ピアノの家のふたりの姉妹

九重智

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第一章

第五話

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 雪子は老人ホームへひとりで行った。デイルームの端のほうで演奏を聴き、秋子の込めたイメージに想いを馳せて、ほかの聴衆とおなじタイミングで拍手を贈った。雪子は妹を囲う老人らが離れたら、妹に感想を伝えるつもりだった。

 雪子はデイルームを離れた。この姉は、妹のために演奏を思い出し、感想を的確で簡潔なものに絞ったり、その友人や恋人にかける言葉さえも考えたりしたが、しかし周囲の人がばらけるまでの時間は稼げなかった。目的を果たせない時間はいつでももどかしく苦しいものだが、根が合理的な彼女はその疲労も顕著であり、それで一周ぶん施設をまわって、それからまた秋子のところへもどることにした。

 施設は二階建てである。しかし十五分もかければ雪子の足でもまわりきれた。それに加え部屋も個室ばかりで、家具も代り映えのするものがない。一見すれば清潔だが、いざしっかりと眺めようとすると殺風景で、どの物々も快活な感じはない。階段の踊り場に置かれた花瓶の花は、生きているのか死んでいるのか、生花か造花かわからなかった。

 結局雪子は、一か所に留まることなく最短でデイルームへもどり、それでも秋子にたむろする人たちがはけないようだったから、こんどは庭を周ることにした。

 庭は広かった。雪子は踏石の渡りを行きながら、縁沿いに置かれた、赤や白や紫の、梅雨っぽい組み合わせの花壇をゆったりと眺めた。道中でベンチがあり、雪子はそこに座った。ベンチからはペチュニアの花がよく見えた。

 後ろから早足で駆ける音がした。それは老人ホームでは聴かないハイペースである。雪子はさっと心象に影かかった。ちょうど、時田も早歩きだった。ヒッピー気取りのマルキシストのくせに、時田はこういう洗練された都会の歩き方をするのである。雪子は半ば恐怖、半ば怒りで振り返った。

 もちろん、足音の主は時田ではなかった。それは妹と同い歳くらいの青年で、痩せた、雪子より背の低い色白の青年だった。よく聞けば足音もちがった。猫背で、足を擦るように青年は歩いていて、ある意味マルキシストとは反対の、力を放棄した者の足音だった。それはまるで幽霊のような。

 青年は、視線をあちこちにやりながら、さながら逃亡犯の切迫で急いでいた。

 雪子は迷った挙句、嫌疑をかけたうしろめたさで声をかけた。

「なにか落とし物ですか」

 青年は瞬時に、怯えたように顔をあげた。それはすれ違いざまに殴られた者の、恐怖に動かされた速度だった。あまりにも速すぎてこちらが罪悪にかられるほどの。

 そのとき雪子ははじめて青年の顔を見ることができた。青年の色白な顔はくすんで、幽霊のイメージを強めた。いや、幽霊とはすこしちがった。幽霊というのが肉体のない、強すぎた魂の残滓であるとするならば、青年は魂の弱体が肉体をもまきこみ削っているようだった。表情の薄さ、目の光の微弱さが、彼を骨と皮だけにしている。彼の鼻梁も、もとは太く逞しかったのだろうか。

「ええ」とだけ青年はいった。いったが、何を探しているなどは口にしなかった。雪子はもういちど訊いた。「何を探してるんです?」

「……ハンカチです」

「ハンカチ? 何色のハンカチですか」

「紺色のです。……ちょうどこの花のような、比較的明度の高い紺色です。生地が薄くて、紺を黒い線で囲ってあります」

 青年は下顎だけ上下するような喋りかたをした。上唇や頬がまったく動かない。

 雪子も立ち上がってハンカチを目だけで探した。そして次第にかがんだり、花壇の奥に立ち入ったりして本格的に探しはじめた。

 ハンカチをすぐさま見つけてデイルームへもどるつもりが、なかなかにハンカチは見当たらなかった。

『なんで私はこんなことをしているのだろう』

 ハンカチを探しながら、雪子はこんなことを思っていた。しかし青年を見ると抜け出すなどといえない。青年は、花壇のひとつひとつを下の隙間まで見て、そのために膝までつけている。顔に土くれをつけて、それも拭わずにまた別の花壇の前で膝をついた。

 雨が降りはじめた。しとしとと、一粒がはっきりとした雨だった。水滴の軌跡が、白黒映画のように古めかしい縦線を景色にいれた。青年は、それでも構わず花壇の下を覗き見た。

「寒くなりますよ」と雪子がいった。

「ええ」

「濡れて風邪でもひいたら……」

「僕は大丈夫です」

 青年は立ち上がり、また逃亡犯の歩みをした。土くれはもはや泥になり、彼の半袖シャツ、綿パン、肘、二の腕、そして頬を汚している。

「大事なハンカチなんですか」

「ええ。大事です」

「明日また来て、それか清掃の人とかに頼んでみたら……」

「僕は、あのハンカチを持たない日をつくりたくないんです。……貴女も濡れてしまっています。傘は持ってきていますか。持ってきてなければ入り口のほうに僕の傘があるので、それで帰ってください。ビニールで、取っ手だけ黒です」

「でもそんな……」雪子は青年を見やった。彼の短くない髪が首にひっついて、見るからに冷たい。しかし青年の目は平静としていた。雪子は、ふいにその目に見惚れた。

『なんて、哀しい眼をしているのだろう。この平静さは、この沈着は、あまりにも無感情で、まるで足蹴にされつづけたように温度がない。どれだけこのひとは哀しみを押し付けられて、こんな眼をするようになったのだろう』

 雪子は、彼の引力にはまっていた。隕石のようにどうしようもなく近づけられ、あたりを回り、そしてついには惑星にあたるであろう軌道に、もうすでに雪子は乗っていた。

「はやくしたほうがいいですよ。もしかしたら風に飛ばされて、もうこの敷地内にはないのかもしれない。それなら貴女にとってはほんとうにただの徒労だ」

 雪子は黙ってうつむき、庭を出た。そして傘を一本持ってまた彼のもとへもどった。

「私が傘を持ちますから」
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