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その3
ウキオロシ
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ぜんぜん、記憶になかった。
「君は僕を思い過ぎて、この世にいなくなったことを信じようとしなかった。だから」
楓さんは、今度は灰色の人に向き直った。
「だから今回は、僕にも彼女のウキオロシを見せてほしい……溶かすところまで」
かなり時間はかかったと思う、今度こそ、屋根の上に降り積もったすべてのウキを下ろして、私たちは元の部屋に戻った時には真夜中をとうに過ぎていた。
小箱を開けると、囁き声が、ウキは九九五七件だと告げた。
手のひらに乗せたウキを、私がひとつずつ溶かして消していくのを灰色の人はすぐ脇に膝立ちになったまま、楓さんは窓際に寄りかかって、見守っていた。
始めは苦痛だった作業も、ウキが溶け去るにつれ、だんだんと他人ごとのようにどうでもよくなってきた。特に、始めのほうはほとんど灰色の人についてのことだった。
灰色の人は、始めの時と同じようにただ淡々と優しく、目の前に控えていた。
いつの間にか、手に乗せたウキはずっと屋根に残してあったものになっていたようで、見覚えのないものばかりだった。
―― ひざはいつ、完全に治るんだろう
―― 楓さんのおうちに行くのがつらい
自分で隠していた、楓さんとの思い出がじわじわと蘇る。そして事故のことも。
ウキのかたまりを手に乗せるたびに、時間がさかのぼっていくようだ。
―― 楓さんの服、処分できない。
―― 警察にまた呼ばれた、今度は何の話?
―― ……
楓さんの方を見るが、彼はずっと窓の外を眺めていた。
そうか、とようやく気がついた。
私がウキを積もらせたままにしていると、楓さんはここから離れられないのでは?
すでに半分自動的に手を動かしながら、私はやはり機械的な口調で尋ねた。
「契約違反については、どんなペナルティがあるんでしたっけ」
「違約金が五〇%発生します」
「クレジットでも?」
「大丈夫です」
「もうひとつ、あるよね」
楓さんは窓の外を眺めていた。
「担当のウキオロシは任務を解かれる、そして」
「すべての仕事の記憶は、失われます」
灰色の人は床に目を落として続けて言った。口元だけでかすかに笑ったようだ。
「誰と関わっていたのか、どんなことをしていたのか……私も忘れてしまうわけです。そうして、次にはどこか、例えば、深夜のコンビニとかで働いているのかも知れません」
それより、あなたに最後に大事なことをお伝えしなければなりません。
灰色の人は急に私を見上げた。いつになく真剣な面持ちだ。
「最後に、大事なかたまりがふたつだけ残ります。そのうちひとつは、溶かさずに、また屋根の上に戻すことができます」
ちょうど、ふたつのかたまりが同時に手のひらに転がった。
箱の中をのぞいた。すっかり空っぽになっている。
―― 楓さん、どうして死んでしまったの? ひどいよ。
―― あのウキオロシの人が好き。どうしよう。
呆然と、私は目を上げた。まだ残っていたんだ。
どちらを消す? どちらを残す?
結局私の選んだ決断を、楓さんも灰色の人も咎めることはなく、ただ優しく微笑んだだけだった。
「君は僕を思い過ぎて、この世にいなくなったことを信じようとしなかった。だから」
楓さんは、今度は灰色の人に向き直った。
「だから今回は、僕にも彼女のウキオロシを見せてほしい……溶かすところまで」
かなり時間はかかったと思う、今度こそ、屋根の上に降り積もったすべてのウキを下ろして、私たちは元の部屋に戻った時には真夜中をとうに過ぎていた。
小箱を開けると、囁き声が、ウキは九九五七件だと告げた。
手のひらに乗せたウキを、私がひとつずつ溶かして消していくのを灰色の人はすぐ脇に膝立ちになったまま、楓さんは窓際に寄りかかって、見守っていた。
始めは苦痛だった作業も、ウキが溶け去るにつれ、だんだんと他人ごとのようにどうでもよくなってきた。特に、始めのほうはほとんど灰色の人についてのことだった。
灰色の人は、始めの時と同じようにただ淡々と優しく、目の前に控えていた。
いつの間にか、手に乗せたウキはずっと屋根に残してあったものになっていたようで、見覚えのないものばかりだった。
―― ひざはいつ、完全に治るんだろう
―― 楓さんのおうちに行くのがつらい
自分で隠していた、楓さんとの思い出がじわじわと蘇る。そして事故のことも。
ウキのかたまりを手に乗せるたびに、時間がさかのぼっていくようだ。
―― 楓さんの服、処分できない。
―― 警察にまた呼ばれた、今度は何の話?
―― ……
楓さんの方を見るが、彼はずっと窓の外を眺めていた。
そうか、とようやく気がついた。
私がウキを積もらせたままにしていると、楓さんはここから離れられないのでは?
すでに半分自動的に手を動かしながら、私はやはり機械的な口調で尋ねた。
「契約違反については、どんなペナルティがあるんでしたっけ」
「違約金が五〇%発生します」
「クレジットでも?」
「大丈夫です」
「もうひとつ、あるよね」
楓さんは窓の外を眺めていた。
「担当のウキオロシは任務を解かれる、そして」
「すべての仕事の記憶は、失われます」
灰色の人は床に目を落として続けて言った。口元だけでかすかに笑ったようだ。
「誰と関わっていたのか、どんなことをしていたのか……私も忘れてしまうわけです。そうして、次にはどこか、例えば、深夜のコンビニとかで働いているのかも知れません」
それより、あなたに最後に大事なことをお伝えしなければなりません。
灰色の人は急に私を見上げた。いつになく真剣な面持ちだ。
「最後に、大事なかたまりがふたつだけ残ります。そのうちひとつは、溶かさずに、また屋根の上に戻すことができます」
ちょうど、ふたつのかたまりが同時に手のひらに転がった。
箱の中をのぞいた。すっかり空っぽになっている。
―― 楓さん、どうして死んでしまったの? ひどいよ。
―― あのウキオロシの人が好き。どうしよう。
呆然と、私は目を上げた。まだ残っていたんだ。
どちらを消す? どちらを残す?
結局私の選んだ決断を、楓さんも灰色の人も咎めることはなく、ただ優しく微笑んだだけだった。
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