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■7.〝おれはこんなに楽しいんだ〟って顔で走ってやれ

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 ひとつ息を吐き出し、中村は続ける。
「……こう言ったらあれだけど。だいたい、本当は駅伝がやりたいのに短距離でも優勝するって、わけわかんねーんだって。確かに福浦は速いよ。ひとりだけ別次元にいるって感じだったよ。長距離にもすごいものを持ってるって戸塚が言うなら、福浦のことだから、きっとそうなんだろうとも思う。なんでもやれるんだよ、福浦だったら。……けど、いまいち釈然としないのは、福浦が短距離から抜けたら、おれが繰り上げ当選みたいにリレーのメンバーに入れるから――なんて卑屈に思う気持ちがあるからなのかな。そんな棚ボタ的なおこぼれに預かったって、今は正直、虚しい気持ちしかないよ」
 三年生は一年ぶん経験を積んでいて、決勝には残れなくても、準決勝まで勝ち上がっていけるくらいの足がある。リオ五輪のときの日本人選手たちと同じだ。たとえ個人では誰も決勝に残れなくても、四人で走れば銀メダルを獲得できる技術と強さがあった。
 正直なところ、聖櫻の短距離の実力は、翔琉を除いて個人戦で勝ちに行けるほどのものではない。残りの大会数や引退の時期も考慮すると、リレーに三年生を出させるのは妥当な判断だと言えるだろう。それに翔琉は、誰もが認めざるを得ないほどの速さと中学での実績を兼ね備えた正真正銘のエースだ。五人のうち、誰をリザーブに回して誰をレースで走らせるかは、自ずと中村と、もうひとりの一年のふたりに絞られたというわけだ。
 そこを翔琉が抜けるとなれば、中村がなにかしら、わだかまる気持ちを覚えるのも無理もないことだった。もちろん他競技の部員だってなにも思わないわけがないだろう。翔琉がレースを棄権した理由と、陸部に入った本当の目的を打ち明けられた今においては、川瀬のように前向きに捉えようとしている部員のほうこそ稀有な存在かもしれない。
 結局、中村の発言を「言いすぎだって」と咎める部員はいなかった。というより、まだまだ頭が混乱していて。それに加えて、少なからず中村の気持ちに覚えがあったり察せられる部分がそれぞれにあるために口を開けない、と言ったほうが正しいだろう。
 翔琉とふたり、恐る恐る顔を上げると、誰もが複雑な顔をしていた。そこまで言うならやってもいいんじゃないかと思う気持ちと、いやでも、とすぐには納得し兼ねる部分と。どちらに気持ちの振り幅を傾けたらいいか見当がつかない、といったふうだった。
「――でもおまえらは、駅伝がやりたいんだよな?」
 するともう一度、中村が声を上げた。
「はい」
 神妙に声を揃えれば、中村は一度大きく首を垂れ、やがて勢いよく顔を上げる。
「ならこっちは、おまえらの好きにやらせるしかねーじゃん。どうせ言っても聞かないだろうし、なかなか言い出せなかったのもあるだろうし。そもそも、陸部に入ってなきゃ大会にも出られないしな。福浦がまず短距離の試合に出たのは、きっと〝あの福浦翔琉が〟っていうおれらの期待を無下にできなかったからなんだろ? 川瀬の言うとおり、確かに福浦は、戸塚と学校中を駆け回ってたときのほうがいい顔をしてたと思う。あの顔は、福浦のほうこそ駅伝をやりたいって顔だったよ。悪いな、気づいてやれなくて」
「先輩……」
 翔琉がぽとりと声を落とす。口の中だけで弾けて消えるような小さな声は、認めてもらえた嬉しさと、今までの申し訳なさとの間を往復しているような、そんな声色だ。
 康平も翔琉も、中村の胸中には覚えがある。
 なんとも言えない胸の痛みを感じた側として。それを感じさせた側として。
それでも中村は、翔琉の思いを受け止め、尊重しようとしてくれている。奇しくも翔琉には中学時代をなぞるような入部の仕方だったわけで、そのためにおそらく康平以上に恐怖を感じていただろうけれど。でも、中村は、聖櫻陸上部はこんなにも温かい。
 だからこそ、よりいっそう強く思う。
 ――翔琉をおれにありがとうございます。ありがとうございます。
