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■鬼、下僕のツレには歯が立たない

■鬼、下僕のツレには歯が立たない③

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 ――これで変な虫は追い払えた。あとは薪にどう俺を意識してもらうかだ。
 相変わらず由里子からの物言いたげな視線を感じることは多く、また、ちゃんとした男ではなかったものの、薪が異性の目に留まらないわけではないこともわかった。けれど、薪本人が今はまったく恋愛にその気がないように見えるのが痛い。
 そこを上手くその気にさせなければ、このままずっと意識してもらえないのは、薪を見ていれば嫌でもわかる。また変な虫に言い寄られないとも限らないし、それが社外でのことだった場合、真紘にはどうすることもできない。
 もし仮に、ある日突然、どこの馬の骨ともわからない男に持っていかれた、なんてことが起きたときには、きっと真紘は何もしなかった自分を心底恨むだろう。
「……っ」
 ――それだけは、どうしても嫌だ。
 でも、同じ職場の上司と部下という関係が前提としてあるため、どうしても二の足を踏んでしまう部分があるのだ。しかも薪は自分自身のことを〝鬼の下僕〟のように思っているところがある。……いや、真紘がこれまでの間にそう思わせてしまったのだけれど、完全に自業自得とはいえ、これもなかなかに痛手といえる。
 薪の性格と、上司と部下の関係と、加えて〝鬼と下僕〟の主従関係と、それらを加味すれば、ここからはより一層、長期戦になることは必至だ。
 覚悟はしている。思っているだけじゃ何も伝わらないのも百も承知だ。
 ――薪、ここにはお前を真剣に狙ってる男がいるぞ。
 ひどくもどかしい思いを抱えながら、そうして真紘の苦悩は続いたのだった。

 *

 そんな苦悩続きの毎日であっても、嬉しいことは、ひょっこりと起こる。
「……ここ、これ、主任の分です。ど、どうぞ」
「へ?」
「バ、バレンタインのチョコです。編集部の女性陣から男性陣にってことで」
「……お、おう」
 トタトタと駆け寄ってきた薪から差し出された箱を受け取った真紘は、途端に緩みそうになる口元を慌てて反対の手で隠し、内心で両手の拳を高く突き上げた。
 その日の朝礼後、すぐのことだ。
 いつもはそれぞれに仕事に取りかかりはじめる編集部の女子たちが今日は示し合わせたように一箇所に集まり、何かゴソゴソしていると思っていたら、ぱっと方々に散った。一体どうしたんだろうと訝しんでいれば、これである。
 薪が真紘のところへ来たのは絶対に由里子の差し金だろうけれど、それを差し引いても余りあるほど〝薪から手渡されたチョコ〟という感動は大きい。
 何拍か遅れて、そうか今日はバレンタインデーかと気づいたときには、薪は、そそくさという表現がぴったり当てはまるほど、本当にそそくさと自分のデスクに戻って仕事をはじめようとしていたので、真紘のほうとしては、きちんとした礼も、いい反応も返せなかったけれど、とにかく嬉しいし幸せなことに変わりはない。
「……よっし」
 誰に聞かれるかもわからない、こんなところで小さく本音を漏らしてしまうほどには、真紘の気分は一気に上昇したし、身体中がふわふわと軽かった。
 ――義理だってわかってるけど、やっぱいいな、こういうの……。
 とどのつまり、薪がくれるものなら、なんだってご褒美なのだ。

