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■第二話 わがまま作家の願いごと

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 ともかく。その後トイレから戻ってきた竹林から外出の許可を得たちひろは、翌日の午前中、櫻田とともに美崎糸子が住んでいるという千葉の館山たたてやま市に赴いた。
 南房総みなみぼうそう地域の春はほかの地域より少し早いらしく、菜の花やポピー、水仙などといった春の花がとても綺麗だそうだ。今は初夏なので花はとうに見頃を終えてしまったが、首都圏からのアクセスがいいこともあって、これから夏に向けて海水浴客などの観光客がどっと押し寄せるだろう。櫻田の話では、その他観光スポットも豊富だそうだ。
 東京ディズニーリゾートがある浦安うらやす市方面から反時計回りに電車に揺られながら、市原いちはら市や木更津きさらづ市を過ぎて館山市に入る。美崎糸子は洲崎すざきのほうに住んでいるそうで、そこからは館山市の駅でレンタカーを借り、櫻田の運転で房総フラワーラインを南下していく。洲ノ崎燈台すのさきとうだいへ向かう道を右に折れてさらに進むと、美崎糸子の家があるそうだ。
 関東地方はすでに梅雨入りしているが、今日は気持ちよく晴れている。夏間近の青空と久しぶりの太陽を浴びてキラキラと輝く海が終始右側に臨めた移動時間は、たとえ横に残念な櫻田が常にいようとも、それなりに充実した時間だった。
「あああぁ、ちゃんと着いたぁ~。ここが美崎先生のご自宅です……」
 それからしばらく細い道を進み、燈台近くの民家がぽつぽつとある地域の、ひと際立派な家の庭先に車を停めると、櫻田がエンジンを切るなりハンドルに突っ伏し情けない声を上げた。ビクリと身を引きつつ何事かと訝しんでいると、櫻田は情けない声をそのままに「久しぶりの運転だったし、隣にちひろちゃんが乗ってて緊張したけど、無事に無事故無違反で着けてよかった。すげー、まだ心臓バクバク言ってるわ」と恐ろしいことを言う。
 ということはつまり、免許はあって運転もするが、本当にたまにだからペーパードライバーに近いということだろうか。ちひろは胸がザワザワする。さっきまで気持ちよく車窓から海や燈台を眺めていたというのに、これでは台無しだ。しかもなぜそれを着いてから言う? やっぱり来なきゃよかった。今から帰りのことが恐ろしい。
「……すみません、ちゃんとサイドブレーキ上げてもらってもいいですか」
「お。やばい、忘れてた。ははは」
「……」
 半眼になりつつ、こいつはやばい奴だとちひろは確信する。
 語弊はあるかもしれない。でもあえて言わせてもらえば、この年頃での男性のペーパードライバーはなんて幻滅するんだろうか。都心に勤めていれば移動は電車やバスという公共交通機関で事足りるのはわかるし、車を持っているほうが高くつくのもわかる。けれど言わなくてもいいことだって世の中にはあるのだ。口が軽い男は嫌われる。
 これを知ったら宝永社の長浜さんはなんて思うだろうか。幻滅するかもしれないし、まあ都会ってこんなもんですよ、なんてフォローするかもしれない。だが、知らず知らずのうちに命の危機に脅かされていたちひろには、幻滅意外に言葉はなかった。
「まあ、とりあえず行こう。もうすぐ約束の時間だし」
 これだから男は……と、ひとつも経験がないくせにわかったようなことを思いながら、美崎糸子のサインの言葉につられてちゃっかり『ヒッチハイク・ランデブー』の単行本と文庫本を持ってきたちひろは、櫻田に促されて玄関前に立つ。
 もちろんどちらも初版だ。残念ながらこれらには誤字脱字はなく愛でられなかったけれど、何度読んでも泣けるから全然いい。むしろこれに関しては校閲が完璧じゃないと。
 見上げるほどに大きい家は、古民家という雰囲気だ。呼び鈴も昭和の匂いが漂うものだし、玄関も引き戸式。最近では見ない雨戸もあって、屋根は重そうな瓦屋根だ。ビーという呼び鈴の音も、なんとなく昭和情緒漂う懐かしさを覚える。近隣の家もトタン屋根だったり木造だったりと、まるでタイプスリップでもしてきたような光景だ。
「まあ! あなたが校閲ちゃんね? いらっしゃい、待ってたわよ~!」
 ややあって玄関の戸がガラガラと開けられると、四十代中盤~後半と思われる女性が櫻田を押しのけるようにして彼の後ろに立っていたちひろに目を輝かせた。
 がしりと二の腕を掴まれ「あ、あの……」としか言えないちひろに、櫻田がタジタジといった様子で「この子が校閲部の斎藤ちひろです。ちひろちゃん、こちらが美崎糸子先生だよ、ちゃんとご挨拶して」と双方を紹介する。けれど美崎糸子は「そんな堅っ苦しいのはナシよ」と言ってすぐに家の中にちひろたちを入れ、立派な応接間に通す。待ちわびていたのだろう、ものの数十秒でお盆にケーキと紅茶を乗せて再び応接間にやってきた。
「さて。まずは紅茶にしましょうね。ティーバッグで申し訳ないんだけど」
 美崎糸子が座った横には、すでに電気ポットが保温になってスタンバイしていた。彼女はそこからカップにお湯を注ぎ、三人分のケーキと紅茶をそれぞれの前に置く。
