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■1.鬼と下僕の奇妙な週末

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「何言ってんだ。薪以上に連れ回して楽しいやつなんてほかにいないだろ」
「……はい?」
「それに、俺がそうしたいって言ってんだ、薪は黙って付いてくりゃいいんだよ」
「どこの殿様ですかっ!」
 けれど、そこはさすが、鬼神と名高い真紘だった。気づいているのか、そうではないのか、薪の遠回しの〝帰りたい〟という希望はすげなく却下され、起きたばかりの頭に今日のスケジュールを勝手にバンバン詰め込まれる。
 二時間あれば準備は十分に整うだろう。悲しいかな、薪の平日の身支度は三十分もかからないので、シャワーを浴びる時間を入れても余ってしまうかもしれない。
 でも、問題はそこではない。薪以上に連れ回して楽しいやつはいないとか、黙って付いてくればいいとか、真紘の殿様発言のほうが、よっぽど問題だ。
 思わず相手が鬼の真紘にも関わらず盛大にツッコミを入れてしまったけれど、でも、これくらいは許されてもいいんじゃないかと薪は思う。
 もう〝甘えたがり〟だという真紘の要望は一晩の膝枕で叶えたはずだ。甘えたいときに呼ばれるというのも、それはそれで〝いつ〟だったり〝どんなとき〟だったりかを考えると気が遠くなりそうではあるものの、ひとまず今日は帰してもらいたいし、やっぱり帰りたい気持ちのほうが勝る。
「あのな、薪。いつも思ってたけど、薪はもうちょい外に出ていろんなものを見たり感じたりしたほうがいい。だから誌面のレイアウトも〝教科書通り〟なんだよ」
 すると幾分、声色を真面目なものにした真紘が言い聞かせるように言った。
「誰かを引き合いに出すのはよくないことだけど、例えば麻井と薪が作ったレイアウトを見比べたとき、やっぱり麻井のほうが目を引く。最終的には部長がオーケーを出すから、俺にはとやかく言う筋合いはない。けどな、薪はもっとやれると俺は思ってる。スケジュールがタイトなのはわかる、レイアウトにばっかり時間をかけていられないのもわかる。でも、俺が〝薪はこんなもんじゃない〟って思ってる。……俺の期待に応えてみる気はないか?」
 続けてそう言い、自分でも薄々――いや、本当は痛いくらいにわかっていたことを突き、悔しさや恥ずかしさで唇を噛みしめ俯く薪に優しい声色で問いかける。
 どうりでツッコミもスルーだったわけだ。普段の真紘なら『薪のくせに歯向かうな』などと言われ、さらに二言、三言、ドSな発言をかまされるところだけれど、それもなかった。どこでどう真面目スイッチが入ったのかはわからないものの、薪を連れ回したい本当の理由はこちらだったんだと気づいて、薪は徐々に帰りたい気持ちがしぼんでいくのを感じずにはいられなかった。
 薪たちが勤める広告会社のフリーペーパー編集部は、主に広告を載せたい店舗や企業からの広告収入で毎月の誌面発行が賄われている。あの有名なフリーペーパー誌を想像してもらえればイメージしやすいだろうか、それの地方版や地域版といった位置付けで『irohaいろは』というフリーペーパーを毎月発行していて、紙媒体だけでなく、ウェブ版やアプリも展開している。
 薪はそこの事務職兼、営業として日々、忙しく働いている。真紘も、今話に出た由里子も、それぞれ任されている部門は違うものの仕事内容としては同じだ。
 薪たちやそのほかの社員を統括するのが部長というわけで、毎月の校了前など、部署は本当に慌ただしい。
 とはいっても、少人数の部署のため、さすがにウェブやアプリは外注している。けれど、外注するまでの〝編集作業〟も加わるのが『iroha編集部』だ。
 自分で営業をかけ、契約が取れたら詳細な打ち合わせを何回も行い、その後、写真撮影や商品、店舗をアピールするための文章を自分で考える。仮の校正が出来上がったら部長や営業先に確認を取ってもらい、さらに編集を進めて再度、確認してもらう。そうして部長や営業先から了承が取れたら、いよいよ校了間近だ。自分でも見直し、部長にも見直してもらい、いよいよ外注先に発注をかける。後日出来上がってきたものをこちらでも確認ののち、再び営業先にも確認してもらい、これでやっと紙面やウェブ、アプリに載せる準備が整う。
