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54 籠の中の鳥
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「…遅くなって悪かったわね。ルイーセには部屋を用意したから、本日はそちらで養生しなさい。…その肩の怪我も、もう一度診て貰うと良いわ」
王妃殿下は私の開けた肩口の血の跡に目を止めると一瞬顔を顰めた後で、傍仕えの持ってきたブランケットをそっと肩から掛けてくれた。
後に控えていた妃殿下直属の近衛兵が、私をブランケットごと抱えると、侍女長に付き従い、部屋を出ようと足を踏み出す。
「ルイ―セっ⁈…私はまだ彼女との話は終わっていません‼私のルイ―セを何処へ連れて行くと…⁈」
慌てて手を伸ばすディミトリ殿下に、怯えた私がギュッと体を強ばらして近衛兵の腕の中で縮こまると、それを目の当たりにした王妃殿下が、いきなり殿下の耳朶を思い切りよく引っ張った。
「い…イデデデ…は、母上⁈…耳が…痛っ…これ以上…やると…もげま、す…‼」
「…ディミトリ、今日の貴方の振舞いには本当に失望しました。かよわい令嬢相手に乱暴な振る舞いをし、あまつさえ脅して無理やり手籠めにしようなどという性根の腐った行いは到底、看過できるものではありませんよっ⁈」
「っ⁈違っ…‼彼女が私を…痛っ…拒絶した、からっ…‼」
「当り前です‼ルイ―セがどれ程に恐ろしい思いをしたのか、貴方には今からたっぷりとその身に叩き込んで教えなおす必要がありそうですね」
「彼女はっ‼…ルイ―セは私のものですっ‼…っつ…何故取り上げようなどとっ…⁈」
「まったく…判らず屋にも程があるわね…。お痛が過ぎる子はお仕置きが必要だわ…」
――王妃殿下の声は氷点下の氷のように冷たい。徐々に激情から覚めてきたのか、殿下の声にも恐怖と狼狽の色が感じられるようになってきた。
周りの怯えに気づいたのか、王妃殿下はディミトリ殿下を苛む手はそのままに、私を振り返ると安心させるように微笑みを浮かべてこちらを見る。
「ルイ―セは何も心配しなくても大丈夫よ。痛みが酷いようなら、直ぐに医師に薬も処方させるから、今晩は安心してゆっくり休みなさい」
“猫の子どころか、鼠一匹通さぬよう、部屋の前には夜通し警護を立てますからね”と、そこだけはディミトリ殿下に向けて告げると、私に向けた優しい声音を一変させて「さて…こうなった経緯についてじっくりと聞かせて貰おうかしら?」と冷たい目で殿下を見下ろした。
扉が閉まる直前に『ッギャーッ‼』と、耳をつんざく雄叫びが聞こえたような気はするけれど、結局確認できないままに私は離宮へと連れて行かれたのだった。
私が通された部屋は離宮の賓客用の客間で、その室内では殿下の部屋で処置を施してくれた時と同じ老齢な王宮医師が待機してくれていた。
「ああ…先ほどより、かなり症状が悪化していますね。今晩は酷く痛むと思いますから、少々強めの痛み止めと頓服を処方させていただきます。それと…このまま湿布を張るのは傷口の化膿へと繋がる危険もあります故、一度、傍仕えに体を清めて貰ってから治療を続けることにいたしましょう」
その医師は少しだけ気まずそうな顔をすると、一礼してから部屋を出て行く。
ふと、患部に目をやれば、明らかに噛み跡と判る歯形と、微かにこびりついた血の跡が生々しく残っていた。
(ギャーッ?!あんの馬鹿殿下っ‼…こ、これじゃあまるで情交の後みたいじゃないの‼)
どおりで医師が目を逸らした訳だ。
…居た堪れなさと、羞恥心で顔を赤く染めていると、扉が開き、今度は侍女長が入室してきた。
