20 / 27
■5.聖夜の鬼は下僕に傅(かしず)く
<4>
しおりを挟む
「薪。薪にだから、俺はこんなになるんだ、正真正銘〝薪のもの〟だろ?」
やがてようやく大人しくなった自身を抜き、うつ伏せになったままの薪の横に真紘も倒れ込むようにして寝転ぶと、薪の頬に掛かる髪を払いつつ真紘が尋ねた。
「――はい」
噛みしめるように答えて、薪も汗でしっとりと濡れた真紘の髪を少し整える。
すると真紘が目を閉じて本当に幸せそうに口元を綻ばせるから、薪の胸は思わずきゅぅと甘く絞られ、つられて「ふふ」と笑い声が零れていった。
「……あー、それ、薪に〝よくできました〟って褒めてもらってるみたいで、すげー嬉しい。もっと撫でろよ。あと、本当に薪に言ってほしい。言え」
「ええっ?」
けれど、真紘ときたら、これである。
どこでどう〝甘えたがり〟のスイッチが入ったのかはわからないものの、もぞもぞと薪のほうに頭を寄せて撫でやすいように距離を詰めつつ上目遣いで見つめてくるので、薪は真紘のあまりの可愛らしさと、言って喜ばせてあげたいけれど恥ずかしい気持ちとの間で心が揺れて、どうしようと目まで泳いでしまう。
だいたい、真紘と抱き合うときは主導権なんてものはない。どちらがどう相手に尽くしたかとか、してほしいことを汲み取ったかとか、そういうことで気持ちを確かめ合っているわけではなく、ただ、お互いが〝こうしたい〟〝こうしてほしい〟と思うことを言葉で伝え合ったり行為で示し合ったりしているだけだ。
「……、……」
――主任ってば、どうしちゃったの。……すごく可愛いけど。
次の言葉が見つけられないまま、薪はしばし固まってしまった。
「薪、言ってほしい。そしたら、薪がしてほしいこと、なんでも叶えるから」
すると、再度、真紘が言う。
そんな交換条件を出してまで〝よくできました〟と言ってほしかったとは、ちょっと想像していなかったけれど、きっとそれだけ甘えたい気分なのだろう。
それに、自分にだからこんなふうに甘えたがりな部分を惜しげもなく見せてくれることを、薪はもうとっくに知っている。
――それなら、ずっと知りたかったことを聞いたら教えてくれるかも。
「なんでも、ですか?」
「そうだ」
「聞きたいこととか、教えてほしいことでもいいですか?」
「いいぞ。それも薪がしてほしいことだし」
「……わかりました」
ひとつ〝してほしいこと〟思いついた薪は、真紘に確認を取ると、唇を開く。
言ったら真紘はすごく喜んでくれることはわかっている。薪だって、交換条件なんてなくても真紘がしてほしいことはなんでも叶えたい。ただ、ほぼほぼ子どもを褒めるときに使う言葉なことと、それを望んでいるのが自分より年上の〝大人の男性〟だということで、ちょっと――いや、だいぶ抵抗感がすごい。
「よ、よくできました……?」
それでも何度か深く呼吸をして気持ちを整えると、薪は意を決して声に出した。どうにかこうにか、真紘が喜ぶことのほうが恥ずかしさを超えてくれた結果だ。
「……うわーもうめちゃくちゃ恥ずかしいっ!」
「ふはっ。最高だ、薪。すげー嬉しい。ははっ。赤くなって可愛いな」
「……主任がそうさせてるんじゃないですか」
「そうだな。可愛い、薪。嬉しい」
「もう。子どもみたいですよ。あははっ」
とはいえ、こんなにも嬉しい気持ちを表に出してもらえると、言ってよかったと思えてくるから不思議だ。不服というか、不満というか、そういう気持ちも一気に吹き飛ぶような真紘の嬉しがり様は、いつの間にか薪のことも笑顔にした。
「――で? 薪のしてほしいことって?」
「あ、それなんですけど、ずっと知りたかったことがあって」
「ん?」
ひとしきり、ふたりで笑ったあと、改めて聞かれた薪は、それまでうつ伏せのままでいた身体を真紘のほうに向け、向き合う形を取ることにした。これといって畏まった話でもないのだけれど、どうせならちゃんと真紘の顔を見て尋ねたかったし、答えてくれるだろう真紘の言葉も、しっかりと向き合って聞きたかった。
