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第一章
第十話
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ふたりが三船家にたどり着いたときにはすでに七時をまわっていた。田園調布駅に降りて歩いているとき、ふいに秋子がプリン屋の前に立ち止まり、物欲しそうに見ていた。門限を破るからと秋子はそれでも渋ったが、夏樹が寄ろうと押し切ったのである。
プリン屋が混んでいて、六人分のプリンを買うころには六時をすぎていた。そこで、どうせ遅れるならと公園のベンチに座ってからの、他愛のない会話やじゃれあいが長かった。
夏樹はこのささやかな悪事に高揚していた。誰も傷つけない悪事というのは、誰からも支持される善事よりどうも魅力的に思えた。夏樹は故郷の徳之島に帰った気さえし、そしてささいな悪事の先輩として見せたい気持ちもできた。
「一時間も遅れたわ」プリン屋からの帰路、秋子はいまさらそんなことをいった。
「大丈夫だよ。二十歳の娘に門限どうこう言う親はいないさ」
「でもうちは違うわよ。きっと怒られるわ。お土産のプリンだってわたし以外食べないもの。みんな甘いものが苦手なの」
「それがいいんだよ。まあ見てて」
一階のインターホンを鳴らそうとすると、夏樹には秋子の横顔が緊張しているように見え、道中で離した手をまたつないだ。秋子がこっくりとうなずくと、夏樹は兄妹の兄の心地になっていた。
母の春枝がドアを開けると、わざとらしく「まあ!」といった。「こんな時間までどこ行っていたの?」
「すみません、僕が悪いんです。老人ホームの人たちがアンコールしたものだから、僕も得意気にゴーサインなんか出しちゃって。それでもまだ六時くらいだったんですけど、折角遅れるんだったらってことで、そこの有名なプリン屋でお土産を買ってきたところなんです」
夏樹はそういって右手にぶら下げたビニール袋を掲げた。六人分だったものが、いまは四人分しか残っていない。
春枝がそれをもらい、胸元のあたりでのぞいた。
「残念だけど、うちは秋子以外甘いものはたべないの」
「あっ、そうなんですか」夏樹の口調はややわざとらしい。
「ええそうなの。すみませんね。どうしようかしら。持って帰って友人といっしょに――――」
「いえいえ! それならそっちで近所の方とかにわけてくれたほうが僕にはいいんです。持ち帰ったら買ってきた意味がありませんから」
そこまでいわれると、こんどは春枝のほうがちょっとしたうしろめたさにかられた。ほんらい春枝は注意するか素っ気ない対応をする側であるのに、根が生真面目なこの婦人は、自分が他人の期待に背くことに馴れていなかった。とくに青年の純朴そうな好意を無下にあつかうのはなかなかの苦心だった。それは娘の門限破りを忘れるほどに。
秋子は事前の打ち合わせ通り、助け舟をだした。
「大丈夫よ、お母さん。このプリンはカラメルが別になっているから、カラメル抜きにしたらそれほど甘くはないの」
「へえ、カラメル抜きのプリンなんてあるんだね」
「そうなの。甘いのが苦手な人もオーケーって看板にのってたわ」
春枝は持ち前の上品さを思い出したように笑った。正直、春枝はもう自らが食べずともプリンを受け取る決心があったから、いちど断った手前、どうやって意見を曲げるか窮していた。
「じゃあ有難くいただきますね」
春枝が笑うときの、瞼が閉じられてその輪郭に睫毛の濃い曲線が重なるところなんかは秋子にそっくりだった。
プリン屋が混んでいて、六人分のプリンを買うころには六時をすぎていた。そこで、どうせ遅れるならと公園のベンチに座ってからの、他愛のない会話やじゃれあいが長かった。
夏樹はこのささやかな悪事に高揚していた。誰も傷つけない悪事というのは、誰からも支持される善事よりどうも魅力的に思えた。夏樹は故郷の徳之島に帰った気さえし、そしてささいな悪事の先輩として見せたい気持ちもできた。
「一時間も遅れたわ」プリン屋からの帰路、秋子はいまさらそんなことをいった。
「大丈夫だよ。二十歳の娘に門限どうこう言う親はいないさ」
「でもうちは違うわよ。きっと怒られるわ。お土産のプリンだってわたし以外食べないもの。みんな甘いものが苦手なの」
「それがいいんだよ。まあ見てて」
一階のインターホンを鳴らそうとすると、夏樹には秋子の横顔が緊張しているように見え、道中で離した手をまたつないだ。秋子がこっくりとうなずくと、夏樹は兄妹の兄の心地になっていた。
母の春枝がドアを開けると、わざとらしく「まあ!」といった。「こんな時間までどこ行っていたの?」
「すみません、僕が悪いんです。老人ホームの人たちがアンコールしたものだから、僕も得意気にゴーサインなんか出しちゃって。それでもまだ六時くらいだったんですけど、折角遅れるんだったらってことで、そこの有名なプリン屋でお土産を買ってきたところなんです」
夏樹はそういって右手にぶら下げたビニール袋を掲げた。六人分だったものが、いまは四人分しか残っていない。
春枝がそれをもらい、胸元のあたりでのぞいた。
「残念だけど、うちは秋子以外甘いものはたべないの」
「あっ、そうなんですか」夏樹の口調はややわざとらしい。
「ええそうなの。すみませんね。どうしようかしら。持って帰って友人といっしょに――――」
「いえいえ! それならそっちで近所の方とかにわけてくれたほうが僕にはいいんです。持ち帰ったら買ってきた意味がありませんから」
そこまでいわれると、こんどは春枝のほうがちょっとしたうしろめたさにかられた。ほんらい春枝は注意するか素っ気ない対応をする側であるのに、根が生真面目なこの婦人は、自分が他人の期待に背くことに馴れていなかった。とくに青年の純朴そうな好意を無下にあつかうのはなかなかの苦心だった。それは娘の門限破りを忘れるほどに。
秋子は事前の打ち合わせ通り、助け舟をだした。
「大丈夫よ、お母さん。このプリンはカラメルが別になっているから、カラメル抜きにしたらそれほど甘くはないの」
「へえ、カラメル抜きのプリンなんてあるんだね」
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春枝は持ち前の上品さを思い出したように笑った。正直、春枝はもう自らが食べずともプリンを受け取る決心があったから、いちど断った手前、どうやって意見を曲げるか窮していた。
「じゃあ有難くいただきますね」
春枝が笑うときの、瞼が閉じられてその輪郭に睫毛の濃い曲線が重なるところなんかは秋子にそっくりだった。
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