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69 救済の乙女の覚醒

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 マリアーナは何度か深呼吸を繰り返すと、ゆっくりと空に向かって両手を差し伸べた。

「ねえ、エリク…聞こえているでしょう?これから私の一世一代の大勝負になるんだから、力を貸して頂戴」

 そこにどれだけ目を凝らしても、我々の目には何も映ることは無い。

 しかし、マリアーナの言葉に反応するかのように、空間から漏れ出た細かな光の粒子が彼女の指先にまるで雫のようにポタリポタリと零れては溜まっていく。
 両掌一杯に、まるで蜂蜜のように溜まった輝きが、意志を持ったかのように膨れ上がり、形作るのを、誰もが呆然と見つめていた。

「お・ま・た・せ☆」

 ふるりと真っ白な耳を震わせ、マリアーナの掌にチョコンと座る愛らしい姿をしている使い魔――エリクは、皮肉気な笑みを浮かべているのにも拘らず、何故か悲しげに見える。
 掌の上で、すっくと立ちあがると、まるで貴族紳士のように恭しくマリアーナに頭を垂れた。

「やあやあ‼遂に、落ちこぼれヒロインだったマリアーナが無事に攻略の最重要ルート分岐に進めた次第でございますねぇ♪一時は攻略が絶望的だったというのに、此処まで持ち直すなんて、本っ当に素晴らしい事でございます☆」
「オホホ♡エリクの嫌味ぐらい可愛らしいものだわ。此処で失敗するわけにはいかないんだから、最後の時ぐらい私の幸せを祈ってくれても良いのよ?」
「い・や・だ☆マリアーナは、ボクに幸せを祈られなくちゃいけない程、か弱くないだろう?本当に図太い神経で、我が儘で、意地っ張りで…最高の相棒だったよ」
「エリクったら…最後に泣かせることを言ってくれるじゃない。私にとっても貴方は口が悪いけれど、大切な友人よ。今までも…これからもね‼」
「おや、最後だからリップサービスかな?ハハ…例え口先だけだとしても嬉しいよ」
「もう‼最後まで素直じゃないわねっ‼」

 ――何故、二人は最後最後と連呼しているのだろう?
 ――何故、二人は笑顔なのにそんな悲し気な雰囲気を纏っているのだろう?
 ――何故・何故・何故…?

 ドキドキと胸が苦しくなり、ただ只管にエリクを凝視していると、私の視線に気づいたエリクが此方を見つめて…ふわりと微笑んだ。

「カール、こっちへおいで。君には僕が消えることを説明していなかったね。最後にキチンとお別れをさせて」

 その言葉を咀嚼しきれず、フラフラとした足取りでエリクに近づくと、彼は目を細めながら私に手を伸ばす。

「最初から、カールとは険悪な出会いだったのに、こんなボクたちの言う事を信じてくれて、キミってお人好しで、馬鹿で…ちょっとだけ心配な存在だったんだよ」

 エリクの口から出る言葉は私に対する罵倒で占められていたのに、その声音が優しくて、何故だか不意に泣きたい気持ちになってしまう。

「ボクはこのゲーム世界でヒロインが迷わないように指標する為の存在であり、ヒロインが攻略失敗をした時にも彼女たちを“リセット”する為だけに作られたキャラクターなんだ。…だから、ヒロインが対象者とのストーリー分岐に突入した時点で、ボクの力は全て聖魔力に変換され、消えゆく存在なんだよ」

 “これ以上は内緒なんだけどね”とクスリと笑うエリクの体をマリアーナから受け取ると、堪らず、ギュッと抱きしめた。

「…でもね、ボクの体の内に眠っている“魔力の源”を、マリアーナに渡せば、彼女は聖女として覚醒し、キミの大事な兄様は助かるんだ。決して悲しむべき別れなんかじゃ無いんだよ」

 ポツリポツリと告げられる真実に、只々言葉もなく頷くことしか出来ない。
 ――今は、この温かで柔らかな白猫と二度と会えなくなることだけが、胸を抉られるように悲しいのだ。

