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# 他になにもいらない

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 結局その日、アンナが波江たちの結婚式に参加することはかなわなかった。
 二場牧師はというと、遅れて会場に入りながらも、その役割をきちんと果たした。
 ジェイダンと二場は、波江たちにアンナが倒れた本当の理由を話すことをしなかった
 話したところで、突拍子もなさ過ぎて信じてもらえそうにない。
 結局アンナは、怪我や過労、精神的な疲れが重なったのだろうというところで話が落ち着いた。
 また、この結婚式がアンナに心理的な負担をかけると知っていた波江や悟、そして日向はなんともいたたまれない思いに駆られることになった。
 この騒ぎを受けて、和泉の家には現在久美子とエリナが滞在している。
 図らずもアンナの家族と顔を合わせることになったジェイダンだったが、今はそれどころではない。
 ジェイダンも家族らと同様にアンナの目覚めを待ったが、その日アンナが目覚めることはなかった。
 激しい心残りを感じつつも、その日ジェイダンは和泉の家を後にするほかなかった。

 翌日、ジェイダンが和泉の家を訪ねると、庭には珍しいお客がたっていた。
 ナオミとナツキだった。

「牧師先生はまだかね」
「……三十秒おきに聞かないでよ。わたしたちが来るのが早すぎたのよ」

 庭に入ってくるジェイダンをみるやいなや、ナオミはその腕を捕まえた。

「いいとこにきたね、あんた!」

 ナオミは素早くどんどんどんとドアをたたいた。
 驚いたようにアンナの母久美子が出てきた。
 ナオミはずいとジェイダンを前に出した。

「あら、戸川さん、昨日はどうも」
「あの……心配で寄ってみました」

 ジェイダンがちらりと後ろを見ると、ナオミと今度はナツキまでがずいとジェイダンの背中を押した。

「それから、こちらのふたりは……。えっと、今ちょうどここで……」
「ああ……」

 久美子は明らかに戸惑いをその顔に浮かべた。

「どうも、ええと西区にお住いの藤木さん……でしたね?」
「はい、アンナさんが倒れたって聞いてお見舞いに来たんです」

 ナツキはさもあやしげな祖母に代わって無暗にはきはきと答えた。

「それはどうも……」

 久美子は少しためらいながらも、三人を家に招き入れた。
 家に入るや否や、ナオミとナツキはずいずいとアンナの眠る部屋へ入っていった。
 ジェイダンも遅ればせながらあとに続こうとすると、ナオミが押しとどめた。

「あんたは後にしな」

 ジェイダンは少しむっとした。

(僕だってアンナが心配なのに……)

 久美子がお茶の準備を始めていた。
 すると、そのわきにエリナが寄ってきて、なにやら手伝おうとしている。

「あ、いいのよ、エリナ。座ってて」
「お姉ちゃんに、持っていく」
「アンナの分? アンナはまだ寝てるから、また後でね」

 ジェイダンはふと心配になった。

「まだ。目が覚めませんか?」
「ええ……。あの子、よっぽど無理をしていたんでしょうか。恥ずかしながら、気がつかなくて……」
(まだ目覚めないなんて、あの女、アンナになにかしたんじゃ……?)

 不安に駆られたジェイダンが、ふと考えこんだとき、インターフォンが鳴った。

「あら、二場牧師」
「どうも。あまり騒がしくしても行けないと思いながらも、心配で寄ってみました。ええと確か藤木さんとお孫さんもお見舞いに見えると聞いていましたが、もうこちらにいらっしゃっていますか?」
「ええ、ついさきほど、今ちょうど上に」

 二場はすぐにジェイダンを見つけた。

「やあ、ジェイダン君。君も来ていたんですね」

 二場はにこやかにやってくると、すぐに尋ねた。

「君はもうお見舞いが済んだのかな?」
「いえ、まだですが」
「じゃあ、ぜひいって差し上げなさい」
「でも」
「さあ」

 二場のやや強引な勧めで、ジェイダンはアンナの部屋に向かった。

(今行ったらナオミさんに追い出されそうな気がするけど……)


 ジェイダンがドアをノックするとすぐにナオミの声がした。

「入りな」

 ドアを開けるとジェイダンは目をしばたいた。
 部屋中白い煙でいっぱいだったからだ。

「な、なにしてるんです?」
「浄化だよ」
「浄化……?」
「ああ、今牧師先生が下に来たろう。あの先生がちんたらしているから、母親の足止めにあんたを使わせてもらったんだよ。
 あの母親はちょっと頭が固すぎるんだ。こんなとこ見られたら、わたしらを追いだしちまうに違いないからね」

 どうやらナオミたちが二場と申し合わせて見舞いに来たのにはそういうわけがあったらしい。

「さあ、いいだろう。ナツキ、ちょいと空気を入れ替えておくれ」
「はい」

 ナツキが窓を全開すると、煙はあっという間に流れ出ていった。

「セージを燃やした煙は浄化の作用があるんだ。まったく、あんたに渡しておいた十字架はどうなってんだろうね。あたしが魔法をかけ間違えるはずないんだけど」
(そういえば……)