「甘い……」
 午後になって試しにひとつ食べてみると、思ったよりずっと甘く、普段から甘いものはあったら多少つまむくらいの真紘は少々びっくりしてしまった。
 でも、美味い。薪がくれたから、とびきりだ。
 ――悪くならないうちに、大事に大事に食べよう。
 箱の中には、個包装されたチョコアソートが十二粒、一粒減ったから残り十一粒が行儀よく並んでいる。口の中で最初の一粒が溶けてなくなるまで残りを眺めつつ、真紘は、次はどれを食べようかとひとつひとつをじっくり眺める。
 するとまた、どこからともなく例の視線を感じ、真紘は急いで箱をデスクの引き出しにしまうと、表情を引き締めた。
 ほかの誰にわからなくても、いつもだいたい見られたり勘付かれたりしている由里子には、義理だろうが何だろうが薪から直接チョコを手渡してもらえた〝事実〟が嬉しいことも、これから何週間もかけて大事に食べられていくことも、空き箱が今後、宝物のように扱われることも、きっと手に取るようにわかるのだろう。
 こちらのペースを乱されがちのため、やりにくいなとは思うし、相変わらず薪に対することはよく見られているんだなとも思う。最近は特に、俺の一挙一動を楽しんでいるんじゃないかという疑惑さえ真紘は持ちはじめている。
 でも、折川のときがそうだったように、由里子が真紘の気持ちに気づいていることで、ありがたかった場面があったのは事実だ。
 おかげで先回りすることができたのだから、こちらとしてはあまり強く出られないし、もしかしたら〝薪を思うときは由里子の視線もセットで付いてくる〟くらいに考えて、それもひっくるめた上で薪を思う必要があるのかもしれない。
 そうすれば多少、気も楽になるというものだろう。

 そうして、おそらくは由里子が想像した通りに、一か月以上かけてちまちまとチョコを食べ、空き箱もデスクの引き出しに大事に大事にしまった真紘は、そのとき辺りから、どうやったら由里子の目の届かないところで、あるいは勘付かれないようにして、薪を直接、落としにかかれるだろうと真剣に考えはじめた。
 急場凌ぎではあったけれど、気が楽になる方法は見つかったし、実際、そうすることでずいぶん楽になった。どうせ由里子には筒抜けなんだしと開き直ることで視線もそれほど気にならなくなり、少なからず、やりやすくなったように思う。
 でも、肝心の薪が相変わらず鈍い。
 こればっかりはどうしようもなく、真紘の苦悩も相変わらず続くのだった。

 *

 それから約半年後、ようやく薪に男として意識してもらえるきっかけ――仕事で半年、組むことを部長の諸住に了承してもらった真紘は、自分が使える権限や思いつく限りの策を講じて、どうにかこうにか薪に振り向いてもらうことに成功した。
 ずるくても汚いやり口でも何でもいいから、とにかく薪との距離を縮めたかったし、由里子に気取られないような自然な成り行きを作るには、本当に申し訳ないと思うけれど、薪が以前から仕事の面でどこか伸び悩んでいることや、それを自覚していることを使わせてもらうほか、これといっていい案が浮かばなかった。
 もちろん、どうにかして薪に自信を付けさせてやりたい、仕事の楽しさを感じさせてやりたいと思う気持ちに一ミリだって嘘はない。それこそ、本気じゃなければ、編集部の人員が慢性的に不足していることを肌でも仕事量でも常に感じているのに、何度も何度も諸住に薪を半年預けてほしいだなんて掛け合わない。
 下心は十分にあったことは確かだ。でも、同じ編集部の人間として、薪自身に〝自分はこんなものだから〟とは、どうしても思ってほしくなかったのだ。
 結果的に薪は今、徐々にその殻から抜け出しはじめている。
 以前と比べて仕事に迷いがなくなってきているようだし、本人に自覚はないかもしれないけれど、表情や立ち居振る舞いや、仕事の話をするときの口調や声に自信が付きはじめているように思う。
 何より、前よりずっとずっと生き生きしている。
 真紘はそのことが、とにかく嬉しい。

 とはいえ、そうなってくれるまでに薪にはしんどい思いをさせてしまったし、実際に『主任がわからなくて、しんどいです』と泣かせてしまったこともあった。
 あの日、ふたりでラウンジへ休憩に行ったはずが、ひとりで戻ってきた由里子からも『主任と組みはじめてからの薪ちゃん、明らかに様子がおかしいです。……主任は一体、薪ちゃんの何を見ているんですか』と面と向かって怒られた。
 後にも先にも、由里子が薪のことに関して真紘に直接、何か言ってきたのは、このときだけだ。たとえ詳しいことはわからなくても、それだけ薪のことが心配だったのだろうし、真紘については、よっぽど腹に据え兼ねたのだろう。
 これまで何かと茶化したり遊んでいる雰囲気のほうが強かった由里子からの切実で真剣な本気の言葉は、心のどこかで〝薪ならわかってくれるだろう〟と頼りきって甘えていた部分や、無意識に自分のプライドを守ろうとして保身していた真紘のずるくて弱い部分をストレートに正してくれるものだった。
 そのおかげで薪と正面から向き合う決心がつき、本心からの言葉で『俺を嫌いにならないでくれ。でも、好きになってほしい』と気持ちを伝えることができた。
 なんだかんだあったけれど、今の幸せがあるのは、薪を一番近くで見守り支え、真紘のこともよく見てくれていた由里子の存在があったからに他ならない。

