ピアノの家のふたりの姉妹

九重智

文字の大きさ
上 下
10 / 62
第一章

第十話

しおりを挟む
 ふたりが三船家にたどり着いたときにはすでに七時をまわっていた。田園調布駅に降りて歩いているとき、ふいに秋子がプリン屋の前に立ち止まり、物欲しそうに見ていた。門限を破るからと秋子はそれでも渋ったが、夏樹が寄ろうと押し切ったのである。

 プリン屋が混んでいて、六人分のプリンを買うころには六時をすぎていた。そこで、どうせ遅れるならと公園のベンチに座ってからの、他愛のない会話やじゃれあいが長かった。

 夏樹はこのささやかな悪事に高揚していた。誰も傷つけない悪事というのは、誰からも支持される善事よりどうも魅力的に思えた。夏樹は故郷の徳之島に帰った気さえし、そしてささいな悪事の先輩として見せたい気持ちもできた。

「一時間も遅れたわ」プリン屋からの帰路、秋子はいまさらそんなことをいった。

「大丈夫だよ。二十歳の娘に門限どうこう言う親はいないさ」

「でもうちは違うわよ。きっと怒られるわ。お土産のプリンだってわたし以外食べないもの。みんな甘いものが苦手なの」

「それがいいんだよ。まあ見てて」

 一階のインターホンを鳴らそうとすると、夏樹には秋子の横顔が緊張しているように見え、道中で離した手をまたつないだ。秋子がこっくりとうなずくと、夏樹は兄妹の兄の心地になっていた。

 母の春枝がドアを開けると、わざとらしく「まあ!」といった。「こんな時間までどこ行っていたの?」

「すみません、僕が悪いんです。老人ホームの人たちがアンコールしたものだから、僕も得意気にゴーサインなんか出しちゃって。それでもまだ六時くらいだったんですけど、折角遅れるんだったらってことで、そこの有名なプリン屋でお土産を買ってきたところなんです」

 夏樹はそういって右手にぶら下げたビニール袋を掲げた。六人分だったものが、いまは四人分しか残っていない。
春枝がそれをもらい、胸元のあたりでのぞいた。

「残念だけど、うちは秋子以外甘いものはたべないの」

「あっ、そうなんですか」夏樹の口調はややわざとらしい。

「ええそうなの。すみませんね。どうしようかしら。持って帰って友人といっしょに――――」

「いえいえ! それならそっちで近所の方とかにわけてくれたほうが僕にはいいんです。持ち帰ったら買ってきた意味がありませんから」

 そこまでいわれると、こんどは春枝のほうがちょっとしたうしろめたさにかられた。ほんらい春枝は注意するか素っ気ない対応をする側であるのに、根が生真面目なこの婦人は、自分が他人の期待に背くことに馴れていなかった。とくに青年の純朴そうな好意を無下にあつかうのはなかなかの苦心だった。それは娘の門限破りを忘れるほどに。
 秋子は事前の打ち合わせ通り、助け舟をだした。

「大丈夫よ、お母さん。このプリンはカラメルが別になっているから、カラメル抜きにしたらそれほど甘くはないの」

「へえ、カラメル抜きのプリンなんてあるんだね」

「そうなの。甘いのが苦手な人もオーケーって看板にのってたわ」

 春枝は持ち前の上品さを思い出したように笑った。正直、春枝はもう自らが食べずともプリンを受け取る決心があったから、いちど断った手前、どうやって意見を曲げるか窮していた。

「じゃあ有難くいただきますね」

 春枝が笑うときの、瞼が閉じられてその輪郭に睫毛の濃い曲線が重なるところなんかは秋子にそっくりだった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

♡ちょっとエッチなアンソロジー〜合体編〜♡

x頭金x
恋愛
♡ちょっとHなショートショートつめ合わせ♡

REMAKE~わたしはマンガの神様~

櫃間 武士
ライト文芸
昭和29年(1954年)4月24日土曜の昼下がり。 神戸の異人館通りに住む高校生、手塚雅人の前に金髪の美少女が現れた。 と、その美少女はいきなり泣きながら雅人に抱きついてきた。 「おじいちゃん、会いたかったよ!助けてぇ!!」 彼女は平成29年(2017年)から突然タイムスリップしてきた未来の孫娘、ハルミだったのだ。 こうして雅人はハルミを救うため、60年に渡ってマンガとアニメの業界で生きてゆくことになる。 すべてはハルミを”漫画の神様”にするために!

あのころの君へ

春華(syunka)
ライト文芸
神崎華はテナントビル1階に新規オープンする若手作家を支援するギャラリーの立上に携わることになった。 作品配置の打合せ中、机上に並べられた作品写真の中に見覚えのある構図の日本画に目が留まる。 どこかで見たことのあるその日本画から蘇ってきたのは・・・・ 煩わしさと子供の頃の友達を傷つけた罪悪感、 そして、素直になれなかった心残り・・・・

その溺愛は伝わりづらい!気弱なスパダリ御曹司にノンケの僕は落とされました

海野幻創
BL
人好きのする端正な顔立ちを持ち、文武両道でなんでも無難にこなせることのできた生田雅紀(いくたまさき)は、小さい頃から多くの友人に囲まれていた。 しかし他人との付き合いは広く浅くの最小限に留めるタイプで、女性とも身体だけの付き合いしかしてこなかった。 偶然出会った久世透(くぜとおる)は、嫉妬を覚えるほどのスタイルと美貌をもち、引け目を感じるほどの高学歴で、議員の孫であり大企業役員の息子だった。 御曹司であることにふさわしく、スマートに大金を使ってみせるところがありながら、生田の前では捨てられた子犬のようにおどおどして気弱な様子を見せ、そのギャップを生田は面白がっていたのだが……。 これまで他人と深くは関わってこなかったはずなのに、会うたびに違う一面を見せる久世は、いつしか生田にとって離れがたい存在となっていく。 【7/27完結しました。読んでいただいてありがとうございました。】 【続編も8/17完結しました。】 「その溺愛は行き場を彷徨う……気弱なスパダリ御曹司は政略結婚を回避したい」 https://www.alphapolis.co.jp/novel/962473946/911896785 ↑この続編は、R18の過激描写がありますので、苦手な方はご注意ください。

ゴーストスロッター

クランキー
ライト文芸
【数万人に読まれた、超本格派パチスロ小説】 時は2004年、4号機末期。 設定を読む能力は抜群なものの、設定6に座り続けても全敗するほどの、常識では考えられないヒキ弱な主人公「夏目優司」の成長物語。 実際にあった攻略法、テクニック、勝つための立ち回りがふんだんに盛り込まれた、超本格派パチスロ小説です。

所変われば

身治元也
キャラ文芸
一話完結型の短編集です 一部登場人物が本編と重複しています 下記の設定に最適化しています  文字の大きさ 「大」又はそれ以下  文字の向き 「縦」 また、縦読み横読みの双方に対応する為一部の表記(三点リーダー等)を意図的に使用していません。予めご了承ください

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

マスクマンが笑った

奥田たすく
ライト文芸
 主人公・翔太は高校球児だ。  同じく高校球児の寮のルームメイト・弦は自他ともに認める天才キャッチャーで、先輩後輩問わず人に好かれる才能まであるときた。でもひとつだけ、弦には顔がない__  自分に嘘吐く二人の少年の、ちょっと苦しい青春短編小説。

処理中です...