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■6.おまえと走れなきゃ意味がない
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――福浦は絶対に短距離に向いている、だからウチのエースになってくれ。
東北大会当日。
百メートル走の出走をテントの中で待っていると、翔琉の耳をあのときの陸上部の顧問の声が掠めていったような気がした。たかが体育祭のクラス対抗リレーで才能に気づいた顧問も顧問だが、それにまんまと乗せられた自分も自分だと翔琉はふっと苦笑を漏らす。
あの一言で陸上をはじめなければ、康平と出会うこともなかった。でも、あの一言さえなければ、短距離にこんなにも足枷を嵌められることもなかったと思う。
「皮肉だよな、やりたいことと得意なことが違うんだから……」
口の中で声を転がし、周りを見回す。そこには中学時代、東北大会でよく戦った顔見知りの選手の顔がちらほらあり、ああやっぱりこいつらも短距離を続けてたんだと当たり前のことを思う。みんなしっかり集中した、いい顔だ。獲物を捕らえるような野性的な目。誰よりも早くゴールラインを駆け抜けてやろうという気持ちが瞳に宿っている。
でも、それはそうだ。だから彼らはここにいて、翔琉とともに出走を待っている。県予選を勝ち抜いてここまで来た、各県のトップスプリンターたちなのだから。
「おれだけなんだろうな、こんなフラフラしてんのって……」
再び口の中で声を転がすと、突如テントの景色が一変した。周りの選手にだけ鮮やかに色があって、自分だけがセピア色の景色の中に閉じ込められたような感覚。急に自分のどっちつかずの態度が色に現れたような気がして、翔琉は途端に居心地の悪さを感じた。
すぐに視線を下げて集中を高めているふりをする。でも、どうしようもなく目が泳ぐ。
身長はわりとバラバラだが、体格はだいたい似たようなもの――体の線が太く、太ももやふくらはぎの筋肉が発達していて、上半身も筋肉質の選手たちの中で、そう体格は変わらないはずなのに、どうしてだか自分だけが異質に思えて仕方がない。
三年間、顧問の言葉どおり短距離のエースとして北園中陸上部を引っ張ってきた翔琉の体は、まだまだ短距離走者のそれだ。先の県総体でもそれが証明され、結果となって今この場にいる。けれど、たった十秒のレースに全神経を集中させているとは到底言えなかった。心がふわふわと浮き足立ち、テントに呼ばれてからもずっとソワソワしている。
それはきっと、またひとつ、康平の背中が遠くなったからだと思う。
自分でもわかってやっていたオーバーワークを切実に止められ、東北大会まではと期限を決めて短距離に集中してきたつもりだったが、この前、その集中が一気に切れた。
康平がひとりで駅伝の仲間を見つけ、助っ人の出場も認められている日報駅伝にターゲットを絞ったのだ。七月末の県民大会では、もう一人の仲間――二年の先輩の川瀬とともに入賞しようと練習に精を出している。明確な目標を持ってそれに取り組む姿勢は、まるで光の粒を撒き散らしたようにキラキラしていて、ひどく眩暈がしそうだった。
自分たちの目的が一歩前進して嬉しいはずなのに、心がざわめく。一緒に走ってくれる仲間が見つかってほっとしたはずなのに、それ以上に不安な気持ちが心に影を落とす。康平にどんどん置いていかれているような気がして、焦燥感ばかりが募っていく。それなのに、自分はこんなところで一体なにをしているんだろうと思うと情けない。
――こんなところでこんなことをしていていいのか、おれは。
まったくもって気がそぞろで、自分がこうしている今も康平はひとり駅伝に向けて気持ちを高めているんだろうと思うと、すぐにでもここを離れたい気分だった。