「あの、主任はどうして私がよかったんですか? 会社には綺麗な人がたくさんいて、プライベートにだって出会いがたくさんあるじゃないですか。なのに、これまでの私に主任に好きになってもらえるようなところがあったかなって、ちょっと思ってて。……ほら、主任も知ってますけど、ちょっと前までの私は、休みの日はずっと部屋でごろごろしてばかりだったので。ずっと不思議に思ってたんです」
「……、……薪は、俺がだいぶしんどかったときに助けてくれたんだよ」
すると、普段は考え込んでも数秒という真紘には珍しく、たっぷりと間を取ってからそう言った真紘は、少しだけ目を伏せると薪の手を握りしめた。
「主任……?」
途端に真紘が纏う空気が重く苦しげなものに変わって、薪は、聞いてはいけないことを聞いてしまったかもしれないという不安や後悔が胸に募っていく。
「あ、あの、絶対に聞きたいってわけじゃ――」
「いや。話すよ。勘のいい麻井も知らないだろうから」
「……」
なんとか場を仕切り直そうとするけれど、真紘に言葉尻を奪われてしまい、薪はあとに続く言葉にどうにも詰まって、結局、開いた口が閉じてしまった。
真紘が薪のことで一喜一憂していた場面にあれだけ出くわしていた由里子にもわからないだろうと言うのなら、薪には到底、見当なんて付くはずもない。
由里子の話では、真紘が薪のことを好きだと気づいたのは、去年――入社して一年ほど経った頃だというから、もうかれこれ二年近く想ってもらっている。
その間に、真紘が言うところの〝だいぶしんどい〟出来事や、それに付随するような何かがあっただろうかと、ましてや真紘の助けになるようなことをしただろうかと、ざっと思い返してみるけれど、勘のいい由里子にもわからないだろうことを鈍すぎる自分がわかるはずもなく、薪はただただ、不安で胸がいっぱいになりながら、真紘が口を開くのをじっと待つしかなかった。
……悲しいかな、薪には何かやらかすたびに真紘に怒られた記憶しかない。
「こんな格好じゃ、ちょっとな」
やがて薪と目を合わせると、真紘はそう言って少し苦笑した。薪も「そうですよね」と控えめに笑顔を返して、とりあえず服を着ることにする。
シャワーを浴びたらすぐに寝室へ行ったので、服とはいっても下着くらいしか身に着けるものはなかったけれど、先にベッドを出た真紘から自分のTシャツとハーフパンツを受け取った薪は、ぶかぶかのそれを着ると、真紘とともにリビングへ向かい、暖炉の前のソファーに並んで座った。
「……、……」
――ど、どうしよう、すごく緊張する……。
つい先ほどまでの甘くじゃれ合うような時間はどこに行ってしまったんだろうとは思う。せっかくサプライズで連れて来てくれたクリスマス旅行なのに、とも。
けれどこれは、予想外のことではあったものの、薪が仕掛けたことだ。
今さら〝明日にしましょう〟なんて言えないし、それではあの日、真紘と〝証〟が欲しくて身体を重ねたときに、自分の心臓の上に真紘の手を置いて『これ、主任にだから鳴る音なんです』『これじゃあ、主任から離れたくないって思ってる気持ちの証明になりませんか?』と言った薪自身にも、くしゃりと顔を歪ませながら真紘が言ってくれた『……ありがとう』にも嘘をついてしまうことになる。
それだけは、どうしても嫌だ。
ひとつ、深く呼吸をして、薪は弱気な自分を追い払う。
――よし。何を聞いても、私は主任の傍から離れたりしない。
「お願いします、主任。私、ずっと主任の傍にいますから」
そう言って薪は真紘の手を取る。少し冷えてかさついている真紘の指先は、きっとそれだけ話すことに緊張や怖さを感じている証拠だろう。
自分の思いつきのせいで真紘は今、思い出したくないだろうし、できれば話したくなかっただろうことを話そうとしているのは薪だってわかっている。けれど、ひとつ、わがままなことを思ってもいいのなら、真紘が抱える辛さをふたりで分け合えないだろうかと、薪はそんなことを思う。
真紘に与えてもらうだけじゃない。薪だって真紘に与えたいし、分け合いたい。
