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3 秋

すずらんさんと七十万円

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 わたしの勤める「五反田探偵事務所」も、歳末を迎えました。
 年末年始は思い切って休業しますので、わたしも五反田さんも手の空いている状況です。
 というわけで。
「大掃除ですよ、五反田さん」
「いやだ!」
 間髪入れず、五反田さんがお返事をしました。しかし、その中身はなんともネガティブなものでした。
 しかし、今回ばかりはわたしも譲れません。
 なにせこの事務所、ありていに申し上げれば、とっても汚いのです。
 足の踏み場もないほどに散乱した本に、山積みの書類たち。わたしが定期的にハタキをかけているとはいえ、本棚や小物にはうっすら埃が積もっています。本音を申し上げれば、よくこのお部屋でお客さまを出迎えることができたのか、不思議なほどです。唯一嬉しいこととしては、愛猫ポアロが、本の山を遊び場にして、とっても楽しそうにしていることくらいでしょうか。
 ちなみに休業中は、ポアロは五反田さんのおうちに預けられます。五反田さんはポアロをとても大事にしてくれていますので、わたしも安心して任せられます。
「五反田さん! この本、ぜんぶ読んでないのなら、すぐ片付けるべきです! 古本屋に持っていくのも手ですよ」
「古本屋!? ぜったい嫌だ! これもこれも、ぜんぶ必要なんだぞ! いらない本なんか一冊もない!」
「でしたら、せめて、一か所にまとめておきましょう。新しく本棚を買うのも、ひとつの手段です」
「くそ、本棚を買えるだけの儲けがないことを揶揄るなよ」
 にゃん、とポアロも五反田さんに同意します。
 まあ、揶揄だなんて。五反田さんも人聞きの悪いことをおっしゃります。
 くそ、と五反田さんはお言葉悪くつぶやくと、しぶしぶ、といった感じで、本の山から一冊をピックアップしました。
「いらない本なんか一冊もない、が、あんまり読まない本ならあるな。鈴蘭もうるせえし、片付けりゃいいんだろ」
「はい。その通りです。なんていったって、年末ですもの」
「あーあ、俺はすずらんと違って無宗教だからなあ。なんでわざわざ、年末のクソ忙しいときに大掃除なんか」
「何をおっしゃいますか。わたしだって無宗教です」
 それは確かに、お正月に巫女さんのアルバイトをしたことがありますものの、わたしも信心深い方ではありません。
 さて、大掃除の開始です――と、わたしが意気込んだ、そのときです。
 ぴんぽーん、とインターフォンが鳴りました。
 それも一回ではありません。ぴんぽんぴんぽんぴんぽん! と、何度も鳴りました。ポアロもびっくりしたようで、しっぽをパンパンに膨らませました。わたしとしてもちょっと怖いですし、ご近所さんにも迷惑になってしまいます。わたしは慌ててドアを開けました。
「いらっしゃいませ。でも申し訳ありません。年末はお休みをいただいておりまして」
「知ってる。五反田はいるか?」
 ハスキーなお声でそうおっしゃるのは、凛としたたたずまいの女の人です。
 歳のころは……妙齢としか言いようがありません。きりっとした、意志の強そうな目元に、さっと紅を引いただけの唇。白いスーツがよくお似合いです。
 女性は勝手知ったるご様子で事務所に入ると、仁王立ちで五反田さんを見下ろしました。
「おい五反田。おまえ、どうせ暇だろう」
「うげ。黒木、先生」
 なんと。五反田さんの先生でいらっしゃいましたか。通りで利口発明そうなお方だと思いました。
 黒木先生とおっしゃるその先生は、本の山に腰かけますと、長い脚を組みました。
「ふん。思っていたより片付いているな。なんだ、おまえも大掃除か」
「はい。鈴蘭……助手がやれって言うから、しぶしぶやってます」
 まあ、しぶしぶだなんて。それに黒木先生も黒木先生です。このお部屋の、どこか片付いていると言うのでしょうか。
「そうかそうか。感心だぞ五反田。部屋の汚れは心の汚れだ。おまえのような、澄み切った青空のような純粋な心なら、汚れた部屋で生活しようとは思わんよな」
「は、はは」珍しく五反田さんのお顔が引きつっています。「で、先生は何の用っすか? 悪いんすけど、営業は三が日を過ぎてからっすよ」
「知ってる。私は探偵に世話になるような爛れた性生活を送ってはないからな」
「別にここの客全員が爛れてるわけじゃないっすよ」
「私はおまえに、バイトを紹介しにきたんだ」
「バイト?」
 五反田さんのお顔が目に見えて明るくなりました。その、言いにくいのですが、その笑顔は、どこか黒木先生に媚びているようにも見えました。
「どんなバイトっすか? 小テストの採点なら任せてください」
「私がそんなチャチな仕事を任せるはずがないだろう。もちろん、肉体労働だ」
「うわ」
 今度は渋面しました。今日の五反田さんは百面相です。
「じゃあ他をあたってください。俺、頭脳派なんで、あまり肉体労働は」
「時給千二百円」
「やります!」
 もう、五反田さんったら、現金なんですから。
「鈴蘭、準備するぞ! で、先生、俺たちは何をすりゃいいんですか?」
「素直でよろしい。仕事内容は、簡単に言えば、遺品整理だ」