と。
「お。久しぶりじゃん、福浦」
ふいに、はっと現実に引き戻された。今までなにも聞こえていなかった耳に周囲の音が一気になだれ込み、耳の奥が少しキーンとする。顔を上げると、前方に宮城県のランナーの姿があった。中学時代、決勝でよく一位二位を争った田上泰正だった。
「ああ、田上か。久しぶり」
よ、と片手を上げて挨拶する。よく決勝で一緒になるメンバーのうち、田上とはわりと仲がいいほうだった。プライベートでも連絡を取り合うほどではないものの、大会で顔を合わせればこうして待ち時間に声をかけ合うくらいには、お互いに旧知の仲だ。
「どうした、珍しくナーバスになってんな」
「そう見える?」
「いつもとちょっと雰囲気が違うような気がする。あ、もしかして、風の噂で強いとこには行かなかったって聞いたけど、それのせいもあったりすんの? 強いとこも強いとこでプレッシャーはあるけど、無名なとこも無名なとこで、周りから期待されるだろ」
聞かれて翔琉は、苦笑しつつ首を横に振る。
「おれの問題なんだ。ここんとこ、ちょっとモヤモヤしてばかりで」
周りからの期待はさほど感じない。というよりむしろ、福浦なら普通に全国まで行くだろうという空気が聖櫻陸上部にはあるかもしれない。とはいえそれは、純粋な期待だ。
純粋な期待は、変に気負ったりしなければ不思議と力に変わる。何度か全国大会を経験して、翔琉は自分にどんな種類の期待をかけられているか、わかるようになっていた。
聖櫻陸上部のそれは、居心地のいい期待。聖櫻からはただひとりの出場なので、引率は顧問の似内だけだ。そこに寂しいものがないと言えば嘘になるが、部員全員で応援に駆けつけたり、まして全校を上げて応援するほどすごい大会かといえば、実は案外そうでもないと言えるだろう。夏の甲子園予選の応援が極端なのだ。まあ、野球は華があるけれど。
「へえ、モヤモヤね。福浦でもメンタルが弱ったりすることもあるんだな」
「そりゃそうだろ、サイボーグじゃないんだし。田上は? 調子上がってんの?」
「まあ、ぼちぼちかな。決勝に照準を合わせてる感じ」
苦笑しつつ聞くと、謙遜したようなことを言いつつも、その実、自信満々の言葉が返ってきた。こういう強気なところが田上の持ち味のひとつだ。試合でも、その持ち前の強気で前半からぶっ飛ばしていくことが多かった。今回もきっとそのはずだ。
噂で翔琉も、田上は宮城県内で強豪校のひとつとして数えられる宮城野高校に進んだと聞いている。一年のうちから試合に出てくるということは、宮城野の中でも実力がある選手ということだ。東北六県の中で翔琉や田上の学年は、例年に比べてとりわけ粒ぞろいの世代だと言われている。顔を知った一年生選手が多いのも、そのためだ。
その中で、前半型の田上と、後半型の翔琉の実力が頭半分ほど抜けていた。ふたりの実力は拮抗していて、勝敗は五分五分。戦友でありライバルであり、翔琉たちの世代をともに引っ張ってきた牽引者としてお互いにその存在が自分を高める原動力となっていた。
「すごいな、田上。もうずっと短距離しか目に入ってないって感じだな」
「当たり前だろ。おれにはこれしかないって思ってるからな。まあ、全国はもっとすごい場所だけど、行けるとこまで行こうと思ってる。そのためなら、なんだってするぞ」
「なんだって……」
「おうよ。先輩を立てなきゃとか、そんなのいちいち思ってらんないし、一年だからって遠慮もしない。恋愛に興味がないわけじゃないけど、おれのことをわかって黙って付いてきてくれるような子じゃないと恋愛したいとは思わないし、のちのち『陸上と私とどっちが大事なの』とかいう面倒くさいことになるんだったら、いっそ、はじめからいらない」
