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八章 ジュード
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ザアザアと、雨が降りしきる。
ひどい雨だった。
傘も差さずに……“そいつ”は飛行船に手をついて、ただ頭を垂れて突っ立っていた。
黒髪が雨に濡れている。
服もびしょ濡れだ。
俺は──少しの間そいつに声をかけようか迷って──そうしてパシャパシャと雨水を跳ねながら走ってそいつの元まで駆け寄った。
片手には自分の傘を差して、もう片手にはそいつの──ダルクの傘を持って。
「~何やってんだよ?
すげー雨だぞ。
またシエナに怒られるぞ」
言ってやる。
ダルクは───俺の声にようやく気がついた様に、ぼんやりと俺を見る。
その表情は、いつもと違っていた。
元気がねぇって言やぁいいのか、覇気がねぇって言やぁいいのか。
ああ、と返ってきた言葉も雨の音に掻き消されそうだった。
「──……どうしたんだよ?」
ダルクのあんまりにも妙な様子に、俺は若干心配になって訊ねる。
ダルクは──そっと飛行船に触れたまま、そいつを見上げた。
「──……なぁ、リッシュ。
俺は──ただ、こいつが空を飛んだら気持ちいいだろうと思ってたんだ。
それだけ、だったんだけどな………」
ダルクの声が雨の中に消える。
俺は、持ってきた傘をそいつに差し出す事も出来ずに、ただ不安な顔でダルクを見上げていた。
こんなダルクを見たのは、後にも先にもこの一度きりだった。
この時のダルクの胸中を──俺はずっと長い間、知る事がなかった──。
◆◆◆◆◆
ザアザアとどこか遠くで雨の音がする。
それに、ひでぇ頭痛だ。
ちゃんと眠ってるハズなのに思わず呻いているのが、自分で分かった。
頭がガンガンする。
何にも考えられねぇ。
「……ッシュ、リッシュ」
肩を軽く揺さぶられる。
俺は両手で頭を抱え、体を丸めたままぎゅっと目を閉じ続けた。
「……ッシュ。
あんた、頭が痛むのかい?」
聞き覚えのある声が聞こえた気がした。
──……シエナ、か?
「……う………」
呻きながら片目を無理やり開く。
ぼんやりした視界の向こうに心配そうに俺を見るシエナの顔があった。
「ちょっとまってな、今医者を呼んでくるから──」
言い置いて、シエナがパッとどこかへ行こうとする。
俺はそいつに。
「……だい、じょーぶ……だ」
声をかける。
声はかすれたが、どうにか言ってのける。
「……何でも、ねぇよ。
ただの頭痛だし………」
言うと、本当にゆっくりとだが、ほんの少し痛みが和らいだ。
相変わらず雨の音は鳴っている。
どーやら窓の外で雨が降ってるらしい。
気づけば俺の顔の横では犬カバが、こいつも心配そうに俺の様子を伺ってる。
俺は自分の額に片腕をやった。
そうやって額を腕で押さえつけて目を強く閉じたまま──あんまり体を動かさない様に静かに息をつく。
頭痛の原因は分かっていた。
あの夢──。
雨の中、ダルクが飛行船に手をついて、頭を垂れる姿。
それに──
「……あんた本当に医者呼ばなくて大丈夫かい?
