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92 中々人生はままならない
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寮の部屋から見上げる黄昏時の空では、雲間を縫うように雁の群れが編隊飛行しながら彼方へと飛び去って行く。鳥たちも家族の元へ家路を急ぐのだろうか。
秋の夕暮れは直ぐに宵闇を連れてくる。ルイーセ―――もといカールは一人溜息を吐いた。
王立学術院の復学初日、早朝の医務室で疲労婚倍のディートハルト先生と会った時には間者と間違えられて肝が冷えたし、その後のお茶会では楽しい時間を過ごせたと思う。
―――“妃華”の力に纏わる警告と魅了で邪な思いを抱いた人にかどわかされないようにと言う忠告さえなければ、だが。
先生曰く “妃華”の魅了に中てられた人は微弱毒の様にジワジワと心を蝕まれていくらしい。しかし、それがどれ程の効力を発揮するのか、発動の状況さえ判らない現状で誰に警戒すれば良いのかを知る術はカールにはない。
そんな中で迎えた復学初日、無事を喜ぶ級友が次々と集まっては声を掛けてくれるのにさえ“これは妃華に魅了された好意か否か”を逐一疑ってかかるのは心を苛み、放課後を迎える頃にはグッタリと疲弊する事となっていた。
「カール……随分と顔色も悪いし、本当はまだ本調子じゃないんじゃないか? 無理し過ぎてまた休学にでもなれば本末転倒だよ。付き添うから医務室で休みなよ」
ポンッと急に肩を叩かれて漸く我に返る……どうやらボンヤリしている間に授業が終わっていたらしく、隣席のハーリーが真横から顔を覗き込んでいる。
「授業が終わったのに微動だにしないから最初は寝ているのかと思ったよ。頭でも痛むのかい?」
額に手を当てて「熱は無さそうだけれど」と真っ当に心配げな瞳を向けられ、その拍子に知らず強張っていた体から力が抜ける―――どうやら、彼相手には緊張する必要が無さそうだ。
「特に体調が悪いわけでは無いよ。ただ、久方ぶりにみっちり勉強したせいで少々疲れたことは確かかな。心配してくれてありがとう」
ハーリーは物静かな性質なのか、他の貴族令息のように女性を見た目で値踏みする会話に混じっていたことも無いし、いつも黙々と本を読んでいるような青年だ。だから隣席とはいえ今迄殆ど会話もしたことがない間柄だというのに、こうして体調を慮ってくれる人柄には好感が持てた。
「……カールは人気者だから。久しぶりなのにあんなに周りで騒がれたから人いきれして疲れたんじゃないのか?それとも何か悩み事、とか。……僕で良ければ相談に乗るよ?」
人に話すだけでも楽になるしねと屈託のない笑みを見せるハーリーは、観察眼に優れているらしい。まさか悩んでいる事まで見抜かれているとは思わなかったけれど、いきなり「私から魅了の力が出ているみたいなんだけれど、何か感じる?」と馬鹿正直に尋ねても「はっ?コイツ可笑しなこと言い出したぞ?」と思われるのがオチだろう。
「うーん……悩み、ねぇ。強いて言うなら卒業後の進路かな。このまま家を継ぐことになるか、それはルイスに任せて私は違う道を選ぶのか……ハーリーはもう決めたのかい?」
「うん。僕は文官を目指しているんだ。最終目標は憧れの宰相閣下直属の補佐官になる為、税の徴収事務や外交使節にも携われるよう他国語も目下勉強中だよ…相当な狭き門だけれどね。それは兎も角、カールは家を継がなくても王太子殿下の側近としてお仕えすれば良いんだから、進路について悩む必要なんかないじゃないか」
「あー……うん。確かに殿下にお仕えできることは類まれなる幸運だと判ってはいるんだけれど…。このままお傍に置いていただくことが本当に良いのかと自問自答してしまうんだよね」
適当に紡いだ言葉は、意外と心の奥底に潜んでいた根深い悩みと通づるものがあったらしく、口にするとストンと腑に落ちる。
卒業後、私がいくらディミトリ殿下を好きで彼からも望まれたとはいえ、身分差や高位貴族達の反発を考えれば、簡単に婚約者……そして彼の正妃として隣に並び立てるものではないという事を、自分自身が一番納得していないという事なのだ。
