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■0.これが事のはじまりなわけで

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 ――と。
『ギャァァァ!』
『く、来るなぁぁぁ!』
 何やら外から聞くに堪えない声が響き、三佳とユウリは顔を見合わせた。すっかり忘れていたが、打ち解けても落ち窪んだ目は恐ろしく、三佳は口の中で小さく悲鳴をもらす。
 という間に声が止み、部屋の中は不気味にしーんと静まり返る。
「……一体何があったんでしょうね、ユウリさ――うぎゃあぁっ!!」
 そこにクローゼットの扉が開いたので、三佳はまたもや悲鳴を上げた。いつの間にか閉じ込められていた際、ユウリから力づくでは開けられないとお墨付きまでもらっていただけに、びっくりするほどすんなり開いて思わず叫んでしまったのだ。
「まったく失礼な。助けに来たんじゃないですか、僕ですよ、僕。――早坂です」
「どこが!?」
 しかしそうは言っても、これまで見てきたノーマルな人間の姿でもなければ、昼間に見せてもらった(見せられたとも言う)一見すると大きな犬にも見えるオオカミ姿でもなかったので、三佳は思いっきりツッコミを入れざるを得なかった。
 だって、緩やかなウェーブがかった漆黒色の髪。その頭に乗るのは、同じく漆黒色のシルクハット。の上にちょこんと生えた、銀色のピンと尖った耳。胸元をざっくり開けて着ているのは、これも黒の着流しに、足元は素足に草履。お尻の部分から覗くのは、ふさふさの銀毛に包まれた長い尻尾――ハーフ&ハーフの姿なんて初めて見たのだ。そりゃ、頭では早坂以外にあり得るわけがないとわかっていても、気持ちが追いつかない。
「そんなに思いっきり言わなくてもいいじゃないですか。それに僕、きちんと説明しましたよね? たいていは人間の姿に耳が生えたり尻尾が出たりといった具合だって。このタイミングで出てくるんです、そういう姿だって、すぐに察してほしいですよ」
 すると早坂は、呆れたため息をつくと、そう言って肩を竦めた。
 が、直後、目を眇めて三佳たちをじっとり見つめ、
「それより、あなたたちの異様なまでの仲睦まじさは何なんです? 僕というものがありながら、ひどいじゃないですか、野々原さん。……妬けますよ、ほんと。僕だってオオカミになればモフモフのふさふさです。抱き心地もこの上なく抜群だっていうのに、そんなのと抱き合うくらいなら、今すぐ僕の胸に飛び込んでいらっしゃい」
 ただでさえ、ざっくり開いている着流しの胸元をさらに開き、両腕を広げた。
「……は?」
『んまあ! なんて逞しい体!』
 それについて、三佳とユウリの見解は大きく異なった。いつの間に抱き合っていたのか(おそらくクローゼットの扉が開いた瞬間に思わず抱き寄せてしまったのだろう)、三佳の胸元にいるユウリはキャッキャとはしゃぎだし、三佳はしばし思考がフリーズした。
 何を言い出すかと思えば、ただのヤキモチではないか。しかも、ずいぶん斜め方向の。加えて対抗意識も燃やしているようである。でも、オオカミの姿のほうで対抗しようとしているところが、なんだか残念な人に見えてこなくもないから微妙に不憫だ。だったらわざわざ脱がなくてもいいじゃないか。目のやり場に困るから、早く着てほしい。
「――そ、それより、さっきの聞くに堪えない声って……?」
 とはいえ、三週間足らずで本音を言えるわけもなく、三佳は強引に話の矛先を変えた。それに早坂は、あわや就職浪人になろうかという三佳を救ってくれた恩人でもある。
 この際、男性の裸にものすごい興奮を見せるユウリには、しばらく彼女の世界に浸っていてもらうことにして。まず、大まかでいいので、ここまでの状況が知りたかった。
「ああ。なあに、これも説明したことですよ。一気に片づけました。瞬殺です」
「おう……」
「まあ、ついでですし、もう少し数が集まってからでもよかったんですが。でも、それだと初体験の野々原さんがあんまり可哀そうですからね。ひとまず、このアパートを拠点にしている〝もの〟たちを一掃したんです。これで長く人が住んでくれるでしょう」
「あ、やっぱり祓うとそういうものなんですね」
