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79 長い長い眠りからの目覚め

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 ――長い………本当に長い眠りから目覚めた気がする。

 唐突に訪れた目覚めに思考が追いつかず、ボンヤリと眼だけを動かし辺りの様子を覗う。

 その室内は、壁一面に並べられた小引き出しの棚が独特の雰囲気を放ち、幾人かの黒衣を纏った男性が忙しそうにせかせかと動き回っていた。
 間仕切りの為のカーテンが天井からぶら下がり、大きな窓から差し込む春の日差しを受けて、室内に揺ら揺らとした陽炎のような影を落としている。
 ギュッと握りしめられた左手に視線を向けると、目の下に濃い隈を作って苦悶の表情で眠るディミトリ殿下がベッドに伏せて眠っているのが見えた。

 ――どうやら、此処は王宮内にある緊急処置室であることは間違いないようだ。

 しかし、自分がどうやって此処へ来たのかが、どうしても思い出せない。
 何処までが夢なのかと逡巡する程度には、生々しい悪夢だった――否、あれは私が実際に体験した過去の記憶だという事を、もう今では完全に思い出している。

 ずっと、ロイヤルガーデンの園遊会で高位貴族の貴婦人から“忌み子”と罵られた記憶だけを繰り返し思い出して心を苛まれていたけれど、その後に起こった、あまりにも壮絶で吐き気を催すほどの醜悪な現実は、それ以上の激しい恐怖を齎した。
 幼い子供では受け止め切れず、自分で記憶に蓋をしていたのか、それとも王家の“精神領域干渉能力”で記憶を封じられていたのか……。
 どちらにせよ、忘れていたはずの記憶が甦ったのも、何らかに起因されての事だろう…。

 そこまで考えた時、不意にブルーノに辱められた用具室での暴挙を思い出して、一瞬で全身にあの時の恐怖が蘇って背筋が凍る。

(そ…うだ。私は用具室に連れて行かれて、ブルーノに乱暴を働かれそうになったんだ)

 圧倒的な力の差に、最後は泣きながら『止めて』と懇願した私を、まるで獲物を前にした肉食獣のように嬲り、嘲笑いながらブルーノは蹂躙しようとしていた。
 そこには人間の尊厳といったものは存在せず、ただ只管に己の欲望を解放しようとする醜悪な劣情だけがあの場を支配していたのだ。

 まるで幼い頃に体験した、自分では抗えない絶望の再来のようで…それが私の過去の記憶を甦らせたのかもしれないと、符号があった気がして微かに震える。
 今だってふとした拍子にあの時の――ブルーノの射竦めるような視線や、身体中を這いずり回る指の感触が蘇っては、心が悲鳴を上げそうになるけれど、目をギュッと瞑って繰り返しこう唱えた。

(大丈夫…私は穢されていない。私には彼が居るんだから……)

 目を開いて、すぐ傍に眠るディミトリ殿下――ディーマを視界に入れるだけで、それまで嫌な軋みを立てていた鼓動が段々穏やかさを取り戻していくのだから不思議だ。

(なんでこんなに…彼を見ているだけで心が満たされるんだろう……)

 ディミトリ殿下が居ると思うだけで涙が零れるほどの安堵と、触れたくて堪らない気持ちが心を支配する……これが人を愛するという事……なのだろうか。

 私は時間も忘れ、飽きもせずに彼の寝顔を見つめ続けていたのだった。




「…ん……あ、れ?…寝てしまった、のか…」

 暫くして、ピクリと身動ぎした殿下は、ボンヤリした眼差しで目を覚ました。
 まだ寝足りないのか、瞼を擦りながら欠伸を一つ噛み殺すとベッドに額をこすりつけて
欠伸をかみ殺している。
 それが何だか夢で見た幼い頃の姿とだぶって見えて、思わずクスリと笑みが零れた。

「フフフ……ディーマ、おはようございます。少しはお休みになれましたか?」
「……ああ。最近、気が張り詰めていたせいか、つい寝てしまった……」
「無理のしすぎは良くありませんよ。こんな処では無く、お部屋で休まれた方が宜しいのでは?」
「だが…ルイ―セが目覚めるまでは、此処を離れた、く…な………」
「…どうしました?」
「………はっ⁈」