脂汗かいてるじゃないか。
顔色も悪いし………」
考える俺の横から、シエナの声が届く。
俺は目元を腕で覆ったまま──ポツリ、呟く様に口を開く。
「───……ダルクの夢を見たよ」
言うと、シエナが一瞬息を詰めるのが分かった。
俺の枕元に置いてある赤い手帳に目を留めるのが気配で分かる。
「──あいつが死んだのってさ……。
飛行船や……サランディールって国に、関係があったのかな……?」
ぽつり、口から言葉がこぼれる。
『サランディール 執務の間』
俺の頭の中にダルクの手帳の最後の文字がくっきりと浮かび上がる。
「──……。
どうしてそう思うんだい?」
シエナが静かに問い返してくる。
俺の質問には全く答えちゃいない。
知っていて答えたくねぇのか、それともシエナ自身も分からなくって聞き返したのか──俺には判断が出来なかった。
俺は静かに息をついた。
そーして言う。
「───何でもねぇ」
言って、ふっと息をつくと、大分頭痛が和らいだ。
と、そこで──。
俺はふとある事に思い至って目を開く。
半身を起こしかけたが、鈍器で殴られた様な頭痛に思わず片手で頭を押さえる。
「~ちょいと、リッシュ……。
あんた、もう少し寝てた方が……」
シエナが言って俺の肩に手をやって、起こした体をベッドに戻そうとする。
俺はそいつに逆らいながら、片手で頭を押さえたままでシエナに向かった。
頭が強烈に痛んだが、んな事気にしてる場合じゃねぇ。
「~ミーシャは?」
片手で頭を押さえながら、思わずシエナに問う。
シエナが驚いたよーな目で俺をまじまじと見つめ返した。
その目があんまりにも俺を見るんで……俺は、自分で言った言葉に あっ、と思わず息を飲んでシエナから目を逸らした。
何も考えずに思わず声を上げちまったが、俺、思いっきりあいつの事本名で呼んじまったよな。
~いや、まだ誤魔化せるかもしれねぇ。
俺は目を逸らしたまま しどろもどろで続けた。
「~あっ、いや、その、ダルだよ、ダル。
あいつ──どっか行っちまったのか?」
言うとシエナがまじまじと俺を見つめてから、ニヤッと一つ笑う。
「“ミーシャ”ならね、」
わざわざそっちの名で言ってくる。
「まだちゃんと隣の部屋で寝てるよ。
昨日はよっぽど疲れちまったんだね」
言う。
俺はほっと一つ息をついて「そっか」と返した。
「つーかあいつの名前……知ってたのかよ?」
「昨日あの子が話してくれたからね。
だけどあんた、気をつけなよ。
あの子がせっかく偽名使って男のフリしてたってあんたのその軽い口一つであの子を大変な目に遭わしちまうかもしれないんだからね」
たしなめる様に言われて、俺は「お、おう」とやっとの事で口にする。
シエナは一つ息をついて言う。
「簡単にだけど、事情も聞いてる。
まぁ、あの子はしばらくここに寄せさせとくよ。
あの子もそれで納得してくれてる。
それでもやっぱり街を出るとなったら、それは仕方のない事、だろう?」
シエナが諭す様に言ってくるのに……俺は何にも言えずに下を向いた。
そんな俺に。
「それと──これ、」
言いながら、シエナが床に置きっぱなしになっていたらしい あるピクニック籠を俺の布団の上に乗せる。
「中に化粧道具やらが入ってるよ。
ミーシャに鍵を借りてね。
あんたん家から適当に見繕ってくるの、大変だったんだから。
ま、足りない物があっても今日はその中で上手くやるんだね。
……もうちょっと休んだらちゃんと支度して朝食食べて下に降りといで。
私はそろそろギルドを開けなけりゃならないから」
シエナが言ってくる。
俺は「お、おう」と返事してピクニック籠を手にした。
「朝食はテーブルに用意しとくよ。
あ、あと言っとくけどね」
言い置いて──シエナが俺をじろりと見る。
「ミーシャの部屋、勝手に覗いたりするんじゃないよ。
もし向こうの戸に手を触れてみな。
───あんた、地獄を見る事になるよ」
怖ぇ目でじろりと俺を見下ろして、シエナが言ってくる。
「~わ、分かってるよ」
半ばたじろぎながら言ってやると、シエナが満足した様に大きく一つ頷いた。
そーしてから──ほんのちょっと心配そうな顔で俺の事を見た。
「それから──。
ダルクの事だけどね、あんまり……引っ張られるんじゃないよ。
あれは昔の事なんだから。
あんたが調子を悪くしてまで思い出す必要はないんだからね」
そう言って、息をついて部屋を出ていく。
俺はピクニック籠を膝の上に置いたまま……その答えを、ただ考えたのだった──。
◆◆◆◆◆
シエナが持ってきてくれた化粧品はまぁまぁ大体俺が普段使ってるモンが揃っていた。
何だかあんまり気乗りしねぇまま女装して昨日夕食を食べた隣のリビングみてぇな部屋に行くと、テーブルの上にはもう朝食が並んで置いてある。
トマトとレタスのサラダに、丸いパンが二つ。
ベーコンエッグにオレンジジュース。
コーヒーや紅茶を出すんじゃなく、オレンジジュースってのが何だかガキの朝食って感じだった。
シエナのやつ、まだ俺を七つや八つのガキみてぇに思ってんじゃねぇよな……?
……まぁ、せっかく用意してくれたんだし文句を言うとバチが当たるか。
思いつつ、よっこらせっと席につくと、犬カバがすぐ脇に座って犬皿に盛られたドッグフードに頭を突っ込んで食べ出す。
傍目じゃ分からねぇが、多分昨日と同じドッグフードだろう。
よっぽど気に入ってんのか、がっつき方がいつもよりいい。
俺はそいつを横目に見ながら──ぼんやりとパンに手を伸ばしかける。
そうしてから「おっと」と一つ手を止めた。
俺は軽く食事の前で手を合わせてから再びパンに手を伸ばした。
不意に思い出す事があったからだ。
『ちゃんと手を合わせてから食べな!』
昔はよくダルクも俺も食事に伸ばした手を叩かれてシエナに怒られたもんだった。
『いってぇ~!』
俺はそうやって声を上げて、ダルクは叩かれた手をパタパタしながら何かを言っていた。
『────』
あいつ──何て言ってたんだったかな……?