 *

 部屋に帰って少しすると、今日は遅くなっちゃうかもしれません、なんて言っていた薪からラインが入り、真紘はどうしたんだろうとスマホを確かめる。
 すると【もう解散になっちゃいました。会いたいなって思ってるんですけど、今から行ってもいいですか?】というメッセージが目に留まり、真紘は、途端にふにゃふにゃと緩む頬をそのままに、もしかしなくても由里子が上手く帰る方向に水を向けたのだろうと思い至って、思わず笑い声が漏れてしまった。
「はは。麻井には歯が立たねーな……」
 時刻はまだ午後八時半前だ。週末だし、なんとなく、早くても九時は過ぎるだろうと思っていたけれど、どうやらそんなことはなかったらしい。
 迎えに行こうかとか、どれくらいで着くかとか、何回かやり取りをして、九時半までにはひとりで来られるから部屋で待っていてほしい、ということだったので、真紘は【急がなくていいから気を付けて】と返して薪の到着を待つ。
「麻井からいろいろ聞いて嫌になってないといいけど……」
 薪を早めに返してもらえて嬉しい反面、待っている間に考えるのはそのことばかりだ。思わず独り言を零してしまうほど、真紘の不安は次第に大きくなっていく。
 ラインの文面からは、そんな様子は感じられなかったけれど、前に薪に『主任って、たぶん私が思ってる以上に私のことが好きですよね』と言われた通り、きっと薪が自分で自覚している以上に真紘の〝好き〟は大きいし重い。真紘自身も、一般的な範疇からは外れているだろうという自覚があるから、なおさらだ。
 それをわかっていながら受け入れてくれた薪の懐の深さは測り知れないものの、たまに薪が好きすぎる自分が怖くなることもある。
 以前からもそうだったけれど、付き合うようになって、それが日ごとに増しているのが自分でも手に取るようにわかるのだから、薪にいつ『主任の〝好き〟は重すぎます』と言われてしまうか、正直、気が気じゃない。
 でも――。
「お待たせしました!」
 やがて部屋のチャイムが鳴り、玄関ドアを開けるなり、そう言いながらにっこり笑って抱きついてきた薪を受け止めて、真紘は心の底から安心した。
 出迎えたときに少し膨れた顔になってしまったのは、これまでいろいろと世話になってきたとはいえ、それでもやっぱり〝麻井コノヤロウ〟と思ってしまう部分が多分にあったからだ。薪の表情から、ほとんど全部教えてもらったんだろうなと、すぐに察しがついたのも、こちらの心理からすると、なんとなく解せない。
 それでも一応、改めて嫌になったりしなかったかと聞くと、薪はふるふると首を振って「これまでいっぱい、ありがとうございました。主任のこと、ますます好きになりましたよ」と、とびきり可愛いことを言ってくれた。
 言わぬが花、という言葉もある。けれど、これまでどんなふうに薪を好きでいたかを知っている由里子のおかげで、薪の中での自分の株が上がったということなら、こんな暴露のされ方も悪くないかもしれないと思えてくるから不思議だ。

 結局のところ、薪を好きになった時点で、真紘は由里子には歯が立つどころか、どう足掻いても太刀打ちできないことになっていたのだろう。
 そして、薪を好きでいる限り、それはけして変わることはない。
 というか、むしろ、そんな人をどうやったら手放せるのだろうか。
 だって、真紘にとって薪は〝やっと〟好きになってもらえた相手だ。顔に似合わず趣味が恋愛映画を観ることなのも、面倒くさい甘えたがりなところも笑って受け入れてくれて、大らかに包み込んで甘やかしてくれる、初めての。
 ――これからもずっとずっと大事にしていくからな。
 薪とふたりでベッドに沈みながら、薪にも、そして唯一無二の親友であろう由里子にも誓いを立てながら、真紘はその日、幸せな気持ちで眠りについたのだった。
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