ふたつの瞳にこれでもかと情熱の炎を灯し、田上は言い切る。
実力があって、誰がなにを言おうと負けない芯の強さがあって。速く走るためなら、一番興味がある時期のはずの恋愛に対しても自分の持論を堂々と口にできる――そんな田上のとことん本気で短距離に向き合う姿勢は、もう圧巻と言うほかなかった。
あまりの熱量に圧倒され、翔琉は数瞬、ぽかんとしてしまう。ちょっと見ないうちに田上が急にデカくなったように見えて、ただ、すげーなとしか感想が浮かばなかった。
対しておれはどうだろう。そう思うと、あまりにフラフラしていて笑えてくる。
本来ならこんな気持ちでこの場にいていいはずがないのに、出走を待っていること。待っているからには田上に負けたくない気持ちがあること。でも本当は康平と駅伝を走りたいと思っていること。仲間を得た康平の背中が急に遠く感じていること。
まるで心が反発し合っているようで、その感覚がずっと抜けない。
――おれは一体、なにがやりたいんだろう。どこに向かっているんだろう。
「ははっ……」
そう思うと笑えて、笑えて。……目の奥も心臓も、ジンジン痛い。
「なに笑ってんだよ」
「いや、田上らしいなと思って」
「やっぱ福浦、今日はなんか変……てか、ぶっちゃけ気持ち悪い」
悪い悪いと顔の前で手を振れば、田上は遠慮なく言い直す。なかなか辛辣だなと思うけれど、自分でもずっと自分が気持ち悪いと思っていたから、反論はない。むしろはっきり言ってもらって自分のなにが気持ち悪かったのかがようやく鮮明になった気がする。
「だよな。やっぱおれ、気持ち悪いよな」
「……は?」
「全部に中途半端だったってことだよ。だから気持ち悪かったんだ」
「え、なにが?」
「いや、こっちの話。……うん、覚悟決まった。ちょっと今から棄権してくるわ」
「は、えっ⁉」
ひとつ頷くと、翔琉はジャージを羽織り直して田上に背を向けた。
気持ち悪かったのは、康平に言いたいことを言っていないからだ。体を気遣ってくれたのはありがたいが、その気持ちに遠慮して中途半端なことしか言えなかった。
本当は、はっきり康平に言ってやりたかったのだ。
東北大会には出たくない、これからは駅伝だけに絞りたいと。どうしておれを置いてひとりで先に行こうとするんだと。おれとおまえではじめたことなんじゃないのかと。
似内にだって、同じだ。
東北大会に出てほしいと言われる前に自分から出るとは言った。わざわざ人払いをしてまでふたりきりで話すことに、それ以上の意味はないとすぐに察しがついたからだ。
似内は、翔琉がどれほど駅伝をやりたがっているかを知っている。それでもどうにかして説得しようとしていたはずだ。まあ、自分から進んで東北大会へ出場すると言ったときの虚を突かれたような反応は翔琉には意外にも思えたし、似内本人も、自分は翔琉にどちらの道を進ませたらいいか決めきれずにいただろう中では一瞬思考が停止したのだろうけれど。でも、出ないと言い張っても、きっとギリギリまで諦めなかったと思う。
けれど、そこに〝とりあえず東北大会まで行けばみんな満足してくれるだろう〟という気持ちがあったことは、まだ誰にも話していない。言えるわけがないのだ。みんなの気持ちを裏切り、踏みにじることになるのがわかっていて言う度胸なんて翔琉にはなかった。
でも。
だいぶ遅くなってしまったけれど、短距離を捨てるなら今しかないと思った。
なにが正解でなにが間違っているかなんて、今はどうでもいい。ただ、再び履きはじめた短距離シューズがこんなにも足に合っていないことだけは、翔琉自身が一番よくわかっている。こんな足じゃ、こんなシューズじゃ、行けるところまで走っていけない。
おれは康平と駅伝を走れなきゃ意味がないんだ。
おまえは――康平は?
