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■9月29日(金)
小松香魚 1
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いよいよだ、いよいよ今日だ。少女漫画やケータイ小説のヒロインが頑張っていたように、今日は私がリアルに頑張る日だ。
香魚は朝からそう自分に気合いを入れ、本命お守りを渡すには一番の狙い目だと噂される放課後を今か今かと待ちわびていた。
思えば、去年のこの時期にワクワクすることなんてなかった。話しかける勇気もないくせに無駄にドキドキしたり、自分は渡せもしないのに誰かにお守りを渡されたらどうしようと無駄に気を揉んだり、ワクワクとは程遠い気持ちしかなかったように思う。そして、持ち歩くだけで精いっぱいのお守りを見るたび、どうせ私なんて、という気持ちになる。
でも、今は違う。私なんてこの程度だと諦めきっていた頃とは正反対の心境である。
ギリギリで変われて本当によかった。
香魚は高鳴る鼓動を刻む心臓を制服の上からきゅっと掴み、ふぅとひとつ息を吐く。
ワクワクしているけれど、もちろんそれ以上に緊張しているし、なんなら今朝から吐き気が止まらない。授業も上の空で、時間の感覚だってまったくない。でも、ようやく自分から動こうと思えるようになったことが、香魚には、なにより嬉しいことだった。
誇らしいと言い換えてもいい。顔面レベルがなんだというのだ、トラウマがどうしたというのだ。私だってキラキラするんだ。キラキラしてるって思ってもらえるように努力するんだ。もう青春は無駄にしたくない。
そうやって香魚は、今までになく強い気持ちで今日という日を迎えているのである。
「放課後になって俄然、気合い入ってるね」
「うんうん。今日の香魚ちゃんは、めちゃくちゃ可愛いよ。しっかり頑張っておいで」
「応援してるよー!」
「あ、優ちゃん。それに、朱夏ちゃんに朱里ちゃんも……みんな応援に来てくれたの? うわー、なんかすっごい恥ずかしいー……」
自分の席で本命お守りをぎゅっと握りしめて気持ちを作っていると、優紀、朱夏、朱里が香魚の机の周りに集まってきた。
朱夏と朱里は部活に向かうためにスポーツバッグを肩に襷(たすき)掛けにしていて、部活前にちょっと寄ってみました、という雰囲気だ。
けれどふたりの眼差しはすごく温かい。体育の授業中にふたりにもいろいろと話してあるため、どうやら駆けつけてくれたようだ。
一方の優紀は、彼女の視線の端々にちらちらと入ってくる朝倉くんが若干うざったいようで、そわそわしている彼に向かって、
「今日は香魚に付き合うから無理って昨日から言ってるでしょ。お守りも渡したんだし、今日は絶対、一緒には帰らないからね」
「そんなぁ……」
「そんなじゃない」
「オーマイガッ……」
朝倉くん本人も思わず嘆き悲しんでしまうほどの塩対応っぷりを発揮している。
あ、お守り渡したんだ、と頬が緩みそうになるのと同時に、彼の扱いがぞんざいな優紀に妙にハラハラしてしまう。もちろん、みんなの前だから気恥ずかしいのもあるだろうけれど、少し……いやだいぶ、惚れられた強みを発揮しているんじゃないだろうか。
昨日の体育で初めて今日のことを話したので、優紀は急遽、朝倉くんと帰るのを取りやめて金曜日の放課後を空けてくれたのだけれど……彼女もなかなか素直じゃない。
「まあまあ、優ちゃん」
「……だってさぁ」
窘めると、優紀がぷくっと頬を膨らませる。それでも彼女の目はガックリと肩を落とした朝倉くんをチラチラと気にしているんだから、香魚は苦笑いを噛み殺すのに必死だ。