「カールは自分に厳しいね。王太子殿下がそれを望まれて、君も自分の役割を果たしている時点で十分及第点だと思うけれど。それとも他になりたい職業でもあるのかい?」
ハーリーの問いかけに思い描くのはかつて殿下の元から逃げ出すために学び始めた翻訳の仕事で。
「……実は書籍翻訳に興味があるんだ。他国の書物を翻訳し、我が国に見聞を広めたい。他国の知られざる知識をもっと一般市民に広げたいんだ……こんな仕事、やっぱり貴族らしくない、よね」
貴族社会では嫡男は家を継ぎ、それ以外の令息は王宮での仕官が一般的だ。専門分野を学び薬学師になる者も稀にいるが、やはり変わり者扱いされるのは避けられない。
しかし、ハーリーは頭を振ると「そんなのは一部貴族の偏見だよ。職に貴賤なんかない。君がやりたいのなら、夢を諦める必要は無いさ。僕は応援するよ」と顔を綻ばせる。
その声音には揶揄う響きも、嘲る意図も含まれてはおらず、ストンと胸に響いた。
「あ、りがとう……初めて人に話したけれど……ハーリーに相談して良かった……」
どれだけ人からの肯定感に飢えていたのか……頬をしとどに濡らす涙に驚くとともに、今迄知らなかった級友の偏見の無さに救われたと気づく。瞠目しつつもハンカチで涙を拭ってくれる彼とはこれから良き友人になりたい―――そう願った、のだが。
「そこまで悩んでいたなんて知らなかったよ。僕で良かったらこれからも……」
「―――私の側近が随分と世話になっているようだな。……何故彼が泣いているのか理由を聞かせて貰おうか」
いつから話を聞いていたのか、ハーリーの言葉を遮ると声の主は私を背中からギュッと抱きしめる。顎に手を掛けられ、そのまま上から覗き込まれると泣き腫らした目を見たディミトリ殿下の碧い瞳がヒクリと眇められた。
「お、王太子殿下‼ ……カールとは卒業後の進路について話していただけで、僕が泣かせたわけでは……」
「それならどういった経緯で泣き出したのか、話を聞かせて貰おう」
聞くまでは一歩も引かないといった風情に、諦めたのかハーリーが先程の話をかいつまんで説明すると、聞き終えた殿下は不機嫌そうにムツリと顔を顰める。それを見たハーリーがオドオドしているのが気の毒で見ていられない……。
「………カールは私の傍で働くのが嫌で泣き出したと。……つまりそう言う事だな?」
いやいやいや。要約するとそうなるかもしれないけれど、それだと私が殿下を嫌いみたいじゃないか。
「滅相も無い‼……その、殿下のお傍で働く事が嫌だとかでは無く、て……」
段々と尻すぼみになる言い訳の情けなさよ。
でもこんな蛇に睨まれた蛙のような状態で堂々と言い返せるだけの精神力は私にはない。
俯きたくても顎を固定されているので、不機嫌そうなディミトリ殿下から目を逸らすことは出来ない―――すると、グッと顔を近づけた殿下が私以外には聞こえないぐらいの小声でそっと囁いた。
「本当に? お前は私と離れていても平気、なのか?」
頬にかかる吐息と、現前で不安げに揺れる碧い双眸が狡い。
こんな風に聞かれたら答えなんか一つしかないではないか。
「聞かなくても判っているくせに。……平気なはず、無いでしょう?」
はぐらかすことさえ出来ず、せめてもの抵抗で口を尖らせて呟いた言葉はどうやらディミトリ殿下のお気に召したらしい。
トロリと二つの碧に甘さを浮かべて「それなら悩んで泣くな。ずっと…私の傍に居ろ」と額に柔らかな温もりをチュッと音を立てて落とすから、驚きに体が強張る。
―――甘いあまい声音はまるで恋人同士の睦言のようで、瞬く間に体中の熱が顔に集まったかのように赤く染めあげられる。
バクバクと五月蠅い鼓動と、収まらない熱に動揺する私にフハッと笑み崩れると「復学したてで無理はするな。暫くは執務を熟さず体調管理に努めろ。何かあれば直ぐに相談しろよ」と柔らかな視線を投げかけてから殿下は満足気に教室を後にした。
事の成り行きを見守り、あまりの展開に声も出せず呆然としていた級友たちのいる放課後の教室に私を一人置き去りにして………だ。この居た堪れなさがお判りいただけるだろうか。