ぼんやりとそんな事を思う。
俺は──黙々と静かに飯を食い終えてから、不意に目の前の席を──昨日はミーシャが座っていた席を見やる。
あいつがいなくなってからは、ずっと長い事一人っきりで、食事もテキトーに食って生きてただけだったのに……何だかミーシャがいねぇと、それだけでどうにもヘンな感じがする。
犬カバが床で皿までペロペロときれいに平らげるのを横目に見ながら、俺は食い終えた食器をまとめて立ち上がり、流しに入れておいた。
そーして……ミーシャがいるはずの扉の前に立つ。
「クヒ?」
いつの間に来たのか、俺の足元に犬カバがやって来て俺を見上げる。
俺は扉を二度ノックする。
木の乾いた音が部屋に響いた。
応答は、ねぇ。
もしかしたらまだ寝てるのかもしれねぇ。
俺は──それでも勇気を出して、口を開いた。
「……よう。
シエナが下に来いって言ってっから、俺、行くな。
また──晩飯食いにここに来るよ。
家の周りの様子とか……また話すからよ……。
それまでここにいてくれたら、うれしい」
勝手に晩飯までここで食べる事にして、言う。
予想はしてたが……やっぱりミーシャからの返事はねぇ。
俺は頭を掻いてその戸の前に少しの間いてから……そっとその場を離れようと足を出口へ踏み出した。
ところへ。
「──行ってらっしゃい」
一つ、扉の向こう側から声がかかる。
俺は思わず扉の方を振り返って扉を見た。
ミーシャの返事はそれだけで、俺の言葉に対しては何の答えにもなってねぇ。
けどそのたった一言が、何故か俺の胸を踊らせた。
俺が「おう」と返事すると同時、犬カバも「クッヒー!」と元気に返事する。
俺と犬カバはほんの少しだけ元気になって、下の階へ降りていったのだった──。
ひどい雨だった。
傘も差さずに……“そいつ”は飛行船に手をついて、ただ頭を垂れて突っ立っていた。
黒髪が雨に濡れている。
服もびしょ濡れだ。
俺は──少しの間そいつに声をかけようか迷って──そうしてパシャパシャと雨水を跳ねながら走ってそいつの元まで駆け寄った。
片手には自分の傘を差して、もう片手にはそいつの──ダルクの傘を持って。
「~何やってんだよ?
すげー雨だぞ。
またシエナに怒られるぞ」
言ってやる。
ダルクは───俺の声にようやく気がついた様に、ぼんやりと俺を見る。
その表情は、いつもと違っていた。
元気がねぇって言やぁいいのか、覇気がねぇって言やぁいいのか。
ああ、と返ってきた言葉も雨の音に掻き消されそうだった。
「──……どうしたんだよ?」
ダルクのあんまりにも妙な様子に、俺は若干心配になって訊ねる。
ダルクは──そっと飛行船に触れたまま、そいつを見上げた。
「──……なぁ、リッシュ。
俺は──ただ、こいつが空を飛んだら気持ちいいだろうと思ってたんだ。
それだけ、だったんだけどな………」
ダルクの声が雨の中に消える。
俺は、持ってきた傘をそいつに差し出す事も出来ずに、ただ不安な顔でダルクを見上げていた。
こんなダルクを見たのは、後にも先にもこの一度きりだった。
この時のダルクの胸中を──俺はずっと長い間、知る事がなかった──。
◆◆◆◆◆
ザアザアとどこか遠くで雨の音がする。
それに、ひでぇ頭痛だ。
ちゃんと眠ってるハズなのに思わず呻いているのが、自分で分かった。
頭がガンガンする。
何にも考えられねぇ。
「……ッシュ、リッシュ」
肩を軽く揺さぶられる。
俺は両手で頭を抱え、体を丸めたままぎゅっと目を閉じ続けた。
「……ッシュ。
あんた、頭が痛むのかい?」
聞き覚えのある声が聞こえた気がした。
──……シエナ、か?
