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■8.ひとつの青い塊みたいだ

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 それから日々はつつがなく過ぎていった。しばらく晴れた日が続いているなと思っていれば、ひょっこり梅雨明け宣言がなされ、途端に夏が身近になる。
 東北の夏は涼しいと思っている人がいるかもしれないが、まったくそんなことはない。確かに猛暑日の日数は西のほうに比べると少ないし、四十度なんていう平熱より高い気温になる地域があるわけでもない。けれど、涼が取れるのはクーラーの効いた室内や、屋外では木陰や屋根の下の日陰などに限られてくるのは全国共通である。
「――で、なんで野球部のおれがここに連れてこられたわけ? なにこの太陽。なにこの炎天下。めちゃくちゃ暑いし場違いすぎるし、ぶっちゃけわけわかんないんだけど」
 そう恨めしげな口調と視線で問う南波に、お詫びの印としてさっき自販機で買ってきたばかりのスポドリのペットボトルをひょいと投げ渡しながら、
「いや、夏休みどうしてっかなーと思って」
 隣に腰を下ろした康平も、同じスポドリのキャップを空けてキンキンに冷えたそれを一口、喉に流し込んだ。頭の奥がキーンとして、体内に冷たさが一気に広がる。
「普通に部活だわ。普通に課題だわ。……まあ、試合は一回戦負けだったけど」
「知ってる。遠目からでもわかったぞ、おまえ、めっちゃ泣いてたな」
「うるさいよ。どうせブッサイクだったわーとか言いたいんだろ? おまえが試合に出たわけでもないのに、とかなんとかさ。んなことわかってるよ。言われなくても」
 ちびり、ペットボトルの中身を舐めるように飲んで南波は不服そうに口を尖らす。
「いや、ごめん。そういうんじゃないって、わかってるから」
 そして、こちらがなにか言う前に自己完結というものをする。まあ、わかっているなら話が早くてありがたい。わりと浮き沈みの激しいやつだなとは思うけれど。
「はは。いいよ。気にしてないし」
「……ん。康平のそういうとこ、好きだわ」
 こういうところが可愛いんだよな。再び飲み口に口をつけながら、こっそり苦笑する。
 それはともかく、南波が不満を漏らすのも納得のここは、県民大会の会場となっている陸上競技場だ。太陽の熱と光を遮るもののないスタンドの応援席のずっと向こう――そこに今日で引退となる三年と、二年の部員の姿が蜃気楼にゆらゆらと揺らめいている。
 南波の左隣には翔琉の姿もある。ときおり吹く真夏の熱風にふよふよと後頭部の髪の毛やTシャツの袖口を揺らめかせながら、「ついでにおれのぶんも。康平たちと一緒のでいいから」と頼んだスポドリのペットボトルにのん気な顔で口をつけている。
 実は、県民大会に南波を誘わないかと言い出したのは、翔琉だった。これといってなにか明確な目的があったわけでもないし、まして一緒に日報駅伝を走ってくれないかと誘うために部活が休みの南波を誘い、ここに連れてきたわけでもない。
 ただ、翔琉がぽつりと言ったのだ。南波を気分転換させてあげたいな、と。
 その翔琉が、自分は一向に話に入らず南波の相手を康平にばかり任せているのが微妙に気に入らないけれど。でも、野球に青春を懸けている南波のあまりの落ち込みように、康平自身もなにかしてやれることはないかと考えていたのは本当だった。
 というのも、南波のこの落ち込みっぷりには深いわけがあった。それもそのはず、さっきは一回戦負けだったと言ったが、その間に〝五回コールド〟が入る大敗だったのだ。
 事が起こったのは、夏の甲子園岩手県大会の一回戦。前身の女子高時代から十年ほど前に共学となった聖櫻には、そもそもの男子の人数に限りがあったこともあり、野球部は存在していなかった。野球部が新設されたのは、初代の先輩たちが六人で作ってから今年で三年目である。その歴史を考えれば、聖櫻野球部として単体で試合に出られただけ大進歩といったところだが、それでは納得できない悔しさが南波の胸にはあるのだ。
 聖櫻に野球部ができたのは、初代のメンバーが二年に進級した、その春だったという。今年で三年目だから、初代は康平たちと入れ違いで卒業してしまっている。
 夏の甲子園県予選で一勝というのが、創設時からの目標らしい。聖櫻に野球部ができたと聞いて入ってくる生徒のおかげで、今では二十人程度まで部員は増えたそうだが、残念ながら人数が集まったからって自動的に強くなるわけではない。そうして今年もまた大敗を期し、創設時からの一勝の夢を持ち越した翌日、全校応援に混じってスタンドで声を枯らした南波は、自分の机に額を擦りつけるようにして掠れ声で言った。
 ――『三年目の今年も一勝がめちゃくちゃ遠かった……』