「ちょっ……! おい、福浦っ!」
「すみません、棄権させてください」
我を取り戻した田上の必死の制止を無視し、運営テントに入るなり告げる。
言い切った瞬間、翔琉の胸は、清々しいまでに後悔も未練もなかった。
東北大会当日。
百メートル走の出走をテントの中で待っていると、翔琉の耳をあのときの陸上部の顧問の声が掠めていったような気がした。たかが体育祭のクラス対抗リレーで才能に気づいた顧問も顧問だが、それにまんまと乗せられた自分も自分だと翔琉はふっと苦笑を漏らす。
あの一言で陸上をはじめなければ、康平と出会うこともなかった。でも、あの一言さえなければ、短距離にこんなにも足枷を嵌められることもなかったと思う。
「皮肉だよな、やりたいことと得意なことが違うんだから……」
口の中で声を転がし、周りを見回す。そこには中学時代、東北大会でよく戦った顔見知りの選手の顔がちらほらあり、ああやっぱりこいつらも短距離を続けてたんだと当たり前のことを思う。みんなしっかり集中した、いい顔だ。獲物を捕らえるような野性的な目。誰よりも早くゴールラインを駆け抜けてやろうという気持ちが瞳に宿っている。
でも、それはそうだ。だから彼らはここにいて、翔琉とともに出走を待っている。県予選を勝ち抜いてここまで来た、各県のトップスプリンターたちなのだから。
「おれだけなんだろうな、こんなフラフラしてんのって……」
再び口の中で声を転がすと、突如テントの景色が一変した。周りの選手にだけ鮮やかに色があって、自分だけがセピア色の景色の中に閉じ込められたような感覚。急に自分のどっちつかずの態度が色に現れたような気がして、翔琉は途端に居心地の悪さを感じた。
すぐに視線を下げて集中を高めているふりをする。でも、どうしようもなく目が泳ぐ。
身長はわりとバラバラだが、体格はだいたい似たようなもの――体の線が太く、太ももやふくらはぎの筋肉が発達していて、上半身も筋肉質の選手たちの中で、そう体格は変わらないはずなのに、どうしてだか自分だけが異質に思えて仕方がない。
三年間、顧問の言葉どおり短距離のエースとして北園中陸上部を引っ張ってきた翔琉の体は、まだまだ短距離走者のそれだ。先の県総体でもそれが証明され、結果となって今この場にいる。けれど、たった十秒のレースに全神経を集中させているとは到底言えなかった。心がふわふわと浮き足立ち、テントに呼ばれてからもずっとソワソワしている。
それはきっと、またひとつ、康平の背中が遠くなったからだと思う。
自分でもわかってやっていたオーバーワークを切実に止められ、東北大会まではと期限を決めて短距離に集中してきたつもりだったが、この前、その集中が一気に切れた。
康平がひとりで駅伝の仲間を見つけ、助っ人の出場も認められている日報駅伝にターゲットを絞ったのだ。七月末の県民大会では、もう一人の仲間――二年の先輩の川瀬とともに入賞しようと練習に精を出している。明確な目標を持ってそれに取り組む姿勢は、まるで光の粒を撒き散らしたようにキラキラしていて、ひどく眩暈がしそうだった。
自分たちの目的が一歩前進して嬉しいはずなのに、心がざわめく。一緒に走ってくれる仲間が見つかってほっとしたはずなのに、それ以上に不安な気持ちが心に影を落とす。康平にどんどん置いていかれているような気がして、焦燥感ばかりが募っていく。それなのに、自分はこんなところで一体なにをしているんだろうと思うと情けない。
――こんなところでこんなことをしていていいのか、おれは。
まったくもって気がそぞろで、自分がこうしている今も康平はひとり駅伝に向けて気持ちを高めているんだろうと思うと、すぐにでもここを離れたい気分だった。
と。
「お。久しぶりじゃん、福浦」