「……う………」
呻きながら片目を無理やり開く。
ぼんやりした視界の向こうに心配そうに俺を見るシエナの顔があった。
「ちょっとまってな、今医者を呼んでくるから──」
言い置いて、シエナがパッとどこかへ行こうとする。
俺はそいつに。
「……だい、じょーぶ……だ」
声をかける。
声はかすれたが、どうにか言ってのける。
「……何でも、ねぇよ。
ただの頭痛だし………」
言うと、本当にゆっくりとだが、ほんの少し痛みが和らいだ。
相変わらず雨の音は鳴っている。
どーやら窓の外で雨が降ってるらしい。
気づけば俺の顔の横では犬カバが、こいつも心配そうに俺の様子を伺ってる。
俺は自分の額に片腕をやった。
そうやって額を腕で押さえつけて目を強く閉じたまま──あんまり体を動かさない様に静かに息をつく。
頭痛の原因は分かっていた。
あの夢──。
雨の中、ダルクが飛行船に手をついて、頭を垂れる姿。
それに──
「……あんた本当に医者呼ばなくて大丈夫かい?
脂汗かいてるじゃないか。
顔色も悪いし………」
考える俺の横から、シエナの声が届く。
俺は目元を腕で覆ったまま──ポツリ、呟く様に口を開く。
「───……ダルクの夢を見たよ」
言うと、シエナが一瞬息を詰めるのが分かった。
俺の枕元に置いてある赤い手帳に目を留めるのが気配で分かる。
「──あいつが死んだのってさ……。
飛行船や……サランディールって国に、関係があったのかな……?」
ぽつり、口から言葉がこぼれる。
『サランディール 執務の間』
俺の頭の中にダルクの手帳の最後の文字がくっきりと浮かび上がる。
「──……。
どうしてそう思うんだい?」
シエナが静かに問い返してくる。
俺の質問には全く答えちゃいない。
知っていて答えたくねぇのか、それともシエナ自身も分からなくって聞き返したのか──俺には判断が出来なかった。
俺は静かに息をついた。
そーして言う。
「───何でもねぇ」
言って、ふっと息をつくと、大分頭痛が和らいだ。
と、そこで──。
俺はふとある事に思い至って目を開く。
半身を起こしかけたが、鈍器で殴られた様な頭痛に思わず片手で頭を押さえる。
「~ちょいと、リッシュ……。
あんた、もう少し寝てた方が……」
シエナが言って俺の肩に手をやって、起こした体をベッドに戻そうとする。
俺はそいつに逆らいながら、片手で頭を押さえたままでシエナに向かった。
頭が強烈に痛んだが、んな事気にしてる場合じゃねぇ。
「~ミーシャは?」
片手で頭を押さえながら、思わずシエナに問う。
シエナが驚いたよーな目で俺をまじまじと見つめ返した。
その目があんまりにも俺を見るんで……俺は、自分で言った言葉に あっ、と思わず息を飲んでシエナから目を逸らした。
何も考えずに思わず声を上げちまったが、俺、思いっきりあいつの事本名で呼んじまったよな。
~いや、まだ誤魔化せるかもしれねぇ。
俺は目を逸らしたまま しどろもどろで続けた。
「~あっ、いや、その、ダルだよ、ダル。
あいつ──どっか行っちまったのか?」
言うとシエナがまじまじと俺を見つめてから、ニヤッと一つ笑う。
「“ミーシャ”ならね、」
わざわざそっちの名で言ってくる。
「まだちゃんと隣の部屋で寝てるよ。
昨日はよっぽど疲れちまったんだね」
言う。
俺はほっと一つ息をついて「そっか」と返した。
「つーかあいつの名前……知ってたのかよ?」
「昨日あの子が話してくれたからね。
だけどあんた、気をつけなよ。
あの子がせっかく偽名使って男のフリしてたってあんたのその軽い口一つであの子を大変な目に遭わしちまうかもしれないんだからね」
たしなめる様に言われて、俺は「お、おう」とやっとの事で口にする。
シエナは一つ息をついて言う。
「簡単にだけど、事情も聞いてる。
まぁ、あの子はしばらくここに寄せさせとくよ。
あの子もそれで納得してくれてる。
それでもやっぱり街を出るとなったら、それは仕方のない事、だろう?」
シエナが諭す様に言ってくるのに……俺は何にも言えずに下を向いた。
そんな俺に。
「それと──これ、」
言いながら、シエナが床に置きっぱなしになっていたらしい あるピクニック籠を俺の布団の上に乗せる。
「中に化粧道具やらが入ってるよ。
ミーシャに鍵を借りてね。
あんたん家から適当に見繕ってくるの、大変だったんだから。
ま、足りない物があっても今日はその中で上手くやるんだね。