「えーっと………ハーリー、その……殿下は側近相手にも慈悲深い方でね……」
「皆まで言うな、カール。君が王太子殿下のお気に入りで地雷だという事は良く判った。僕たちの平穏の為にも殿下に睨まれることは御免被りたい。これからも程よい距離感を保った友人でいてくれ」
一息で言い切ったハーリーは「じゃあ、また明日な。今日はゆっくり休めよ」と鞄を持って出て行き、それに呼応するように残っていた級友たちもぎこちない笑みを浮かべ蜘蛛の子を散らすようにサーっと帰って行ったのだった………。
―――と、まあそんな経緯があり、カールと殿下は“ただならぬ関係”ではないかとまことしやかに流れた噂のせいで、級友たちからは腫れ物に触るような扱いを受けながら日々は過ぎ、気が付けば復学して早一か月が過ぎようとしていた。
元来親しい友人意外とはそこまで深い付き合いをする方では無かったので、この状況にもすっかり慣れ、むしろ“妃華のせいで人が寄ってくる”といった状況に陥らない分、快適だとさえ思っている今日この頃だ。欲を言えばハーリーとはもう少し親しくしたいところだが、あれ以来必要最低限の会話しかないのだから……まあ、それも致し方ないのだろう。
しかし、お気楽に考えてばかりもいられない。今現在も妃華は恐らく稼働中だし、乙女ゲームも現在進行形で物語は進んでいるはずなのだから。
このゲームヒロインのマリアーナは兄のルイスと愛を深めつつ、着々と攻略を進めているらしいが、ゲームとこの世界の乖離がある以上、本当にこれが正しい筋道なのか判らないと悩んでいた。
その上“バグ”も存在しているのだから、物語の強制力とやらにいつ何時動きがあるのかさえ現時点では判らない。
そうは言ってもゲーム期間が終了する王立学術院の卒業式までの残り五か月を平穏無事にやり過ごすよう努力するぐらいしか出来ることは無いのだが。
執務も免除され、暇を持て余すと無暗矢鱈と悩んでしまう。それぐらいなら建設的な時間の使い方をしようと、私は書籍翻訳の仕事を再開することにした。……まあ、ハーリーに応援されて俄然やる気になったというのが本音だけれど。
そう言えば王宮で監禁…いや、療養していたせいでオルビナ―――アステリア・シャリマーともすっかり疎遠になってしまった。
書籍翻訳の再開と近況報告がてら不義理を詫びる手紙を送ると怒涛の勢いで返信が届き、中には文通が途絶えたことの恨みごとに混じり彼女のお腹に新たな命が宿ったとの一文が書かれていた。
【不調が続いたので不安になって医師の診察を受けたら、懐妊を告げられたの。嬉しくて隣に立つ夫の手を引いたら、いきなりバタンと倒れるから屋敷中大騒ぎよ。失神から目を覚ましたら開口一番『アステリア愛している。君の子供なら男でも女でも…可愛くて目が離せなくなりそうだ。ああ、急ぎ子供部屋の改築――いや、優秀な乳母を雇うのが先か⁈』って叫ぶから、医師からも『赤子が生まれるのはずっと先ですよ。奥様の体を気遣ってあげて下さい』って呆れた様にお説教されているから可笑しくって】
今にも笑い声が聞こえそうな文面からは、溢れんばかりの幸せが伝わってくる。
悲しい目で未来を諦めていたオルビナは遠い過去になったのだと、じんわりと私の胸まで喜びが広がった。
懐妊を寿ぐ手紙を認めながら出産祝いは何を贈ろうかと悩む。ワクワクとした悩みがあるのだと知るとともに、手紙の最後に【いつかその子に会いに行かせて】と一文を添えた。
いつか……その日が本当に来ることを願いながら。
「カール居るぅ~⁈話を聞いて頂戴~‼」
声と同時にバンッとけたたましい音を立てて図書館の扉が開く。チリチリとした視線を感じ、チラリと受付に目をやると男性司書官から“早く出て行け”と無言の圧を向けられ手元の原稿用紙をそっと片付ける。
……これは執務から外された私の代わりにルイスとフランツが引き入れられた弊害だから仕方がないと溜息を吐く。
それまでは放課後の時間を兄との逢瀬に充てていたマリアーナは殿下の暴挙に憤慨し、当然猛抗議をした。しかし「貴方にとっては恋人との逢瀬の方が将来の妹の体を労わることより大切な事なのか?」と言われてぐうの音も出ず、スゴスゴと撤退したらしい。