それがどんなことであっても、薪は嬉しい。
「……ありがとうな、薪。惚れ直すわ」
すると、そう言った真紘が反対の手で薪の頭を肩に引き寄せた。肩口に頭を預ける形になった薪は、優しい手つきで頭を撫でてくれた真紘に、いいえと首を振る。
こんなときだけれど、やっぱり真紘の匂いは落ち着くなと薪は思う。
真紘が貸してくれた、ぶかぶかの服に身を包み、隣には同じ匂いのする真紘がぴったりと寄り添っていて、さっきまでは身体の外側も内側も濃密な真紘の匂いにいっぱいになった。こんなにも心強いことはないだろうと思うし、できることなら真紘にも自分が隣にいることで同じように感じてもらえたらいいなと思う。
その気持ちが伝わったのか、ややして、真紘が口を開く。
「――俺な、薪たちの後輩をひとり、潰したんだ」
そう、重苦しい声色と言葉ではじまった真紘の話は、こういうことだった。
去年の春、薪や由里子が編集部に配属になって二年目、その年も、もとからギリギリの人数だった編集部に新入社員がひとり配属になり、真紘は部長の諸住から『忙しいところ申し訳ないけれど』と、その指導を任されることになった。
編集部に新しく人が入っても、いつもギリギリなのは、身も蓋もない言い方をすれば、それが抜けた人員の補充という位置付けもあるからだ。退職や転職、異動など理由は様々だけれど、薪や由里子もそういうわけで編集部に配属になった。
ふたりとも事務職で採用されたはずが、なぜかどっぷりと編集職に浸っているのには、編集部全体としての、のっぴきならない理由も含まれているというわけだ。
そういったこちら側の事情もあり、教育を任されることになった真紘は、人に〝教える〟という〝立場〟に覚悟はしていたものの、それでも次第に心にも身体にも余裕がなくなっていくのが自分でも手に取るようにわかったという。
「ハキハキした、感じのいいやつで、飲み込みは早いし要領もよくて、例えば編集会議の資料をまとめてもらったり、付き合いが長いスタジオや馴染みのスタッフへの撮影のアポ取りなんかは、すぐに任せるようになったんだ。あとで報告だけ上げてくれればいい、って言ってな。……正直、自分の仕事で手一杯だったんだよ」
言い方は悪いけど、手を抜けるところは抜かないと、だいぶしんどかった――そう言い直した真紘は、後悔と申し訳なさを滲ませた顔をして下唇を噛みしめた。
「覚えてないか? 古賀って名前の、忠犬みたいに人懐っこいやつ」
「古賀君……」
聞かれて薪は、その頃の記憶を手繰り寄せる。
確か去年の春頃も編集部から人が抜けて忙しさはかなりのものだった。
年度替わりに伴う人事異動と育児休暇を取る社員が重なり、残った社員はその人たちが関わっていた案件や顧客を引き継いだ。二年目になろうかという薪や由里子も少ないながら仕事を引き継いだため、てんやわんやだったように記憶している。
そんな中で新年度になり、新入社員が入ると、編集部にもひとり、若い男の子が配属になった。最初のあいさつでその彼は、仕事柄、営業にも編集作業にも関わることを『人と話すのも雑誌も大好だから、編集部に配属になって嬉しい』というようなことを明るく元気に言って、にこにこ笑っていたように思う。
真紘が言った通り、ハキハキした、とても感じのいい男の子だった。
教育係の真紘にいろいろと仕事を教わる姿は、まるで忠犬みたいで可愛らしいなと思った記憶もある。『新田さん! 新田さん!』と、よく真紘に指示を仰いでは一生懸命にデスクに向かっていた姿も印象に残っていて、鬼だなんだと言われる真紘も、そんな彼を可愛がっていたように薪には見えていた。
「――はい。目がくりくりっとした、可愛らしい顔立ちの子ですよね?」
二か月くらいして別の部署に異動していったけれど、そういえば、詳しい理由を薪は知らない。あまりに早かったので編集部もざわついたし、薪だって、どうして急に異動なんてと思った。由里子と何度も〝なんで?〟と目を見合わせたし、せっかくいい子が入って真紘も可愛がっていたのにと残念にも思った。