 黒木先生のタントに乗り、向かうは黒木先生のご実家です。
「先週親父がくたばってな。まあ前々からヤバイとは言われていたんだが、ようやくポックリ逝ってくれたんだ」
 なんてあけすけな説明なのでしょう。聞いているこちらがハラハラしてしまいます。
「しかし、まあ、その親父がまた、とにかく物を溜め込む癖のある人間でな。生前は『黒木のハムちゃん』なんて呼ばれていたんだ」
「……まさかとは思いますが、その親父さん、名前に『公』ってつきません?」
「ご明察。黒木公介という。まあ、名前なんかどうでもいいんだ」
 タントは高速に入り、次々車を追い越しながら、下り方面をぐんぐん進みます。メーターを見れば、軽く百キロを超える速度でした。法定速度は大丈夫なのでしょうか。心配です。
「そこで、ひとつ、親父から賜ったありがたい遺言がある」
「ほお。何っすか?」
「親父の書斎に、なにかお宝が眠っているそうだ。もし見つけたら、くれてやるよ」
「俺たちがもらっていいんすか?」
「ああ。私は小説なんか読まんからな」
 それは少し意外でしたが、文学に興味がなければ、小説なんて縁遠いものなのでしょうか。五反田さんが色んな本を読まれる人なので、すっかりそのあたりの感覚が麻痺してしまいました。
「ちなみに、先生。そのお宝の価値って?」
「私も詳しく聞いていないが、ざっくり、七十万円だそうだ」
「ななじゅうまんえん!?」
 なんということでしょう。それだと、わたしのひと月分の収入の三倍以上です。最近お客さまの少ない事務所にとって、その臨時収入は、とても嬉しいものに違いありません。
 しかも、と黒木先生は付け足しました。
「そのお宝が、ゴロゴロあるらしい」
「ご、ゴロゴロ!? そんなにあるんすか!?」
「ああ。濡れ手で粟だ」
 五反田さんのおめめが、今までにないほどにキラキラしています。だって、時給千二百円に加えて、七十万円のお宝がたくさん眠っているとなると、わたしでさえ、胸が躍るようです。この収入があれば、憧れだったベッジュマン&バートンのお茶っ葉も買えます。
「鈴蘭!」
「はい、五反田さん」
「気合入れていくぞ! 宝は目の前だぜ!」
 いつになく元気な五反田さん。かく言うわたしも、やる気が充満しています。ふふ、わたしも頑張ってみましょうか。

 隣の県の山奥に、黒木先生のご実家がありました。
 すごく大きくて、立派な洋館です。古めかしいたたずまいが、余計に威厳たっぷりに見せています。お庭も、お花はささやかながら、とっても広くて素敵です。
「ずいぶん立派な家だな。地主か何かか?」
「ふん、五反田探偵の推理はそんなもんか? ここは超弩級のド田舎だから、地価が破格なんだよ」
「なるほど」
 お屋敷の中に入ると、ちょっと埃っぽい臭いがしました。
 ついお顔をしかめるわたしたちを、黒木先生はおかしそうに笑いました。
「親父が死んでからそのままだからな。ルンバを走らせる電力も惜しい」
 確かにこの建物、わずかながら生活感は残っているものの、すでに住人がいないことは伝わってきました。調度品に積もる埃も、事務所なんかと比べるまでもなく分厚いです。へくち、と五反田さんはくしゃみをしました。
 二階の東の端のお部屋が、件の書斎らしいです。
 扉を開けて、そこに待っていたのは。
「……広すぎじゃね?」
 図書室のような、お部屋でした。
 広さもさることながら、瞠目すべきはその蔵書の多さです。所狭しと並ぶ本棚には、隙間なく本がぎっしり詰まっています。それだけではありません。五反田さんの事務所と同様に、本棚に入らない本は床に積み上げられていました。
「よりにもよって、全部文庫本じゃねえか。なあ、先生。この部屋、どんだけ本があるんだ?」
「さあ。数えたことないから知らん。まあ、十万冊足らずだという噂は聞いたぞ」
 へなへな、と五反田さんが脱力しました。
 わたしも、文字通りの本の山に、圧倒されっぱなしです。だって十万冊ですよ。ちょっとした図書館ではないですか。
「じゃ、飯と茶は用意してやるから、五反田、あと鈴蘭さんも、達者でな」
 無情にも、黒木先生はわたしたちを残していきました。