「ごめんなさいね、私、せっかちな性格で。本当はちゃんとお湯を沸かしたり茶葉を蒸らしたりすれば美味しいんでしょうけど、その待ち時間ですら、イライラしちゃう性分なのよ。そうそう、カップ麺も三分なんてとても待てないの。だから四分とか五分とか、食べるまでに三分以上かかるものは性格上無理ね。お料理だってなんだって、すぐできてすぐ食べられるものがいいの。お店で食べるのもあんまり好きじゃないわ。お付き合いでランチとかディナーとかに行かなきゃいけないときは、もう大変。料理は待たなきゃいけないし、お相手とも話を合わせなきゃいけないしで、味なんてあってないようなものよ」
 美崎糸子は、ちひろたちに相づちを打つ暇さえ与えず、どうやったらそんな神業ができるのか、ケーキを頬張り紅茶を飲みつつ怒涛のマシンガンを炸裂させる。
 自分で言った通り、かなりせっかちな性格なのだろう。こちらはその迫力に呆気に取られ、のっけから固まってしまっているが、彼女の前のケーキだけはすでに半分以下だ。
「あら、やだ私ばっかり……。一人暮らしなものだから、お客様が来ると、つい楽しくって。年甲斐もなくはしゃいじゃったりして、恥ずかしいところを見せちゃったわね」
 そう言って照れたように肩を竦める美崎糸子は、失礼だが年齢のわりにとても可愛らしかった。でもその強烈なキャラクターにはなかなかついていけないのが実際のところだ。
 櫻田は彼女に会うたびにこんなマシンガンにいつも撃たれているのだろうか。
 さっきはかなり幻滅したし恐ろしかったが、なんだか少し不憫に思えてこなくもない。
「あの、今日お邪魔しましたのは、斎藤から詳しい話を聞きたいとのことで――」
 やっと美崎糸子が紅茶で喉を潤した隙をついて、今しかない! とばかりに本題を切り出した櫻田の顔は、笑ってこそいるけれど、もうすでにげっそりだ。
「そう! そうなのよ! 一体どうやって出版停止の危機を救ったの!?」
 すると、そんな櫻田のことは気にも留めず、というか気づかず、美崎糸子はようやくケーキを一口サイズに切り分けるためにフォークを持ったちひろにズイと身を乗り出した。その目は子供のようにキラキラしていて、今すぐ聞きたい気持ちに溢れている。
 向かいの席では、櫻田がしめしめといった様子で紅茶で一息つき、これ見よがしに大口を開けてケーキを頬張っている。……なんだよ、自分だけ解放されやがって。私だってケーキ食べたい。ちひろはまた一つ、櫻田に激しく幻滅した。
 ともあれ。
「――というわけなんです」
「へぇ。そんなこともあるのねぇ。で、今、その作家さんはどうなっているの?」
「家族の再生に向けてご家族全員で頑張っているみたいです」
「あるべき家族の形になるといいわね。ありがとう。とっても面白い話が聞けたわ」
「いえ。こちらこそ、わざわざお時間を割いていただいてありがとうございます」
 美崎糸子にこの間の経緯を説明し終えると、ちひろはようやく手付かずだったケーキにフォークを入れ、その美味しさに舌鼓を打つことが叶った。ケーキは三つともショートケーキで、大ぶりの苺が乗っただけのシンプルなものだったが、和菓子とはまた違う洋菓子のとろけるような甘さやスポンジの柔らかさは、ちひろの心をほっと落ち着かせる。
 普段は本しか読まず、対人スキルが劣化しきっているちひろには、人前でこんなにもたくさん話すのは、ざっと一年分の余命が削られるくらいに精神的疲労が大きい。でも、植木賞作家である美崎糸子がわざわざこんなただの校閲部員に話を聞きたいと家に呼んでくれたことは、今になって考えると、とても名誉のあることに思えてならなかった。
 これで執筆意欲が湧いてくれればいいんだけど、と思いながら、すっかり冷めきってしまった紅茶を一口含む。少し渋いが、これはこれで味があって美味しい。
「どうです? 先生」
 その向かいでは、間髪入れずに櫻田が尋ねる。またマシンガンとともに話を脱線されたら、執筆してもらうために〝作家先生の変にアクティブなところ〟に常に笑って付き合っている櫻田でも、さすがにたまったものではないだろう。
 ちひろの話から派生して何かいいアイディアが生まれたら、さっそく打ち合わせに入りたいに違いない。彼女の明るい性格からはなかなか想像できないけれど、ここ数年はスランプだと聞いている。櫻田も彼女の担当編集をしている以上、若手だろうと若輩者だろうと、なんとかして新作を、長編新作を一本、書かせてやりたいはずだ。
「そうねぇ。ちょっと構想を練りたいから、とりあえず洲ノ崎燈台に行きましょうか!」
「……はい?」
「といっても、燈台には登れないの。登れるのは近くにある展望台からね。でも展望台から眺める景色も最高なのよ。のどかな風景と綺麗な海が見渡せるわ!」
 しかし美崎糸子は、たった今までの思案顔をぱっと崩して突飛な提案をした。再び固まるちひろと櫻田を気に留めるふうでもなく、さっと立ち上がると、にっこり笑う。
 そうと言うからには、櫻田もちひろも強制的に同行させられることになるのだろう。さっそく櫻田のレンタカーで恐怖のドライブ再びで洲ノ崎燈台まで車を走らせる。
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