか。見たところ、生気を吸い尽くすでもなく、純粋に逢瀬を楽しんでいるではないか。危険すぎる、白狐嬢ともあろう者が……と。箕狐も白狐嬢に言ったことがあった。「あの男に会うのはお辞め下さい! 身を滅ぼします、姉さん!」そうしたら、白狐嬢は言ったのだ。「妖怪に寿命は無い。人間は死ぬ。妖怪の楽しみは様々だが、私達遊妖にとっては人間の生気を吸い尽くすこと。でも、長くそんなこと続けてると、それだけじゃもの足りなくなってくるんだよ。何か存在意義が欲しくなるんだ。あたしゃ、あいつに賭けてみることにした。あたしを滅ぼす、最後の相手に常葉を選んだんだよ。先代が逝ったのも、人間の仕業だったねぇ。でも、どうだい? 先代の最後、わたしゃ、あれが幸せってもんだと思ったんだ。思っちまったんだよ……」
「みこちゃん?」
保見の声にはっと箕狐は我に返った。保見は、不安そうな、悲しそうな顔をしていた。
「ごめんね」
そう小さく言ったっきり、保見は黙り込んだ。しばらく沈黙した後、保見は小さく笑って言った。
「みこちゃんの耳、可愛いね」
そう言うと、先ほど箕狐が出してくれたお菓子を食べ始めた。
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この小妖、口もないのに、か細い声で話をする。
「箕狐が連れ出したのかい?」
「いいえ! ……恐らく、あの人間の子供が箕狐様を連れ出して屋敷中を歩き回ったのではないかと……。その……目撃情報がありまして」
ははは!と笑い声を上げたのは常葉だった。
「良い遊び相手が見つかったんだなぁ、保見は」
のんきににこにこ笑っている。
「いいじゃないか、白狐嬢。もう少し遊ばしてやれば」
「こっちだって、勝手に歩き回られたんじゃ困るんだよ。まぁ、箕狐がついているなら心配ないと思うが……。とにかく、暇な者共で早く居場所を突き止めて、元の部屋に連れ戻しておきな」
はい~と情けない声で返事をすると、小妖はぴゅぴゅぴゅと飛んで行った。
「まったく」
と白狐嬢は溜息をつくと、それを見て常葉はくすりと笑う。再び二人だけの静かな空間へと戻った。
「そういえば」
切りだしたのは常葉である。
「ここへ来る途中で、すすきの妖精に助けてもらったんだ……」
「へぇ……あんたって本当に妖精に好かれるんだねぇ……前にもそんなこと言ってたじゃないか」
「うん。子供の時もさ、良く見えてたんだ……妖精達が。でも最近はあんまり見なかったから……少し驚いたよ」
「妖精は心の清らかな人間にしか見えないんだろ? 子供のうちは良く見えるもんだって言うじゃないか。あんた子供っぽいとこあるからね……」
クスクスと笑う。常葉もははっと笑った。二人で笑い合った後、また沈黙が訪れた。
「姫」
急に真剣な面持ちで、常葉は白狐嬢へ向き直った。
「重要なお話が……」
白狐嬢はきたか、といった様子で頷く。
「あの文の件……噂の話……。どうやら本当らしい」
「本当って、あの神羅が復活したってことかい?」
常葉は問いかけに応じずに話し始めた。
「ここに来る前、オレは二回意識を失ってるんだ。一回目は保見と対峙したとき。二回目は大鳥の妖怪に襲われたとき。全く不甲斐ない……。その二回とも、オレが気絶している間に何者かが戦った形跡があった」
「何者かが戦った?」
白狐嬢は不審な顔をした。
「オレじゃない何者かが、保見を守ったんだ。その何か……心当たりは一つしかない」
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常葉は黙って頷く。
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「そんなっ……そんなことってあるのかい!? あんたの体内に封じられた神羅は、あんたが死ぬか、開放するまで絶対に出てこないって──」