「…カールにそんなに泣かれたら、心配で“魔力の源”が揺らいじゃうだろう?このルートでのボクは消えるけれど、別の次元で存在しているんだから、厳密には消えるわけじゃない。それにボクが消える前に、どうしてもカールには伝えたいことがあって…」

 そう言うと、エリクは私の肩に飛び乗り、耳元で囁いた。

「キミは多分、このゲーム世界における“バグ”の存在だ。だから、キミと関わった攻略対象たちがそのせいでシナリオに影響を及ぼすような行動を取っているとボクは思っている」
「…私が“バグ”…?…私はそもそも攻略対象だと貴方達が言ったんでしょう⁈それなのに、私のせいで皆の行動がおかしくなったと言われても納得できないわ‼」
「その気持ちは判るよ。でも、実際にキミとせいで、ディミトリ殿下はヒロインに興味を示さず婚約者の令嬢に夢中だし、シャルルもジョゼルも王立学術院でゲームが始まる前に、自身の悩みを解消してしまっている。これではゲーム自体が破綻していると言っても過言では無いだろう?」

 ――言われてみれば確かにそうだ。

 しかし、私の存在自体はゲームのシナリオに組み込まれているはずだし、そこから逸脱した行動を取っていると責められても、自分では何が問題なのか理解できない。

「…ボクがキミの存在を“バグ”だと認識したという事は、世界の管理者にもキミの存在が認識されたという事だ。つまり、乖離を元に戻すためにバグである存在をこの世から抹消しようとする“物語の強制力”が働く危険性がある。ボクがキミに出来る忠告は残念ながらこれだけだ。だから“いつ、誰に、何をされるのかも…もしかしたら、何もされないのかも判らない」

 …私の存在はどこまでも邪魔にされてしまうのか。
 ――忌み子は生きているだけで疎まれるべき存在のようだ。そう思うと、自虐的な笑みが微かに零れる。

「私が生きている限り、命を狙われ続けるという事…?」
「いや…恐らくはゲームが終了する王立学術院の卒業式典までがタイムリミットだと思う。そこさえ過ぎてしまえば、シナリオの影響もなくなるから、強制力も働かなくなるはずだ…」

 エリクの言葉には真摯に私を心配してくれる直向きさが溢れていた。
 彼だって、これで消えてしまうというのに…なんて優しい使い魔なのだろう。

「エリク、忠告をありがとう。貴方のような優しく、素晴らしい友人に出会えたことは私にとって最大の喜びであり、幸福だったわ。…絶対にエリクの事は忘れない」
「ハハ…ボクも忘れないよ。沢山振り回してくれた不具合虫さん♡またね」

 エリクは、その言葉を最後に、マリアーナの掌へと飛び移ってしまう。
 まるで、言う事は全て終わったのだと言い聞かせるかのように、もうこちらを見ようともしない。

「…それでは儀式を始めるわ。詠唱が始まったらもう…戻ることは出来ないけれど、覚悟は決まった?」

 マリアーナの声にエリクは頷くとそっと目を閉じる。
 部屋中の人間を部屋の隅に集めると、彼女はエリクと共にルイスの枕元へ歩み寄った。

 謡うような柔らかな囁きがマリアーナの口から紡がれ、まるで讃美歌のように荘厳な詠唱が部屋中を包み込む。それは言葉では表せない程の清浄な空気を纏っていた。

Eiarエイアーの花綻びし芽生えの季節、汝は春の女神なり 香しき恋の喜びを我に与えん」

Therosテーロースの降り注ぐ陽の光は繁栄を象徴する季節、汝は夏の女神なり 生長の喜びを我に与えん」

Phthinophoronプティノポローンの実り多き豊穣の喜びよ、汝は秋の女神なり 愛の結実を我に与えん」

Cheimonケイモーンの凍てつきし大地は閉ざされし季節、汝は冬の女神なり この胸に眠りし深き愛を我に与えん」

 マリアーナが四季の女神の名を呼ぶたびに、エリクの輪郭が朧げになっていく。
 遂にはその身の内からぶわりと真っ黒な霧が溢れだすと、彼の存在はやがて跡形もなく消えてしまった。