「失礼いたします。夜着へのお着がえと、お体を清めさせていただきますので、痛む様でしたら、仰って下さい」
無様な噛み跡を目にしても、全く動揺した様子を見せない侍女長は流石としか言いようがない。
そのまま、脱ぎ着しやすい夜着に着替えさせて貰うと、侍女長の立会いの下で王宮医師からの入念な治療を受けた。
「今晩はとにかく、患部を動かさないことが重要ですので、強めに包帯で固定させていただきました。この痛み止めと頓服を飲めば半時ほどで強い眠気に襲われますので、今晩は早めにお休みください」
侍女長に薬を手渡すと「もし痛みがひどいようでしたら、夜中でも構いませんのでお申し付けください」と医師は部屋を出て行った。
「…ルイ―セ、怪我の具合はどうかしら?まだ痛むようなら、もう一度医師を呼びましょうか?」
薬が効いてきたのか、痛みの薄れた私がベッドの上で微かに微睡んでいると、いつの間にか王妃殿下がベッド脇でこちらを見下ろしていた。
「今は薬が効いているのか、痛みもかなり楽になりました。…それより、ディミトリ殿下の様子は…彼は正気に戻ったんでしょうか?」
先ほどの殿下はどう見ても普通の精神状態では無かった…と、思う。
直前に倒れていて、精神が不安定になっていたことを考慮しても、あそこまで激しい執着を目の当たりにすると、身震いが出るほど恐ろしかった。
「ええ、少しディミトリと話をすることが出来たわ。貴女に“自分の事は捨て置いて、別の令嬢と幸せになって欲しい”と切り捨てられた瞬間、目の前が真っ暗になって、暴走してしまったと…怒りのあまり、ルイ―セを傷物にすれば自分の傍から逃げ出せなくなると…そう言っていたわ」
淡々と告げると、王妃殿下は侍女長の用意した肘掛椅子に座り深々とため息を吐いた。
「本当…愚かな子…そうは思わない?」
酷薄な笑みを浮かべて私を見つめる王妃殿下の瞳は、私を素通りし、どこか遠いところを見つめている様に思える。
「未だに初恋の相手に心を縛られて、面影にまで縋る執着心にはどんな色が付いているのかしら…」
そう呟く王妃殿下の声音にこそ何の色も――そう、何の感情も付いていないように聞こえた。
…それで漸く、彼女は私を通じて過去のディミトリ殿下が愛したという初恋の令嬢を思い起こしているのだと気が付いた。
(十年前…というと、私たちが五歳頃の話かしら…?)
一度も会ったことすら無いはずのご令嬢なのに、何故か王妃殿下もディミトリ殿下も、私を通してその少女の面影ばかりを追う。
私の振舞いに一喜一憂するのも、全ては初恋の少女と似ているというその一点のみで、私自身が彼らに必要とされているわけでは無いのだと、こういう時に思い知るのだ。
――所詮は身代わりの存在なのだと。
「私は、ディミトリ殿下にとって初恋の面影を追うだけの、所謂身代わりに過ぎません。そんな存在に会えないからと、傷つき、疲弊するのは殿下にとっては害悪でしかない。ですから、心を蝕む存在になるくらいなら、私の事を忘れて欲しいとお伝えしたのです」
相思相愛であれば、相手から深い愛情を受け取ることは喜びになるだろう。
しかし、偽りの愛情は歪な関係をよりいびつな形に捻じ曲げる事にしかならないのだ。
――だからこそ、ディミトリ殿下は想い出に縋って心を疲弊させるし、私は紛い物の愛を重荷だと感じるのだろう。
「今回の怪我で、自分の愚かさを十分に理解したつもりでございます。私如きがディミトリ殿下に賢しらに進言したところで、意見を聞き入れて頂けないことも判りました。…王妃殿下から殿下に私の事は忘れて頂くように、お話しいただけませんでしょうか」