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「オレが!」
常葉が怒鳴ったので、びくっと白狐嬢は硬直した。
「オレが……未熟なせいだ……。オレの霊力が足りなくなったんだろぅ……。オレが死んで神羅が出るのが先か、オレが引き継いで神羅が身動き取れなくなるのが先か、こいつは勝負だ」
常葉は苦々しい表情でそう言うと、申し訳なさそうに白狐嬢を見つめた。
「オレは、何としても勝たなくちゃならない。一人、頼りがあるんだ……」
常葉は真っ直ぐに白狐嬢を見つめた。
「そいつに……引き継いでもらおうと思う」
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悲しげに俯く白狐嬢を、常葉は憐れみながらも愛おしく見つめた。
「あの!」
急に思い出したかのように白狐嬢は早口に訴えた。
「あの約束は! どうなるんだい? あんたが引き継ぐ時、命は落とすが魂は残る。その魂をあたしに……喰らわしてくれるって……。その代わり、あたしはあんたに情報をやる。神羅を封じる後継者に通じそうな情報を集めて、あんたに……やるって……。そういう約束だったじゃないか……今までだって……あんたに色々教えてやったじゃないか……」
「あぁ。約束は守る。オレが後継者に引き継いだら、お前に喰われる為に人魂になって飛んでくるよ……オレの魂は何色だろうね? 黄色か緑色か……姫は……紫色が好きだったね……」
「馬鹿!!!」
白狐嬢はふさふさした耳と尾をばっと逆立てながら怒鳴った。こんな話をしているのに、いつもと変わらないのんきな笑顔を浮かべて話す常葉が憎らしくてたまらなかった。
「ごめんな……」
常葉は真剣な表情でそうつぶやくと静かに立ち上がった。部屋を出て行こうとする常葉の背に白狐嬢は言った。
「昨晩、やけに優しい訳さね……ずるいねぇ、人間は。もう、会えないかもしれないんだろ?」
常葉は胸が痛んだ。しかし、行くしかない。何も言わないのが優しさだと思った。
「承知しないから! あんたが神羅に負けて、魂喰われて落死ぬなんて許さない! 常葉!」
常葉は振り向けなかった。部屋を出て、後ろ手で襖を閉めた。襖越しに
「先に、言っておく。……今まで有難う」
そう言うと、襖の前を離れ、歩き始めた。
馬鹿! 馬鹿! と悪態をつきながら、白狐嬢は泣いていた。
常葉は出口へ向かい、くねくねした廊下を歩いていると、先ほどの人魂小妖がぷわっと現れ、
「常葉様~! おりました! 保見様をみつけました! 裁縫部屋にて、箕狐殿に髪を切ってもらっていたのを発見いたしまして…………終わりしだい、四季八畳の間へお連れしますので今しばし……」
あぁ、と常葉は笑って見せたが、すぐに暗い表情に戻った。
「こちらです~」
小妖に連れられて、すすきや杜若、椿に山茶花などに彩られた四季八畳の間に着くと、寝転がり、一人思案にふけった。
「お待たせしまして……申し訳ありません」
箕狐が保見を連れて部屋に入ってくるなり、膝をつき頭を下げながら常葉に言った。
「いいや。礼を言いたいくらいだ。保見を有難う。保見、楽しかったか?」
保見はうん、と弾けるように頷いた。
「髪を切ってもらったんだって? 良かったな。オレが乱暴に切り落としてしまったから、可哀想だと思ってたんだ」
「髪は女の命ですからねぇ、いけませんよぉ、常葉はん」
箕狐はそう言ってくすっと笑うと続けた。
「常葉はん、今度は何やらかしなはったんどすか? 姉さん沈んでらっしゃいましたわ」
箕狐は軽い気持ちで、常葉をからかってやろうと放った言葉だったが、常葉の反応はいつもと違っていた。うん……と言ったきり、俯いてしまった。
「常葉はん?」