 気を強く保っていないと、うっかり涙が零れ落ちそうだ。
「でも、だからといって一瞬たりとも気を抜くんじゃねーぞ? やるならとことん本気でやってもらわないと、おれの気持ちが救われないだろ。少しでも半端なことをしたら陸部から追い出してやるからな。短距離を捨てるなら、それくらいの気持ちでやれ」
 中村の温かい檄が飛ぶ。
 この数分間で計り知れないほどの葛藤があっただろう。同じ短距離種目の走者として本当にわけがわからなかっただろうし、一言では言い表せない怒りも劣等感も味わっただろう。でも中村は、それらをすべて翔琉へのエールに変えて背中を押してくれたのだ。
 ――中村先輩の気持ちに、なんとしてでも応えないと。
 その思いが沸々と湧き上がり、もうなにも言葉にならなかった。
 それを合図にしたように、部室内に張り詰めていた緊張の糸がするりと解けていった。ほかの部員たちからも「中村がそう言うなら」「三年はもうすぐ引退だしな」「なに、追い出されると思った?」などと、康平たちを認める声が次々と投げかけられていく。
 一年生部員からも、それはだいたい同じだった。まあ大半は、先輩たちがそう言うならおれらも、的な便乗する形だったけれど。でも、それでもありがたい。あっという間に涙でかすんでよく見えなくなった目を凝らして部員の顔をひとりひとり見回すと、みな、仕方ねーやつらだなと諦めたような、そんな顔が部室内に溢れていた。
 それを見て、すんと鼻をすすると、康平はすでにしゃがみ込んで顔を覆って嗚咽を堪えている翔琉の背中を力いっぱい叩いた。返事がまだだ、安心してんじゃねーと発破をかけるように。しばらくは背中の赤い手形が消えないくらいに、強く、強く。
「いでっ」
 呻いて立ち上がった翔琉は、けれど目元を濡らしながらニッと口元に弧を描く。
ふたりには、言葉で示し合わせなくてもなにを言うべきか、すでにわかりきっていた。
 大きく息を吸い込み、同時に腹の底から声を出す。
「はいっ‼」
 返事なんて、ひとつしかない。
 朝から降りっぱなしの雨をつんざくほどの大声は、直後、部員全員の爆笑を誘った。

 *

 その日の部活終わり。
「でもさ、福浦があんなふうに泣くなんて、ちょっとびっくりだよな」
 友井に誘われて入ったファミレスで、ドリンクバーのメロンソーダをちぅ、とストローで吸い上げながら、その友井が意外そうな顔を翔琉に向けた。
「よっぽど思い詰めてたものがあったのよ。いいじゃない、歓喜の男泣き。実力も実績もピカイチだけど、やっぱりまだまだ一年生なんだなーってちょっと可愛かったし」
 隣では、ストレートのアイスティーを持ってきている紫帆が、グラスの中身をストローでグルグルかき混ぜながら翔琉に「ねえ?」と同意を求める視線を送る。
「すみません、恥ずかしいところを見せてしまって……」
 そう言うしかないだろう翔琉は、恥ずかしさに顔を赤くしながら席にちんまり座り、テーブルの下に隠した両手でカーディガンの裾を無意味にやたらと整えている。
 衣替えも約一ヵ月前に終わった。いよいよ梅雨本番となったこの時期は、肌寒い日などはみなブレザーの代わりに上になにか一枚羽織るのが聖櫻生のスタイルらしい。部活ジャージで帰ろうとしていたところを「紫帆とおれと、四人でなんか軽く食っていかない?」と友井に誘われた康平たちは、だったら制服に着替えたほうがいいだろうと、例に漏れずカーディガンまで着用して連れられるままにファミレスに入ったのだった。
 どうしても目に入ってしまった翔琉のその行動に、モジ男かよ、と康平は心の中ですかさずツッコミを入れる。まあ気持ちはわかるが、男に見せても可愛い仕草ではない。
 テーブル席に通された際の座り順は、友井と紫帆、テーブルを挟んだ向かい側に康平と翔琉だった。泣いた姿が可愛いと言うくらいだ、所在なさげなモジモジも紫帆には可愛く見えるかもしれないが、翔琉にはどうか横に男がいることを忘れないでほしいものだ。