 暫く、顔を伏せて会話を続けていた殿下と視線が絡んだ瞬間、いきなりガタリッと身を引くので此方まで焦ってしまう。

「…なっ⁈ ル、ルイーセっ⁈………えっ⁈ い、いつ目覚めたんだっ⁈」
「えーっと………つい、先ほど…?」

 暫しポカンとした顔で私を見つめていた彼が、今まで見たことがない程に相好を崩す様を、私は一生忘れないだろう。

「………よ…良かった………‼」

 そして、喜びのあまりギュウギュウと抱きしめられた体は、どうやら肋骨にヒビが入っていたらしく、その抱擁により更なる致命傷へと変貌を遂げたことも、恐らく一生忘れることはない…と思う。

 勿論、私が痛みに悶絶して、大絶叫を上げたこともここに申し添えておこう。




「体調は如何ですか? ルイ―セ様は一週間の間、眠り続けていたのですよ」

 大絶叫を聞いて、直ちに駆け寄ってきた王宮医師曰く、事件直後に此処へ運び込まれた私は、怪我と精神的衝撃のせいで高熱を出し、一週間もの間昏睡状態に陥っていたそうだ。
 高熱自体は二日程度で落ち着いたものの、腹部を損傷していたことから、内臓の損傷も疑われ、かなり精密な検査が繰り返し行われていたらしい。

「幸い、臓器に傷は付いていないようでしたが、お顔…特に額の傷の程度を見て、脳に影響を及ぼす可能性が否定できず、緊急処置室で予断を許さない状況が続いたのです。起き上がった時、吐き気や頭痛など不快な点はございませんでしたか?」

 首を振り、それは否定したものの、かなり緊迫した状況だったことは想像に難くない。

「王太子殿下の取り乱しようが凄まじく、処置の間もずっと付き添われていたのです。執務も此処で行うからと、小机までベッド脇に設えられて大騒ぎでした」

 …よく見れば、ベッド脇の小机には殿下が普段使用している羽ペンが転がっている。

 因みに、当の本人は『ルイ―セ様も無事にお目覚めになられましたし、これで一安心のはず。むしろ、ずっと付き添われていた王太子殿下が代わりに倒れるのでは本末転倒です‼ご自分のお部屋へお帰り頂き、たっぷりと睡眠と栄養をお取り頂くことが殿下の次のお勤めだと心得て下さい。御付きの執事長が、体調が万全になったと判断するまでは、こちらへの入室は一切お断りします‼』と、王宮医師にガミガミとお説教されて、その場で近衛兵に連行されて行った。

「昏睡状態の間も栄養剤や水分補給は万全の体制で行っておりましたが、今後は徐々に体調を回復させる事と、損傷部分の治癒を促すためにも、暫くの間、絶対安静を心掛ける様お願い申し致します」

 今も私の額にはグルグルと包帯が巻かれ、腹部もコルセットが守ってくれたとはいえ、醜い鬱血後が色濃く残っている。
 肋骨も数本ヒビが入り――これは殿下によって、最終的に折れたらしいが――他にも手首の裂傷や捻挫、切り傷に至っては体中にあると、白髪交じりの王宮医師はため息を零した。

「…ルイ―セ様が緊急処置室へ運び込まれた直後は、それはもう大変な騒ぎでした。面会謝絶だと言っているのに、ご両親のみならず、マリアーナ聖女様までもがこちらへ来られまして『ルイ―セの命を助けてくれぇぇぇーっ‼』と…。廊下で詰め寄られた医師が『あまりの殺気にこの場で死を覚悟した』と言うぐらいでしたからね」

 ハハハと笑いを浮かべる医師に「ご迷惑をお掛けしました」と縮こまりながら頭を下げたものの、普段の冷たい両親とはイメージが結びつかず、首を傾げてしまう。

「ああ、駆け付けたマリアーナ聖女様が、すぐさまルイ―セ様のお体に聖魔力で治癒を行なわれたおかげで、本来の怪我の重症度に比べ、体内の損傷が軽いのかもしれません」

 …まさか、マリアーナにまでお世話になっていたとは思わなかった。
 彼女には兄妹揃って迷惑を掛けていて、本当に頭が上がらない。
 その事実に、瞠目していると王宮医師は優しい瞳でこう続けた。