「そうですね。〝第六感〟ってあるじゃないですか。中には極端に鈍い人もいることはいるんですが、遅かれ早かれ、そういう感覚って働くものです。虫の知らせとはまた違いますが、まあ似たようなものと考えていれば、自分のことも、大切な誰のことも未然に守ることができるんじゃないでしょうか。……とはいっても、今回のように人に悪影響を与えるものがまた集まってくるかどうかは、不動産会社次第といったところでしょう。不慮の事故とはいえ、人がひとり亡くなってしまったことは変えようがありません。ですが、むやみやたらに貸すのではなく、きちんとした〝目〟をもって見れば、このアパートを管理する側も借りる側も、きっと心からいい物件だと思えるでしょう」
 すると早坂は、三佳になかなか飛び込んできてもらえないことを若干不服そうにしながらも、着流しを元に戻しながら、さらさらと説明していく。
 もちろん、代わりに飛び込んでいこうとするユウリに犬歯を剥いて威嚇するのも忘れない。やはり半オオカミ姿になると、犬歯は人間のそれとは違って大きく、そして鋭い。鼻に縦じわまで寄せて話す早坂は、口調と表情の統制が大変なことになっている。
「はい。そうなってくれたらいいですね。私も本当にそう思います」
 けれど、早坂の言葉がいちいち琴線に触れて、三佳の頬はいつの間にか、ふんわりと持ち上がっていた。わざわざ脱いだりするからだよ、ていうか顔が怖いんだけど、と思わなくもないが、つまるところ、いくら〝掃除〟しても結局は双方にいい物件だと思ってもらえなければなんの意味もないのだから、早坂の言うとおりだと思うのだ。
 なんだか恐怖を感じるたびに叫んでばかりいた気もするが、それでこのアパートにまた人が住むようになってくれたら、三佳だって叫び甲斐があったというものだろう。
 ……うーん、やっぱりちょっと苦しいか。
 とにかく、これで〝掃除〟は完了といったところだろう。あとは、つい今しがた祓われた〝もの〟たちと無関係だったユウリの安らかな成仏を待つばかりだ。
 だってユウリは、被害者ならぬ被害霊だ。丸二年もクローゼットに閉じ込められ、コツコツ力をチャージしてやっと一目見たかった写真を見ることが叶った。その写真も三佳が保管する約束をしている。自然に成仏するまで待つのも、きっと悪くないだろう。
 が。
 また変な〝もの〟に閉じ込められたら元も子もないし、それまでの間、どこか安全な場所を探して保護してあげなきゃな、と思いはじめた矢先――。
「さあ、とっとと逝ってくださいね。野々原さんは僕のものです」
『あら残念。新しい自分に目覚めちゃいそうだったのに』
「え、ちょっ――ユユ、ユウリさん!?」
 早坂のオッドアイが怪しく光ったのも一瞬、ユウリの姿は忽然と消えてしまった。
「どど、どういうことですか!? なな、なんで……!?」
 どこを見回してもユウリの気配もなければ、いたことすら嘘だったかのように悲しい空気が清々しいものに変わっていることに驚きを隠せず早坂に問えば、彼は一言。
「未練が解消されたんです、消えてもらって当然でしょう」
 まるで何を当たり前のことをという口調で、そう淡々と告げた。
「そんなっ。ユウリさんは無関係だったんですよ!? 自然に成仏するまで、私たちがどこかで保護しながら見守ってあげたってよかったじゃないですかっ」
 それを聞いて、三佳はたまらず声を荒げる。
〝僕のもの〟だの〝新しい自分に目覚める〟だの、ちょっと意味がわからないなと思うやり取りは確かにあった。なんだか背筋も無性にぞわっとする。でも、消える間際の最後の言葉がそれなんて、あんまりじゃないだろうか。消えてもらうしかないのなら、せめて生前から慕っていた彼への想いを言葉にさせてあげるくらいの紳士的気遣いがほしい。
「何をバカなことを」
 すると早坂は、フンと鼻を鳴らした。
「二年もここに憑いていたんです、もうそろそろ限界だったんですよ」
「げ、限界……?」
「悪霊化に決まっているじゃないですか。そうなってしまっては、先ほどのように跡形もなく滅するしかありません。……そうですね、顔面の崩壊具合からいって、もう数日遅ければ、といったところでしょうか。もしくは取り込まれていたかもしれませんね。それでは未練を解消するどころか、成仏だってできやしないんです。胸に抱くほど仲良くなったあとに聞くのも、なかなか意地悪な質問ですが――野々原さん。限界が近いながらも理性を保っている霊と、闇に飲み込まれ、ただただ周りに危害を及ぼすだけが目的となってしまった悪霊と。野々原さんなら、どちらが憑く物件に送り込まれたいですか?」
「ユウリさんがユウリさんのままでいるうちがいい決まってるじゃないですかっ!」