「いや、そもそもおれが悪かったんだから、謝ることはないよ。名前だけで判断して陸部に入れようとしたんだし、福浦のほうこそつらかっただろ。昼休みのときも、変に脅す形になってごめんな。どっちに転ぶか、おれにも想像がつかなかったんだ。みんなに認めてもらえてよかったなって言おうと思って誘ったのと、そのことを謝りたかったのと。といういうわけで、今日は先輩の権限を使ってふたりに付いてきてもらったんだよ」
 そんな中、友井が微苦笑をもらしながら誘ったわけを話した。
「いえ、そんな。こんなわがままを聞き入れてもらえただけで、おれ、なんて言ったらいいか……。……本当に、ありがとうございます。聖櫻に入ってよかったです」
 また声を詰まらせる翔琉に続いて、康平も「ありがとうございます」と頭を下げる。
 聖櫻を受験した理由は大したものではなかった。前に川瀬に話したように、せっかく高校生になるんだから電車通学をしてみたいという不純な憧れと、中学時代の陸部の仲間が行かないところに行きたかったこと。それから、さほど陸部が強くないことと頭の出来を加味した結果、家からそう遠くないところに聖櫻があったというだけのことだった。
 もともと部活には入らないつもりだったが、もし聖櫻が陸上の強豪校だったとしたら、意識していないつもりでも、きっといつも視界に入れてしまうと思った。
 どこの高校にも陸上部はある。完全に康平の負け惜しみだが、華々しく活躍する陸上部員たちをできるだけ視界に入れたくないという気持ちが強かったのだ。
 翔琉のほうは、散々聞かされたとおり、康平を追いかけて。その気持ちは素直にすごいと思うものの、理由だけを切り取ってみれば、こちらもほとんど不純物だらけだ。
 あれだけつらい目に遭ったのだ、北園中の陸部の連中が行かない高校へ行きたかったという理由も大きいとは思う。けれど翔琉なら、康平がどこの高校を選んだとしても絶対に追いかけてきたはずだ。そして必ず、一緒に駅伝を走らされていただろう。
 康平は、正直めちゃくちゃナメていたと猛省する。弱いからなんだっていうんだ。部員の数が少ないからなんだというんだ。聖櫻陸上部の仲間たちは、自分たちが本当はどんな目的で入ってきたかを知らされても背中を押してくれるような人たちばかりなのに。
 これが仲間っていうやつなんだと康平は密かに胸を熱くする。大切な仲間がいてこそ、そこがのちのち〝母校〟というやつになるんだとわかった気がして、目頭が熱い。
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
 ススン、と鼻をすすると、紫帆が笑って頷く。
「泣くほど思い詰めてたものがあったってことは、きっと福浦君にはそれだけの理由があったんだろうし。戸塚君だってそうだよ。おれたちには駅伝しかないって言い切るくらいのものが、その胸の中にはあるんでしょう? みんな、そこまで青春を懸けられるものがあることが羨ましいのよ。私や友井も含めてさ。それをふたりが代表して言ってくれたから、変に歪んだりねじれたりしないでみんなの胸に真っ直ぐ響いたんだと思う」
 それから、やや照れくさそうにテーブルの真ん中に置かれた皿から半月形の皮つきフライドポテトをつまみ、湯気が立ち上る熱々のそれをひとつ、口に放り込む。
 ガラにもないことを言ってしまった、なんて思っているんだろうか。普段はあまり表情が変わらない紫帆の照れた顔や手持ちぶさたの行動が変な意味ではなく可愛らしい。
「ほら、ふたりとも食べて食べて。友井の奢りだから」
「は⁉ ここは先輩らしくおれらで割り勘だろ」
「なに言ってんの、女の子に払わせるなんてサイテー」
「え? 女の子? どこどこ?」
「ここ!」
 そして、なんだかんだまた、微笑ましい痴話げんか的なものがはじまった。
 だからもう付き合っちゃえばいいのに。
 翔琉とどちらからともなく目を見合わせるなりブフッと吹き出してしまいながら、康平はやっぱりそう思う。友井には紫帆、紫帆にも友井なのだ。こんなケンカにもなりようのないケンカなんて、どんなに腹を空かせた野良猫でも見ただけで胸やけを起こしてさっさとどこかへ行ってしまうだろう。勝手にやって。康平もまさにそんな気分だ。
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