その代わりにと、聖女の公務が無い日は私の元を訪れ、図書館でひとくさり騒ぐのが定番になったため、司書官から「利用者の迷惑ですから、聖女様が来られた時点で速やかに退出をお願いします」とバッサリ申し渡された次第だ。
結局中庭のベンチに場を移してお喋りは再開されるのだが、大体マリアーナの口からは「ギルベルトがまた手紙を寄こしたのよ。『貴方を義姉と思ったことは無い。愛している』なんて今更書かれても、ずっと不仲だった義弟と婚姻なんて有り得ない!」だの、「放課後の逢瀬が減った分、ルイス様が甘える頻度が高くなった気がするのよ~。普段は紳士的な彼が膝枕を強請るし、抱きしめて来るんだから可愛くって♡」だのと愚痴と惚気を延々と聞かされるのだから、堪ったものではない。
ギルベルトは兎も角、血の繋がった兄の恋愛事情や手練手管を聞かされるのは正直キツイ…と、一度物申してみたが「これくらいで恥ずかしがるなんて、カールって初心なのねぇ。殿下とは何処まで進んでいるの?あんなに人前で牽制するぐらいだから、もう手は出されたの?詳しく教えなさいよぉ~♡」と逆にグイグイと体験談をせがまれてからは、諦めて無言に徹することにしている。
―――だから、どうせ今日の話題も惚気か愚痴だろうと溜息交じりで聞き役に徹していたところ、マリアーナから告げられたのは現在進行中の乙女ゲーム “金色のSALUS”の最終攻略イベントだという卒業祝賀舞踏会についてだった。
秋の夕暮れは直ぐに宵闇を連れてくる。ルイーセ―――もといカールは一人溜息を吐いた。
王立学術院の復学初日、早朝の医務室で疲労婚倍のディートハルト先生と会った時には間者と間違えられて肝が冷えたし、その後のお茶会では楽しい時間を過ごせたと思う。
―――“妃華”の力に纏わる警告と魅了で邪な思いを抱いた人にかどわかされないようにと言う忠告さえなければ、だが。
先生曰く “妃華”の魅了に中てられた人は微弱毒の様にジワジワと心を蝕まれていくらしい。しかし、それがどれ程の効力を発揮するのか、発動の状況さえ判らない現状で誰に警戒すれば良いのかを知る術はカールにはない。
そんな中で迎えた復学初日、無事を喜ぶ級友が次々と集まっては声を掛けてくれるのにさえ“これは妃華に魅了された好意か否か”を逐一疑ってかかるのは心を苛み、放課後を迎える頃にはグッタリと疲弊する事となっていた。
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ポンッと急に肩を叩かれて漸く我に返る……どうやらボンヤリしている間に授業が終わっていたらしく、隣席のハーリーが真横から顔を覗き込んでいる。
「授業が終わったのに微動だにしないから最初は寝ているのかと思ったよ。頭でも痛むのかい?」
額に手を当てて「熱は無さそうだけれど」と真っ当に心配げな瞳を向けられ、その拍子に知らず強張っていた体から力が抜ける―――どうやら、彼相手には緊張する必要が無さそうだ。
「特に体調が悪いわけでは無いよ。ただ、久方ぶりにみっちり勉強したせいで少々疲れたことは確かかな。心配してくれてありがとう」
ハーリーは物静かな性質なのか、他の貴族令息のように女性を見た目で値踏みする会話に混じっていたことも無いし、いつも黙々と本を読んでいるような青年だ。だから隣席とはいえ今迄殆ど会話もしたことがない間柄だというのに、こうして体調を慮ってくれる人柄には好感が持てた。
「……カールは人気者だから。久しぶりなのにあんなに周りで騒がれたから人いきれして疲れたんじゃないのか?それとも何か悩み事、とか。……僕で良ければ相談に乗るよ?」
人に話すだけでも楽になるしねと屈託のない笑みを見せるハーリーは、観察眼に優れているらしい。まさか悩んでいる事まで見抜かれているとは思わなかったけれど、いきなり「私から魅了の力が出ているみたいなんだけれど、何か感じる?」と馬鹿正直に尋ねても「はっ?コイツ可笑しなこと言い出したぞ?」と思われるのがオチだろう。