「ルイ―セ様はご自分が愛されている自覚をお持ちになるべきです。アーデルハイド王国の未来の為にも、このような無理無茶はお止めいただき、もっと御身を大切になさって下さい」
「………はいっ⁈」
「痛み止めを処方しておきます。食事までもう少しお休みくださいね」

 ニッコリと微笑みを浮かべ、王宮医師は席を立ち“お大事に”と間仕切りを閉めて去って行く。

 後に残された私は、先ほどの言葉に戸惑いを隠せず、眠気が襲ってくるまでの間、悶々と悩み続けたのであった。




 一週間後、どうやら急激な容体の悪化は無さそうだと、ルイ―セは緊急処置室から王宮の一室へと療養の場を移されることとなった。
 それならば邸宅へ戻り、そこから通うと言ったルイ―セの提案は却下され、いつの間にか設えられた部屋へと成す術も無いままに連行されたのだ。

 王宮内に設えられた部屋は、豪奢な客間とは違い、淡いクリーム色の壁紙を基調にした、万華模様のタペストリーが掛けられている上品な部屋だった。
 長椅子にはそれと同系色のクッションが置かれ、同じ色調の天蓋付きのベッドが、部屋全体の雰囲気を纏めている。

 あれからも事あるごとに帰宅したいと口にしてはみたものの、その願いは却下され続け、そんなに暇ならと、山のように積み上げられた王立学術院の課題にヒーヒー言いながら日々は過ぎていった。
 そして、事件が起きた日から一か月が経過したある日、漸く両親との面会が許されたのであった。




 王宮内でも奥まった場所にあるルイ―セの部屋は、普段であれば人通りが殆どないため静かなものだ。
 それが今日に限って、随分と廊下が賑やかだな…と思っていれば、ノックもせずに飛び込んできたのが自分の両親だったのだから、恥ずかしくもなるだろう。

「ル、ル“イ―セ”~~~っ‼体は大丈夫な“のぉ~~~っ⁈」
「無事かーっ⁈やはり王族なんかに関わらせたのが間違いだったんだなーっ‼」

 号泣しながら右手をお父様、左手をお父様に握られ、身も世もない程に泣きわめく二人に引き攣りながらも、何とか微笑みを浮かべる。

「だ、大丈夫です。私の不徳の致すところで、お二人にはご迷惑をお掛けし、本当に申し訳ございません」

 ベッドの上で上半身を起こし、頭を下げると、益々大粒の涙を零す両親には戸惑いしかない。

「ルイ―セは何も悪くないのよぉ~~~‼全部アーデルハイド王家が…いえ、王太子殿下のせいなんだから、ここでスッパリと縁を切って、ティーセル領で暮らしましょう⁈貴女が望むのであれば、他国へ移住してこんな横暴な王家と別れを告げても良いわ‼」
「おおっ‼もし王太子が無理強いをするのであれば、我が騎士団の精鋭たちも国に反旗を翻す事さえ厭わないと言っておる。たとえこの命が散るとしても、お前をむざむざと奪われるような真似はさせんからな‼」

 …………まったく意味が判らない。

 私が昏睡状態に陥っていたことを心配してくれた事は理解できるのだけれど、そこから何でアーデルハイド王家が…いや、ディミトリ殿下が悪いという話になるのか…?
 確かにアデリーナ王女が殿下に一目惚れをしたせいで、私に憎悪を向けてきたのだから、責任の所在の一端は殿下にある…と言えなくもない。
 でも、そこから他国へ移住するとか、横暴な王家だとか、ましてや“我が騎士団”と言うのは一体何の話なのだろうか。

 直もギャーギャーと王家の悪口を言い続ける二人を窘めるべきか否かと、途方に暮れていると、扉の傍で盛大なため息が聞こえてきた。

「…本当にティーセル男爵一族は直情型ね…。娘が可愛い気持ちは判るけれど、もう少し掻い摘んで説明してあげないと、ルイ―セが困惑しているじゃないの」

 扉に凭れ、こちらを見つめていたのは、今まさに両親が悪口を言っていたアーデルハイド王家のベロニカ王妃殿下であった。
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