……その頃と前後して、真紘はよく部長の諸住と会議室に籠っていたようだったけれど、彼の異動と何か関係があるのだろうか。
やがてようやく大人しくなった自身を抜き、うつ伏せになったままの薪の横に真紘も倒れ込むようにして寝転ぶと、薪の頬に掛かる髪を払いつつ真紘が尋ねた。
「――はい」
噛みしめるように答えて、薪も汗でしっとりと濡れた真紘の髪を少し整える。
すると真紘が目を閉じて本当に幸せそうに口元を綻ばせるから、薪の胸は思わずきゅぅと甘く絞られ、つられて「ふふ」と笑い声が零れていった。
「……あー、それ、薪に〝よくできました〟って褒めてもらってるみたいで、すげー嬉しい。もっと撫でろよ。あと、本当に薪に言ってほしい。言え」
「ええっ?」
けれど、真紘ときたら、これである。
どこでどう〝甘えたがり〟のスイッチが入ったのかはわからないものの、もぞもぞと薪のほうに頭を寄せて撫でやすいように距離を詰めつつ上目遣いで見つめてくるので、薪は真紘のあまりの可愛らしさと、言って喜ばせてあげたいけれど恥ずかしい気持ちとの間で心が揺れて、どうしようと目まで泳いでしまう。
だいたい、真紘と抱き合うときは主導権なんてものはない。どちらがどう相手に尽くしたかとか、してほしいことを汲み取ったかとか、そういうことで気持ちを確かめ合っているわけではなく、ただ、お互いが〝こうしたい〟〝こうしてほしい〟と思うことを言葉で伝え合ったり行為で示し合ったりしているだけだ。
「……、……」
――主任ってば、どうしちゃったの。……すごく可愛いけど。
次の言葉が見つけられないまま、薪はしばし固まってしまった。
「薪、言ってほしい。そしたら、薪がしてほしいこと、なんでも叶えるから」
すると、再度、真紘が言う。
そんな交換条件を出してまで〝よくできました〟と言ってほしかったとは、ちょっと想像していなかったけれど、きっとそれだけ甘えたい気分なのだろう。
それに、自分にだからこんなふうに甘えたがりな部分を惜しげもなく見せてくれることを、薪はもうとっくに知っている。
――それなら、ずっと知りたかったことを聞いたら教えてくれるかも。
「なんでも、ですか?」
「そうだ」
「聞きたいこととか、教えてほしいことでもいいですか?」
「いいぞ。それも薪がしてほしいことだし」
「……わかりました」
ひとつ〝してほしいこと〟思いついた薪は、真紘に確認を取ると、唇を開く。
言ったら真紘はすごく喜んでくれることはわかっている。薪だって、交換条件なんてなくても真紘がしてほしいことはなんでも叶えたい。ただ、ほぼほぼ子どもを褒めるときに使う言葉なことと、それを望んでいるのが自分より年上の〝大人の男性〟だということで、ちょっと――いや、だいぶ抵抗感がすごい。
「よ、よくできました……?」
それでも何度か深く呼吸をして気持ちを整えると、薪は意を決して声に出した。どうにかこうにか、真紘が喜ぶことのほうが恥ずかしさを超えてくれた結果だ。
「……うわーもうめちゃくちゃ恥ずかしいっ!」
「ふはっ。最高だ、薪。すげー嬉しい。ははっ。赤くなって可愛いな」
「……主任がそうさせてるんじゃないですか」
「そうだな。可愛い、薪。嬉しい」
「もう。子どもみたいですよ。あははっ」
とはいえ、こんなにも嬉しい気持ちを表に出してもらえると、言ってよかったと思えてくるから不思議だ。不服というか、不満というか、そういう気持ちも一気に吹き飛ぶような真紘の嬉しがり様は、いつの間にか薪のことも笑顔にした。
「――で? 薪のしてほしいことって?」
「あ、それなんですけど、ずっと知りたかったことがあって」
「ん?」
ひとしきり、ふたりで笑ったあと、改めて聞かれた薪は、それまでうつ伏せのままでいた身体を真紘のほうに向け、向き合う形を取ることにした。これといって畏まった話でもないのだけれど、どうせならちゃんと真紘の顔を見て尋ねたかったし、答えてくれるだろう真紘の言葉も、しっかりと向き合って聞きたかった。