……もうちょっと休んだらちゃんと支度して朝食食べて下に降りといで。
私はそろそろギルドを開けなけりゃならないから」
シエナが言ってくる。
俺は「お、おう」と返事してピクニック籠を手にした。
「朝食はテーブルに用意しとくよ。
あ、あと言っとくけどね」
言い置いて──シエナが俺をじろりと見る。
「ミーシャの部屋、勝手に覗いたりするんじゃないよ。
もし向こうの戸に手を触れてみな。
───あんた、地獄を見る事になるよ」
怖ぇ目でじろりと俺を見下ろして、シエナが言ってくる。
「~わ、分かってるよ」
半ばたじろぎながら言ってやると、シエナが満足した様に大きく一つ頷いた。
そーしてから──ほんのちょっと心配そうな顔で俺の事を見た。
「それから──。
ダルクの事だけどね、あんまり……引っ張られるんじゃないよ。
あれは昔の事なんだから。
あんたが調子を悪くしてまで思い出す必要はないんだからね」
そう言って、息をついて部屋を出ていく。
俺はピクニック籠を膝の上に置いたまま……その答えを、ただ考えたのだった──。
◆◆◆◆◆
シエナが持ってきてくれた化粧品はまぁまぁ大体俺が普段使ってるモンが揃っていた。
何だかあんまり気乗りしねぇまま女装して昨日夕食を食べた隣のリビングみてぇな部屋に行くと、テーブルの上にはもう朝食が並んで置いてある。
トマトとレタスのサラダに、丸いパンが二つ。
ベーコンエッグにオレンジジュース。
コーヒーや紅茶を出すんじゃなく、オレンジジュースってのが何だかガキの朝食って感じだった。
シエナのやつ、まだ俺を七つや八つのガキみてぇに思ってんじゃねぇよな……?
……まぁ、せっかく用意してくれたんだし文句を言うとバチが当たるか。
思いつつ、よっこらせっと席につくと、犬カバがすぐ脇に座って犬皿に盛られたドッグフードに頭を突っ込んで食べ出す。
傍目じゃ分からねぇが、多分昨日と同じドッグフードだろう。
よっぽど気に入ってんのか、がっつき方がいつもよりいい。
俺はそいつを横目に見ながら──ぼんやりとパンに手を伸ばしかける。
そうしてから「おっと」と一つ手を止めた。
俺は軽く食事の前で手を合わせてから再びパンに手を伸ばした。
不意に思い出す事があったからだ。
『ちゃんと手を合わせてから食べな!』
昔はよくダルクも俺も食事に伸ばした手を叩かれてシエナに怒られたもんだった。
『いってぇ~!』
俺はそうやって声を上げて、ダルクは叩かれた手をパタパタしながら何かを言っていた。
『────』
あいつ──何て言ってたんだったかな……?
ぼんやりとそんな事を思う。
俺は──黙々と静かに飯を食い終えてから、不意に目の前の席を──昨日はミーシャが座っていた席を見やる。
あいつがいなくなってからは、ずっと長い事一人っきりで、食事もテキトーに食って生きてただけだったのに……何だかミーシャがいねぇと、それだけでどうにもヘンな感じがする。
犬カバが床で皿までペロペロときれいに平らげるのを横目に見ながら、俺は食い終えた食器をまとめて立ち上がり、流しに入れておいた。
そーして……ミーシャがいるはずの扉の前に立つ。
「クヒ?」
いつの間に来たのか、俺の足元に犬カバがやって来て俺を見上げる。
俺は扉を二度ノックする。
木の乾いた音が部屋に響いた。
応答は、ねぇ。
もしかしたらまだ寝てるのかもしれねぇ。
俺は──それでも勇気を出して、口を開いた。
「……よう。
シエナが下に来いって言ってっから、俺、行くな。
また──晩飯食いにここに来るよ。
家の周りの様子とか……また話すからよ……。
それまでここにいてくれたら、うれしい」
勝手に晩飯までここで食べる事にして、言う。
予想はしてたが……やっぱりミーシャからの返事はねぇ。
俺は頭を掻いてその戸の前に少しの間いてから……そっとその場を離れようと足を出口へ踏み出した。
ところへ。
「──行ってらっしゃい」
一つ、扉の向こう側から声がかかる。
俺は思わず扉の方を振り返って扉を見た。
ミーシャの返事はそれだけで、俺の言葉に対しては何の答えにもなってねぇ。
けどそのたった一言が、何故か俺の胸を踊らせた。
俺が「おう」と返事すると同時、犬カバも「クッヒー!」と元気に返事する。
俺と犬カバはほんの少しだけ元気になって、下の階へ降りていったのだった──。
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