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第五話
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男は私の肩を持ち、上りながらこんなことを言った。
「あ、そうそう。伝えるのを忘れていたけれど、俺はここで『先生』と呼ばれているんだ。たぶん、君も下でいちどは聞いただろう。皆、先生! って狂ったように叫ぶからね、俺も恥ずかしいところがあるよ。だからここには着いて来てもらわなかったんだ。さっきみたいな話がしにくいからね。俺は一応『先生』だけにそれなりの権限がある。しかしあんまり使う気はないね。知っているかい、明らかに権力ある人間があえて自制したようにその力を使わないと、むしろ人々から好意を持たれるんだ。なんて謙虚な人なんだろうってね。まあそんなことはどうでもいい。ほら、あれが俺の家さ。あの旗には『醜の美』と書かれている。ただまあこれを書いたのはヨッちゃんなんだが、そう、ほらよく性器を触ってくる浅黒い銀歯の女さ。むかしは結構綺麗だったんだがね。まあともかくヨッちゃんは書きたがるわりにスプレーの加減間違えて字を潰してしまうんだ。現にあれだって『醜』の酉が百みたいに見えるだろう」
私は小屋の居間まで連れられた。居間は物があふれ散らばり、宿のそれとは比較できないほどに乱れていた。ローテーブルには本や料理の食べ残しが積み上げられ、ソファーの布生地はところどころ破れたり汁かなにかで変色したりしている。放射された精子のせいで固く丸まったテッシュも多い。書類やら酒瓶で埋められた床を『先生』は足でのけながらすすんだ。
「さあ座って。久しぶりと言えば久しぶりなんだお客さんってのは」
促されて私はソファーのまだ清潔そうなところに浅く座った。そのとき手に淡のようなものがついた。
「あの、拭くものは」
「ないね。自分のズボンをつかいなよ」
そう言って『先生』は煙草を吸い、酒を飲みはじめた。『先生』は若いが、たしかにこの町の『先生』らしく、極度の肥満で、腕、脚、口や顎には体毛が群生し、オールバックの神の下にぎょろりとした大きな目がある。私はまた、あの肥った老人の殴打を思い出した。
「どうだい君は」
「いえ僕は……」
「気力がないときに楽しむもんなのになあ」
「……それより、次の列車は何時発着なんですか」
「さあ……」
『先生』は呑気そうに紫煙を吐き、酒を飲んだ。濁り、灰色のカビの沈殿したビールをうまそうに飲み干している。
「さあって……」
「いや知っているわけじゃないんだ。僕は汽笛の音が聴こえる。だから来たとかどうとかわかるだけで、そもそもいつ来るかなんて決められてないんだ。駅に行ってみるといいよ、時刻表も何もないからさ。そもそも、あの列車がここに来るのはこの町の住人を運ぶためじゃない。だからといって別の町の住人を運ぶためのものでもない。君のような人間を振り分けるためにあるんだ。だからもういちど列車に乗ろうとしても無駄なんだよ。きっと乗車拒否されるだろうね」
私は黙った。黙りながら、思考を巡らせた。『先生』が嘘をついている可能性をまだ私は捨て切れず、それは楽観的な疑いではあったが、しかしそれにすがるよりほかなかった。もし『先生』の言が事実であったら……。
「じゃあ、僕はここに一生住むということなんですね」
「いや、そういうわけでもない。線路開放日といって一か月に一度、必ず列車が来ない日がある。その日に線路づたいに歩いて移動すればいい話さ。正直、一日では三駅がせいぜいだろうけど」
「その日はいつなんです」
「昨日がちょうど開放日だったから、まあだいたい一か月後だね。それまではこの町を楽しみたまえよ」
「あ、そうそう。伝えるのを忘れていたけれど、俺はここで『先生』と呼ばれているんだ。たぶん、君も下でいちどは聞いただろう。皆、先生! って狂ったように叫ぶからね、俺も恥ずかしいところがあるよ。だからここには着いて来てもらわなかったんだ。さっきみたいな話がしにくいからね。俺は一応『先生』だけにそれなりの権限がある。しかしあんまり使う気はないね。知っているかい、明らかに権力ある人間があえて自制したようにその力を使わないと、むしろ人々から好意を持たれるんだ。なんて謙虚な人なんだろうってね。まあそんなことはどうでもいい。ほら、あれが俺の家さ。あの旗には『醜の美』と書かれている。ただまあこれを書いたのはヨッちゃんなんだが、そう、ほらよく性器を触ってくる浅黒い銀歯の女さ。むかしは結構綺麗だったんだがね。まあともかくヨッちゃんは書きたがるわりにスプレーの加減間違えて字を潰してしまうんだ。現にあれだって『醜』の酉が百みたいに見えるだろう」
私は小屋の居間まで連れられた。居間は物があふれ散らばり、宿のそれとは比較できないほどに乱れていた。ローテーブルには本や料理の食べ残しが積み上げられ、ソファーの布生地はところどころ破れたり汁かなにかで変色したりしている。放射された精子のせいで固く丸まったテッシュも多い。書類やら酒瓶で埋められた床を『先生』は足でのけながらすすんだ。
「さあ座って。久しぶりと言えば久しぶりなんだお客さんってのは」
促されて私はソファーのまだ清潔そうなところに浅く座った。そのとき手に淡のようなものがついた。
「あの、拭くものは」
「ないね。自分のズボンをつかいなよ」
そう言って『先生』は煙草を吸い、酒を飲みはじめた。『先生』は若いが、たしかにこの町の『先生』らしく、極度の肥満で、腕、脚、口や顎には体毛が群生し、オールバックの神の下にぎょろりとした大きな目がある。私はまた、あの肥った老人の殴打を思い出した。
「どうだい君は」
「いえ僕は……」
「気力がないときに楽しむもんなのになあ」
「……それより、次の列車は何時発着なんですか」
「さあ……」
『先生』は呑気そうに紫煙を吐き、酒を飲んだ。濁り、灰色のカビの沈殿したビールをうまそうに飲み干している。
「さあって……」
「いや知っているわけじゃないんだ。僕は汽笛の音が聴こえる。だから来たとかどうとかわかるだけで、そもそもいつ来るかなんて決められてないんだ。駅に行ってみるといいよ、時刻表も何もないからさ。そもそも、あの列車がここに来るのはこの町の住人を運ぶためじゃない。だからといって別の町の住人を運ぶためのものでもない。君のような人間を振り分けるためにあるんだ。だからもういちど列車に乗ろうとしても無駄なんだよ。きっと乗車拒否されるだろうね」
私は黙った。黙りながら、思考を巡らせた。『先生』が嘘をついている可能性をまだ私は捨て切れず、それは楽観的な疑いではあったが、しかしそれにすがるよりほかなかった。もし『先生』の言が事実であったら……。
「じゃあ、僕はここに一生住むということなんですね」
「いや、そういうわけでもない。線路開放日といって一か月に一度、必ず列車が来ない日がある。その日に線路づたいに歩いて移動すればいい話さ。正直、一日では三駅がせいぜいだろうけど」
「その日はいつなんです」
「昨日がちょうど開放日だったから、まあだいたい一か月後だね。それまではこの町を楽しみたまえよ」
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