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終章 魔国は踊る

55.魔国の婚礼儀式

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 ダールはスカートをそっとつまみ上げる。
 軽やかな絹地は染み入るような赤色に染め上げられ、宝石やビーズの縫い取りと金糸による刺繍で飾り立てられていた。

 地の底から湧きあがる力と天より降り注ぐ星の力とが竜鱗に溶け合う様を金糸で縫い取り、その周囲に散りばめられた宝石やビーズには二つとして同じものはない。色も形も様々な素材が、しかし不思議な調和を保って彼女の婚礼衣装を形作っていた。

 上衣もスカートと揃いの緋色の絹地で仕立てられている。広く開いた襟ぐりに留められた飾り金具は黄金製で、こちらも彫刻や象嵌によって彼女の胸元を麗しく飾っている。

 文句のない出来栄えといえた。今日この日は、様々な民の尽力で成り立っている。
 ダールは思う。自分は、好きな雄と番うことを押し通したに過ぎない。だが、この祝福を無為にせぬだけの働きをもって返そうと。

 ダールの首元や手足を飾る装身具は、黄金と真珠で統一されていた。かつて、彼女の母が花嫁衣裳のためにと拵えたものである。
 彼女が敢えて海の宝石を選んだのは、単に高価だったからなのだろうか、それともダールの鱗の色と揃えたためなのか、……あるいは、娘が誰を相手に選ぶのかを、おぼろげながら察知していたのだろうか。

 あの魔物を喰ったような性格だ、直接問いかけてもはぐらかされるのだろう。

 化粧台に座るダールの後ろでは、カロリンが熟練の手つきで彼女の黒髪を結いあげていた。
 繊細なヘッドピースを乗せてバランスを見ながら固定し、真珠と黄金の髪飾りで華やかさを足していく。

 ダールをその場から立ち上がらせて、仕上げとばかりにスカートの形をふんわりと整えると、カロリンは満足げに頷いた。

「お綺麗ですよ、ダール様」

 ◇◇◇

 首元が窮屈だ。クェントはいささか居心地の悪い思いをしながら祭壇の前で立ち尽くしていた。

 朝もやの立ち込めた森の空気は、冴え冴えとしながらも水気を含んでいた。装束の袖や裾が湿気を吸って重みを増したように彼には思える。あるいは、この場に列席する者たちの静かな息遣いもまた、そこには含まれているようにも。

 彼の背後に座すのは、魔国内の有力者や各氏族の代表たちの一群だ。クェントは思う。今の自分は彼ら彼女らを背負って立っているかのような構図であるのだろうと。妙なおかしさをそこに覚える。

 ……彼も、そして列席する者たちも、実際のところは、ただ一人がこの場に現れるのを厳粛な面持ちで待ち構えているに過ぎないのだから。

 なにせクェントは、いうなれば輿入れを側だ。

 魔国での婚姻は家系同士の結びつきという色が強い。絹布で囲ったなかに持参金代わりの品々を並べて待ち構えるのが慣例だが、あいにくクェントが持ちうる財産は彼自身だけだったのでその段取りは省略している。

 もしもこれが、ただの竜と海魔が気まぐれを起こしたような結びつきならば、内輪を集めた宴席でもって『番いました』と報告すれば話はそれで済んだ。そのような過程を経て、仲睦まじく暮らす者たちも沢山居る。

 けれども魔国を統べる王となると、また欠かすべきでない儀礼が残されていた。

 クェントが居るのは、薄靄の立ち込める深い森の只中だった。それでいて辺りを見渡せる程度に薄明るいのは、木々の枝先から、地面のくぼみに溜まった水から、魔力の欠片がゆっくりと湧きあがってはぼんやりと光を放つためだ。

 魔力を豊富に蓄えた土地ではままあることだ。しかし、原理が解明されても尚、この霊場の光たちは歴代の王の魂が呼応している証と信じられていた。

 ここは歴代の魔王が眠る、祖霊の森だ。魔王がその眷族を増やすとき――主に婚礼と、子の誕生と、時には養子縁組でも行われた記録がある――に、彼らの魂へ報告することが定められていた。

(恐らくは権力の濫用を避けるための牽制だろうが)