「うーん……悩み、ねぇ。強いて言うなら卒業後の進路かな。このまま家を継ぐことになるか、それはルイスに任せて私は違う道を選ぶのか……ハーリーはもう決めたのかい?」
「うん。僕は文官を目指しているんだ。最終目標は憧れの宰相閣下直属の補佐官になる為、税の徴収事務や外交使節にも携われるよう他国語も目下勉強中だよ…相当な狭き門だけれどね。それは兎も角、カールは家を継がなくても王太子殿下の側近としてお仕えすれば良いんだから、進路について悩む必要なんかないじゃないか」
「あー……うん。確かに殿下にお仕えできることは類まれなる幸運だと判ってはいるんだけれど…。このままお傍に置いていただくことが本当に良いのかと自問自答してしまうんだよね」
適当に紡いだ言葉は、意外と心の奥底に潜んでいた根深い悩みと通づるものがあったらしく、口にするとストンと腑に落ちる。
卒業後、私がいくらディミトリ殿下を好きで彼からも望まれたとはいえ、身分差や高位貴族達の反発を考えれば、簡単に婚約者……そして彼の正妃として隣に並び立てるものではないという事を、自分自身が一番納得していないという事なのだ。
「カールは自分に厳しいね。王太子殿下がそれを望まれて、君も自分の役割を果たしている時点で十分及第点だと思うけれど。それとも他になりたい職業でもあるのかい?」
ハーリーの問いかけに思い描くのはかつて殿下の元から逃げ出すために学び始めた翻訳の仕事で。
「……実は書籍翻訳に興味があるんだ。他国の書物を翻訳し、我が国に見聞を広めたい。他国の知られざる知識をもっと一般市民に広げたいんだ……こんな仕事、やっぱり貴族らしくない、よね」
貴族社会では嫡男は家を継ぎ、それ以外の令息は王宮での仕官が一般的だ。専門分野を学び薬学師になる者も稀にいるが、やはり変わり者扱いされるのは避けられない。
しかし、ハーリーは頭を振ると「そんなのは一部貴族の偏見だよ。職に貴賤なんかない。君がやりたいのなら、夢を諦める必要は無いさ。僕は応援するよ」と顔を綻ばせる。
その声音には揶揄う響きも、嘲る意図も含まれてはおらず、ストンと胸に響いた。
「あ、りがとう……初めて人に話したけれど……ハーリーに相談して良かった……」
どれだけ人からの肯定感に飢えていたのか……頬をしとどに濡らす涙に驚くとともに、今迄知らなかった級友の偏見の無さに救われたと気づく。瞠目しつつもハンカチで涙を拭ってくれる彼とはこれから良き友人になりたい―――そう願った、のだが。
「そこまで悩んでいたなんて知らなかったよ。僕で良かったらこれからも……」
「―――私の側近が随分と世話になっているようだな。……何故彼が泣いているのか理由を聞かせて貰おうか」
いつから話を聞いていたのか、ハーリーの言葉を遮ると声の主は私を背中からギュッと抱きしめる。顎に手を掛けられ、そのまま上から覗き込まれると泣き腫らした目を見たディミトリ殿下の碧い瞳がヒクリと眇められた。
「お、王太子殿下‼ ……カールとは卒業後の進路について話していただけで、僕が泣かせたわけでは……」
「それならどういった経緯で泣き出したのか、話を聞かせて貰おう」
聞くまでは一歩も引かないといった風情に、諦めたのかハーリーが先程の話をかいつまんで説明すると、聞き終えた殿下は不機嫌そうにムツリと顔を顰める。それを見たハーリーがオドオドしているのが気の毒で見ていられない……。
「………カールは私の傍で働くのが嫌で泣き出したと。……つまりそう言う事だな?」
いやいやいや。要約するとそうなるかもしれないけれど、それだと私が殿下を嫌いみたいじゃないか。
「滅相も無い‼……その、殿下のお傍で働く事が嫌だとかでは無く、て……」
段々と尻すぼみになる言い訳の情けなさよ。
でもこんな蛇に睨まれた蛙のような状態で堂々と言い返せるだけの精神力は私にはない。
俯きたくても顎を固定されているので、不機嫌そうなディミトリ殿下から目を逸らすことは出来ない―――すると、グッと顔を近づけた殿下が私以外には聞こえないぐらいの小声でそっと囁いた。
「本当に? お前は私と離れていても平気、なのか?」
頬にかかる吐息と、現前で不安げに揺れる碧い双眸が狡い。