「あの、主任はどうして私がよかったんですか? 会社には綺麗な人がたくさんいて、プライベートにだって出会いがたくさんあるじゃないですか。なのに、これまでの私に主任に好きになってもらえるようなところがあったかなって、ちょっと思ってて。……ほら、主任も知ってますけど、ちょっと前までの私は、休みの日はずっと部屋でごろごろしてばかりだったので。ずっと不思議に思ってたんです」
「……、……薪は、俺がだいぶしんどかったときに助けてくれたんだよ」
すると、普段は考え込んでも数秒という真紘には珍しく、たっぷりと間を取ってからそう言った真紘は、少しだけ目を伏せると薪の手を握りしめた。
「主任……?」
途端に真紘が纏う空気が重く苦しげなものに変わって、薪は、聞いてはいけないことを聞いてしまったかもしれないという不安や後悔が胸に募っていく。
「あ、あの、絶対に聞きたいってわけじゃ――」
「いや。話すよ。勘のいい麻井も知らないだろうから」
「……」
なんとか場を仕切り直そうとするけれど、真紘に言葉尻を奪われてしまい、薪はあとに続く言葉にどうにも詰まって、結局、開いた口が閉じてしまった。
真紘が薪のことで一喜一憂していた場面にあれだけ出くわしていた由里子にもわからないだろうと言うのなら、薪には到底、見当なんて付くはずもない。
由里子の話では、真紘が薪のことを好きだと気づいたのは、去年――入社して一年ほど経った頃だというから、もうかれこれ二年近く想ってもらっている。
その間に、真紘が言うところの〝だいぶしんどい〟出来事や、それに付随するような何かがあっただろうかと、ましてや真紘の助けになるようなことをしただろうかと、ざっと思い返してみるけれど、勘のいい由里子にもわからないだろうことを鈍すぎる自分がわかるはずもなく、薪はただただ、不安で胸がいっぱいになりながら、真紘が口を開くのをじっと待つしかなかった。
……悲しいかな、薪には何かやらかすたびに真紘に怒られた記憶しかない。
「こんな格好じゃ、ちょっとな」
やがて薪と目を合わせると、真紘はそう言って少し苦笑した。薪も「そうですよね」と控えめに笑顔を返して、とりあえず服を着ることにする。
シャワーを浴びたらすぐに寝室へ行ったので、服とはいっても下着くらいしか身に着けるものはなかったけれど、先にベッドを出た真紘から自分のTシャツとハーフパンツを受け取った薪は、ぶかぶかのそれを着ると、真紘とともにリビングへ向かい、暖炉の前のソファーに並んで座った。
「……、……」
――ど、どうしよう、すごく緊張する……。
つい先ほどまでの甘くじゃれ合うような時間はどこに行ってしまったんだろうとは思う。せっかくサプライズで連れて来てくれたクリスマス旅行なのに、とも。
けれどこれは、予想外のことではあったものの、薪が仕掛けたことだ。
今さら〝明日にしましょう〟なんて言えないし、それではあの日、真紘と〝証〟が欲しくて身体を重ねたときに、自分の心臓の上に真紘の手を置いて『これ、主任にだから鳴る音なんです』『これじゃあ、主任から離れたくないって思ってる気持ちの証明になりませんか?』と言った薪自身にも、くしゃりと顔を歪ませながら真紘が言ってくれた『……ありがとう』にも嘘をついてしまうことになる。
それだけは、どうしても嫌だ。
ひとつ、深く呼吸をして、薪は弱気な自分を追い払う。
――よし。何を聞いても、私は主任の傍から離れたりしない。
「お願いします、主任。私、ずっと主任の傍にいますから」
そう言って薪は真紘の手を取る。少し冷えてかさついている真紘の指先は、きっとそれだけ話すことに緊張や怖さを感じている証拠だろう。
自分の思いつきのせいで真紘は今、思い出したくないだろうし、できれば話したくなかっただろうことを話そうとしているのは薪だってわかっている。けれど、ひとつ、わがままなことを思ってもいいのなら、真紘が抱える辛さをふたりで分け合えないだろうかと、薪はそんなことを思う。
真紘に与えてもらうだけじゃない。薪だって真紘に与えたいし、分け合いたい。
それがどんなことであっても、薪は嬉しい。