ふいに、はっと現実に引き戻された。今までなにも聞こえていなかった耳に周囲の音が一気になだれ込み、耳の奥が少しキーンとする。顔を上げると、前方に宮城県のランナーの姿があった。中学時代、決勝でよく一位二位を争った田上泰正だった。
「ああ、田上か。久しぶり」
よ、と片手を上げて挨拶する。よく決勝で一緒になるメンバーのうち、田上とはわりと仲がいいほうだった。プライベートでも連絡を取り合うほどではないものの、大会で顔を合わせればこうして待ち時間に声をかけ合うくらいには、お互いに旧知の仲だ。
「どうした、珍しくナーバスになってんな」
「そう見える?」
「いつもとちょっと雰囲気が違うような気がする。あ、もしかして、風の噂で強いとこには行かなかったって聞いたけど、それのせいもあったりすんの? 強いとこも強いとこでプレッシャーはあるけど、無名なとこも無名なとこで、周りから期待されるだろ」
聞かれて翔琉は、苦笑しつつ首を横に振る。
「おれの問題なんだ。ここんとこ、ちょっとモヤモヤしてばかりで」
周りからの期待はさほど感じない。というよりむしろ、福浦なら普通に全国まで行くだろうという空気が聖櫻陸上部にはあるかもしれない。とはいえそれは、純粋な期待だ。
純粋な期待は、変に気負ったりしなければ不思議と力に変わる。何度か全国大会を経験して、翔琉は自分にどんな種類の期待をかけられているか、わかるようになっていた。
聖櫻陸上部のそれは、居心地のいい期待。聖櫻からはただひとりの出場なので、引率は顧問の似内だけだ。そこに寂しいものがないと言えば嘘になるが、部員全員で応援に駆けつけたり、まして全校を上げて応援するほどすごい大会かといえば、実は案外そうでもないと言えるだろう。夏の甲子園予選の応援が極端なのだ。まあ、野球は華があるけれど。
「へえ、モヤモヤね。福浦でもメンタルが弱ったりすることもあるんだな」
「そりゃそうだろ、サイボーグじゃないんだし。田上は? 調子上がってんの?」
「まあ、ぼちぼちかな。決勝に照準を合わせてる感じ」
苦笑しつつ聞くと、謙遜したようなことを言いつつも、その実、自信満々の言葉が返ってきた。こういう強気なところが田上の持ち味のひとつだ。試合でも、その持ち前の強気で前半からぶっ飛ばしていくことが多かった。今回もきっとそのはずだ。
噂で翔琉も、田上は宮城県内で強豪校のひとつとして数えられる宮城野高校に進んだと聞いている。一年のうちから試合に出てくるということは、宮城野の中でも実力がある選手ということだ。東北六県の中で翔琉や田上の学年は、例年に比べてとりわけ粒ぞろいの世代だと言われている。顔を知った一年生選手が多いのも、そのためだ。
その中で、前半型の田上と、後半型の翔琉の実力が頭半分ほど抜けていた。ふたりの実力は拮抗していて、勝敗は五分五分。戦友でありライバルであり、翔琉たちの世代をともに引っ張ってきた牽引者としてお互いにその存在が自分を高める原動力となっていた。
「すごいな、田上。もうずっと短距離しか目に入ってないって感じだな」
「当たり前だろ。おれにはこれしかないって思ってるからな。まあ、全国はもっとすごい場所だけど、行けるとこまで行こうと思ってる。そのためなら、なんだってするぞ」
「なんだって……」
「おうよ。先輩を立てなきゃとか、そんなのいちいち思ってらんないし、一年だからって遠慮もしない。恋愛に興味がないわけじゃないけど、おれのことをわかって黙って付いてきてくれるような子じゃないと恋愛したいとは思わないし、のちのち『陸上と私とどっちが大事なの』とかいう面倒くさいことになるんだったら、いっそ、はじめからいらない」
ふたつの瞳にこれでもかと情熱の炎を灯し、田上は言い切る。
実力があって、誰がなにを言おうと負けない芯の強さがあって。速く走るためなら、一番興味がある時期のはずの恋愛に対しても自分の持論を堂々と口にできる――そんな田上のとことん本気で短距離に向き合う姿勢は、もう圧巻と言うほかなかった。
