カタナクション

竹尾練路

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第一章 剣帝再臨

第13話 イノシシ怖い!

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 アルケニーと呼ばれる怪物がいる。
 瘴気渦巻く山中で100年を経た毒蜘蛛が至ると伝えられる魔物で、粘糸で禽獣人畜を絡めて喰らい、毒で痺れた半死半生の獲物は、生きたまま夥しい数の子蜘蛛の餌食と成り果てるとされている。
 人としての正気を保ったまま、子蜘蛛に少しずつ体液を吸われて骨と皮へと成り果てる死に様は、地獄の責め苦よりなお恐ろしいと畏れられ、この地で生計たつきを立てる猟師やきこりには、アルケニーの糸に絡め取られた際に自害するための短刀を胸に忍ばせ、山に入る者も多いらしい。
 山中の洞窟にて遭遇したアルケニーは、噂話に伝え聞いたものより、輪をかけて不気味な怪物だった。シルエットはクロゴケグモに似ていたが、その背丈は人間程もある。
 剛毛に覆われた巨大な節足で音もなく機敏に歩き回り。一抱えもありそうな頭部には、カメラのレンズのような八つの円い眼が無機質に俺を見定めていた。
 くらい八つのまなこを覗き込んだ瞬間、俺の感情を支配したのは恐怖ではなく、遠い、という隔絶感だった。目とは、感情の窓である。人と人ならば、視線を交えるだけで相手の感情や肚に抱えるおおよそのものが読み取れる。犬猫でさえ、その機嫌の片鱗を感得できる。だが、アルケニーの複眼は、周囲を写すだけの器官の集合に過ぎなかった。そこには、感情の機微の破片すら読み取る間隙はない。
 アルケニーは、果たして俺を如何なる存在であると見定めたのか? その回答は、尻先から噴出された捕獲の為の糸によって容易に知れた。どうやら、俺はめでたくアルケニーに捕食対象として認識されたらしい。
 蜘蛛の糸は、同じ太さならば鋼鉄の五倍の強度を持つとされる。アルケニーが射出する綱引きの縄程もある太く肉厚の糸は、あくまでヒトの腕力しか持たない俺の体を拘束して余りあるものだろう。
 しかし、その糸は眼前で腐れたかずら同然にボロボロと朽ちて崩れ落ちていった。
 母蜘蛛の糸の射出が合図となったのか、洞窟の奥より、おびただしい数の子蜘蛛の群がさざなみが押し寄せるように姿を表した。機械的な反応で俺の足から這い登ろうと迫り来るが、靴先にすら触れることも叶わず、灰が崩れるように静かに形を失いく。
 子蜘蛛達は前列の兄弟の死にもまるで躊躇せずに、次から次へと無益な行軍を続ける。文字通りの、飛んで火に入る夏の虫か。
 アルケニーは、壊れた機械のように俺に捕糸を浴びせようとするが、届かない。アルケニーにとって、数メートルしか離れていない筈の俺との間合いは、無限遠にも等しい。
 
 一歩、二歩、と歩を進める。足元で次々と子蜘蛛が消滅していくが、もう頓着することすらない。
 一足一刀より僅かに遠い間合いで、ようやく俺は刀の柄に指を滑らせた。
 されど、鯉口を切るより早く、奇怪なる巨蜘蛛・アルケニーは、砂上の城も同然に崩れ落ちた。長い節足が幾重にも折れて地に散らばり、頭胸部と腹部が玩具の如く外れて転がり、汚穢なる体液を撒き散らしながら、徐々に形を失っていく。後に残るは、抜け殻にも似た外骨格の破片ばかりである。母蜘蛛が絶命すると同時に、全ての子蜘蛛も動きを止め、同様の末路を辿った。

「お見事です、正義様! アルケニーを討たれたお手並み、実に感激致しました!」

 背後で眺めていたバルベーラが手を叩いて賞賛の声を上げた。

「……お見事、じゃないだろ。俺、何もしなかったぞ?
 殆ど突っ立ってただけで、刀すら抜かなかったんだが」
「ああいう怪獣は、汁気が少ないから後片付けも楽でいいよね」

 友枝はしたり顔で頷いて見せた。
 ――試の儀で確認した、俺に宿る『抗魔力』なる力。それを如何に用いればいいものか、友枝に倣って実地でテストしてみようと思ったのだが、このアルケニー狩りでは大した収穫は得られなかった。
 異形の魔物も、抗魔圏に入ると玩具の発条ゼンマイが切れたように動きを止め、崩れ落ちた。魔道士達の放った魔術が力を失ったように。
 俺を取り囲む、抗魔圏なる不可視の円。
 意識をしなければ、概ねプライベートエリア程度の広さしか持たないが、その半径は俺の意識する間合いに従い伸縮をする。
 そして、全ての魔なる力は抗魔圏に触れれば、効力を失う。ただ、それだけのごく単純なルール。