確かに私は彼を偽ったけれど、もう十分に罰を受けたはずだ。
ディミトリ殿下が国王陛下に即位すれば、初恋を実らせる事だって実現可能だろう。
必要の無くなる私を――心を自由にして欲しいと…そう願ってしまう。
真っすぐに見つめた私を、何故か憐憫の情を込めた眼差しで見つめていた王妃殿下は、やはり色のついていない声で「駄目よ」と首を振った。
「――貴女を今、自由にすることは出来ません。ルイーセがディミトリを愛さなくとも、魔術誓約書が貴女の魂を縛り、ディミトリによる誓約が遂行された暁には王の名の基に婚姻式を行います」
…何故、そこまで頑なに私に拘るのか判らない。只の身代わりなのだから、今すぐに自由にしてくれても良いではないか‼
「わ、私は魔術誓約書に同意していませんし、署名もしておりません‼殿下には真実の愛を注がれるべき令嬢がいるのですから、その方とディミトリ殿下を直ぐにでも引き合わせて差し上げれば良いだけでは無いですか⁈お願いです…もう…私を巻き込まないで…」
喉の奥から出てくる言葉は悲鳴のように震えていて、頬を濡らす冷たい雫に、自分がどれだけ苦しんでいたのかを知った。
――そう、私は誰にも縛られず、自由でいたかったのだ。
人を愛すれば愛するほど、その人の感情も体も、全てを自分のものにしたくて堪らなくなる。手に入れたとしても、今度は失う事を恐れる事になるのなら、最初から要らないと…心の奥底から震える声が聞こえる。
ポタポタと流れ続ける涙が、真っ白なリネンに染みを作るのを俯いて見つめていると、小さく「ごめんなさいね」と呟く声が聞こえた。
「ルイ―セを苦しめていることも承知しています。それでも今は…ディミトリが貴女を諦めない限り、誓約を解除することも出来ない事だけは理解して欲しいの」
「…もしディミトリ殿下が初恋の令嬢と結ばれて、正妃を置いた暁に、万が一私を側妃や愛妾として望んだとしても諫めるつもりは無いと?…そう仰るのですか?」
「ええ…。元よりルイ―セに拒否権は無いのよ。どれほど貴女がディミトリを厭おうとも王命であれば、意思を差し挟む余地が無い事は判り切っているでしょう?ましてや、貴女に拒絶されたと思うだけで、苛烈な反応を見せるディミトリが手離すはずもないわ。無理に引きはがそうとすれば、あの子自身が壊れるか…貴女の心が壊れても自分の元から手離さないでしょうね…」
――私は身代わりであり、彼にとって仮初の恋人だったはずだ。
初恋の令嬢を手に入れるための…それまでの繋ぎの存在に何故、彼がそこまでの執着を見せるのか理解できない。
(…ああ、違うわ。身代わりだからこそ心が壊れても彼にとって平気な存在という事なのね…)
つまり、ディミトリ殿下にとって、私は都合の良い道具――壊しても取り換えのきく人形でしかないのだと漸く理解できた。
「…私の意思などどうでも良いことは判りました。王命とあらば私はこの身を王家の為に捧げ、側妃でも愛妾でも望まれるままに話をお受けいたします」
一言一言が自分の心を苛んでいく。
薬が切れてきたのか、口を開くたびにズキズキと傷口が疼き、頭の痛みにグラグラと視界が歪む
――ああ…もう何も考えたくはない…。
侍女長が、慌てた様子で、医師を呼ぶと、直ちに横になるようにと促される。
そのまま解熱剤と痛み止めの薬を手渡され、冷たい水で喉へと流し込んだ。
「…患部も発熱していますし、このまま興奮させるのは患者にとってかなりの負担です。お控え頂き、安静にするようお勧めいたします」
医師と王妃殿下が何事かを話しているのも、気にせずに私は毛布を被ってそっと目を閉じた。
周りの喧騒すら今は気にならない程、私は疲れていたのだ…今は泥のように眠りたい。
