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【人見知りの清掃員】
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しおりを挟む静かな落ち着いたその声は、低く男性のもので。
「サユル医師……は、いらっしゃらないようですね……」
困ったようなその声に、陽音は身を強張らせて息を潜めた。
サユル医師。それは、なんだか聞き覚えのある名前。
陽音の記憶違いでなければ最後に意識を失う前、陽音を診てくれた医者がそう名乗っていたはず。
つまり、ここは……。
──ゆめの、なか……?
行き着いた答えに、血の気が引く。
ただ長い夢を見ているのか、それとも実際に現実世界では何日も経っているのか。詳しいことは定かではないが、ここが夢の中だということは確定してしまった。
──目、覚めるよね……?
言い様のない不安が陽音を襲う。
いつまで、夢の中での目覚めが繰り返されるのか。どうすれば夢から覚めることができるのか。
考えても何一つ分からない。
分かるのは、ここが夢の中だということだけ。
底知れぬ不安に、陽音が目眩を覚えていると、大きな溜め息が聞こえてきた。
未だ夢の中だという事実に絶望していた陽音は、布の向こう側に人がいたことを思い出し、ピクリと肩を震わせる。
「まったく……。呼び出しておきながら不在とは……」
どうやら布の向こう側の人物は、サユルに呼び出されてこの部屋に来たらしい。溜め息と共に小さくぼやくその人物。
陽音が息を止めて様子を伺っていれば、少ししてから小さな足音が聞こえてきた。
その足音は、陽音の方に近付いてくる。
「…………」
近付いてくる足音に、陽音の心臓がバクバクと暴れまわる。
──どうしよう。こっち来る。何で帰らないの? だって先生いないんでしょ? お願い帰って! せめてもう少し一人で考える時間をください!
キョロキョロと忙しなく目を動かして、静かにパニクる陽音。
しかし陽音の必死の願いも空しく、その人物はその場に留まった。
陽音のいるベッドの脇を通って、離れたところの椅子に座ったその人物。ギシ、と小さく木のようなものが軋む音がした。
──うぅ……。なんで。なんで一人にしてくれないの? いないなら探しに行けばいいじゃない。
陽音は、布の向こうで座っているのであろうその人物の場所に当たりをつけると、ぐっと睨んだ。その目は若干涙目だ。
ここが現実の世界じゃないと結論付けたばかりの陽音にとって、今、見知らぬ人物が視界には入らないとはいっても、すぐ近くにいるというのは、かなりの負担だった。
ただでさえ、目が覚めないという恐怖と不安に心が押し潰されているというのに、すぐ近くに見知らぬ人物。言い様のないプレッシャーに、胃がひっくり返ってしまいそうだ。
せめて一時間。いや三十分でもいい。一人で落ち着いて、この恐怖と不安を吐き出す時間があれば……。
そうすれば陽音だって、少しは冷静になって、とりあえずは現状を受け入れて、前に進むことができる。
もしかしたら見知らぬ人物とも、多少のコミュニケーションがとれる、かもしれない。
──お願いだから今すぐこの場から去ってください!
最早半泣きの状態で、布の向こうの人物を睨み付けながら、心のなかで懇願する陽音。
しかしそれは陽音の事情であって、その人物には関係ない。明らかに八つ当たりだ。
普段なら相手を責めたりするような陽音ではないのだが、それ程までに切羽詰まっていた。
泣き喚いててもおかしくないほどに。
「……っ」
今にも零れそうな涙に、ゆらゆらと揺れる黒い瞳。ぎゅっと色がなくなるほど噛み締められた小さな唇。
必死に泣くのを堪えていた陽音だったが……。
ポロリ、と一滴。丸い瞳から涙が零れるのと同時に、その口から、小さくひきつるような音か漏れてしまった。
慌てて両手で口を押さえるも、すでに遅く。
「ん? 誰かいるのですか? 今日は誰も医務室にお世話になっていないはずですが……」
不思議そうなその声に、陽音の心臓がバクバクと暴れだす。
──どうしようバレた! こっちに来たらどうしよう! この布開けられたら? 話しかけてきたら? どうしようどうしようどうしよう!
あまりの恐怖に、ボロボロと涙が零れ落ちる。
しかしそんな陽音の心情など、布の向こうの人物は露知らず。
「ああ、そういえば昨日、ケルディア団長が少女を…………ん?」
なにか思い出すように呟いていたその人物。しかし、不自然に言葉を切った。
それが余計に陽音の恐怖を煽り、涙は止まるどころか滝のように流れ出す。
「ふぅ……。来ましたか」
──な、なにが?!
静かにパニクる陽音のことなど知りもせず、布の向こうの人物は椅子から立ち上がり、歩き出す。
それから少しもしないうちに、もうひとつ足音が聞こえてきた。パタパタと小走りしているようなその足音は、この部屋に向かってきているようで……。
「補佐? あー、やっぱりいらしてたんですね。すみません」
「まったくですよ。呼び出しておいて不在だなんて……。もちろんきちんとした理由があるのですよね?」
飛び込むように入ってきたその足音の主は、部屋にいる人物を見て申し訳なさそうに謝罪した。
その声は、なんだか聞き覚えのある声で。陽音は静かに涙を流しながら首を傾げた。
──どこでだっけ。なんか、最近聞いた気がする……。
ぼんやりとした記憶を掘り起こそうと頑張る陽音の、布を挟んだ向こう側では、二人の人物が会話を続けていた。
「はい、それも含めて補佐に話が……」
「……ケルディア団長は?」
「もちろんご存じです。なんせ当事者ですからね。先程医務室を空けていた理由も、団長に呼ばれたからです」
──いむし、つ……だんちょう……。
聞こえてくる会話に、できれば思い出したくないつい最近の記憶が掘り起こされる。
「その団長はどちらに?」
「えーっと、部屋で仕事をしています。団長がここに来られると、少々問題が……」
「はぁ……。なんだかやっかいな気配しかしませんね」
「あはは」
──………あ! 先生だ。夢の中の、外国のお医者さん。
ようやく思い出せたそれに、ついつい両手をポンと合わせそうになり、ギリギリのところで踏みとどまった陽音は、そっと息を吐き出した。
せっかく二人の意識が自分に向かないように、必死に息を殺して存在を消しているのに、そんなことであっさり無駄になんてしたくない。
なんとかバレずに済んで、陽音は体の力を少し抜いた。
考え込んでいるうちに涙は自然と止まり、ぱしぱしと目を瞬けば眼に溜まっていた涙が、ぽとりぽとりと頬を伝って落ちていく。
「はぁ……。それで? お話とは?」
「あー、それなんですけど、ちょっと待ってもらってもいいですか?」
バレずに済んだことに安堵しつつも、油断はできないと陽音が気を引き締めていると、二人の会話が途切れた。
ドクリ、と心臓が跳ねる。なんだかとても、嫌な予感がする。
握り締めた掌がじんわりと湿りだし、顔が強張りだす。
「…………っ」
ドク、ドクと脈打つ鼓動。
ゆっくりと、近付いてくる足音。
──ああ……。うそ、でしょ……。
これから起こるであろう事態に、吐き気と共に再び涙が込み上げてきたとき。
「ハルさん。おはようございます、サユルです。……起きていますか?」
布越しに掛けられたその柔らかな声に、くらりと眩暈がした。
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