「……それにしても、このアルケニーって化物は、どう考えても物理法則に反してるだろ。
 ノミが人間大なら東京タワーを飛び越えるとか、蟻が人間大なら大型トラックを持ち上げるとか、そんな薀蓄を聞いたことがあるが、そもそも昆虫類がこんなにおおきさになったら、自重で動けなくなる筈なんだがな」
「相っ変わらず、細かいことを気にするんだね、マサ兄。
 これだからインテリマッチョは」
「いんてりまっちょ?」

 聞き覚えの無い日本語の語彙に、興味津々のキヌが小首を傾げる。

「あー、それは聞き流していいぞ。友枝が勝手に造った言葉だから」
「マサ兄、じゃあ、次行こう、次」

 
   ◆


 デュラハンと呼ばれる怪物がいる。
 死者の骸が変じて生じる魔物、アンデッドと呼ばれる一群の中でも、極めて稀少で危険と伝わる一つである。
 首無しの馬に乗った首無しの騎士。
 甲冑に身を包み、その大鎌は生者の命を刈り取るのだとか。
 余談であるが、デュラハンは300年前のレディコルカ独立戦争以前までは、各地で度々目撃されていたが、レディコルカに義太郎さんが天降りその剣技を伝えて以来、伝統的に使用されていた重甲冑と長剣は次第に廃れ、怪談に伝えられるデュラハンは姿を消したという。
 エメンタール――旧ブンツ領でも、レディコルカから抗魔剣士を借り受けるようになった現在、戦場で非業の死を遂げ、デュラハンとなって迷い歩くような騎士はまず存在しないのだとか。
 カベルネが伝えてくれたのは、そんな稀少なデュラハンが出現すると言われる、戦場跡の一角だった。
 何だか絶滅寸前の動物を狩りに行くハンターのようで気が進まない。そう漏らすと、相手は極めて人間に有罪な存在であり、デュラハンのような長命で稀少な魔物は、人々の恐怖の対象となることで更にその力を増す危険がある。更に、討伐の前例を増やすことでその種族全体の力を貶めることが出来るので、速やかに駆逐するのが望ましいと、キヌから励まされるような説明を受けてしまった。
 イリオモテヤマネコ並みの希少種となったデュラハンは、人々の恐怖を幾重にも纏った影響か、骸骨兵スケルトンの軍勢を率いる狂将として顕現した。
 禁断の地に足を踏み入れた俺達を、その隊列の末尾に加えんと襲い掛かる亡者の群たち。
 されど、骸骨兵スケルトンはアンデッドの中でも最も低俗とされる魔物である。その動きは甚だ鈍く、取り囲まれない限り倒すのは容易である。義太郎さんが薪雑棒で叩きのめした髑髏の兵隊も、この骸骨兵スケルトンの類に間違い無い。
 刀を抜き一振りすれば、殆ど手ごたえも無く骨殻の山と帰した。
 無論、骸骨兵スケルトンの攻撃が俺を害することは無かった。骸骨兵スケルトンが握る長剣のなれの果て――あるいは、この錆剣が俺の抗魔圏を突破するやもしれぬと用心したが、それも杞憂。長剣は抗魔圏に触れると力を失い、鈍い音を立てて地を転がった。
 俺の抗魔力とやらは、どうやら魔物や魔道の存在のみではなく、魔と呼ばれる現象から生み出された運動エネルギーをも、問答無用で消し去るらしい。
 配下の骸骨兵スケルトンが次々に崩れ落ちる光景に業を煮やしたのか、デュラハンが手綱を一振り、首無しの馬を一直線に俺へと走らせる。
 ――概ね、目算はついた。
 抗魔圏は俺の戦意と間合いに同調して、その範囲と形を変える。
 アルケニーの二の轍を踏まないように心を沈め、限界まで引き付けてから鯉口を切った。
 祖父より学んだ居合の基礎――自流の中伝一本目を意識しながら抜き付ける。
 本来は、正面の相手の顳顬こめかみへ抜き付ける立業であるが、眼前に迫るは首無し死体のデュラハン。相手は馬上にて、此処はひとつ胸元でお茶を濁そう。
 一気呵成に抜き付けた横一文字の円弧に沿って骸骨兵スケルトンが崩落し、まさに俺に襲いかからんとしていたデュラハンは、腐臭を上げる死馬と、錆びた甲冑を纏った白骨に分かれて地に転がった。