(どうせ、私の意思は何時でも無視されるのだから、勝手にすればいい…)
――夢の中でしか私に自由は与えられないのだから。
王妃殿下は私の開けた肩口の血の跡に目を止めると一瞬顔を顰めた後で、傍仕えの持ってきたブランケットをそっと肩から掛けてくれた。
後に控えていた妃殿下直属の近衛兵が、私をブランケットごと抱えると、侍女長に付き従い、部屋を出ようと足を踏み出す。
「ルイ―セっ⁈…私はまだ彼女との話は終わっていません‼私のルイ―セを何処へ連れて行くと…⁈」
慌てて手を伸ばすディミトリ殿下に、怯えた私がギュッと体を強ばらして近衛兵の腕の中で縮こまると、それを目の当たりにした王妃殿下が、いきなり殿下の耳朶を思い切りよく引っ張った。
「い…イデデデ…は、母上⁈…耳が…痛っ…これ以上…やると…もげま、す…‼」
「…ディミトリ、今日の貴方の振舞いには本当に失望しました。かよわい令嬢相手に乱暴な振る舞いをし、あまつさえ脅して無理やり手籠めにしようなどという性根の腐った行いは到底、看過できるものではありませんよっ⁈」
「っ⁈違っ…‼彼女が私を…痛っ…拒絶した、からっ…‼」
「当り前です‼ルイ―セがどれ程に恐ろしい思いをしたのか、貴方には今からたっぷりとその身に叩き込んで教えなおす必要がありそうですね」
「彼女はっ‼…ルイ―セは私のものですっ‼…っつ…何故取り上げようなどとっ…⁈」
「まったく…判らず屋にも程があるわね…。お痛が過ぎる子はお仕置きが必要だわ…」
――王妃殿下の声は氷点下の氷のように冷たい。徐々に激情から覚めてきたのか、殿下の声にも恐怖と狼狽の色が感じられるようになってきた。
周りの怯えに気づいたのか、王妃殿下はディミトリ殿下を苛む手はそのままに、私を振り返ると安心させるように微笑みを浮かべてこちらを見る。
「ルイ―セは何も心配しなくても大丈夫よ。痛みが酷いようなら、直ぐに医師に薬も処方させるから、今晩は安心してゆっくり休みなさい」
“猫の子どころか、鼠一匹通さぬよう、部屋の前には夜通し警護を立てますからね”と、そこだけはディミトリ殿下に向けて告げると、私に向けた優しい声音を一変させて「さて…こうなった経緯についてじっくりと聞かせて貰おうかしら?」と冷たい目で殿下を見下ろした。
扉が閉まる直前に『ッギャーッ‼』と、耳をつんざく雄叫びが聞こえたような気はするけれど、結局確認できないままに私は離宮へと連れて行かれたのだった。
私が通された部屋は離宮の賓客用の客間で、その室内では殿下の部屋で処置を施してくれた時と同じ老齢な王宮医師が待機してくれていた。
「ああ…先ほどより、かなり症状が悪化していますね。今晩は酷く痛むと思いますから、少々強めの痛み止めと頓服を処方させていただきます。それと…このまま湿布を張るのは傷口の化膿へと繋がる危険もあります故、一度、傍仕えに体を清めて貰ってから治療を続けることにいたしましょう」
その医師は少しだけ気まずそうな顔をすると、一礼してから部屋を出て行く。
ふと、患部に目をやれば、明らかに噛み跡と判る歯形と、微かにこびりついた血の跡が生々しく残っていた。
(ギャーッ?!あんの馬鹿殿下っ‼…こ、これじゃあまるで情交の後みたいじゃないの‼)
どおりで医師が目を逸らした訳だ。
…居た堪れなさと、羞恥心で顔を赤く染めていると、扉が開き、今度は侍女長が入室してきた。
「失礼いたします。夜着へのお着がえと、お体を清めさせていただきますので、痛む様でしたら、仰って下さい」
無様な噛み跡を目にしても、全く動揺した様子を見せない侍女長は流石としか言いようがない。