 聞かれて三佳は、間髪入れずにそう答えた。なぜか早坂はユウリとすっかり打ち解けたことを根に持っているようで、対抗意識を燃やしたり、チクチク小言を言ってきたりはするが、選択を迫られるまでもなく、三佳だって断然、前者を選ぶ。
 話ができなければ、未練が何かもわからない。わからなかったら、今、三佳の胸元のポケットに入っている写真だって、絶対に見つけることはできなかった。そうなれば、写真はずっと、あのままだっただろう。誰にも見つけられることなく、真っ暗な中でこれから何十年もあの場所で埃を被り続けることになってしまう――。
「……すみません、所長。さっきは大きな声を出してしまったりして」
 早坂の考えも知らず、思ったままを口にした自分が恥ずかしい。
 きっと早坂は、ユウリがユウリでなくなってしまう前に彼女と知り合え、未練解消の手助けができたことを、まずよかったと思えと言いたいのだ。
 だって、霊だのあやかしだの、ついさっき知ったようなものの三佳には、スペシャリストである早坂の分析や見解は絶対だ。びっくりするくらい憑かれやすいとはいっても、これまで自覚なしに生きてきたので、三佳には知識も何も、まるでないのだから。
「ああ、いいんですよ。説明もなしに消してしまった僕も大人げなかったので」
 深く頭を下げると、早坂は何でもないことのように言って、笑った。その顔は、たとえ頭にケモ耳が生え、尻尾もふさふさであっても、やはりとんでもなく美しかった。
「――じゃあ、もう今日は帰りましょうか。夜もだいぶ深い時間になりましたし、野々原さんもお疲れでしょう。〝普通の〟掃除なら日を改めればいいだけです。明日は休養日としますから、心身ともに回復に努めてください。それが野々原さんの明日の仕事です」
「はい」
 そうして三佳たちは、すっかり空気が入れ替わったアパートをあとにした。
行きは三佳が運転したが、帰りは早坂がハンドルを握ってくれた。「送りますよ」ということで、お言葉に甘えて三佳は自分の住む部屋まで送ってもらうことにしたのだ。

 部屋に帰ると、三佳は薄ネズミ色の作業着のまま、ベッドへ寝転んだ。気を張っていたので疲れは感じていなかったけれど、やはり部屋に帰ってくると気も抜ける。
 すごい一日だったな、なんて今日の出来事を振り返る余裕もないままに、そのままウトウトと心地よい睡魔に身を委ねていれば、目が覚めたときには昼過ぎだった。カーテンと窓を開け、三佳は日の光や風を体に浴びる。耳を澄まして通りを歩く人の話し声や遠くクラクションの音といった日常音を聞けば、やっと生きた心地がしてくるようだった。
「……でも、夢でも幻でもなかったんだよね」
 確認するように作業着の胸元に手を当てると、自分だから持っていてほしいと頼まれた写真の感覚があり、三佳は両手でそっと包み込むようにしながら取り出す。
「ユウリさん……目は怖かったけど、いい幽霊だったな」
 そして写真のユウリは、見れば見るほど綺麗だった。
 そんなユウリを前にして三佳がただただ願うのは、彼女の魂が安らかであることだ。
 でもきっと、早坂がどうにかしてくれただろう。彼は昨夜、悪霊になってしまったら跡形もなく滅するしかないと言った。その前だったのだから絶対に大丈夫だ。
「それにしても、とんでもないところに拾われちゃったな……」
 独り言ち、三佳は苦笑をこぼす。
 これも昔からのプチ不幸体質が災いしたのか、はたまた、功を奏したのか。
 ――ともかく、三佳が『早坂ハウスクリーニング』から逃げ出さないうちは、明日の生活もご飯の保証もあることだけは確かだ。気は進まないが、精魂続く限り〝お掃除物件〟に赴き、あのオオカミのあやかしと一緒に〝掃除〟をしていくしかなさそうである。
「さて。シャワー浴びて、なんか食べよ」
 ぐーっと伸びをして、三佳はバスルームへ向かう。何事も食べなければ元気が出ない。早坂も言っていたじゃないか、今日は心身ともに回復に努めてくださいと。
 その前に、まずは軽くシャワーだ。そういえばアパート内は終始寒気がするほどだったけれど、冷や汗なら、たぶん向こう三年ぶんくらいは確実に掻いたと思う。気持ち悪いほどではないにせよ、やっぱりリセットは必要だ。心も、それから体も。
「やっぱここはガッツリと肉系かなー」
 三佳がシャワーを浴びながらフンフンと鼻歌混じりに口に出すのは、ちょうどタイミングよくギュルルと鳴った腹の虫に食べさせるブランチメニュー、オンリーだった。
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