「素晴らしいお手並みです、正義様」

 こうも呆気無いと、バルベーラの拍手も虚しいばかりだ。

「まだ骸骨兵スケルトンは大分残っているみたいだな」
「そのような雑魚の掃除は、正義様のお手を煩わせるまでもありません。
 どうぞ、ごゆるりとお休み下さい」

 バルベーラら、数人の衛士達が、残った骸骨兵スケルトンの掃討に参加した。
 彼らの力量なら、万が一にも傷を負うようなことは無いだろう。
 バルベーラなどは、嬉々とした様子で案山子かかしも同然の白骨達を片端から薙ぎ倒していた。

「彼らは皆、乙二種以上の抗魔剣士です。あの程度の骸骨兵スケルトンなら、容易に殲滅してのけるでしょう」
「そういえば、『抗魔剣士』ってどんな職業? 私に向いてるってカベルネさん言ってたよね。
 要するに、サムライとかハンターとかそんな感じ?」

 友枝の問いは、俺の問いでもあった。
 抗魔剣士。その言葉を初めて目にしたのは、義太郎さん手記の中だった。
 発出は、義太郎さんが、レディコルカに加勢してレジスタントしての戦いを始めて、数ヶ月を経た辺りだ。
 ――曰く。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

 レヂコルカの兵に、我の破邪の加護にあやからんとて、我の愛刀忠行に似せて刀を仕立てる者達有り。
 此の地のてつ、住まふ民の髮にも似た赤みを帶びれば、緋色鋼ヒヒイロカネと名附く。此の鐵、色は錆鐵の如きなれど、其の粘り強さは古鐵に近き、善き鋼なり。
 ・
 ・
 ・
 緋色鋼ヒヒイロカネの刀を腰間に帶びし兵共に、些細な異變起こりし。
 烈しき妖術の焔にくるまれ、到底命は助からぬものと思はれし折に、半死半生のてひにて其の一命を取り留むる者あり。
 一同、此れこそ破邪の加護なりと喜び勇み、競って刀工に日本刀を鍛へさする。
 ・ 
 ・
 ・
 レヂコルカの兵共、皆我を眞似て緋色鋼ヒヒイロカネの刀の帶びる。
 祖國日本の劍を帶びし兵、力量の差はあれど、皆妖術の力を弱めるに至る。
 兵共の士氣髙まる事此の上なし。
 刀を帶びし兵共、寄り集まりて自らを抗魔劍士隊としょうす。
 されど、兵共の劍の技倆、力任せの棒振りちやんばらにも似たり。贋物の劍を腰間に帶びしのみでは、劍士と自稱するには到底足らぬ。
 力量に応じて甲乙丙丁の四隊に分け、軍事教練を始むる事とする。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

 ――つまり、剣を真似ることによって、伝染するのだ。俺と友枝の持つ、抗魔力なる不可思議な力は。

 義太郎さんが、如何なる怪力乱神の剣を振るったとて、唯一人の力で、圧倒的不利にあった戦争の形勢を覆すことなど、不可能だったろう。
 どのようなメカニズムで、抗魔力の伝播が行われたのかは、定かではない。
 だが、確実なのは、日本刀を携え、剣技を修練したレディコルカの兵士達は、スティルトンの魔道士が使用する魔術に対する強力な耐性を得たこと。
 無抵抗な案山子も同然に魔術で滅ぼされるしか無かったレディコルカ兵達は、劣勢ではあるが、同じ土俵で戦うことが可能となったのだ。
 そして、それはスティルトン軍に対して、大きな恐怖と混乱と与えた筈だ。
 義太郎さんの手記から読み取る限り、スティルトンの魔道士達にとって、レディコルカとの戦争は、勝って当然の、害虫駆除も同然の殲滅戦と捉えていたに違いない。
 そこに突如、自らのアイデンティティを覆すような、抗魔力を持った義太郎さんが現われ、烏合の衆と蔑んできたレディコルカ軍を率いて襲いかかったのだ。
 ――自らを、狩人と信じて疑わない者は、狩られる立場に回ると、存外、脆いものである。

 くして、奇跡も同然の大逆転は成った。
 
 レディコルカの民の、剣に対する狂信にも、これで合点がいった。
 義太郎さんの剣を真似することによって、魔道の素質に乏しいレディコルカの民は、魔に抗うための力を得る。
 何故そんな現象が起こるのか、どんなからくりなのかは、想像のしようもない。
 強いて言うなら、文化人類学者のジェームズ・フレイザーが定義した類感呪術との軽い相似を感じる程度か。
 しかし、これは義太郎さんを信仰し、その剣技を金科玉条として伝承していくには、十分な理由だったのだろう。