優ちゃんが私のために残ってくれるのはすごく嬉しいし頼もしいけど、朝倉くんが泣いちゃうよ。もうちょっと大事にしてあげて。今日じゃなく明日ね。明日からね。
そういうわけで、四者――いや、朝倉くんも含めて五者五様の放課後は、そろそろわりといい時間だ。壁時計の針が指すのは四時二十分。いつもなら剣道部の部活に向かう悠馬が香魚たちのクラスの前を通る時間である。
「あ、そろそろだね」
壁時計を見た朱夏がそう言い、朱里と頷き合う。彼女たちも部活に向かう時間だ。しゅんと俯き、背中を丸めてひとりで帰っていく朝倉くんに続き、ふたりもその場に香魚と優紀だけを残して教室をあとにしていく。
あまり人数が多くても、香魚にも悠馬にも変にプレッシャーがかかってしまう。むしろお守りを渡されるとも思っていないに違いない悠馬のほうが、無防備なぶん、教室の中でじっと戦況を見守る視線を感じたときのプレッシャーは言い表しようのないものだろう。
そんな恐ろしい思いはさせられない。できるだけ香魚を緊張させないため、悠馬に変なプレッシャーを与えないための、彼女たちの温かな配慮というわけである。
「……香魚」
「うん。そろそろ来る頃だね」
「頑張って」
「うん」
優紀と向き合い、香魚はよりいっそう、竹刀と剣道の面を模して縫い付けたワッペン付きの本命お守りをぎゅっと握りしめる。
悠馬はたいてい、ひとりで部活に向かう。剣道部全体では二十人はいるのに、彼のクラスには剣道部員がいないためだ。ちなみに香魚のクラスにもいない。ほかのクラスには、ちょこちょこと部員が散らばっているようだけれど、男子はきっとこういうものなのだろう、朱夏と朱里のように連れ立って部活に行ったりは、なかなかしないみたいだ。
「――あ」
そうこうしていると、見張り役の優紀が声を上げ、パタパタと教室に入ってきた。どうやらターゲットのお出ましのようだ。
剣道着姿も格好いいけれど、制服姿も申し分なく格好いい悠馬は、たとえみんな同じ制服を身に纏っていたとしても、香魚にはすぐにわかる。体育のときのジャージも然り。剣道着姿で外周に向かうときと同じ原理が発動する。頭の形や背格好だけで、いつだって、どこでだって、すぐに見つけられるのだ。
今日もきっと格好いい。そう思うと、香魚はセーラー服のリボンを整え、スカートの丈を気にし、さっきから何度も整えているのにまた執拗に髪を撫でつけてしまう。
でもそれも仕方がない。早く早くと小声で急かす優紀に頷くと、香魚はいよいよ椅子から腰を浮かす。もう体が震えてしまって仕方がないけれど、渡すなら今しかない。
――さあ、行こう。
香魚は自分に活を入れ、整然と並んだ机の島を渡って教室の入り口にたどり着く。戸の影からこっそり覗くと、けれど悠馬は最近よくグラウンドのほうを見ている男女五人グループに声をかけられ、足を止めていた。
気さくに応じている様子を見ると、去年同じクラスだったのかもしれない。悠馬のクラスは覚えているけれど、そういえば彼らも悠馬と同じクラスだったかどうかは覚えていない。……なんだかすごく申し訳ない気分だ。
「……あ」
しかし、そこでふと気づき、香魚は思わず声を漏らした。また申し訳ないのだけれど、彼らがいると、廊下では渡しにくい。
どうしよう、場所を改めたほうがいいんじゃないかと困っていると、しかし彼らは、ひとりの女子に背中を押されて「またなー」とぞろぞろと教室の中へ消えていった。
ふと、一番最後に教室に戻っていった、さっきの彼女と目が合ったような気がしたけれど、香魚の気のせいだったのだろうか。
気を利かせてくれた……のかな?