 とはいえ、このような実際的な考えを持つクェントにしても、表立って野暮を言うつもりはない。
 あるいは本当に、魂とでもいうべきものは死後天地に溶けて、自分たちに寄り添ってくれているのかもしれない。こればかりは一度死んでみないことには誰にもわからないことだった。

 ……やはり首元が少々締め付けられている気がする。そう感じたクェントは銀糸で縫い取られたシャツの襟元へそっと手をやる。
 高襟と首筋の間には容易に指先が入り込むだけの余裕が持たせられていた。王宮出入りの仕立屋の腕は確かで、花婿の衣装にも手を抜かずに仕事をしたようだ。

 ならばこの息苦しさには衣類の締め付けとは別の理由があるのだろう。

(柄にもなく緊張しているってことか? この、俺が)

 クェントは息をつくと顔を上げた。足元から視線を引きはがし、眼前の祭壇をも飛び越し、向こう側を見やる。

 そこには天を衝くほどの巨大な樹木が聳え立っていた。

 魔国の建国時代に芽生えた樹木は、元は一本では無かったという。幾年もの時を経た木々が成長するにつれ密着し、捻じれあって一つの巨木と化したのだ。それがため幹の太さも尋常なものではなく、クェントが隠れ家に使っていた塔と同等ほどにも思われた。

 半ば化石化した灰色の幹には裂け目のようなうろが開いている。小さな家屋ほどもある空間の中心には、ささやかな、しかし隅々まで手の込んだ細工を施した庵が建てられていた。

 魔国を建国した立役者である、初代魔王を奉る霊廟だ。

 廟の、極彩色の彫刻で飾られた小さな扉の向こうに何があるのかは誰も知らない。
 初代魔王の遺骸が眠っているとも、彼が仲立ちしたという各氏族の始祖の盟約を記した碑文が納められているとも伝えられていた。

 魔王廟を見るともなしに眺めていたクェントの眼前を、星の欠片のような光がゆっくりと横切っていった。

 不意に、彼の背後で口々にため息を漏らしたような、小さなざわめきが起こった。
 さざ波のような気配が次第に近づいてくる。そのころには下草を踏みしめる確かな足どりも彼の耳に届いていた。

 ――振り返るのはやめておくか? クェントはそう思った。できることなら、この瞬間をいつまでも味わっていたかったからだ。

 しかし結局は我慢できずに身をひるがえらせて背後を確かめる。

 絢爛たる衣装のダールがそこに居た。
 金糸銀糸の刺繍を施した緋色のドレスに、真珠と黄金の装身具で髪や手足を飾り、王権の証たる宝珠を手に捧げ持っている。

 彼女のために道を譲る列席者達の視線を一身に集め、魔王ダールは堂々たる歩みでこちらへ向かってきていた。

「すまない、支度に手間取った」

 彼の隣に立つと、ダールが囁き声で詫びた。
 クェントは無言で首を横に振る。気にすることはない、と伝えたかったが、声を出せずにいた。胸の中になにやら得体のしれないものが詰まっていて、今口を開いたら何が飛び出すかわかったものでなかった。

 それは熱く、甘く、激しく渦を巻いている。喜びと呼ぶには、あまりに激しい感情だった。



「われらが礎、諸王の魂、偉大な導き手たちよ。

 今日ここに、新たな眷属を迎えることを奏上いたします。彼の者と育む縁を力に変え、治世の更なる繁栄を誓います」

 祖霊の森に、ダールの宣明が朗々と響きわたる。
 霊廟の前に膝をつき、宝珠を頭上にいただく彼女の隣で、クェントもまた拝礼の姿勢をとっている。横目で盗み見るのは、魔王廟の周囲を取り巻くように建てられた碑文の数々だ。

 どれもが、歴代魔王の墓標であった。

 遠い未来には、ダールもこの一柱に加わることとなる。その時、番相手である自分はどうなるのだろう。歴代の后や王配の墓がここに並ぶわけでは無いのだ。

 最後には、再び一匹と一匹の魔物として生を終える。魔族の死生観にのっとれはそれが正しい行いだった。

 クェントはこの瞬間まで、それを疑問に思うことすら無かった。しかし今では、酷くうら寂しい気持ちになっている。

(本当に我慢ならなくなったら……また、彼女を攫おう)

 今度は我欲からではなく、孤独な王に寄り添う番の本懐としてだ。彼女が望むのならば、何度だって汚れる覚悟はとうにできていた。
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