「……ありがとうな、薪。惚れ直すわ」
すると、そう言った真紘が反対の手で薪の頭を肩に引き寄せた。肩口に頭を預ける形になった薪は、優しい手つきで頭を撫でてくれた真紘に、いいえと首を振る。
こんなときだけれど、やっぱり真紘の匂いは落ち着くなと薪は思う。
真紘が貸してくれた、ぶかぶかの服に身を包み、隣には同じ匂いのする真紘がぴったりと寄り添っていて、さっきまでは身体の外側も内側も濃密な真紘の匂いにいっぱいになった。こんなにも心強いことはないだろうと思うし、できることなら真紘にも自分が隣にいることで同じように感じてもらえたらいいなと思う。
その気持ちが伝わったのか、ややして、真紘が口を開く。
「――俺な、薪たちの後輩をひとり、潰したんだ」
そう、重苦しい声色と言葉ではじまった真紘の話は、こういうことだった。
去年の春、薪や由里子が編集部に配属になって二年目、その年も、もとからギリギリの人数だった編集部に新入社員がひとり配属になり、真紘は部長の諸住から『忙しいところ申し訳ないけれど』と、その指導を任されることになった。
編集部に新しく人が入っても、いつもギリギリなのは、身も蓋もない言い方をすれば、それが抜けた人員の補充という位置付けもあるからだ。退職や転職、異動など理由は様々だけれど、薪や由里子もそういうわけで編集部に配属になった。
ふたりとも事務職で採用されたはずが、なぜかどっぷりと編集職に浸っているのには、編集部全体としての、のっぴきならない理由も含まれているというわけだ。
そういったこちら側の事情もあり、教育を任されることになった真紘は、人に〝教える〟という〝立場〟に覚悟はしていたものの、それでも次第に心にも身体にも余裕がなくなっていくのが自分でも手に取るようにわかったという。
「ハキハキした、感じのいいやつで、飲み込みは早いし要領もよくて、例えば編集会議の資料をまとめてもらったり、付き合いが長いスタジオや馴染みのスタッフへの撮影のアポ取りなんかは、すぐに任せるようになったんだ。あとで報告だけ上げてくれればいい、って言ってな。……正直、自分の仕事で手一杯だったんだよ」
言い方は悪いけど、手を抜けるところは抜かないと、だいぶしんどかった――そう言い直した真紘は、後悔と申し訳なさを滲ませた顔をして下唇を噛みしめた。
「覚えてないか? 古賀って名前の、忠犬みたいに人懐っこいやつ」
「古賀君……」
聞かれて薪は、その頃の記憶を手繰り寄せる。
確か去年の春頃も編集部から人が抜けて忙しさはかなりのものだった。
年度替わりに伴う人事異動と育児休暇を取る社員が重なり、残った社員はその人たちが関わっていた案件や顧客を引き継いだ。二年目になろうかという薪や由里子も少ないながら仕事を引き継いだため、てんやわんやだったように記憶している。
そんな中で新年度になり、新入社員が入ると、編集部にもひとり、若い男の子が配属になった。最初のあいさつでその彼は、仕事柄、営業にも編集作業にも関わることを『人と話すのも雑誌も大好だから、編集部に配属になって嬉しい』というようなことを明るく元気に言って、にこにこ笑っていたように思う。
真紘が言った通り、ハキハキした、とても感じのいい男の子だった。
教育係の真紘にいろいろと仕事を教わる姿は、まるで忠犬みたいで可愛らしいなと思った記憶もある。『新田さん! 新田さん!』と、よく真紘に指示を仰いでは一生懸命にデスクに向かっていた姿も印象に残っていて、鬼だなんだと言われる真紘も、そんな彼を可愛がっていたように薪には見えていた。
「――はい。目がくりくりっとした、可愛らしい顔立ちの子ですよね?」
二か月くらいして別の部署に異動していったけれど、そういえば、詳しい理由を薪は知らない。あまりに早かったので編集部もざわついたし、薪だって、どうして急に異動なんてと思った。由里子と何度も〝なんで?〟と目を見合わせたし、せっかくいい子が入って真紘も可愛がっていたのにと残念にも思った。