そのまま、脱ぎ着しやすい夜着に着替えさせて貰うと、侍女長の立会いの下で王宮医師からの入念な治療を受けた。
「今晩はとにかく、患部を動かさないことが重要ですので、強めに包帯で固定させていただきました。この痛み止めと頓服を飲めば半時ほどで強い眠気に襲われますので、今晩は早めにお休みください」
侍女長に薬を手渡すと「もし痛みがひどいようでしたら、夜中でも構いませんのでお申し付けください」と医師は部屋を出て行った。
「…ルイ―セ、怪我の具合はどうかしら?まだ痛むようなら、もう一度医師を呼びましょうか?」
薬が効いてきたのか、痛みの薄れた私がベッドの上で微かに微睡んでいると、いつの間にか王妃殿下がベッド脇でこちらを見下ろしていた。
「今は薬が効いているのか、痛みもかなり楽になりました。…それより、ディミトリ殿下の様子は…彼は正気に戻ったんでしょうか?」
先ほどの殿下はどう見ても普通の精神状態では無かった…と、思う。
直前に倒れていて、精神が不安定になっていたことを考慮しても、あそこまで激しい執着を目の当たりにすると、身震いが出るほど恐ろしかった。
「ええ、少しディミトリと話をすることが出来たわ。貴女に“自分の事は捨て置いて、別の令嬢と幸せになって欲しい”と切り捨てられた瞬間、目の前が真っ暗になって、暴走してしまったと…怒りのあまり、ルイ―セを傷物にすれば自分の傍から逃げ出せなくなると…そう言っていたわ」
淡々と告げると、王妃殿下は侍女長の用意した肘掛椅子に座り深々とため息を吐いた。
「本当…愚かな子…そうは思わない?」
酷薄な笑みを浮かべて私を見つめる王妃殿下の瞳は、私を素通りし、どこか遠いところを見つめている様に思える。
「未だに初恋の相手に心を縛られて、面影にまで縋る執着心にはどんな色が付いているのかしら…」
そう呟く王妃殿下の声音にこそ何の色も――そう、何の感情も付いていないように聞こえた。
…それで漸く、彼女は私を通じて過去のディミトリ殿下が愛したという初恋の令嬢を思い起こしているのだと気が付いた。
(十年前…というと、私たちが五歳頃の話かしら…?)
一度も会ったことすら無いはずのご令嬢なのに、何故か王妃殿下もディミトリ殿下も、私を通してその少女の面影ばかりを追う。
私の振舞いに一喜一憂するのも、全ては初恋の少女と似ているというその一点のみで、私自身が彼らに必要とされているわけでは無いのだと、こういう時に思い知るのだ。
――所詮は身代わりの存在なのだと。
「私は、ディミトリ殿下にとって初恋の面影を追うだけの、所謂身代わりに過ぎません。そんな存在に会えないからと、傷つき、疲弊するのは殿下にとっては害悪でしかない。ですから、心を蝕む存在になるくらいなら、私の事を忘れて欲しいとお伝えしたのです」
相思相愛であれば、相手から深い愛情を受け取ることは喜びになるだろう。
しかし、偽りの愛情は歪な関係をよりいびつな形に捻じ曲げる事にしかならないのだ。
――だからこそ、ディミトリ殿下は想い出に縋って心を疲弊させるし、私は紛い物の愛を重荷だと感じるのだろう。
「今回の怪我で、自分の愚かさを十分に理解したつもりでございます。私如きがディミトリ殿下に賢しらに進言したところで、意見を聞き入れて頂けないことも判りました。…王妃殿下から殿下に私の事は忘れて頂くように、お話しいただけませんでしょうか」
確かに私は彼を偽ったけれど、もう十分に罰を受けたはずだ。
ディミトリ殿下が国王陛下に即位すれば、初恋を実らせる事だって実現可能だろう。
必要の無くなる私を――心を自由にして欲しいと…そう願ってしまう。