ともあれ、悠馬は再びひとりで廊下を歩きはじめ、これで廊下から人が消えたので、お守りを渡すシチュエーションが整った。
香魚はカラカラに渇いた喉を無理やり動かし、朝から高まり続けていた極度の緊張で粘つく唾液を飲み込む。ゴクリ、と思いのほか大きな音がして、無駄に恥ずかしい。
でも、頑張るしかない。頑張ることに決めたのは誰でもない香魚自身なのだ。あの日の夕暮れのグラウンドを駆け回るたくさんの蓮高生たちの姿を思い出し、ぎゅっと目をつぶって、自分の中にキラキラの粒を溜める。
さあ、頑張ろう。
私だってキラキラするんだ。
香魚は朝からそう自分に気合いを入れ、本命お守りを渡すには一番の狙い目だと噂される放課後を今か今かと待ちわびていた。
思えば、去年のこの時期にワクワクすることなんてなかった。話しかける勇気もないくせに無駄にドキドキしたり、自分は渡せもしないのに誰かにお守りを渡されたらどうしようと無駄に気を揉んだり、ワクワクとは程遠い気持ちしかなかったように思う。そして、持ち歩くだけで精いっぱいのお守りを見るたび、どうせ私なんて、という気持ちになる。
でも、今は違う。私なんてこの程度だと諦めきっていた頃とは正反対の心境である。
ギリギリで変われて本当によかった。
香魚は高鳴る鼓動を刻む心臓を制服の上からきゅっと掴み、ふぅとひとつ息を吐く。
ワクワクしているけれど、もちろんそれ以上に緊張しているし、なんなら今朝から吐き気が止まらない。授業も上の空で、時間の感覚だってまったくない。でも、ようやく自分から動こうと思えるようになったことが、香魚には、なにより嬉しいことだった。
誇らしいと言い換えてもいい。顔面レベルがなんだというのだ、トラウマがどうしたというのだ。私だってキラキラするんだ。キラキラしてるって思ってもらえるように努力するんだ。もう青春は無駄にしたくない。
そうやって香魚は、今までになく強い気持ちで今日という日を迎えているのである。
「放課後になって俄然、気合い入ってるね」
「うんうん。今日の香魚ちゃんは、めちゃくちゃ可愛いよ。しっかり頑張っておいで」
「応援してるよー!」
「あ、優ちゃん。それに、朱夏ちゃんに朱里ちゃんも……みんな応援に来てくれたの? うわー、なんかすっごい恥ずかしいー……」
自分の席で本命お守りをぎゅっと握りしめて気持ちを作っていると、優紀、朱夏、朱里が香魚の机の周りに集まってきた。
朱夏と朱里は部活に向かうためにスポーツバッグを肩に襷(たすき)掛けにしていて、部活前にちょっと寄ってみました、という雰囲気だ。
けれどふたりの眼差しはすごく温かい。体育の授業中にふたりにもいろいろと話してあるため、どうやら駆けつけてくれたようだ。
一方の優紀は、彼女の視線の端々にちらちらと入ってくる朝倉くんが若干うざったいようで、そわそわしている彼に向かって、
「今日は香魚に付き合うから無理って昨日から言ってるでしょ。お守りも渡したんだし、今日は絶対、一緒には帰らないからね」
「そんなぁ……」
「そんなじゃない」
「オーマイガッ……」
朝倉くん本人も思わず嘆き悲しんでしまうほどの塩対応っぷりを発揮している。
あ、お守り渡したんだ、と頬が緩みそうになるのと同時に、彼の扱いがぞんざいな優紀に妙にハラハラしてしまう。もちろん、みんなの前だから気恥ずかしいのもあるだろうけれど、少し……いやだいぶ、惚れられた強みを発揮しているんじゃないだろうか。
昨日の体育で初めて今日のことを話したので、優紀は急遽、朝倉くんと帰るのを取りやめて金曜日の放課後を空けてくれたのだけれど……彼女もなかなか素直じゃない。
「まあまあ、優ちゃん」
「……だってさぁ」
窘めると、優紀がぷくっと頬を膨らませる。それでも彼女の目はガックリと肩を落とした朝倉くんをチラチラと気にしているんだから、香魚は苦笑いを噛み殺すのに必死だ。
優ちゃんが私のために残ってくれるのはすごく嬉しいし頼もしいけど、朝倉くんが泣いちゃうよ。もうちょっと大事にしてあげて。今日じゃなく明日ね。明日からね。