あまりの熱量に圧倒され、翔琉は数瞬、ぽかんとしてしまう。ちょっと見ないうちに田上が急にデカくなったように見えて、ただ、すげーなとしか感想が浮かばなかった。
対しておれはどうだろう。そう思うと、あまりにフラフラしていて笑えてくる。
本来ならこんな気持ちでこの場にいていいはずがないのに、出走を待っていること。待っているからには田上に負けたくない気持ちがあること。でも本当は康平と駅伝を走りたいと思っていること。仲間を得た康平の背中が急に遠く感じていること。
まるで心が反発し合っているようで、その感覚がずっと抜けない。
――おれは一体、なにがやりたいんだろう。どこに向かっているんだろう。
「ははっ……」
そう思うと笑えて、笑えて。……目の奥も心臓も、ジンジン痛い。
「なに笑ってんだよ」
「いや、田上らしいなと思って」
「やっぱ福浦、今日はなんか変……てか、ぶっちゃけ気持ち悪い」
悪い悪いと顔の前で手を振れば、田上は遠慮なく言い直す。なかなか辛辣だなと思うけれど、自分でもずっと自分が気持ち悪いと思っていたから、反論はない。むしろはっきり言ってもらって自分のなにが気持ち悪かったのかがようやく鮮明になった気がする。
「だよな。やっぱおれ、気持ち悪いよな」
「……は?」
「全部に中途半端だったってことだよ。だから気持ち悪かったんだ」
「え、なにが?」
「いや、こっちの話。……うん、覚悟決まった。ちょっと今から棄権してくるわ」
「は、えっ⁉」
ひとつ頷くと、翔琉はジャージを羽織り直して田上に背を向けた。
気持ち悪かったのは、康平に言いたいことを言っていないからだ。体を気遣ってくれたのはありがたいが、その気持ちに遠慮して中途半端なことしか言えなかった。
本当は、はっきり康平に言ってやりたかったのだ。
東北大会には出たくない、これからは駅伝だけに絞りたいと。どうしておれを置いてひとりで先に行こうとするんだと。おれとおまえではじめたことなんじゃないのかと。
似内にだって、同じだ。
東北大会に出てほしいと言われる前に自分から出るとは言った。わざわざ人払いをしてまでふたりきりで話すことに、それ以上の意味はないとすぐに察しがついたからだ。
似内は、翔琉がどれほど駅伝をやりたがっているかを知っている。それでもどうにかして説得しようとしていたはずだ。まあ、自分から進んで東北大会へ出場すると言ったときの虚を突かれたような反応は翔琉には意外にも思えたし、似内本人も、自分は翔琉にどちらの道を進ませたらいいか決めきれずにいただろう中では一瞬思考が停止したのだろうけれど。でも、出ないと言い張っても、きっとギリギリまで諦めなかったと思う。
けれど、そこに〝とりあえず東北大会まで行けばみんな満足してくれるだろう〟という気持ちがあったことは、まだ誰にも話していない。言えるわけがないのだ。みんなの気持ちを裏切り、踏みにじることになるのがわかっていて言う度胸なんて翔琉にはなかった。
でも。
だいぶ遅くなってしまったけれど、短距離を捨てるなら今しかないと思った。
なにが正解でなにが間違っているかなんて、今はどうでもいい。ただ、再び履きはじめた短距離シューズがこんなにも足に合っていないことだけは、翔琉自身が一番よくわかっている。こんな足じゃ、こんなシューズじゃ、行けるところまで走っていけない。
おれは康平と駅伝を走れなきゃ意味がないんだ。
おまえは――康平は?
「ちょっ……! おい、福浦っ!」
「すみません、棄権させてください」
我を取り戻した田上の必死の制止を無視し、運営テントに入るなり告げる。
言い切った瞬間、翔琉の胸は、清々しいまでに後悔も未練もなかった。
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