真っすぐに見つめた私を、何故か憐憫の情を込めた眼差しで見つめていた王妃殿下は、やはり色のついていない声で「駄目よ」と首を振った。
「――貴女を今、自由にすることは出来ません。ルイーセがディミトリを愛さなくとも、魔術誓約書が貴女の魂を縛り、ディミトリによる誓約が遂行された暁には王の名の基に婚姻式を行います」
…何故、そこまで頑なに私に拘るのか判らない。只の身代わりなのだから、今すぐに自由にしてくれても良いではないか‼
「わ、私は魔術誓約書に同意していませんし、署名もしておりません‼殿下には真実の愛を注がれるべき令嬢がいるのですから、その方とディミトリ殿下を直ぐにでも引き合わせて差し上げれば良いだけでは無いですか⁈お願いです…もう…私を巻き込まないで…」
喉の奥から出てくる言葉は悲鳴のように震えていて、頬を濡らす冷たい雫に、自分がどれだけ苦しんでいたのかを知った。
――そう、私は誰にも縛られず、自由でいたかったのだ。
人を愛すれば愛するほど、その人の感情も体も、全てを自分のものにしたくて堪らなくなる。手に入れたとしても、今度は失う事を恐れる事になるのなら、最初から要らないと…心の奥底から震える声が聞こえる。
ポタポタと流れ続ける涙が、真っ白なリネンに染みを作るのを俯いて見つめていると、小さく「ごめんなさいね」と呟く声が聞こえた。
「ルイ―セを苦しめていることも承知しています。それでも今は…ディミトリが貴女を諦めない限り、誓約を解除することも出来ない事だけは理解して欲しいの」
「…もしディミトリ殿下が初恋の令嬢と結ばれて、正妃を置いた暁に、万が一私を側妃や愛妾として望んだとしても諫めるつもりは無いと?…そう仰るのですか?」
「ええ…。元よりルイ―セに拒否権は無いのよ。どれほど貴女がディミトリを厭おうとも王命であれば、意思を差し挟む余地が無い事は判り切っているでしょう?ましてや、貴女に拒絶されたと思うだけで、苛烈な反応を見せるディミトリが手離すはずもないわ。無理に引きはがそうとすれば、あの子自身が壊れるか…貴女の心が壊れても自分の元から手離さないでしょうね…」
――私は身代わりであり、彼にとって仮初の恋人だったはずだ。
初恋の令嬢を手に入れるための…それまでの繋ぎの存在に何故、彼がそこまでの執着を見せるのか理解できない。
(…ああ、違うわ。身代わりだからこそ心が壊れても彼にとって平気な存在という事なのね…)
つまり、ディミトリ殿下にとって、私は都合の良い道具――壊しても取り換えのきく人形でしかないのだと漸く理解できた。
「…私の意思などどうでも良いことは判りました。王命とあらば私はこの身を王家の為に捧げ、側妃でも愛妾でも望まれるままに話をお受けいたします」
一言一言が自分の心を苛んでいく。
薬が切れてきたのか、口を開くたびにズキズキと傷口が疼き、頭の痛みにグラグラと視界が歪む
――ああ…もう何も考えたくはない…。
侍女長が、慌てた様子で、医師を呼ぶと、直ちに横になるようにと促される。
そのまま解熱剤と痛み止めの薬を手渡され、冷たい水で喉へと流し込んだ。
「…患部も発熱していますし、このまま興奮させるのは患者にとってかなりの負担です。お控え頂き、安静にするようお勧めいたします」
医師と王妃殿下が何事かを話しているのも、気にせずに私は毛布を被ってそっと目を閉じた。
周りの喧騒すら今は気にならない程、私は疲れていたのだ…今は泥のように眠りたい。
(どうせ、私の意思は何時でも無視されるのだから、勝手にすればいい…)
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