「悪い……今回ばかりは、相当落ち込むかもしれない……。頼むな、箕狐」
そう言って、常葉は立ち上がった。
「どういうことです?」
常葉は背中越しに一言、
「これが最後かもしれない」
そう言うと、
「保見行くぞ」
と声をかけて部屋を出て行った。保見は
「じゃあね、みこちゃん!」
と言って常葉に続いた。
真紅の毛氈の上を歩いて玄関に着くと、下足入れからさあっと履き物が出てきてそれぞれの足元でぴたりと止まった。保見は面白そうに静止したまま浮かぶ自分の草履をいろんな角度から眺めた。常葉が左足を上げると、待ってました! というように常葉の草履が滑り込み、しゅしゅんと紐まできれいに結んで履かせてくれた。同様に右足も草履を履かせてもらう。保見の目は釘付けだった。保見も片足をあげてみると一瞬で下駄の鼻緒がしっかりと指にはまった。
「いつまでやってるんだ? 行くぞ」
保見はもったいないような気がして、もう片方の足を上げるのをためらっている。やれやれ、と常葉は保見を見守っていると、奥から箕狐がやってきた。常葉が視線をやると、手招きした。常葉はすこし驚いたような顔をしたが、小さく頷くと玄関をまた上がっていった。例のごとく草履がひとりでに解けて下足入れへ飛んでいく。
「あ! ずるい! 私ももう一回やる!」
保見は急いで片足を上げて靴を履かせてもらうと、向き直ってまた玄関へと上がろうとした。ぴゅんっと下駄が飛んでいくのを目で追うとにっこりと振り返る……が、そこには常葉の姿はなかった。おや? と不思議に思ったが、すぐ戻るだろうと、その後も一人で下駄を脱いだり履いたりしながら遊び始めた。
箕狐に招かれて、壁も床も紺色の部屋に入ると、常葉は気まずそうに箕狐の顔色をうかがった。そっと戸を閉め、常葉に向き直った箕狐は少し怒ったような表情をしていた。
「保見ちゃんのことで……お話が」
常葉は意表を突かれ、保見が? と聞き返した。箕狐は真剣な面持ちで頷くと続けた。
「気になることを話してました。常葉はんの口が、勝手にしゃべったって」
常葉はどきっとした。
「なんだって……?」
「常葉はんが寝てはる時、体は全く動かないのに、口だけが保見ちゃんに話しかけよったそうです。不気味で怖かったぁ言うてました」
「何て言ってたか、分かるか?」
「さぁ……そこまでは聞きませんでしたわぁ」
「……そうか……。……そうか……」
まさか寝ている間にも、ヤツが出てくるなんて思ってもみなかった。これは本当にまずい状態だ。そう思った常葉は思わず冷や汗をかいていた。
「ねぇ……常葉はん。常葉はんは一体、何がしたいん? 姉さんにしか話してない秘密って、なんなん? 最後になる言うんなら、教えてくれてもええじゃないの?」
「ごめん……」
この遊里では常葉の使命を知るのは白狐嬢しかいない。他の妖怪達には、決してそのことを明かさなかった。それだけ重要な、秘密にしておかねばならないことだった。
「なんで? ひどいわぁ……理由もなしに勝手にいなくなる言うなんて……。うちだって、常葉はんのこと心配して待ってたんよ?」
「うん。悪いな。……有難う」
やはり話してくれない常葉を、恨めしく見つめて、箕狐は俯いた。
「姉さんに……きっと怒られるわぁ……」
そうぽつりと呟くと、箕狐はふわっと常葉の胸に飛び込んだ。とっさに常葉は箕狐の体を受け止める。
「またいらしゃいますのを……箕狐はお待ちしております。……もちろん、姉さんも……。どうかご無事で……」
そう言い残すと、箕狐も部屋も一瞬で消えて、気がつくと常葉は玄関に立っていた。
「あ!」
草履で遊んでいた保見が気づいて寄ってきた。
「どこ行ってたの?」
「ちょっと、な……。さあ、行こう」
二人は遊妖の里を出発した。
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