 そんな南波になにも思わないわけがなかった。自分たちと少し似たところがあると感じるからこそ、どうにかして元気づけてやれないかと頭を悩ませていたし、また前を向いて野球に打ち込めるように気分転換をさせてやりたいと、ずっと機会を窺っていた。
「え、てか、なんでふたりは試合に出ないの?」
 はっと気づいたように、南波が尋ねる。
 今さらかよと思う気持ちと、やっと気づいたかと思う気持ち半分で苦笑しながら、
「マネージャーの先輩に止められてんだよね。おれら〝隠し玉〟だから」
 ちょっと得意げな調子で康平は答える。
「でもその先輩は女子百メートルに出るって、なんか変じゃない?」
 そのあとを引き継ぎ、ようやく翔琉が話に入ってくる。でも、そうは言いつつもさっきからずっと出走を控えた紫帆の姿を固唾を飲んで見守っていたことを康平は知っている。
 翔琉だって紫帆に特別な気持ちがあるわけではないことは、見ていてわかる。けれど、彼女を心配する気持ちは康平と同じだ。長く実戦から遠ざかっていたわけを、翔琉はこの間、紫帆から直接聞いたらしい。内心ハラハラで、目が離せないのだろう。
 ちょうど今は全員グラウンドに出払っており、応援スタンドはガラガラだ。さしずめ今日の康平たちは、入れ代わり立ち代わり競技に向かう部員たちの荷物番といったところだろうか。さっきまでは何人かいたが、様々な競技が同時進行で行われる会場は、目を凝らせばあちこちに聖櫻の紺碧色に染め上げられた雄々しいユニホームが発見できる。
「は? 隠し玉? マネージャーが選手までやるの?」
 当然、南波は目を白黒させる。
「いや。単に試合に出るマネの先輩――藤沢先輩が、おれらを〝隠し玉〟だって言ってくれてるだけの話なんだ。念願叶って十一月の日報駅伝に出られることになったんだけど、そのときまで秘策は取っておいたほうが絶対面白いからって譲らなくてさ」
「そうそう。おれたちだって走りたいって言うと、じゃあ私が代わりに走るって言い出したのは、それからすぐだったよね。なにが代わりなのかはわからないけど、でも先輩、中学時代にアキレス腱を切る大怪我をしちゃってて……。それまでは短距離を専門に走ってたそうだけど、頼まれて中学駅伝に出たときだったんだって。そんな話を聞かされたら、部員みんなで必死になって止めるしかないじゃん。けど、一度言い出したら聞かない人なんだよ、あの人。で、結局おれらは荷物番。先輩はフィールドにいるよ」
 苦笑を浮かべながら翔琉が指さすほうに三人で目を向けると、あれから少し伸びて肩下までになった黒髪をキュッとポニーテールに結んだ紺碧のユニホームが途端に目に飛び込んできた。深い青をたたえたそれは、やはりそれだけでとても目立って見える。ぱっと人目を惹く華があるのは、きっとユニホームの色のせいだけではないだろうけれど。
「秘策って?」
「簡単に言うと、どんな選手の横にもぴったり付いて離れない脅威的な根性。呼吸とか腕の振りとかストライドとか、全部をそっくりそのままコピーできるんだよ、こいつ」
「へぇ~。なんかよくわかんないけど、めっちゃすごそうだな」
 康平が答えると、紫帆から視線を外して南波がしげしげと翔琉の顔を見た。途端に翔琉が照れくさそうに南波から目を逸らすので、代わりに康平が説明する。
「いやいや、マジですごいんだって。て言っても、隣にぴったり並ばれたやつじゃないとわかんないのが、ちょっと信憑性に欠けるけど。それを先輩は秘策にしようって言ってくれてるんだ。だからって、代わりに走るのはちょっと違う気もするけどな。でも、先輩も先輩でなにか思うところがあるんだと思う。この一ヵ月、めちゃくちゃ頑張ってたし」
 とはいえ、体の仕上がり具合は、遠目からでもけして満足とは言えないものだ。ひと月足らずで取り戻せるほど、二年以上のブランクは、そう甘くはない。
 それでも紫帆にとっては、百メートルを全速で走り切ることこそが、なによりも大事なのだ。それをわかっているからこそ、部員たちも似内も、彼女の好きにさせた。
「……なんか羨ましいな、陸部。全員でひとつの青い塊みたいだ」
 そう言った南波の声が一瞬だけ強めに吹いた風に飛んだ。
 そうこうしている間に、いよいよレースを控えた紫帆がスタート地点に整列した。グラウンドのあちこちに散っている紺碧が自然とそちらに体の向きを変えたのが、フィールドの様子をぐるりと見渡せる応援スタンドから本当によく見渡せる。今回は仕方なく翔琉とともに荷物番に回っている康平も、いよいよ緊張が高まって胸の内側が落ち着かないというのに、ほかの部員が――特に友井たち三年生が彼女の走りを見守らないわけがない。
 紫帆の足のことは、二、三年生の部員は知っていたという。自分が走ると言ったことを機に一年生部員にも打ち明けたのは、あれからすぐのことだった。その前に康平と翔琉はめいめいに話をされていたというわけで、今では陸部の全員が、紫帆が試合で走ることの意味をその胸に刻みつつ彼女の最後のレースの行方を見守っているのだった。