 ――それが毎月、ものすごいスピードで繰り返される。
 配属になったばかりの頃は――いや、今もときどき、事務職で採用されたはずなのにどうしてこうなったと、人事部に文句や不満を思う。
 当時はあまりの仕事の多さや、畑違い感、場違い感がどうしても否めず、毎日、会社を辞めることばかりを考えていたくらいだ。
 けれど、今もこうして続けられているのは、薪を信頼して『iroha』に広告を載せてくれる店舗や企業があるからだ。
 もちろん慣れてくるまでは先輩社員に同行する形で仕事を覚えさせてもらったけれど、どうにかこうにか独り立ちしてからは、薪もその毎月のものすごいスピード感の中の一員として働いている。
 指導係の先輩の顧客を半分ほど引き継ぐ形で独り立ちして初めて、その中の店舗から契約をもらえたときの感動は、今でも薪の原動力だ。
 当時、二十三歳の、しかも独り立ちをしたばかりの薪によく契約しようと思ってもらえたものだと思うけれど、雑談の中で『渡瀬さんが本当に一生懸命にしてくれたので』と契約に至った経緯を話してもらったときは、これまでの大変だったり辛かったり、右も左もわからないまま仕事に食らいついてきた時間だったりが走馬灯のように頭を駆け巡って、契約先の店舗を辞したあと、たまらずビルの間の路地に駆け込んで声を押し殺して泣いた。
 そのときの感動があるから、今もこうして頑張れている。
 とはいえ、現在、二十五歳の薪は、自分でもわかるくらい、伸び悩んでいる。
 けして忙しさにかまけて〝これくらいで〟とか、ましてや〝契約料はこのくらいだから〟と打算的に編集作業をしているわけでは、もちろんない。
 どれも薪の大事な大事な顧客だ。そんなことを考えたことなんて、これまでに一度だってないと胸を張って言い切れる。
 先ほど真紘も言ったけれど、薪が作った広告と由里子が作った広告とでは、どうしても由里子のほうに先に目が行ってしまうのは、ひとえに薪のセンスの問題だ。〝教科書通り〟とはまさにそうで、そこから脱却するべく、薪もちょくちょく時間を見つけては資料を見たりほかの雑誌を見て勉強したりもしているけれど、今ひとつパッとしないのが現状だったりする。
「……薪?」
 すっかり黙り込んでしまった薪を気遣うように、真紘がさらに声色を柔らかくした。もしかしたら、さすがに言い過ぎたと思っているのかもしれない。
 起きたばかりで耳に入れたくない話だっただろうかと焦りはじめた気配も感じて、薪は申し訳なさで胸が痛い。
 真紘は鬼だけれど、人の気持ちを考えられないような人ではない。なんだかんだ文句を言いつつも薪の面倒をよく見てくれるし、ほかの社員からの相談やフォローの頼みも断っている場面を見たことがない。口が悪いだけで面倒見がいいことは編集部では有名で、だからこそみんな、真紘を信頼している。
 それは社内のほかの部署でも、実際の真紘の顧客や薪の顧客の間でも周知のことだ。さらに真紘はそれを鼻にかけるような人でもないので、ますます社内外からの信頼は厚く強固なものとなり、真紘の躍進は誰もが目を留めるものになっている。
 社内に限って言えば、鬼神であることを知っていながら憧れや恋心を抱く女子社員がたくさんいるとか、いないとか……。
 とにかく、そんな真紘から『薪はこんなもんじゃない』『俺の期待に応えてみる気はないか?』と目をかけてもらったなら、いくら週末はぐうたらして過ごしたい薪とはいえ、気持ちが奮い立たないわけがない。
「……きます」
「え?」
「私、行きます。一時間で支度します!」
 ぐっと顔を上げると、薪は真紘に声高に宣言する。
 自分でもわかっていただけに図星を指されて痛かったし、由里子と比べられて悔しい。けれど、鬼の真紘が、いつまでも手間のかかる部下であるはずの薪に、こんなにも期待をかけてくれている。〝薪はこういうやつだから〟とか〝薪のキャパはこれくらいだから〟なんて思うことなく、ただただ純粋に薪のステップアップを望んでくれているのだ。
 ――応えたい。主任に。私の精一杯で。