こんな風に聞かれたら答えなんか一つしかないではないか。
「聞かなくても判っているくせに。……平気なはず、無いでしょう?」
はぐらかすことさえ出来ず、せめてもの抵抗で口を尖らせて呟いた言葉はどうやらディミトリ殿下のお気に召したらしい。
トロリと二つの碧に甘さを浮かべて「それなら悩んで泣くな。ずっと…私の傍に居ろ」と額に柔らかな温もりをチュッと音を立てて落とすから、驚きに体が強張る。
―――甘いあまい声音はまるで恋人同士の睦言のようで、瞬く間に体中の熱が顔に集まったかのように赤く染めあげられる。
バクバクと五月蠅い鼓動と、収まらない熱に動揺する私にフハッと笑み崩れると「復学したてで無理はするな。暫くは執務を熟さず体調管理に努めろ。何かあれば直ぐに相談しろよ」と柔らかな視線を投げかけてから殿下は満足気に教室を後にした。
事の成り行きを見守り、あまりの展開に声も出せず呆然としていた級友たちのいる放課後の教室に私を一人置き去りにして………だ。この居た堪れなさがお判りいただけるだろうか。
「えーっと………ハーリー、その……殿下は側近相手にも慈悲深い方でね……」
「皆まで言うな、カール。君が王太子殿下のお気に入りで地雷だという事は良く判った。僕たちの平穏の為にも殿下に睨まれることは御免被りたい。これからも程よい距離感を保った友人でいてくれ」
一息で言い切ったハーリーは「じゃあ、また明日な。今日はゆっくり休めよ」と鞄を持って出て行き、それに呼応するように残っていた級友たちもぎこちない笑みを浮かべ蜘蛛の子を散らすようにサーっと帰って行ったのだった………。
―――と、まあそんな経緯があり、カールと殿下は“ただならぬ関係”ではないかとまことしやかに流れた噂のせいで、級友たちからは腫れ物に触るような扱いを受けながら日々は過ぎ、気が付けば復学して早一か月が過ぎようとしていた。
元来親しい友人意外とはそこまで深い付き合いをする方では無かったので、この状況にもすっかり慣れ、むしろ“妃華のせいで人が寄ってくる”といった状況に陥らない分、快適だとさえ思っている今日この頃だ。欲を言えばハーリーとはもう少し親しくしたいところだが、あれ以来必要最低限の会話しかないのだから……まあ、それも致し方ないのだろう。
しかし、お気楽に考えてばかりもいられない。今現在も妃華は恐らく稼働中だし、乙女ゲームも現在進行形で物語は進んでいるはずなのだから。
このゲームヒロインのマリアーナは兄のルイスと愛を深めつつ、着々と攻略を進めているらしいが、ゲームとこの世界の乖離がある以上、本当にこれが正しい筋道なのか判らないと悩んでいた。
その上“バグ”も存在しているのだから、物語の強制力とやらにいつ何時動きがあるのかさえ現時点では判らない。
そうは言ってもゲーム期間が終了する王立学術院の卒業式までの残り五か月を平穏無事にやり過ごすよう努力するぐらいしか出来ることは無いのだが。
執務も免除され、暇を持て余すと無暗矢鱈と悩んでしまう。それぐらいなら建設的な時間の使い方をしようと、私は書籍翻訳の仕事を再開することにした。……まあ、ハーリーに応援されて俄然やる気になったというのが本音だけれど。
そう言えば王宮で監禁…いや、療養していたせいでオルビナ―――アステリア・シャリマーともすっかり疎遠になってしまった。
書籍翻訳の再開と近況報告がてら不義理を詫びる手紙を送ると怒涛の勢いで返信が届き、中には文通が途絶えたことの恨みごとに混じり彼女のお腹に新たな命が宿ったとの一文が書かれていた。
【不調が続いたので不安になって医師の診察を受けたら、懐妊を告げられたの。嬉しくて隣に立つ夫の手を引いたら、いきなりバタンと倒れるから屋敷中大騒ぎよ。失神から目を覚ましたら開口一番『アステリア愛している。君の子供なら男でも女でも…可愛くて目が離せなくなりそうだ。ああ、急ぎ子供部屋の改築――いや、優秀な乳母を雇うのが先か⁈』って叫ぶから、医師からも『赤子が生まれるのはずっと先ですよ。奥様の体を気遣ってあげて下さい』って呆れた様にお説教されているから可笑しくって】