「でも、なんでまた試合で走ろうなんて……?」
「けじめをつけて前に進むためなんじゃない? 捨てきれなかった未練ってやつに、きちんとさよならしたいんじゃないのかな。今日引退する三年の先輩たちと」
「あ、三年生はこの試合で引退なんだ」
「そう。これからは受験勉強だって」
 翔琉が再び話に入ってきて、南波との会話が続く。南波ともすっかり打ち解けている翔琉は、きっと南波からも傘を差し伸べてもらったと感謝しているのだろう。
 南波は最初から翔琉を遠巻きに見ることはなかった。もちろんそれは、陸部での成績を知らなかったことが大きいだろう。けれど、足がやたらと速いことを知っても、東北大会を棄権してもひとつも変わらなかった態度は、翔琉にはとても大きい意味を成すことのはずだ。陸部の外にもこういうやつがいてくれることで、康平自身も安心する。まるで当たり前のように無自覚にやっているからこそ、南波の存在そのものがとてもありがたい。
「うげー。受験なんてまだまだ考えたくない話題だわ……」
「だよねー。現実味が湧かないっていうか」
 再び紫帆の姿を目に捉えた康平は、そんな会話を遠くで聞きながら思い出す。
 ――『いつまでもそんなことを続けてたら、身体的にはどうなのかな』
 ――『私みたいに、なんでもかんでも欲しがる人を止めるためよ』
 そう言った紫帆の顔は、どうだっただろうかと。
 でもそれは、咄嗟のことだったり逆光だったりして、わからなかった。けれど、紫帆があえて攻撃的な言葉を選んだ裏には、まだ自分自身の中で競技に懸ける思いが完全に終わっていない気持ちが隠されていたからなのではないだろうかと、今は思う。
 ファミレスのあの席で、紫帆は言った。
 ――『みんな、そこまで青春を懸けられるものがあることが羨ましいのよ』
 私や、友井も含めて。
 あの一日でなにかが変わったとするなら。そう口にするまでになにか心の変化があったとするなら。それは紫帆にしか感じ得ないものなんだろから、康平の想像が及ぶわけもないけれど。ただ、なんとなく感じるのは、紫帆の胸の中に前からあった〝三年の仲間たちと本当の意味で燃え尽きて終わりたい〟思いが、康平や翔琉の駅伝に懸ける思いに影響されて実際に試合で走りたいと思わせたのかもしれない、ということだろうか。
 予選で落ちるかもしれない。それどころかビリで終わってしまうかもしれない。それでも完全燃焼したい。引退の場となるここで、三年間ずっと一緒にやってきた仲間たちと心からそう感じたい――暗に青春の終わりを想起させるようなそれは、康平にはまだまだわからない部分も多いけれど。その思いが紫帆にゴールラインを見せているのかもしれないと。スターティングブロックに足をかけた彼女の姿に、康平はそう思えてならなかった。
「ねえ、南波も、もし時間あったら日報駅伝を観に来てよ」
「え?」
「あ。一緒に走ろうって誘われるかと思った? そんなことしないよ。南波は野球が一番じゃん。今日は南波を元気づけるために連れ出したんだし、そこは安心して」
 紫帆の姿に集中していた康平の耳に、ふたりの会話が大きくなる。
「どうしたって終わっていっちゃうものには逆らえないよ。時間的な問題だったり、実力の問題だったり、なにか突拍子もないことが起こって、それが終わらせなきゃいけない理由になっちゃったりする。でも思うんだけど、唯一それに逆らえるものがあるとすれば、次の世代や同じ目標を持った仲間に〝繋いでいくこと〟なんじゃないかなって」
「繋ぐ……?」
「そう。南波はもう、初代の先輩たちや引退していった三年生たちが掲げてる目標を繋がれたんだよ。そう考えたら、なんか世界が一気にキラキラして見えない?」
 そう翔琉が尋ねた瞬間、スターターピストルが高らかに鳴り、紫帆たちの組が一斉に走り出した。スタートの反応はよかったものの、やはりブランクには抗えずに序盤から出遅れ気味だった紫帆は、中盤に差し掛かる前に周りから置いていかれ、見ているこっちが泣きたくなるほどの大差をつけられたまま、一番最後にゴールラインを駆け抜けた。
 それでも紫帆の顔には満足げな笑みが広がっていた。きっと、こういう顔こそ清々しいと言うのだろう。その笑みを絶やさないままにくるりと半回転した紫帆は、レーンに向けて深々と頭を下げる。走り終わった選手たちが腰に手を当てたり肩で息をしながら引き上げていく中、しばらく動かないその姿には、容易に胸に込み上げるものがある。
 ――ああ、これで終わったんだ。終わりにしたんだ……。
 そう思うと、いつの間にか体が勝手に紫帆に拍手を送っていた。
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