 バルベーラが勢い良く薙いだ刀が、骸骨兵スケルトンの首を刎ね飛ばす。
 その刀が触れる一寸程前に、白骨の頸椎が脆くも崩れていくのが明瞭はっきりと視認できた。
 
 ――抗魔力という、不可視の破邪の加護。それは、愚直なまでにその剣を伝えるレディコルカの民達を、300年もの永きを経た今もなお守り続けているのだから。
 
 

   ◆

 コカトリスと呼ばれる魔物がいる。
 蛇の胴体を持った雄鶏の姿をした怪物であり、伝承によれば雄鶏が産んだ卵を蛇が孵化させるた雛がコカトリスに成長するという。
 口からは人を石化させる毒霧を吐きかけ、齢を経れば睨むだけで人を石に変ずる魔眼を得るとされるが、コカトリスと遭遇して逃げ延びたという例自体が稀であり、詳細な生態は謎に包まれいる。
 耳を劈く化鳥の絶叫。大鷲の如く広げられた両翼は、羽ばたけど飛び立つ事無き雄鶏のそれ。胸には威嚇するコブラにも似て、幅広の腹板がびっしりと尾まで続いていた。
 マンティコアもそうだったが、生物学的に有り得ない筈の合成獣キメラの肉体の解剖図には興味唆られるものがある。
 コカトリスは紫の煙立ち上げる毒霧を吐き出すが、抗魔圏の境界線にて、靄が晴れるように綺麗さっぱりと消失。
 数万年前に絶滅したという恐鳥ディアトリマを想起させる巨大な嘴で、俺の頭蓋を砕きに突きかからんと、大きく体をけ反らすが、コカトリスの抵抗はそれまでだった。
 頸骨と気管食道大動脈、その他諸々合わせて抉り取った大きな穴が、ぽっかりとコカトリスの喉元に口を開いていた。
 ――軽く、喉を突いただけで、これである。
 ドリルで貫通させたようなコカトリスの喉穴のグロテスクな肉壁の向こうには、長閑なエメンタールの山野の遠景が覗いて見えた。
 喉が無ければ、叫びを上げることさえ叶わず、化鳥は断末魔の代わりに、二度三度大きく翼を羽ばたかせ、羽風に煽られた山林の木々は一斉の木の葉を舞い散らした。
 コカトリスの喉を貫いた大穴は、自らを喰らうようにその螺旋を描いてその直径を広げ、忽ち怪鳥の上半身を吹き飛ばした。
 鶏と蛇が相半ばの奇怪な死骸が、音を立てて崩れ落ちる。
 念のために汚穢な体液が付着していないことを確認し、刀を納めた。
 
「お疲れ~、簡単だったでしょ、マサ兄」

 背後では、友枝がひらひらと掌を振っている。
 取り巻き見守る衛士達も、最早この結末に驚くものは誰もいない。
 冒険者ギルドで極めて危険なAランク依頼とされるコカトリスの討伐は、終始どこか弛緩した雰囲気を帯びていた。

「おい、この嘘つき」
「? どうしたの、マサ兄」
「自分は散々苦労して金を稼いできたようなことを言って俺を罵ってくれたが、楽勝じゃないか、こんな仕事!
 刀を持ってつっ立ってるだけなら馬鹿でもできる! 時給にしたら350円ぐらいの価値しかないぞ、この魔物狩りの依頼!」

 ギルドから高額な褒賞が懸けられていようが、労働の実感の片鱗さえも得られない仕事だ。そんな仕事は俺達の社会にだって存在してはいたが、女子高生のアルバイトには余りに不毛に思える。

「そんなことないよ! レアな魔物を探す時は一日中山を歩かなきゃいけないし、虫に刺されたりすることも多いし、大きな怪獣が頭から突っ込んできた時は返り血でグショグショになっちゃうし、王様扱いされて、ボディーガードと馬車の送迎つきでやってるんだから、マサ兄は楽に感じて当然だよ!
 最初から揚羽ちゃんがいて言葉も分かったし、キヌさんみたいな可愛い通訳もいたし、マサ兄は最初からイージーモードだったじゃん!」
「俺も、そこのバルベーラに斬り殺されそうなったり、そこそこ危ない目には遭ってたんだけどな」
「斬り殺されそうに……?」
「いえ、友枝様、それはですね、あの私の誤解と申しますか、その……」

 みっともない程に狼狽しているバルベーラを横目に、コカトリスの死骸に目を向ける。
 自分の挙措に対応して、どれだけ抗魔圏が拡縮するのかは概ね把握できた。
 そも、眠っている時でさえ常時存在しているのだから、魔物や魔道に害されることは、万に一つも無いと言っていい。マンティコア、アルケニー、デュラハン、コカトリス……俺達の常識から掛け離れた異形の怪物たちは、マレビトである俺と友枝にとって、あぶはち程度の脅威にすらなり得ない。
 魔物は、ギルドで高額賞金を懸けられているものばかりではない。骸骨兵スケルトン、ハーピー、ゴブリンのように、野犬程度の危険性しか持たず、群居して徘徊するばかりの魔物達も存在する。

「……なあ、魔物と普通の動物の違いって、一体何なんだ?」

 友枝に尋ねると、

「この辺り、大きな鷲とか、ガラガラの蛙とか、見たこと無い生き物も沢山いたけど、鳥は鳥、馬は馬、蛙は蛙でしょ? そういうのと違って、こう、ガァーって感じの、明らかにおかしいのが魔物だよ。
 でも、魔物って勝手に死んじゃうから全然恐くないよね。それより、蛇に気をつけないとダメだよ! この辺り、まむしなんてメじゃない大きいのが出るんだから」

 友枝の言わんとすることは、感覚的には良く理解できる。
 正統な生物の系統樹。そこから、明らかに逸脱した異形の生物達。それが魔物だ。
 だが、もっと理解しやすい、明確な定義は無いものだろうか。
 ちらりと視線を送ると、キヌは淀み無い声で俺の疑問に答えてくれた。
 ……困ったことがあれば、すぐにキヌに頼っているようで、少し気恥ずかしい。

「魔物は、魔力の影響を受けた生物や、自律する器物などの総称です。
 生物が魔力によって変異を起こしたものをクリーチャー、活動する死者の骸をアンデットと呼ぶのはご存知だと思いますが、自律する魔道則品アーティファクトや霊障の類も魔物に大別されることがありますね。
 魔物は生態系から外れた存在であり、ほぼ例外なく人を害しますので、速やかに駆逐すべき存在です。
 魔物は通常の生物と同じように、その体を損壊することによって殺すことも可能ですが、その肉体を動かす魔力を絶つことが出来れば、更に容易に斃すことができます。
 エメンタールは冒険者の国と呼ばれていますが、これだけ多くの魔物が闊歩しているのは治安が悪い証明でもあります。
 国内から魔物の根絶に成功した国は、史上でも、義太郎様の御薫陶を賜った、我がレディコルカ一ヶ国のみなのです」 
 
 キヌは少しだけ誇らしげに胸を張った。

【冒険者にとって魔物は飯の種や。魚を狩り尽くす漁師なんぞおらへんわ】

 大まかな話題を察して口を挟んだカベルネに、咎めるようにバルベーラが後を続けた。

【元来、魔物の退治を請け負う者は駆除屋、遺跡ダンジョンを探索する者は盗掘屋と呼ばれていて、奴隷や罪人に科せられる危険で下賤な仕事でした。
 それを美化し、冒険者などと呼び慣わすようになったのは、つわものを集めたいが為の、エメンタールのギルドの策略です】
【イメージアップキャンペーンと呼びいや。エメンタールは商人の国やからな。銭を稼ぐことが美徳や。使えるもんは何でも使うで。レディコルカの抗魔剣士でも、スティルトンの魔道士でもな】

 悪びれないカベルネの言葉を聞きながら、真に尋ねるべき、疑問の核心と呼べるものに思い当たった。

「魔道士だとか、魔術だとか、魔物だとか、抗魔力だとか。
 とどのつまり、『魔』とは一体何なんだ?
 俺達の元居た世界と、この世界の違いは、言ってしまえば、『魔』が存在するか、しないかの一点のみなんだ。
 教えてくれ。この世界では、何を以って『魔』と呼ぶんだ?」

 俺の質問に対して、キヌはそれを咀嚼するように睫毛を深々と伏せた。
 薄紅色の唇と目蓋が、切れ目を入れるように開く。

「『魔』とは、この世の正純ならざる力によって起こる現象の総称です」

 明瞭はっきりと、簡潔な言葉で紡がれた返答は、何一つ具体性を持たない空虚な回答だった。
 俺の不満を敏感に察知したのか、キヌは申し訳なさげに俯いた。
 
「……申し訳ございません、無謬なる『魔』の定義を行った者は、スティルトンの魔道士にさえ存在しないのです。
 この世界に存在する、有り得ない力、ある筈の無い事物、起こり得ない現象、それらを総称して、ただ『魔』と呼びます。
 『魔』の根源たる力を魔力、それを打ち消す力を抗魔力と呼びますが、これも厳密に定義することは出来ません」

 説明は歯切れ悪かった。
 指先で妖精ピクシーを遊ばせながら、カベルネが続ける。

【魔の正体なんぞ、おかしなことを気にするんやな、自分。なして魔力が有るかなんて、どうでもええ問題ちゃうか? なして空から風が吹くか考える奴がおるか? なして枯葉に火ぃつけたら燃え上がるか考える奴がおるか?
 肝心なのは使い方や。魔力を感じ、扱い、生み出し、思い通りに扱って見せる。それがうちら魔道士や。なして魔力が有るか、なんて事に頭悩ましとる暇があったら、使い方を考える方が余程よっぽど建設的や】

 カベルネの言い分は、全く正しい事のように感じた。
 風が吹くのは気圧の変化によって大気が移動するせいだ。
 火が燃えるのは、可燃性の物質が酸素と化合するせいだ。
 今でこそ、俺はそれらを知識として知ってはいるが、人間はそれらを知らない遥か古代から自然の力の恩恵を受けて、文明を作りあげてきた。
 ならば――俺にとって未だ正体の分からない『魔』という現象であるが、その存在を知り、扱い方を学ぶことが出来れば、それで十分なのではないだろうか。
 
 それよりも、少しだけ安心した事がある。
 キヌは、魔力を正純ならざる力と呼んだ。この異邦の地でさえ、概ね俺の知る世界の物理法則が常識と思われているということだ。杖を振るだけで炎を起す異人も、理不尽に襲いかかる巨大な人面鳥も、屍者が闊歩する不気味な夜も――この世界でさえ、基本的には有り得ざることなのだ。
 故に、魔。この世界の住人でさえ、魔という現象を本質的には拒んでいる。疑っている。
 
 そして、抗魔力。
 足元に舞い散ったコカトリスの風切羽に手を伸ばす。当然のように、指が触れるまでもなく、羽はざらりと砕け散った。
 俺達にとって、この世界に存在する魔という力は、何の脅威でも有り得ない。触れることすら出来ない、スクリーン越しの絵空事と同じだ。
 抗魔力。お伽噺の世界を絵空事に還す、ただそれだけの力は、この異世界で、俺達を元の世界の常識の中に留めておいてくれる心強い力だった。

 俺は抗魔力によって、己が魔なる異界の法則から隔離されていることに、この上ない安堵を覚えている。
 結局の所――本質的に、俺はこの世界を嫌っているのだ。
 お伽噺さながらのこの異世界を。

「少しだけ、考え事をしたいから、こっそり一人にさせてくれないか」

 影のように俺に従うバルベーラに、そっと耳打ちをする。
 現在、俺達の警護には第三憲兵隊の面々を始めとする、選りすぐりの精鋭一個中隊が揃えられているが、前例の無いマレビトへの接遇に戸惑いを抱いているようだ。
 俺達に接触を持とうとする衛士は、バルベーラらの数人しかいない。
 彼女の職務は俺の侍従であり、護衛だ。常に俺に付き従う義務がある彼女にとって、俺の言葉は容易にがえんずることは出来ない筈の物だったが、

「頼む、そう遠くには行かない。少し辺りを散歩するだけだから」

 俺の言葉には立場上NOと言えない力関係を盾にして、無理矢理にうなずかせてしまった。
 雉打ちを口実に、遠巻きに幾重にも厳重な警護を行っている衛士達の視線の届かない大樹の影に身を隠す。

「この辺りには危険な獣は少ないですが、万が一も有り得ます。どうぞお気をつけて、余り衛士の目の届かない場所までは行かれないようにして下さい」

 胸元で拳を握って懇願する彼女の姿に少しだけ胸が痛んだが、早く独りになりたい気持ちが勝り、後ろ手に腕を振って、山の茂みに身を潜めた。
 
 一人になりたい、という言葉にも他意は無かった。
 見知らぬ怪異と出会ってばかりの日々に、俺は少しだけ疲れていた。
 だから――突然押し付けられた剣帝だのマレビトだのと言った肩書きから自由になって、ほんの一時、童心に帰り森の中で大の字に寝転がりたかっただけなのだ。
 故郷の町を思い出す。切畠の家がある俺の地元は、山ばかりの辺鄙な田舎町だった。
 都会の利便は無かったが、落ち着きと地縁の安らぎがあった。
 郷愁に憑かれ、とりとめもない物思いに耽っていると、

 がさり、と耳元の藪が動いた。

   ◆

 イノシシ、と呼ばれる動物がいる。
 鯨偶蹄目の哺乳類で、アジアを中心とした温暖な森林や草原に生息する。
 日本に生息していたのは、主に中型のニホンイノシシだ。
 農作物への食害を理由として、狩猟対象獣とされており、その肉は食用として珍重される。
 俺の故郷でも、猟友会による駆除が頻繁に行われ、括り罠などの猟具による捕縛が試みられることも度々だった。
 故郷の山でその姿を目にしたことも、一度や二度では無い。

 ――だが、眼前でフゴフゴと鼻を鳴らす猪は、俺の見知った山の獣では無く、ツキノワグマ程の体躯を誇る、巨大な怪物だった。
 枕元の茂みの奥には、うっすらと小さなあなぐらが見えた。
 どうやら、俺はこの猪の心地よい午睡の邪魔をしてしまったらしい。
 縄張りを荒らされた怒りからだろうか、猪は用心深い眼差しで俺を注視し、不愉快げに低く唸りを上げた。
 幾ら気持ちが弛緩しきっていたとはいえ、こんな巨大な猪の獣臭に気付けなかったという不覚と、如何にしてこの場を離脱すべきかという算段が、慌しく脳内を駆け回った。
 当然、戦うなどという選択肢ははなから存在しない。

 猪はその鈍重そうな体躯に似合わず、時速40kmの速度で地を駆け、その牙で大腿動脈を破られ失血死した例もあるという。
 そのタフネスも極めて高く、田舎では時折猪と自動車の衝突事故が発生するが、自動車が大きく凹んでも、猪は平然と走り去った、などという話も度々である。猟銃で頭を撃っても、即死に至らず、反撃して猟師に傷を負わせた、という話まで耳に挾んだことがある。
 体長1m程度の日本猪でさえ、銃も無しに人間が立ち向かえる相手では有り得ない。
 まして、体長2mはありそうな巨大な猪相手に、日本刀の大小のみで何が出来よう。
 刃はその剛毛に弾かれて届きまい。よしんば傷を負わせたとて、逆上した猪の突進は細い日本刀の刃など軽々とへし折り、その牙を俺の腹に突き立てるだろう。
 俺の故郷の常識では、野生の動物とは人間に出会えばく逃げ去るものだった。
 だが、眼前のこの大猪は違う。俺を卑小で格下の獣と見下げている。不要な異物と排除しようとしている。
 背中が、汗でじっとりと濡れた。
 眼前の猛獣は御伽話の怪物ではない。幾ら巨大だろうが、たかが猪。先のアルケニーやコカトリスに比べれば子猫にも等しい。
 猪。常識外れの威容を誇るが、何の不思議も奇跡も存在しない、ありふれた動物だ。
 それ故に、俺と真正面から対峙する、現実感を伴った実体としての脅威だった。
 言うまでも無い話だが――魔力を伴わない正純の力に対しては、俺の抗魔力は何の恩恵も与えない。
 ここにいるのは、唯一匹の猪と、唯一人の人間だ。

 猪が短い四肢を撓め、微かに身を沈ませた。
 ――悪寒。
 理性とは違う場所で鳴り響く警鐘に従って、頭上の横枝に飛び付き、懸垂の要領で体を一気に持ち上げる。
 豪速で足下を駆け抜ける、鋼の剛毛の背中。その衝撃は、少なく見積もっても1tは下回るまい。
 猪突猛進などという言葉があるが、猪は機敏な方向転換にも優れている。
 闘牛士の真似事をして横にかわすことなど、出来ようもなかった。
 最後に残された活路はここしか――立体感を把握するのが苦手な猪の死角、頭上に飛び退くしか無かったのだ。
 昔取った杵柄とは良く言ったもの。ガキの時分に鍛えた木登りでましらの如く樹上高くへ逃げ延びる。
 猪が立ち上がってもここまでは届きまい、と確信出来る位置まで登り、地を見下ろした瞬間、激震が全身を襲った。
 樹が青竹のようにたわんで揺れ、樹上の朽ち葉の雨が降り注いだ。チチチ、と悲鳴を上げて、梢で休んでいた椋鳥達が大慌てで空に飛び立つ。
 
「……まずいぞ、こりゃあ」

 大猪は頑丈な頭部とその扁平な鼻で、一心不乱に俺が登った木の根を掘り起こしていた。
 毎年猪に掘られて無惨な姿を晒す、実家裏の竹林の筍が脳裏を過ぎった。
 今俺が登っている木はポプラに似た高木だが、その幹はか細く、猛々しい大猪の鼻と牙の前には随分と頼り無い。
 ただでさえ90kgを越える俺の体重が掛っているのだ、いつ倒されてもおかしくない。
 縄張りを荒らした人間に対するこの執念、闘争心。この地の猪は、俺の知る臆病な日本猪とは全くの別種だ。
 可能な限り梢高くに登り、周囲を見渡すと、森の端にいる衛士達の姿が目に入った。
 友枝達もいる。

「おーい、助けてくれ! 獣に追われている!」

 S・O・S、と手を振りながら拙い言葉で叫ぶが、果たして伝わっただろうか?
 友枝は俺の姿を目に留めると、屈託の無い笑顔を浮かべて手を振り返した。

『もう、マサ兄ったら。あの齢で木登りなんて。子供っぽいことが好きなんだから』
 
 そんな台詞が、聞こえて来るようだ。

「違う、猪だ猪、本気で拙い状況なんだ、助けてくれ!!」

 ミシミシと音を立てて木がかしぎ始めるのを感じて、猶予無き危機感が背筋を駆ける。
 不意に、友枝の隣にいたキヌが顔色を変えて振り返った。
 即座に周囲の衛士に下知を飛ばす。余裕無いその様子は、俺の危機感が直接伝染したかのようだ。
 聞いたことがある。人の感情を読み取るエルフだが、最も敏感なのは敵意や殺意。
 次いで、脅威や恐怖などはかなりの遠距離からでも汲み取ることが出来ると。
 親しい人間の感情ほど明瞭に読み取れるというが、これは正しく以心伝心の域。

「ご無事ですかっ!? 正義様っ!」

 バルベーラらの一個小隊が忽ち駆けつけ、一斉に大猪の体に長槍を付き立てた。
 しかし、小型の熊ほどもある獣が、そう安々とくたばる筈もない。体に幾本もの穂先を食い込ませながら、長槍を楊枝のようにし折って憤怒の絶叫を上げる。
 そこにに歩み出たのは、カベルネの相棒の弱気な眼鏡の魔道士――ピノだった。

【あのあの、少し退がって下さいぃ……巻き込んじゃいますから】

 臆病な小動物のようにおどおどと声をかけて、恥ずかしげに魔杖を猪に向ける。
 憤怒に猛る大猪の黒い眼が、ピノの姿を捉えた。
 断言しよう。一匹の動物として捉えたならば、この場で最弱だったのは、誰が見ても彼女に間違いなかった。

「پخت تابه سرد」風乃焙烙

 杖先に、燈る光の六芒星。呟くような、短い詠唱。
 瞬間、気の抜けた音と共に、大猪の頭がシャンパンのコルクのように、血の円弧を描きながら宙に舞った。
 以前見た、鎌鼬による切断では無い。何か、風の弾丸じみたものが、一点に収束した風圧で猪の頭を千切り飛ばしたのだ。
 四肢を折って崩れ落ちた巨獣の体は、既に生気を失っていた。
 
 呆然としながら木から降りると、

「お怪我はありませんか、正義様っ!」
「何々、どうしたのマサ兄? うわっ、大きなイノシシっ!」

 首を失った猪の死骸。
 あれほどの脅威が、杖の一振りでこの様とは。
 抗魔力を持つ俺達には、そよ風程度にも感じられなかった魔術とは、相手次第ではこれ程の威力を持つものなのか。
 魔と抗魔と自然、何処か三竦さんすくみじみたものを感じる力関係である。

「正義さま、一体、何があったのですか?」

 キヌの問いへの返答に窮した。
 開放感が味わいたくて、一人山に入ったら猪に襲われたというのは、何とも格好のつかない話である。
 やれマレビトだ、剣帝の再来だと祀り上げられている現状では猶更なおさらだ。

「どーせ、またロクでもない失敗をしたんでしょ? マサ兄は変な所で抜けてるから」

 友枝は、概ねの事情を察したのか、半眼で俺を睨む。
 その視線から体裁を取り繕うように、ポンと両手を合わせた。
 
「悪いが、この辺りの市で今から言うものを買い集めてきてくれないか?
 出来る限りの大鍋と、酒、大量の塩、それから薬味、あと野菜もあればいいな。
 誰か、山刀を持っているか? 力のある奴ら、何人かでこの猪の足をロープで縛って、あそこから吊るしてくれ」
「……あの、正義様?」

 バルベーラの表情には、隠しきれない困惑が浮かんでいた。
 一方、友枝は心得たとばかりに両手を叩く。

シシ鍋、久しぶりだね! マサ兄、こんな大きいの捌くの初めてだけど大丈夫? 私も手伝うよ」

 マレビトから下された奇妙な下知に、衛士達は顔を見合わせる。

「何だか、最近迷惑をかけてばかりだからな。今夜の夕飯は俺が一品振る舞おう」

 ――この猪に罪は無かった。山で平穏に暮らしていた一匹の猪を殺めることになったのは、俺の軽挙妄動の結果である。
 殺した側の身勝手な考えに過ぎないが、弔ってやるには喰うのが一番に思えた。
 ……それにまあ、猪肉は俺の好物だし。
 都合良く、剣帝の品位を貶めるような俺の行動に眉を顰めるボジョレは、マルゴーと共に不在だ。
 皆と鍋を囲み、腹を割って馬鹿話をする無礼講でも開こうではないか。
 さて、この大猪。捌けば一体何人分の肉が取れるだろうか?
 

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