「五反田さん、高い本って、どんなものがあるんですか?」
 とりあえずこのお部屋の全体像を確認しつつ、わたしは、五反田さんにそう尋ねました。五反田さんも、背伸びをして棚の上の方を覗きつつ、答えてくださりました。
「一般的には医学書みたいな専門的な本だな。あとは図録。それに、古書」
「ああ。古書は聞いたことがあります。有名な方の本ですと、一冊何十万円もするんですよね」
「その通り。しかし、ぶっちゃけ言うが、俺に古本の知識なんぞ、まったくねえぞ」
「そうなんですか?」
「ていうか、古書店でバイトしたこともねえような、平々凡々の学生がそんなこと知ってたら、気味悪いだろ。俺だったら、まず友達にはしたくねえな、そんなヤツ。そんなことより、鈴蘭はどうだ?」
「わたしもさっぱり分かりません。あいにく、そういうところで働いたことはないんです」
 あちゃー、と五反田さんがおでこを叩きました。
 しかし、そうなりますと、もう手詰まりなのではないでしょうか。
 こんなに本がある中から数冊のお宝をゲットするなんて、砂漠に埋められた一つの宝石を見つけるような――とは言い過ぎでしょうが、果てのないことには違いありません。
 わたしは絶望的な気持ちになりましたが、五反田さんのおめめは諦めていませんでした。
「しかし、手がないわけじゃねえ」
「どうしますか、五反田さん」
「ようするに、文明の利器を使うんだ」
 と言いつつ五反田さんが出したのは、スマートフォンでした。
「ここに古本のデータベースがあるから、片っ端から検索かけるぞ」
「……すごーく、果てしない作業になりそうですね」
「弱音言ってるんじゃねえ。お宝が眠ってるんだぞ」
 そういうわけで、わたしたちの戦いは幕を開けました。


「五反田さん、見てください! 藤本ひとみさんの銀バラシリーズ、しかもオリジナルバージョンですよ! 懐かしいなあ。中学生のとき、読んでました」
「おまえいったい何歳なんだよ」
 それはともかく。
 ある程度検索をかけていくうちに、五反田さんが、いくつか法則を見つけました。
「現代のベストセラーは、基本あんまり高くねえな。高く買い取ってくれるところでも、せいぜい何百円か」
「どうしてなんでしょうね。人気がありそうですのに」
「たぶん、買い手も多いが、売り手も多いんだろ。こんな風に、文庫版が出ている本なら、なおのこと」
「それにしても、単行本で出た本が文庫化されるのはなぜなんでしょうか」
「それは俺も知らねえ。どうせ、単行本は利益が出にくいからとか、そういうしょーもねえ理由なんだろ」
 他にも、意外なことが分かりました。
「この本、有名な作家さんですよね」
「ああ。近代から現代にかけて活躍した作家だな」
「でも、値崩れを起こしていますね」
「状態が悪いし、それ、再販されたヤツだしな。そもそも、文庫本っつうのは、長期保存に向かない本なんだぜ」
「まあ。なぜですか?」
「綴じ方を見りゃ分かる。単行本は糸綴じやあじろ綴じっつって、結構頑丈に綴じてある場合が多い。が、文庫本はそういう綴じ方じゃねえ。ほら、鈴蘭、その本の天を見てみろ。ただ糊でくっつけただけだろ」
 言われてみればそうです。決して脆弱であるとか、そういうわけではありませんが、少し引っ張ると、ページが取れてしまいそうです。
「それだけじゃねえ。ハードカバーに比べて表紙はペラペラだろ? つまり、折れやすい」
「だから長期保存には向かないんですね。でも、そうしたら、なぜ黒木先生のお父さまは、文庫本ばかり買い集めていたのでしょう?」
「これも憶測でしかないが、肝心なのは中身だったんだろ。同じ内容なら単行本より文庫の方が安いし、なにより入手しやすい。何より、単行本じゃ見られないラインナップだってある」
「例えば何ですか?」
「これだ」
 五反田さんが引っ張ってきたのは、可愛らしい女の子のイラストが描かれた本です。こういう本、確かライトノベル、と言うんでしたっけ。わたしは詳しくはないので、あまり自信はないんですけど。
「電撃文庫やスニーカー文庫みたいなレーベルは、基本文庫本でしか出版しない。もちろん例外もあるし、他レーベルじゃばんばんソフトカバーのラノベもたくさん出してるから、一概には言えねえんだけど」
「じゃあ、その、らのべ? でしたら、高いお値段がつくこともあるんでしょうか」
「どうかな。この手のものは売り手も多いし、たくさん流通してるからな。人気作家の貴重なデビュー作だったり、絶版だったりしてたら、また話が変わるんだろうが。……あいにく、ここにあるモンは、アニメ化したやつばっかりだな。そういう作品は売りても多いし、値崩れしやすい」
「そうですか……」
「ていうか俺は、先生の親父がこんな本を持っていたことの方がびっくりだぜ。うわ、見ろよ鈴蘭。エロ小説出てきた」
 もう、五反田さんのエッチ! わざわざ見せなくてもいいではないんですか。
 それにしても、あれもダメ、これもダメ、と仕分けていくと、本当にここにお宝があるかどうか、不安になってきました。五反田さんのおめめも、だんだん曇ってきています。
「そもそも現代小説って高く売れるモノは少ないって聞いたことあるぜ。売れてもせいぜい数千円、良くて数万円ってところだな。とても七十万円なんか届かねえ」
「ここの作家さんたち、ぜんぶ現代の作家さんたちなのですか?」
「俺が見たところだと、今でも存命の作家さんが多いな。たまに亡くなった作家もあるっちゃあるが、やっぱり多く出回ってる作品しかない。しかし、俺が言い出したことだけど、本当に果てしないな。終わんのか、これ。本当に?」
 それを五反田さんが言いますか。
 そのあともお互い無言で作業していると、ノックもなしに扉が開きました。黒木先生です。
 黒木先生はコンビニの袋をわたしたちに渡してくださいました。
「捗っているじゃないか。ほら、差し入れ」
「うす。でも、先生。ホントにここにお宝があるんすか? ぜんぜん見つかる気がしねえんすけど」
「親父は間違いなくそう言ってたぞ。あ、ついでに、値段のつかない本は弾いておいてくれ。資源ごみに出すから」
「うへえ」
 なんと。不用意にお仕事が増えてしまいました。
 黒木先生が買ってきてくださったのは、大きなおにぎりとサンドイッチ、あとは温かいミルクティーでした。ふう。あったかいものをお腹に入れますと、なんだか気持ちがほっとしますよね。
 美味しいお昼ごはんをいただくわたしたちを見て、黒木先生は、ふと、五反田さんに聞きました。
「ところでおまえたち、一体どんな関係なんだ?」
「雇い主と助手っすよ。俺が雇い主で、鈴蘭が助手」
「へえ。雇い主より賢そうな助手じゃないか」
「そんなこと、ないです」
 まさかそんなことを言われるとは思わなくて、わたしったら、まごまごとしたお返事しかできませんでした。それに、五反田さんより賢そうだなんて、そんなことなさすぎて、どう否定すればいいのでしょうか。
 一方の五反田さんといえば、それは当然面白くなさそうなお顔をしていました。
「へん。俺はどうせ賢くないですよーだ」
「まあ、時給千二百円で釣られるのは馬鹿だな」
「先生が言い出したんじゃないっすか。てか、先生も手伝ってくださいよ。俺たちだけじゃ、マジで終わりませんよ」
「それで、賢くかっこいい五反田先生なら、もう目星くらいついてるんじゃないか?」
「そんな稀覯本があるように見えないから困ってるんすよ。よくて数千円ってところっすね。とても七十万円で売れる本なんか」
「時給千二百円」
「頑張ります!」
 もう。五反田さんったら現金なんですから。


「あ。五反田さん。これは珍しいのではないですか?」
 作業し続けて、時刻はもう深夜です。
 スマートフォンを見すぎておめめが疲れたご様子の五反田さんが、よっこらしょ、と重たいお腰を上げました。
「どれ。へえ、猫城記。サンリオSF文庫だな。にしても、よく見つけたな」
「昔小説で読んだことあるんです。このレーベルは貴重なんですよね」
「……古書店で事件を解決する、あのシリーズだろ」
 さすが五反田さん。ご明察です。
 五反田さんはその本の状態を確認し、ぱらぱらとページをめくりました。そして何かを見つけたのか、そのおててを止めました。
「なあ、鈴蘭。俺、さっきから気になってるんだけどさ。先生の親父さん、ドックイヤーする癖があるんだな」
 まあ、本当です。ページの角が、まるで犬のお耳のように折れています。今まであまり意識したことがなかったのですが、確かに、黒木先生のお父さまにはそのような癖があるようです。
「でも、五反田さん。この癖は珍しいものではないでしょう? わたしもたまに、やりますし」
「俺はしないね。新品な本に傷をつけることって、なんか抵抗あるんだよ。古書としての価値にも影響するし。これみたいに、貴重な本なら尚のこと、しねえだろ」
 確かに言われてみれば、わたしも図書館の本を折ったりはしませんね。だって、どなたが読まれるか分からないので、できるだけ状態良く、読んであげたいではありませんか。
「それだけじゃない。この本、開き癖がついてる」
「開き癖、ですか?」
「たぶんこの本、こうやって――」と、五反田さんが本を、ページを下にして手のひらに乗せました。「しばらく放置してたんだろ。こうすると、本に開き癖がつく。本も傷むし、本を大事にするタイプの人間なら、まずしないな」
「ということは、黒木先生のお父さまは、あまり本を大事にされない方だったのでしょうか」
「ていうか、本自体に興味がなかったんだろ。とにかく中身、物語を重視してたんじゃねえか? 中さえ何か書いてありゃ、入れ物は何でもいい、って感じするな。じゃねえと、こんな高価な本をこんな風にぞんざいにしねえよ」
 そういうものでしょうか。紅茶のブリキ缶も大事に仕舞っておくわたしとは、価値観がだいぶ違うようです。
「五反田さん。この本、そんなに高いんですか?」
「いや。いって数千円程度だろうな。とても七十万の価値はない」
 なんてこと。やっとお宝を見つけたと思いましたのに、ついがっかりしてしまいます。
 蔵書のチェックは、ようやく三分の一ほど片付いたところです。ということは、まだ六万冊以上残っているわけです。普段はクールな五反田さんも、さすがにへとへとになっていました。
「なあ、鈴蘭」
「なんでしょうか?」
「こつこつ掃除することって、こんなに大事だったんだな」
 何を今さらおっしゃいますか。


 作業は総じて三日かかりました。
 日にちはすっかり大晦日。どうにか除夜の鐘が鳴る前に終わりました。お値段のつけられない本(五反田さんはこれを「ゴミ本」と呼んでいました)は、もうお部屋の半分を占拠しています。わたしたちはもうくたくた。しばらく本は見たくありません。
「お疲れさん。年越しそば買ってきたぞ」
「……うす」
「声に覇気がないぞ。それで、稀覯本は見つかったのか?」
「見つかってたらこんな顔してねえっすよ」
 そう。お高そうな本は、見つからず仕舞でした。
 一応、そこそこのお値段がつきそうな本はいくつかありましたが、七十万円だなんて、とてもそんな値段はつけられそうにありません。
「黒木先生、本当に親父さんはお宝があるって言ってたんすか? 先生が耄碌したんじゃねえんすか。――いってえ!」
「レディに歳の話はするんじゃない、馬鹿者」
 黒木先生に小突かれて、五反田さんはすっかりしょんぼりしてしまいました。
「親父は確かにそう言ってたぞ。って、何回言わせるんだ」
「っつっても、あとは本当に本棚くらいしか――」
 と、五反田さんが、なにかに気づいたように、お言葉を詰まらせました。
「五反田さん、どうしましたか?」
「鈴蘭。俺はやはり馬鹿だった。大馬鹿者だ。少なくともハムスターより馬鹿だ」
「おい五反田。ハムスターは言うほど馬鹿ではないぞ」
「まさか五反田さん、お宝が分かったんですか?」
 五反田さんは、いつものご様子とは打って変わって、自信がなさそうに、控えめにうなずきました。お宝が分かったのだから嬉しいはずなのに、五反田さんは気落ちしているご様子です。
「先生、一個だけ確認していいっすか?」
「何だ。賢い質問なら大歓迎だ」
「先生の親父さんは、ここに稀覯本があるって、言ったんですか?」
 はて、五反田さんは何を言い出すのでしょうか。
 黒木先生も面食らったご様子で、柳の葉っぱのような眉を、すこしだけしかめました。
「正しくはそうではないな。ここにはすごい宝がある。それを私にくれてやってもいい、って言ったんだ」
「じゃあ、本とは一言も言ってないんですよね?」
「そうだが。しかし、ここには本しかないぞ。それに親父はあまり高価な買い物はしない主義だ。なにせ昔、古美術商からとんでもない贋作を押し付けられた、とかで」
 その主義が事実であるのは、この書斎のラインナップを見ればわかりました。そもそも羽振りのいい人でしたら、五反田さんいわく、廉価で脆弱な文庫本を買うことはしなかったでしょう。新品の単行本を買えばいいのですから。
 しかし五反田さんは、黒木先生のお言葉に、なにか確信を得たようです。悔しそうに歯噛みして、やっぱりな、と唾棄しました。
「先生。俺の予想が正しければ、そのお宝とやらはこの部屋にあります。しかもたくさん」
「良かったじゃないか五反田。好きなように持って帰ってくれ」
「できません」
 五反田さんは、しょんぼり肩を落として、こう言いました。
「誰も思わないわけだ。本棚自体が高価だったなんて」


「これ、普通の市場で買った本棚じゃないんすよね、先生」
 五反田さんの問いに、黒木先生は戸惑うように、横髪をくるくるいじりだしました。
「それは知らんよ。それにその本棚、特段変わったところがないように見えるが」
「俺も初めそう思いました。でも、そんじょそこらの家具屋で適当に買ったにしては作りが頑丈だし、裏表に本を入れられるだなんて、普通の本棚じゃないっしょ」
 確かに言われてみれば、普通の書斎では、両側に本が収納できるタイプの本棚は使いませんよね。この書斎があまりに書斎っぽくないので、わたしとしたことが、すっかり失念していました。
「つまり五反田はこう言いたいわけだ。この書棚はアンティークで、親父がたまたま蚤の市で見つけた掘り出し物――だと」
「そんなわきゃないっすよ。同じ型のアンティークをこれだけ集めるの、尋常じゃない意欲がないとダメっすよ。それに、そんなに本棚に凝るのなら、入れる本だってこだわらないと、ちぐはぐになっちゃうじゃないっすか」
「じゃあ、何だと言いたいんだ?」
「俺も確信がないわけじゃないですが、たぶん、これ……」
 そこで、五反田さんは本棚の隅に何かを見つけて、わたしを呼びました。どうやら五反田さんの発見したものは、型番の書かれたラベルのようです。
「鈴蘭。これを検索してくれ」
「はい」
「おい五反田。もったいぶるな。鈴蘭さん、見せてくれ」
 五反田さんに言われるがまま、その型番を検索します。後ろから黒木先生の視線を感じて、ちょっとプレッシャーです。
 そして、肝心の検索結果ですが。
「ええー!」
「うそだろ!?」
 そのページには、この本棚と同じ画像が出てきていて、お値段は八十万円でした。
 黒木先生のお話より、なんと十万円も高価だったのです。さすがの黒木先生もおめめを丸くさせました。
「おい五反田! どういうことだ! これ、なんでこんなに高いんだ!」
「そりゃあ先生、それ、業務用の本棚だからっすよ」
 とは言いますが、業務用の本棚って、どういうことでしょう。本屋さんの本棚でしょうか。それとも――
「――それは、図書館用の書架だ」
 五反田さんは、そう言って、がっかりとうつむきました。


「先生ならご存知の通り、どの業界でも同じことが言えるんですけど、専門家の使うモンってやたらめったら高いんすよね。教科書とか、参考書とか、白書とか。鈴蘭だって、おまえが紅茶を淹れるのに使うケトル、そんじょそこらのヤカンと比べるのも可哀想なくらい馬鹿高いの使ってるだろ。俺ちゃんと知ってるんだぞ。
 ……話が逸れた。
 同じことが本棚にも言えるんですよ。俺、司書科目を履修してねえから細かいことは分からねえんですけど、図書館用品ってめちゃくちゃ高いんすよね。確か大学図書館のブックエンドが一個五百円って聞いたことがあって、すげえびっくりしましたもん。そんなの百均で売ってるやつでいいじゃん、とも思いました。
 まあ、ともかく。
 これと同じ、背が高くて木製ってだけの本棚なら、別に普通の市場でも買えますよね。俺が今調べたところだと、一個につき、高くても十万円くらい。この本棚の七分の一の値段で買えるわけです。
 なのになぜ、わざわざこんな馬鹿高い本棚を買ったのか。
 それは俺にも分かりません。どうせ、普通の本棚より枠が太いから、本の背が綺麗に見えるとか、頑丈だとか、そういうことでしょうね」

「……それは、私が答えられる、かもしれない」
 五反田さんの語りを一通り聞き終えたあと、黒木先生は、ぽつぽつと話し始めました。
「親父はとにかく本が好きだった。いや、本が、というより、小説が好きなんだ。おまえたちも見ただろう。ここにあるのは文庫本ばかりだ。廉価でたくさん読める文庫本は、親父にとってまさにうってつけだった。ようするに、貧乏性だったんだ。
 それに、先に言った通り、親父は何でも物を溜め込むタイプだった。どんどんたまる文庫本に、ある日突然本棚が耐えられなくなった。当たり前だ。百冊しか入らない本棚に何百冊も詰め込んだんだ。我が親父ながら、馬鹿だ。――鈴蘭さん、今笑っただろ。
 いや、いいんだ。笑ってくれて。
 そのときだよ。お袋がブチ切れたんだ。書斎をくれてやるから、本をどうにかしろってな。
 そのときの親父なりの答えが、これだったんだな。
 高価でも頑丈な本棚なら、まず壊れることがないから」
 ああ、そういう理由なのですね。黒木先生のお話を聞いて、ようやく、わたしなりに納得ができました。
 だって、男の人も女の人も、年齢の垣根もなく、人間というのは、好きな物に囲まれて過ごすことが至福でしょう。
 わたしも妄想したことがあります。わたしの好きな紅茶のお茶っ葉を詰めたブリキ缶を壁いっぱいに並べて、毎日違うフレーバーを味わいたいなあ、と思いますもの。それは五反田さんだって同じ。だって事務所が汚くなるまで、五反田さんの「好き」を詰め込んであるのですから。黒木先生のお父さまだって、書斎という、自分だけの図書館を持てて、とても嬉しかったに違いありません。
「だから、憧れの図書館の用具を導入したのですね」
「なんだ鈴蘭。おまえ、共感してるのか? 先生の親父さんに?」
「だって、プロと同じ物を使うだなんて、夢みたいじゃないですか。わたしにとっての憧れが紅茶アドバイザーであるように、黒木先生の憧れが、司書さんではないのでしょうか」
「紅茶アドバイザー? なんだそれ? 先生、知ってます?」
「知らん。おまえの助手はなかなかマニアックだな」
 もう。現役の探偵さんと先生には言われたくありません。
 先ほどまでのアンニュイな雰囲気はどこへやら、黒木先生は、ガリガリと乱暴に後頭部を掻きました。
「とにかく、その本棚がお宝とやらなんだな。喜べ五反田。これ全部、おまえらに進呈しんぜよう」
「嫌っす。俺んちそんなに場所ねえし。事務所も狭えし」
「黒木先生が使われてはいかがでしょうか。見ず知らずのわたしたちが引き取るより、草葉の陰でお父さまが喜ばれますよ」
「私も嫌だ。正直、邪魔だ」
「そうですか……」
「……」
 三人の意見が、悪い方向に一致してしまいました。
 悠然と立ち並ぶ七十万円の本棚たちを前に、五反田さんは、なぜかわたしを見ました。
「鈴蘭ちって、広かったよな」
「え? はい。まあ、このお屋敷ほどではありませんが、それなりに」
「鈴蘭、紅茶用具の収納場所に困ってるって言ってたよな」
「そうは言ったかもしれませんが、それは言葉の綾といいますか」
「本当か、鈴蘭さん! 引き取ってくれるのか!」
「待ってください、黒木先生! わたし、その、こんなに本棚があっても困ります」
「そう遠慮するな! 鈴蘭さんみたいな可愛い子に使ってもらえるなら、親父も草葉の陰で大喜びだ!」
 いけません。このままでは、わたしのお部屋が大変なことになってしまいます。五反田さんに助けを求めますと、五反田さんは、優しく微笑みました。
「俺の本もついでに預けておくから、ついでに仕舞っておいてくれよな」
「五反田さん!」


 さて、後日談です。
「ひどいです。こんな無体な仕打ち、ひどすぎます」
 ああ。わたしのおうちにどんどん本棚が運ばれていきます。同居しているおばあちゃんも、開いたお口が塞がらないご様子。うう。この調子だと、おじいちゃんの仏間にも本棚を置かなくてはならなくなりそうです。
「いやあ、鈴蘭さん。助かったぞ。これで親父の遺品整理もどうにかなった」
「それは、黒木先生はいいかもしれませんが……。でも、あの大量の本たちは、どうするんですか? やはり、売ってしまうのですか?」
「ああ。それも問題ない」
 と、そこにやってきたのは、大型のワゴン車でした。運転しているのは五反田さんです。
「先生、鈴蘭! 約束の品だぜ」
 ワゴン車からどんどん降ろされる、信じられない量の段ボール。五反田さんがご自分の蔵書を本当に持ってきたのでしょうか。それにしては量が多すぎるような気もします。
 わたしが興味を持ったことに気付いた黒木先生が、満面の笑みで段ボールをおひとつ、開けてくれました。
「ひっ――!」
 お恥ずかしながら、卒倒するかと思いました。
 そこには、黒木先生のお父さまの、蔵書があるではありませんか。
 黒木先生は輝かしい笑顔で、バンバンとわたしの肩を叩きました。
「鈴蘭さん、あんた本はあんまり読まないって言ってたし、これを機に読書でもしてみたらどうだ? なに、五反田が夜なべして、読みやすい本を厳選してくれたんだ。さあ、レッツ読書!」
 ――卒倒できたら、どれだけ幸せだったのでしょうか。
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家のハムスターの態度がでかすぎるけど、なんだかんだと助けてくれるからしょうがない?

DANDY
キャラ文芸
一人で探偵事務所を切り盛りする柊 和人はふと寂しくなってハムスターを飼うことに。しかしそのハムスターは急に喋り始めた!! しかも自分のことを神様だと言い出す。とにかく態度がでかいハムスターだが、どうやら神様らしいので探偵業の手伝いをしてもらうことにした。ハムスター(自称神様)が言うには一日一回だけなら奇跡を起こせるというのだが…… ハムスター(自称神様)と和人のゆる~い探偵談が幕を開ける!?

ゆうべには白骨となる

戸村井 美夜
キャラ文芸
誰も知らない「お葬式の裏側」と「日常の謎」を題材とした推理小説の二本立て。 どちらからお読み頂いても大丈夫です。 【ゆうべには白骨となる】(長編) 宮田誠人が血相を変えて事務所に飛び込んできたのは、暖かい春の陽射しが眠気を誘う昼下がりの午後のことであった(本文より)――とある葬儀社の新入社員が霊安室で目撃した衝撃の光景とは? 【陽だまりを抱いて眠る】(短編) ある日突然、私のもとに掛かってきた一本の電話――その「報せ」は、代わり映えのない私の日常を、一変させるものだった。 誰にでも起こりうるのに、それでいて、人生で何度と経験しない稀有な出来事。戸惑う私の胸中には、母への複雑な想いと、とある思惑が絶え間なく渦巻いていた―― ご感想などお聞かせ頂ければ幸いです。 どうぞお気軽にお声かけくださいませ。

Story Of HINAO

ひなお
キャラ文芸
この物語の主人公『ひなお』は、ある日を境に狂ってしまった。 家族や友人を少しづつ殺していく… 「……みんな…いなくなればいい……。」 そんなサイコパスな少女に…明るい未来はあるのでしょうか… 作者と同じ名前ですが、同一人物ではありません。

桜夜 ―桜雪の夜、少女は彼女の恋を見る―

白河マナ
キャラ文芸
桜居宏則は3年前に亡くなった友人の墓参りのためバイクを走らせていた。しかしその途中で崖下の川に転落して濁流に飲み込まれてしまう。どうにか川岸にたどり着いたものの辺りには家もなく、ずぶ濡れの身体に追い打ちをかけるように空からは雪が降りはじめていた。意識が朦朧とする中、ふらふらと彷徨っていると桜の巨木に行きつく。夜、桜の花びらと雪――幻想的な風景の中で宏則は黒髪の女性と出会う――

いわくつきの骨董売ります。※あやかし憑きのため、取り扱いご注意!

穂波晴野
キャラ文芸
いわくつきの骨董をあつかう商店『九遠堂』におとずれる人々の想いを追う、現代伝奇譚! 高校生二年の少年・伏見千幸(ふしみちゆき)は夏祭りの夜に、風変わりな青年と出会う。 彼が落とした財布を届けるため千幸は九遠堂(くおんどう)という骨董品店にいきつくが、そこはいわくありげな古道具をあつかう不思議な店だった。 店主の椎堂(しどう)によると、店の品々には、ヒトとは異なることわりで生きる存在「怪奇なるもの」が棲みついているようで……。 多少の縁で結ばれた彼らの、一夏の物語。 ◆エブリスタ掲載「九遠堂怪奇幻想録」と同一内容になります ◆表紙イラスト:あめの らしん https://twitter.com/shinra009

【完結】陰陽師は神様のお気に入り

綾雅(りょうが)祝!コミカライズ
キャラ文芸
 平安の夜を騒がせる幽霊騒ぎ。陰陽師である真桜は、騒ぎの元凶を見極めようと夜の見回りに出る。式神を連れての夜歩きの果て、彼の目の前に現れたのは―――美人過ぎる神様だった。  非常識で自分勝手な神様と繰り広げる騒動が、次第に都を巻き込んでいく。 ※注意:キスシーン(触れる程度)あります。 【同時掲載】アルファポリス、カクヨム、エブリスタ、小説家になろう ※「エブリスタ10/11新作セレクション」掲載作品

星空(仮)の下で謎解きを

木材あかり
キャラ文芸
プラネタリウムを舞台にしたライトミステリー。謎解きは仮の星空、プラネタリウムで! ――ここはとある科学博物館。その片隅には不思議な箱がひとつ。なんでも質問や疑問をそこに投函すると、夜な夜な調査して解決してくれる人物がいるという。彼の名前は星空探偵―― 「ああもう、質問多すぎ!俺はただのプラネタリアンだって!余計な仕事増やすなっつーの!」 ①『私の名前(仮)はなんでしょう』質問箱に届いた暗号の謎 ②『プラネタリウムは密室(仮)ですか?』投影中のプラネタリウムから人が消えた謎

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