今にも笑い声が聞こえそうな文面からは、溢れんばかりの幸せが伝わってくる。
悲しい目で未来を諦めていたオルビナは遠い過去になったのだと、じんわりと私の胸まで喜びが広がった。
懐妊を寿ぐ手紙を認めながら出産祝いは何を贈ろうかと悩む。ワクワクとした悩みがあるのだと知るとともに、手紙の最後に【いつかその子に会いに行かせて】と一文を添えた。
いつか……その日が本当に来ることを願いながら。
「カール居るぅ~⁈話を聞いて頂戴~‼」
声と同時にバンッとけたたましい音を立てて図書館の扉が開く。チリチリとした視線を感じ、チラリと受付に目をやると男性司書官から“早く出て行け”と無言の圧を向けられ手元の原稿用紙をそっと片付ける。
……これは執務から外された私の代わりにルイスとフランツが引き入れられた弊害だから仕方がないと溜息を吐く。
それまでは放課後の時間を兄との逢瀬に充てていたマリアーナは殿下の暴挙に憤慨し、当然猛抗議をした。しかし「貴方にとっては恋人との逢瀬の方が将来の妹の体を労わることより大切な事なのか?」と言われてぐうの音も出ず、スゴスゴと撤退したらしい。
その代わりにと、聖女の公務が無い日は私の元を訪れ、図書館でひとくさり騒ぐのが定番になったため、司書官から「利用者の迷惑ですから、聖女様が来られた時点で速やかに退出をお願いします」とバッサリ申し渡された次第だ。
結局中庭のベンチに場を移してお喋りは再開されるのだが、大体マリアーナの口からは「ギルベルトがまた手紙を寄こしたのよ。『貴方を義姉と思ったことは無い。愛している』なんて今更書かれても、ずっと不仲だった義弟と婚姻なんて有り得ない!」だの、「放課後の逢瀬が減った分、ルイス様が甘える頻度が高くなった気がするのよ~。普段は紳士的な彼が膝枕を強請るし、抱きしめて来るんだから可愛くって♡」だのと愚痴と惚気を延々と聞かされるのだから、堪ったものではない。
ギルベルトは兎も角、血の繋がった兄の恋愛事情や手練手管を聞かされるのは正直キツイ…と、一度物申してみたが「これくらいで恥ずかしがるなんて、カールって初心なのねぇ。殿下とは何処まで進んでいるの?あんなに人前で牽制するぐらいだから、もう手は出されたの?詳しく教えなさいよぉ~♡」と逆にグイグイと体験談をせがまれてからは、諦めて無言に徹することにしている。
―――だから、どうせ今日の話題も惚気か愚痴だろうと溜息交じりで聞き役に徹していたところ、マリアーナから告げられたのは現在進行中の乙女ゲーム “金色のSALUS”の最終攻略イベントだという卒業祝賀舞踏会についてだった。
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またはチャラ男だと思ってたらヤンデレだったお話。
あるいは今度こそ幸せ家族になるお話。
ご都合主義の多分ハッピーエンド?
小説家になろう様でも投稿しています。
派手好きで高慢な悪役令嬢に転生しましたが、バッドエンドは嫌なので地味に謙虚に生きていきたい。
木山楽斗
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私は、恋愛シミュレーションゲーム『Magical stories』の悪役令嬢アルフィアに生まれ変わった。
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そのため、アルフィアがどういう行動を取って、罰を受けることになるのか、完全に理解している訳ではなかった。プレイしていたルートはわかるが、それ以外はよくわからない。それが、私の今の状態だったのだ。
だが、ただ一つわかっていることはあった。それは、アルフィアの性格だ。
彼女は、派手好きで高慢な公爵令嬢である。それならば、彼女のような性格にならなければいいのではないだろうか。
そう考えた私は、地味に謙虚に生きていくことにした。そうすることで、悲惨な末路が避けられると思ったからだ。
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