……その頃と前後して、真紘はよく部長の諸住と会議室に籠っていたようだったけれど、彼の異動と何か関係があるのだろうか。
2
お気に入りに追加
93
あなたにおすすめの小説
社長室の蜜月
ゆる
恋愛
内容紹介:
若き社長・西園寺蓮の秘書に抜擢された相沢結衣は、突然の異動に戸惑いながらも、彼の完璧主義に応えるため懸命に働く日々を送る。冷徹で近寄りがたい蓮のもとで奮闘する中、結衣は彼の意外な一面や、秘められた孤独を知り、次第に特別な絆を築いていく。
一方で、同期の嫉妬や社内の噂、さらには会社を揺るがす陰謀に巻き込まれる結衣。それでも、蓮との信頼関係を深めながら、二人は困難を乗り越えようとする。
仕事のパートナーから始まる二人の関係は、やがて揺るぎない愛情へと発展していく――。オフィスラブならではの緊張感と温かさ、そして心揺さぶるロマンティックな展開が詰まった、大人の純愛ストーリー。
ネカフェ難民してたら鬼上司に拾われました
瀬崎由美
恋愛
穂香は、付き合って一年半の彼氏である栄悟と同棲中。でも、一緒に住んでいたマンションへと帰宅すると、家の中はほぼもぬけの殻。家具や家電と共に姿を消した栄悟とは連絡が取れない。彼が持っているはずの合鍵の行方も分からないから怖いと、ビジネスホテルやネットカフェを転々とする日々。そんな穂香の事情を知ったオーナーが自宅マンションの空いている部屋に居候することを提案してくる。一緒に住むうち、怖くて仕事に厳しい完璧イケメンで近寄りがたいと思っていたオーナーがド天然なのことを知った穂香。居候しながら彼のフォローをしていくうちに、その意外性に惹かれていく。
不埒な一級建築士と一夜を過ごしたら、溺愛が待っていました
入海月子
恋愛
有本瑞希
仕事に燃える設計士 27歳
×
黒瀬諒
飄々として軽い一級建築士 35歳
女たらしと嫌厭していた黒瀬と一緒に働くことになった瑞希。
彼の言動は軽いけど、腕は確かで、真摯な仕事ぶりに惹かれていく。
ある日、同僚のミスが発覚して――。
ダブル シークレットベビー ~御曹司の献身~
菱沼あゆ
恋愛
念願のランプのショップを開いた鞠宮あかり。
だが、開店早々、植え込みに猫とおばあさんを避けた車が突っ込んでくる。
車に乗っていたイケメン、木南青葉はインテリアや雑貨などを輸入している会社の社長で、あかりの店に出入りするようになるが。
あかりには実は、年の離れた弟ということになっている息子がいて――。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
【完結】育てた後輩を送り出したらハイスペになって戻ってきました
藤浪保
恋愛
大手IT会社に勤める早苗は会社の歓迎会でかつての後輩の桜木と再会した。酔っ払った桜木を家に送った早苗は押し倒され、キスに翻弄されてそのまま関係を持ってしまう。
次の朝目覚めた早苗は前夜の記憶をなくし、関係を持った事しか覚えていなかった。
【完結】溺愛予告~御曹司の告白躱します~
蓮美ちま
恋愛
モテる彼氏はいらない。
嫉妬に身を焦がす恋愛はこりごり。
だから、仲の良い同期のままでいたい。
そう思っているのに。
今までと違う甘い視線で見つめられて、
“女”扱いしてるって私に気付かせようとしてる気がする。
全部ぜんぶ、勘違いだったらいいのに。
「勘違いじゃないから」
告白したい御曹司と
告白されたくない小ボケ女子
ラブバトル開始
私の婚活事情〜副社長の策に嵌まるまで〜
みかん桜(蜜柑桜)
恋愛
身長172センチ。
高身長であること以外はいたって平凡なアラサーOLの佐伯花音。
婚活アプリに登録し、積極的に動いているのに中々上手く行かない。
名前からしてもっと可愛らしい人かと…ってどういうこと? そんな人こっちから願い下げ。
−−−でもだからってこんなハイスペ男子も求めてないっ!!
イケメン副社長に振り回される毎日…気が付いたときには既に副社長の手の内にいた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる