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■2.下僕、鬼にアレを奪われる
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「ん……っ。はぁ……っ」
ひとまず満足したのだろう、濡れたリップ音とともに唇が解放されたときには、薪は自分でも、人に見せてもいい顔をしているかどうか、少しも自信がなかった。
もうすっかり頭の芯まで蕩けてしまっていて、何も考えられないし考えたくない気持ちが薪の胸の中を支配している。ただただ〝気持ちいい〟しかわからなくて、ひたすら舌を弄ばれながら、自分の身体の奥底からじわじわと込み上げてくる感覚に翻弄されていただけだ。
「エっロ……。すげーな、薪」
「……え?」
「その顔、間違っても俺以外の奴に見せるなよってことだ」
「……」
「俺にだけ見せてりゃいい」
「は、はい――って、違う違う! 主任、私に何したんですかっ‼」
直後、現実に戻った薪は思いっきり真紘を突き飛ばす。その衝撃で湯船に尻もちをついた真紘は、ぽたりぽたりと髪からお湯を滴らせながら、反射的に立ち上がった薪を見上げて、それでも自分は何も悪いことはしていないという顔をする。
真紘の胸から下はもう、どうにもならないくらい、びしょびしょだ。跳ね上がったお湯をもろに頭から被ったので、かろうじて濡れていない部分が少しだけあるという程度だ。薪のほうも、服やスカートの前面に大量にお湯が跳ねている。滴り落ちるお湯は立ち上がっている薪のほうが圧倒的に少ないものの、これでは乾かすより着替えたほうが早いという状況だった。
けれど薪は、そんなことは全部、どうだってよかった。
いきなりキスしてきて、それでは足りないとばかりに舌まで入れて執拗に絡めてきて、真紘が一体、何を考えているか全然わからないし、それを従順に受け入れ、しかも気持ちいいと感じてしまった自分が一番、薪はわからない。
――こんなの、あんまりだよ……。
薪は恥ずかしさと怒りと、わけがわからない自分に対する自責の思いとで顔を紅潮させ、これでもかと目に涙を溜めながら、先ほどまで真紘のそれで塞がれていた自分の唇をきつく噛みしめる。痛みで抑えていないと真紘の頬にビンタでもしてしまいそうだった。
それに、何が〝可愛いことが言えたご褒美〟なのだろう。
こちらはキスされるその寸前まで、真紘が実際に行動や態度で示してくれている〝自分にかけてくれる期待〟に感謝し、これまでの自分から抜け出せるチャンスをものにしようと気持ちを新たにしていたというのに、これでは本当にあんまりだ。
「何って、可愛いことが言えたんだ、ご褒美だろ」
「だからっ! なんでそれが、あんな……あんなっ!」
すると、尻もちをついたまま濡れた髪を掻き上げた真紘が、普段と少しも変わらない調子で言う。対して薪は、キス、という言葉すら出せそうになくて、言葉尻を荒く切るしかない。
そんなふうに、動揺しているのは自分だけらしいというのも、薪の怒りや恥ずかしさに拍車をかける要因だった。とはいえ、真紘は突き飛ばされた瞬間こそ驚いた顔をしたものの、薪を見上げてきたときには何も悪いことはしていないといった顔だったので、自分と同じだけ動揺してほしいというのもおかしな話ではある。
だって確信犯だ。
しようと思ってしなければ、あんな身も心も芯から蕩けてしまうような、甘くて優しくて、でも、すっかり自分の中に眠ってしまったと思っていた情欲を強制的に揺さぶり起こすような煽情的なキスなんて、すぐにはできるわけがない。
「……上司ですけど、言わせてください」
「なんだよ」
けれど、いくら鬼と下僕の関係だったとしても、やっていいことと、そうではないことがあることくらいわかってほしいし、わかるだろうと薪は切実に思う。
「主任のバカっ! バカバカっ! あんなキス、私知らない……っ!」
そしてその思いのまま、いまだに涼しい顔でこちらを見上げ続ける真紘に、薪は思いっきり言葉をぶつける。その拍子に、今までなんとか堪えていた涙がぽろぽろ零れていって、それは次第に堰を切ったようにボロボロと流れはじめた。
薪自身にも止められないそれは、ますます頬を伝う量を多くしていくばかりだ。
「主任が上手すぎるのがいけないんですよっ。嫌だ、こんなの……っ」
もう、自分が何を言っているかも薪にはわからない。
数年ぶりのキスが真紘だなんて、一体、どんな悪夢だろうか。しかも上手すぎるキスに感じて、最後のほうは離れるのが惜しいとすら思ってしまった。そんな自分が薪は一番、嫌だし、悪夢だと思う。これでは薪が真紘を好きみたいじゃないか。
――こんなことって、こんなことって!
「あのな、薪。それ、煽ってることにしかなんねーから。それに、これから仕事で一緒に組むんだ、プライベートも一緒に過ごしたって俺は全然いいと思ってる。週初めに部長から俺と組む話をもらったとき、大方の経緯も聞いたんだろ? それくらい俺は薪を思ってるってことなんだ、薪は黙って付いてくりゃいいんだよ」
「何言ってるんですかっ⁉」
けれど、ようやく湯船から立ち上がった真紘の口から、とんでもない言葉が飛び出していった。それは思わず涙も止まってしまうほどに、薪にとっては戦慄が過ぎる言葉の数々だ。
ツッコミの大渋滞である。どこからどう拾っていったらいいかわからないくらい、真紘の言葉は衝撃と身震を伴って薪の耳に入り込んでくる。
「どうせ俺が強制的に連れ出さなきゃ、外に出もしないんだろ? ……半年でいい。全部俺に預けてみないか。半年後にどうしたいかは、そのときの薪の気持ちで決めていいから」
「……っ」
それでも真紘の言葉は止まらなかった。
聞きたくないと咄嗟に手で耳を塞ごうとしたところを、すかさず手首を掴まれて抵抗できなくさせられたので、どうしてだか、どこか苦しげに絞り出しているような声色も、意外にも真剣な目をして見つめてくるその双眸も、薪にはダイレクトに伝わって喉がきゅっと詰まる。
――こんな主任も、私、知らない……。
さっきは薪が真紘を好きみたいじゃないかと思うような展開だったけれど、今度はまるで真紘が薪に好きだと言っているような、そんな様子さえ、言葉の端々から感じられた。直接的な言葉はひとつもないものの、それでも〝半年でいい〟とか〝そのときの薪の気持ちで決めていい〟とか、暗に〝付き合おう〟と言われているような気がして、薪は頭が真っ白だ。
加えて、これまで知りもしなかった真紘を続けざまに見せられた今においては、どうしたってそちらのほうにばかり強く印象を植え付けられてしまう。
こんなに薪に一生懸命になる姿を本人に見せる真紘なんて、この人は本当に〝あの〟新田真紘なのかと思ってしまうほど、目の前には薪の知らない真紘がじっとこちらを見つめていた。
「……薪?」
「もう騒いだりしませんから、手、離してください」
やがて名前を呼ばれた薪は、ひとつ小さく息をつくと、ぽつりと声を落とす。
いくら足は湯船に浸かっているとはいえ、十月だ。
吹き抜ける風は時おり冷たく、ましてここは山でもある。とりあえず冷静にならなければと、なんとか気持ちを落ち着ければ、びしょ濡れの真紘と半分濡れた薪が湯船の中に立っているわけで、薪のほうはともかく、真紘はもう体が冷えはじめてきていてもおかしくなかった。
「事情を説明して、ホテルで服を乾かしてもらいましょう。……私が突き飛ばしたせいで主任に風邪を引かれてしまったら、さすがに夢見が悪いです」
そう言うなり、薪は檜の座面に置いていたバッグを掴むと湯船から足を上げた。気を抜くとまたボロボロと涙が出てきそうで、薪はきつく歯を食いしばる。
「……怒ってないのか?」
「怒ってますよ。でも、主任がいなきゃ、来週から私は仕事ができません。部長から、主任が私のことを何度も掛け合ってくれたって聞きました。その気持ちに応えるって、私、決めたんです。……今は、そのことを一番に考えさせてください」
ふとまた、今度は柔く、自信なさげに真紘に手首を掴まれたけれど、薪はそれをそのままに言葉を紡いでいった。今はこれが、薪が返せる精一杯だ。
半年後のことはわからない。けれど、真紘は部長に、薪のその半年を自分にくれないかとまで言って、編集部全体の業務量と人員とを比較して厳しいと話を預かる部長の気持ちを動かした。部長のその思いにも、薪は応えたいのだ。
どうしたいかは半年後の薪の気持ちで決めていいとはいえ、真紘とプライベートの時間も一緒に過ごすかどうかなんて、今すぐ決められることでもない以上、これが本当に今の薪の精一杯と言える。
「……わかった」
すると、その声とともに手首を掴んでいた真紘の手が離された。掴まれた拍子に感じた、思いがけず冷たかった手の平の温度からも、真紘の身体が冷えはじめていることは明らかだった。
「さっきは突き飛ばしたりしてすみません。行きましょう」
「……いや。悪いのは俺だから」
そうして、薪と真紘はひとまずホテルへ引き返すことになった。
歩いてホテルまで戻っても、また車がある足湯場まで来なければならないし、そうやって戻っている間に身体はもっと冷えてしまう。
やや考えて、濡れたまま車で引き返すことにしたらしい真紘とともに、登ってきた緩やかな坂道を車で下る。ホテルで毛布なりバスタオルなりを借りて座席に敷けば、服が乾いたあとの帰り道でも安心だろうと思ってのことのようだった。
ホテルへ戻ると、さっきとは打って変わってびしょ濡れでロビーを訪れた薪たちを見るなり、フロントの従業員は「どうなさったんですか⁉」とひどく驚いた顔をした。けれど真紘の「足湯でうっかり足を滑らせてしまって、この有様なんです」という説明に納得したようで、すぐにほかの従業員に連絡を取ると、服を乾かしたり、その間に着る服の用意を整えてくれた。
ホテルへ戻る車の中でも、借りた服に着替えてランドリーで待っている間も、薪と真紘の間には会話はなかった。もちろん、フロントや替えの服を持ってきてくれた従業員と対面しているときは、薪も真紘も〝うっかり〟を装って平身低頭したけれど、いざランドリーで服を乾かす段になると、ちょうど無人だったこともあって、そこには重苦しい空気しか漂わない。
「……」
「……」
乾燥機が回る音だけが響く空間で薪が考えることは、どうして自分なのかということだ。嫌がらせだったら度が過ぎるとは思う。けれど真紘は、冗談や嫌がらせであんなキスをしてくるような人ではない。
普段からの鬼発言にも、今日のことにも、いろいろと言いたいことはあるものの、そのことは一緒に仕事をしてきて三年、薪も痛いくらいにわかっている。
だからこそ、どうして自分なんだろうと薪は思う。
――なんで私なんですか、主任……。
目の端に映りこむ真紘に向けて、薪は心で問いかける。
だいたい、こうやって男女の上司と部下がプライベートの時間を一緒に過ごしていることのほうが変なのだ。特別仲がいいわけでもなければ付き合っているわけでもないのに〝甘えたいから〟なんていう真紘の謎すぎる呼びつけと、それに普通に応じてしまっている薪がおかしい。
真紘が薪にかけてくれる期待は本当にありがたいし、いい上司に巡り会えて幸せだとも思う。でも、本来ならそれは業務内で行われるべきことのはずだ。振り返ると、ここのところの週末は、薪と真紘はお互いにプライベートに踏み込みすぎていることに気づかされる。
「……」
――それならどうして主任は私を構いたがるの。ましてや、あんなキスまで。
けれど、それ以降は堂々巡りにしかならなかった。
ひとりはで出るはずもない答えを探しているうちに服も乾き、着替えてまた平身低頭、感謝を述べてホテルを辞してからも。借りた毛布を座席に敷いて帰る車中でも。そして、薪の住むマンション前で、真紘が言葉を選んで選んで「……また、月曜日に」と言って帰っていったあとも――薪の頭の中は、答えを求めてひたすら同じところをぐるぐる回り続けていた。
そして、その中で強制的に呼び起こされるのは、真紘のあの、薪の理性も自尊心も抵抗心も、何もかもを根こそぎ持っていくような煽情的なキスだ。
今は真紘がかけてくれる期待に応えることを一番に考えさせてほしいとは言ったし、その言葉が薪の精一杯だった。けれど、あれからしばらく経っても唇にも舌にも真紘の感触が強烈に残っていて、どうにも薪の思考回路を鈍らせてならない。
「んっ……はぁっ、ぅん……んんっ……ぃくっ」
――いつの間にか、あのキスの先を無意識に想像してしまっている自分もいて、その日薪は、どうして泣いているのかもわからないまま、久しぶりに自慰をした。
ひとまず満足したのだろう、濡れたリップ音とともに唇が解放されたときには、薪は自分でも、人に見せてもいい顔をしているかどうか、少しも自信がなかった。
もうすっかり頭の芯まで蕩けてしまっていて、何も考えられないし考えたくない気持ちが薪の胸の中を支配している。ただただ〝気持ちいい〟しかわからなくて、ひたすら舌を弄ばれながら、自分の身体の奥底からじわじわと込み上げてくる感覚に翻弄されていただけだ。
「エっロ……。すげーな、薪」
「……え?」
「その顔、間違っても俺以外の奴に見せるなよってことだ」
「……」
「俺にだけ見せてりゃいい」
「は、はい――って、違う違う! 主任、私に何したんですかっ‼」
直後、現実に戻った薪は思いっきり真紘を突き飛ばす。その衝撃で湯船に尻もちをついた真紘は、ぽたりぽたりと髪からお湯を滴らせながら、反射的に立ち上がった薪を見上げて、それでも自分は何も悪いことはしていないという顔をする。
真紘の胸から下はもう、どうにもならないくらい、びしょびしょだ。跳ね上がったお湯をもろに頭から被ったので、かろうじて濡れていない部分が少しだけあるという程度だ。薪のほうも、服やスカートの前面に大量にお湯が跳ねている。滴り落ちるお湯は立ち上がっている薪のほうが圧倒的に少ないものの、これでは乾かすより着替えたほうが早いという状況だった。
けれど薪は、そんなことは全部、どうだってよかった。
いきなりキスしてきて、それでは足りないとばかりに舌まで入れて執拗に絡めてきて、真紘が一体、何を考えているか全然わからないし、それを従順に受け入れ、しかも気持ちいいと感じてしまった自分が一番、薪はわからない。
――こんなの、あんまりだよ……。
薪は恥ずかしさと怒りと、わけがわからない自分に対する自責の思いとで顔を紅潮させ、これでもかと目に涙を溜めながら、先ほどまで真紘のそれで塞がれていた自分の唇をきつく噛みしめる。痛みで抑えていないと真紘の頬にビンタでもしてしまいそうだった。
それに、何が〝可愛いことが言えたご褒美〟なのだろう。
こちらはキスされるその寸前まで、真紘が実際に行動や態度で示してくれている〝自分にかけてくれる期待〟に感謝し、これまでの自分から抜け出せるチャンスをものにしようと気持ちを新たにしていたというのに、これでは本当にあんまりだ。
「何って、可愛いことが言えたんだ、ご褒美だろ」
「だからっ! なんでそれが、あんな……あんなっ!」
すると、尻もちをついたまま濡れた髪を掻き上げた真紘が、普段と少しも変わらない調子で言う。対して薪は、キス、という言葉すら出せそうになくて、言葉尻を荒く切るしかない。
そんなふうに、動揺しているのは自分だけらしいというのも、薪の怒りや恥ずかしさに拍車をかける要因だった。とはいえ、真紘は突き飛ばされた瞬間こそ驚いた顔をしたものの、薪を見上げてきたときには何も悪いことはしていないといった顔だったので、自分と同じだけ動揺してほしいというのもおかしな話ではある。
だって確信犯だ。
しようと思ってしなければ、あんな身も心も芯から蕩けてしまうような、甘くて優しくて、でも、すっかり自分の中に眠ってしまったと思っていた情欲を強制的に揺さぶり起こすような煽情的なキスなんて、すぐにはできるわけがない。
「……上司ですけど、言わせてください」
「なんだよ」
けれど、いくら鬼と下僕の関係だったとしても、やっていいことと、そうではないことがあることくらいわかってほしいし、わかるだろうと薪は切実に思う。
「主任のバカっ! バカバカっ! あんなキス、私知らない……っ!」
そしてその思いのまま、いまだに涼しい顔でこちらを見上げ続ける真紘に、薪は思いっきり言葉をぶつける。その拍子に、今までなんとか堪えていた涙がぽろぽろ零れていって、それは次第に堰を切ったようにボロボロと流れはじめた。
薪自身にも止められないそれは、ますます頬を伝う量を多くしていくばかりだ。
「主任が上手すぎるのがいけないんですよっ。嫌だ、こんなの……っ」
もう、自分が何を言っているかも薪にはわからない。
数年ぶりのキスが真紘だなんて、一体、どんな悪夢だろうか。しかも上手すぎるキスに感じて、最後のほうは離れるのが惜しいとすら思ってしまった。そんな自分が薪は一番、嫌だし、悪夢だと思う。これでは薪が真紘を好きみたいじゃないか。
――こんなことって、こんなことって!
「あのな、薪。それ、煽ってることにしかなんねーから。それに、これから仕事で一緒に組むんだ、プライベートも一緒に過ごしたって俺は全然いいと思ってる。週初めに部長から俺と組む話をもらったとき、大方の経緯も聞いたんだろ? それくらい俺は薪を思ってるってことなんだ、薪は黙って付いてくりゃいいんだよ」
「何言ってるんですかっ⁉」
けれど、ようやく湯船から立ち上がった真紘の口から、とんでもない言葉が飛び出していった。それは思わず涙も止まってしまうほどに、薪にとっては戦慄が過ぎる言葉の数々だ。
ツッコミの大渋滞である。どこからどう拾っていったらいいかわからないくらい、真紘の言葉は衝撃と身震を伴って薪の耳に入り込んでくる。
「どうせ俺が強制的に連れ出さなきゃ、外に出もしないんだろ? ……半年でいい。全部俺に預けてみないか。半年後にどうしたいかは、そのときの薪の気持ちで決めていいから」
「……っ」
それでも真紘の言葉は止まらなかった。
聞きたくないと咄嗟に手で耳を塞ごうとしたところを、すかさず手首を掴まれて抵抗できなくさせられたので、どうしてだか、どこか苦しげに絞り出しているような声色も、意外にも真剣な目をして見つめてくるその双眸も、薪にはダイレクトに伝わって喉がきゅっと詰まる。
――こんな主任も、私、知らない……。
さっきは薪が真紘を好きみたいじゃないかと思うような展開だったけれど、今度はまるで真紘が薪に好きだと言っているような、そんな様子さえ、言葉の端々から感じられた。直接的な言葉はひとつもないものの、それでも〝半年でいい〟とか〝そのときの薪の気持ちで決めていい〟とか、暗に〝付き合おう〟と言われているような気がして、薪は頭が真っ白だ。
加えて、これまで知りもしなかった真紘を続けざまに見せられた今においては、どうしたってそちらのほうにばかり強く印象を植え付けられてしまう。
こんなに薪に一生懸命になる姿を本人に見せる真紘なんて、この人は本当に〝あの〟新田真紘なのかと思ってしまうほど、目の前には薪の知らない真紘がじっとこちらを見つめていた。
「……薪?」
「もう騒いだりしませんから、手、離してください」
やがて名前を呼ばれた薪は、ひとつ小さく息をつくと、ぽつりと声を落とす。
いくら足は湯船に浸かっているとはいえ、十月だ。
吹き抜ける風は時おり冷たく、ましてここは山でもある。とりあえず冷静にならなければと、なんとか気持ちを落ち着ければ、びしょ濡れの真紘と半分濡れた薪が湯船の中に立っているわけで、薪のほうはともかく、真紘はもう体が冷えはじめてきていてもおかしくなかった。
「事情を説明して、ホテルで服を乾かしてもらいましょう。……私が突き飛ばしたせいで主任に風邪を引かれてしまったら、さすがに夢見が悪いです」
そう言うなり、薪は檜の座面に置いていたバッグを掴むと湯船から足を上げた。気を抜くとまたボロボロと涙が出てきそうで、薪はきつく歯を食いしばる。
「……怒ってないのか?」
「怒ってますよ。でも、主任がいなきゃ、来週から私は仕事ができません。部長から、主任が私のことを何度も掛け合ってくれたって聞きました。その気持ちに応えるって、私、決めたんです。……今は、そのことを一番に考えさせてください」
ふとまた、今度は柔く、自信なさげに真紘に手首を掴まれたけれど、薪はそれをそのままに言葉を紡いでいった。今はこれが、薪が返せる精一杯だ。
半年後のことはわからない。けれど、真紘は部長に、薪のその半年を自分にくれないかとまで言って、編集部全体の業務量と人員とを比較して厳しいと話を預かる部長の気持ちを動かした。部長のその思いにも、薪は応えたいのだ。
どうしたいかは半年後の薪の気持ちで決めていいとはいえ、真紘とプライベートの時間も一緒に過ごすかどうかなんて、今すぐ決められることでもない以上、これが本当に今の薪の精一杯と言える。
「……わかった」
すると、その声とともに手首を掴んでいた真紘の手が離された。掴まれた拍子に感じた、思いがけず冷たかった手の平の温度からも、真紘の身体が冷えはじめていることは明らかだった。
「さっきは突き飛ばしたりしてすみません。行きましょう」
「……いや。悪いのは俺だから」
そうして、薪と真紘はひとまずホテルへ引き返すことになった。
歩いてホテルまで戻っても、また車がある足湯場まで来なければならないし、そうやって戻っている間に身体はもっと冷えてしまう。
やや考えて、濡れたまま車で引き返すことにしたらしい真紘とともに、登ってきた緩やかな坂道を車で下る。ホテルで毛布なりバスタオルなりを借りて座席に敷けば、服が乾いたあとの帰り道でも安心だろうと思ってのことのようだった。
ホテルへ戻ると、さっきとは打って変わってびしょ濡れでロビーを訪れた薪たちを見るなり、フロントの従業員は「どうなさったんですか⁉」とひどく驚いた顔をした。けれど真紘の「足湯でうっかり足を滑らせてしまって、この有様なんです」という説明に納得したようで、すぐにほかの従業員に連絡を取ると、服を乾かしたり、その間に着る服の用意を整えてくれた。
ホテルへ戻る車の中でも、借りた服に着替えてランドリーで待っている間も、薪と真紘の間には会話はなかった。もちろん、フロントや替えの服を持ってきてくれた従業員と対面しているときは、薪も真紘も〝うっかり〟を装って平身低頭したけれど、いざランドリーで服を乾かす段になると、ちょうど無人だったこともあって、そこには重苦しい空気しか漂わない。
「……」
「……」
乾燥機が回る音だけが響く空間で薪が考えることは、どうして自分なのかということだ。嫌がらせだったら度が過ぎるとは思う。けれど真紘は、冗談や嫌がらせであんなキスをしてくるような人ではない。
普段からの鬼発言にも、今日のことにも、いろいろと言いたいことはあるものの、そのことは一緒に仕事をしてきて三年、薪も痛いくらいにわかっている。
だからこそ、どうして自分なんだろうと薪は思う。
――なんで私なんですか、主任……。
目の端に映りこむ真紘に向けて、薪は心で問いかける。
だいたい、こうやって男女の上司と部下がプライベートの時間を一緒に過ごしていることのほうが変なのだ。特別仲がいいわけでもなければ付き合っているわけでもないのに〝甘えたいから〟なんていう真紘の謎すぎる呼びつけと、それに普通に応じてしまっている薪がおかしい。
真紘が薪にかけてくれる期待は本当にありがたいし、いい上司に巡り会えて幸せだとも思う。でも、本来ならそれは業務内で行われるべきことのはずだ。振り返ると、ここのところの週末は、薪と真紘はお互いにプライベートに踏み込みすぎていることに気づかされる。
「……」
――それならどうして主任は私を構いたがるの。ましてや、あんなキスまで。
けれど、それ以降は堂々巡りにしかならなかった。
ひとりはで出るはずもない答えを探しているうちに服も乾き、着替えてまた平身低頭、感謝を述べてホテルを辞してからも。借りた毛布を座席に敷いて帰る車中でも。そして、薪の住むマンション前で、真紘が言葉を選んで選んで「……また、月曜日に」と言って帰っていったあとも――薪の頭の中は、答えを求めてひたすら同じところをぐるぐる回り続けていた。
そして、その中で強制的に呼び起こされるのは、真紘のあの、薪の理性も自尊心も抵抗心も、何もかもを根こそぎ持っていくような煽情的なキスだ。
今は真紘がかけてくれる期待に応えることを一番に考えさせてほしいとは言ったし、その言葉が薪の精一杯だった。けれど、あれからしばらく経っても唇にも舌にも真紘の感触が強烈に残っていて、どうにも薪の思考回路を鈍らせてならない。
「んっ……はぁっ、ぅん……んんっ……ぃくっ」
――いつの間にか、あのキスの先を無意識に想像してしまっている自分もいて、その日薪は、どうして泣いているのかもわからないまま、久しぶりに自慰をした。
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