 薪は目元に溜まっていた悔し涙をさっと拭き取る。
「いい子だ」
「っ⁉」
 すると真紘がこれまでに見たことがないくらい優しい顔で笑って、薪は咄嗟にわずかに身を引いてしまった。そんな薪を見た真紘は、けれど構うことなく薪の頭をわしゃわしゃと乱暴に撫でると、機嫌よさそうにキッチンへ向かっていく。
「いっぱい食っとけよ。めちゃくちゃ連れ回してやるから、覚悟しとけ」
「はいっ!」
 すぐにかかった声に勢いよく返事をして、薪は口元に笑みを作る。
 一時はどうやって帰ろうかと、そればかりが頭の中を占めていたけれど、真紘の意図を知って気持ちが入った。相変わらず口は悪いし、説明も不足しがちな真紘ではあるものの、これから先を見越して部下を――伸び悩んでいる薪を思って視野を広げさせようとしてくれる気持ちが本当にありがたい。

 *

「しゅ、主任、さすがに詰め込みすぎだったのでは……」
 けれど、やっと真紘が立てた連れ回し計画が終わったのは、午後九時を過ぎた頃だった。真紘が運転する車の助手席に深く背中を預けて天井に顔を向けつつ、薪は怒涛のように押し寄せてくる疲労感に指の一本だって動かせないまま、ちらりと目だけで真紘を窺う。
 紅葉狩りからはじまり、真紘の顧客だという、その近隣のホテルや観光施設へのあいさつ回りを数件、さらに広報担当者や支配人との雑談もこなし、彼らに勧められるままにハイキングコースや観光スポットを実際に歩いてみること数時間、どうにか戻ってきたかと思えば、丁寧に礼を言って辞したあとは、夜まで街中を散策するという鬼スケジュールだった。
 薪は日頃からのぐうたら生活も相まって、昼を過ぎた頃には、早くも体力の限界を超えていた。まるで足が棒のようで、朝のやる気も体力の減少とともに底を尽き果て、赤や黄色に見事に紅葉した景色を眺める余裕も、積極的に雑談に加わる気力も、振り絞って振り絞ってようやく少しだけ出るという、なんとも情けない結果になってしまった。
「そうだな。さすがに俺もけっこう疲れた。でも、勉強になっただろ?」
 そう聞かれて、薪は素直に「はい、そりゃあもう!」と返す。
 間近で見た真紘はとにかく終始にこやかで、顧客に尽くす姿勢がとても勉強になった。けして媚びを売ったりはせずに、雑談の中から相手がどんなことを望んでいるのかを本当に上手に引き出していて、その手腕はさすがと言うほかなく、薪のテンプレートの営業方法なんて真紘の足元にも及ばないことは、悔しいけれど雑談がはじまってすぐに感じられた。
 街中を散策していたときも、ただ漫然と歩くのではなく、真紘の顧客なのだろう店舗に顔を出して談笑したり薪のことを紹介したり、新店舗を見つけると薪を連れ立って入ってみたりと、休みの日とはいっても仕事の延長のような歩き方だった。
 ――だから主任はこんなにも信頼されて……。
 どうやって真紘は顧客からの厚い信頼を得ているんだろうと常々思ってきたけれど、実際の様子を見せてもらったことでそれも大いに納得したし、自分も真紘のようにさらに信頼してもらえるように努力を重ねていこうと、そう思った薪だった。
 とはいえ、今日は本当に疲れた。もうこのまま、むさぼるように眠ってしまいたい。
「着いたぞ薪。今日はゆっくり休め」
「はい。送っていただいて、ありがとう……ございました」
 あまりの眠気に呂律が回らなくなりながらも、なんとか真紘に礼をして車を降りると、薪はふらふらとした足取りで自分のマンションのエントランスをくぐる。
「薪」
「……ふぁい、なんでしょう?」
「俺たちのふたりだけの秘密、忘れるなよ?」
「っ⁉」
 けれど、薪を追いかけ、肩を抱くようにして手を置いた真紘に耳元でそう妖しげに囁かれた瞬間、薪の心臓は飛び跳ね、眠気も一気に吹き飛んだ。
 忘れていたけれど、そういえば薪はこれから〝けっこうな甘えたがり〟だという真紘に甘えたいときに呼ばれる運命だった。
「……、……」
 すぐに車に戻って帰っていった真紘を呆然と見つめながら、薪は心から思う。
 ――ああ、これから私は一体、どうなるんだろう。
 不安だ。
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