「四季神から与えられし魔力の源を 光溢れし聖なる力へと行使する 永遠の喜びは彼の者の為に 金色に輝きし運命の糸は 導かれし救済の乙女が今紡ぐ…」

 一言 一言を紡ぐたびに、真っ黒な霧は光の粒子へと姿を変えて、マリアーナの周りを眩いばかりに照らし出す。

「我は救済の乙女 願うは病魔を打ち払う力なり Saiusサルースの名のもとに 全てを解き放たん」

 彼女が言葉を紡ぎ終えたその時、胸に溢れだしたのは喜びに満ちた温かな光だった。

 迷いも
 悲しみも
 苦しみも
 そして絶望さえもが、その光の前に霧散していくのを感じる。

 ――ああ…もう目を開けている事すら出来ない…全てを包む光の中で、目を閉じた時、その温かな光が爆ぜた。

 …まるで神の思し召しであるかのように、彼女の導く煌めきがルイスの体内へと吸い込まれ――その全身に満たされていく。

 最後の一滴が注ぎ込まれた瞬間、マリアーナの体がその場にガクンと崩れ落ちた。

「――マリアーナっ⁈大丈夫っ⁈」

 慌てて駆け寄ると、彼女はふらつきながらもルイスの顔へと眼を向ける。
 そこに眠るルイスの頬に薄っすらと赤みが差し、胸がゆっくりと上下するのを確認した時、漸くマリアーナは微笑みを浮かべた。

 …部屋の中にいた誰もが、息を呑み、今起きていたことが現実なのかを測りかねている。
 医師すらも呆然としている中で、マリアーナは寝ている幼子を起こすかのように優しくルイスに呼びかける。

「…ねえ、ルイス。私の愛しい人…早く目覚めて頂戴。貴方の声が聞きたい…貴方の瞳に私を映して欲しいのよ…」

 彼女が額に、そして頬に唇を落とすのを呆けた様に見つめていると、微かにルイスのまつ毛が揺れる。その瞳がマリアーナを映した瞬間、彼女の目から涙が零れた。

「…目が覚めた時、愛しい女性から口づけを受けているなんて、まるで眠り姫の様じゃないか…百年の眠りから覚めた気分だよ」
「…そうよ。私を置いて永遠の眠り姫になろうったって、絶対に逃がさないんだから。もう…置いて行かないで…」

 それは、まるで物語のハッピー・エンドの一幕で、喜びに抱き合う二人に漸く認識が追いついたのか、医師や両親ももろ手を挙げて燥いでいる。

「――カール…お前は、マリアーナ・アウレイアが聖女だと…知っていたというのか」

 ディミトリ殿下の追及に逡巡した後、無言で頷くと、彼の瞳が微かに傷ついたように揺れるのが見えた。

「…ルイスが目覚めたとはいえ、まだ病の進行が完全に無くなったのかを検査する必要がある。ただ…暫くは家族だけで語り合いたいことも有るだろうし、我々は此処で失礼しよう」

 温度の無い声で淡々と呟くと、ディミトリ殿下はマリアーナに優しく目を向ける。

「マリアーナ嬢が聖女様だと…私自身がこの目で確認した以上は、貴女をこのまま学術院へ送り届けるわけにはいかない。今後の方針が決まるまでの間は、王宮にご滞在願えますでしょうか?」

 柔らかな声音で手を伸ばす殿下の手に、マリアーナもそっと手を重ねると頷いた。

「ええ…ディミトリ殿下…判りました」

 ディミトリ殿下にエスコートされ、マリアーナが処置室を出て行くのを、無言で見送ることしか出来ない。

 きっと、マリアーナ・アウレイアは稀有な存在…“聖女”として国中から祭り上げられるのだろう。

 ――その想像は現実のものとなったのだった。
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