そういうわけで、四者――いや、朝倉くんも含めて五者五様の放課後は、そろそろわりといい時間だ。壁時計の針が指すのは四時二十分。いつもなら剣道部の部活に向かう悠馬が香魚たちのクラスの前を通る時間である。
「あ、そろそろだね」
壁時計を見た朱夏がそう言い、朱里と頷き合う。彼女たちも部活に向かう時間だ。しゅんと俯き、背中を丸めてひとりで帰っていく朝倉くんに続き、ふたりもその場に香魚と優紀だけを残して教室をあとにしていく。
あまり人数が多くても、香魚にも悠馬にも変にプレッシャーがかかってしまう。むしろお守りを渡されるとも思っていないに違いない悠馬のほうが、無防備なぶん、教室の中でじっと戦況を見守る視線を感じたときのプレッシャーは言い表しようのないものだろう。
そんな恐ろしい思いはさせられない。できるだけ香魚を緊張させないため、悠馬に変なプレッシャーを与えないための、彼女たちの温かな配慮というわけである。
「……香魚」
「うん。そろそろ来る頃だね」
「頑張って」
「うん」
優紀と向き合い、香魚はよりいっそう、竹刀と剣道の面を模して縫い付けたワッペン付きの本命お守りをぎゅっと握りしめる。
悠馬はたいてい、ひとりで部活に向かう。剣道部全体では二十人はいるのに、彼のクラスには剣道部員がいないためだ。ちなみに香魚のクラスにもいない。ほかのクラスには、ちょこちょこと部員が散らばっているようだけれど、男子はきっとこういうものなのだろう、朱夏と朱里のように連れ立って部活に行ったりは、なかなかしないみたいだ。
「――あ」
そうこうしていると、見張り役の優紀が声を上げ、パタパタと教室に入ってきた。どうやらターゲットのお出ましのようだ。
剣道着姿も格好いいけれど、制服姿も申し分なく格好いい悠馬は、たとえみんな同じ制服を身に纏っていたとしても、香魚にはすぐにわかる。体育のときのジャージも然り。剣道着姿で外周に向かうときと同じ原理が発動する。頭の形や背格好だけで、いつだって、どこでだって、すぐに見つけられるのだ。
今日もきっと格好いい。そう思うと、香魚はセーラー服のリボンを整え、スカートの丈を気にし、さっきから何度も整えているのにまた執拗に髪を撫でつけてしまう。
でもそれも仕方がない。早く早くと小声で急かす優紀に頷くと、香魚はいよいよ椅子から腰を浮かす。もう体が震えてしまって仕方がないけれど、渡すなら今しかない。
――さあ、行こう。
香魚は自分に活を入れ、整然と並んだ机の島を渡って教室の入り口にたどり着く。戸の影からこっそり覗くと、けれど悠馬は最近よくグラウンドのほうを見ている男女五人グループに声をかけられ、足を止めていた。
気さくに応じている様子を見ると、去年同じクラスだったのかもしれない。悠馬のクラスは覚えているけれど、そういえば彼らも悠馬と同じクラスだったかどうかは覚えていない。……なんだかすごく申し訳ない気分だ。
「……あ」
しかし、そこでふと気づき、香魚は思わず声を漏らした。また申し訳ないのだけれど、彼らがいると、廊下では渡しにくい。
どうしよう、場所を改めたほうがいいんじゃないかと困っていると、しかし彼らは、ひとりの女子に背中を押されて「またなー」とぞろぞろと教室の中へ消えていった。
ふと、一番最後に教室に戻っていった、さっきの彼女と目が合ったような気がしたけれど、香魚の気のせいだったのだろうか。
気を利かせてくれた……のかな?
ともあれ、悠馬は再びひとりで廊下を歩きはじめ、これで廊下から人が消えたので、お守りを渡すシチュエーションが整った。
香魚はカラカラに渇いた喉を無理やり動かし、朝から高まり続けていた極度の緊張で粘つく唾液を飲み込む。ゴクリ、と思いのほか大きな音がして、無駄に恥ずかしい。
でも、頑張るしかない。頑張ることに決めたのは誰でもない香魚自身なのだ。あの日の夕暮れのグラウンドを駆け回るたくさんの蓮高生たちの姿を思い出し、ぎゅっと目をつぶって、自分の中にキラキラの粒を溜める。
さあ、頑張ろう。
私だってキラキラするんだ。
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