 ジェイダンはいつも身に着けていたはずの十字架を置き忘れていることに気がついた。

「あ、たしか、そうだ……! ジャケットに入れて、車に置き忘れたままだ」
「なんだってぇ?」

 ナオミは節だらけの拳を握り、ガツンとジェイダンの強く肩を殴った。
 本当なら頬を殴ってやりたかったのだろうが、ナオミの背では届かなかったのだ。

「ばかもん! あんたがあれをちゃんと身に着けてりゃあ、アンナをこんなひどい目に合わせずに済んだものを!」
「……す、すみません……」

 ナオミはナツキから小瓶を奪うようにとると、ふんと鼻を鳴らした。
 そして、小瓶の蓋を外すと、アンナの鼻に近づけた。
 それから間もなく、アンナが小さくうめいた。
 そして、ゆっくりと目を開いた。

「よし、気つけ薬が効いたようだ」

 アンナは何度か重そうに瞬きすると、なにかを思い出したようにパッと目を開いた。

「ジェイダン!」

 唐突に叫ぶと、アンナの視線はジェイダンを探した。

「ここにいるよ、アンナ」
「ジェイダン、無事だったの?」
「ああ、君こそ……」
「あの人の狙いはあなたなのよ! ジェイダン、あなたが危険なの!」

 アンナの記憶は昨日から止まっていた。
 ふたたび時が動き出した今、アンナはまだ危機の中にいると思い込んでいる。
 すぐにナオミがアンナに語り掛けた。

「アンナ、もう大丈夫。魔は去ったよ。あんたは昨日から丸一日寝込んじまったからしらないだろうけど、ヒューが牧師の先生やあたしたちのところまでやってきてね、いろいろあったんだけどね、もう心配ないんだよ」
「丸……一日?」

 アンナは驚いたように三人の顔を眺めた。

「さあ、興奮は毒だよ。あんた、闇の住人が作った変な薬を飲まされただろう。今は気付け薬で無理やり意識を起こしただけだから、体が辛くなるよ。さあ横におなり。ナツキお茶を入れておいで」
「アンナさん、わたしとマリとリナで、解毒のハーブティーつくってきたの。すぐ淹れてくるから待ってて」

 そういうとナツキは小袋を手に部屋を後にした。
 ナオミのいうことを聞いて、再びベッドに横になったアンナは、なお心配そうな表情を浮かべている。

「あのバーにいたベニっていう女の人が突然コテージに入ってきて……。
 薬を飲めば、ジェイダンにはなにもしないって言われて、わたし……。
 それからあとはなにも覚えてないの。一体なにがあったの……?」

 ジェイダンは昨日見たことをかいつまんで話した。
 アンナは自分の足にできた縛られた後や小さな擦り傷を確認してそれが真実だということを少しずつ受け入れていった。
 その途中でナツキがハーブティ―部屋に持って戻ってきた。

「さあ、お飲み。楽になるよ」

 暖かいお茶が恐怖や不安でこわばっていたアンナの気を和らげた。
 鼻孔をくすぐる複雑なハープの香り。
 いつもの部屋の小さなベッド。
 ジェイダンやナオミ、ナツキの暖かな視線。
 それらがしだいに心を埋めていき、アンナはようやく危険が去ったことを実感し始めた。

「さあ、飲んだね。もう少し休むといいよ。今あんたのお母さんと妹を呼んでくるからね」
「ナオミさん、ナツキちゃん、本当にありがとうございました」
「しばらくはそのお茶を飲むといいよ。足りなくなったらいつでもいいな」
「はい……ありがとうございます」


 ナオミとナツキはそろって部屋を出ていった。
 しばらくすると、久美子とエリナがやってきた。
 ジェイダンは気を使って場を辞した。
 階段を降りるとナオミとナツキ、さらには二場までがぶつぶつと何かやっていた。

「みなさん、なにをしているんですか?」

 ジェイダンが尋ねると、ナオミは結界だといい、ナツキはおまじないといい、二場は祝福だと言った。

「……なるほど……」
「さあて、じゃああたしらはそろそろ帰るよ。ヒュー、アンナを頼んだよ。このぼんくらは顔がいいだけでなんの役に立ちゃしないんだから。かかしの方がまだましだよ。それ、ぼんくら、ぴゃっと家まで送っとくれよ」
「はい……」

 ジェイダンは言われるがままに車のキーを取った。
 ジェイダンが車を開けると、助手席のヘッドレストには昨日掛けたままのジャケットがそのままになっていた。
 おもむろにジャケットを取ると、ジェイダンはぎょっとした。
 ヘッドレストにはこぶし大の黒々とした焦げた穴があったからだ。

「なんだ、これ……!?」

 あわててジャケットを前身ごろを裏返すと、十字架の入っていたはずの内ポケットが内側に向けて焦げていて、やはりこぶし大の穴が開いていた。


 ナオミとナツキを乗せ、車は走り出した。
 ジェイダンは黒く焦げたジャケットを横目にナオミに問いかけた。

「二場牧師は、アンナに危険が迫ったあのとき、ヒューという子が呼びに来たといっていました。
 二場牧師によると、それは、アンナの守護霊や守護天使のような存在だろうといっていましたが、ほんとうですか?」
「まあ、そういう解釈もあるね」
「解釈……というのは……つまり?」

 ナオミはふうとため息をついた。
 かわりにナツキがその続きを引き受けた。

「人によって呼び方はいろいろなの」

 ジェイダンはバックミラーに写った二人を見た。

「アンナにはヒューという存在が見えているんですね?
 ナオミさんやナツキちゃんや、二場牧師にも」

 ジェイダンは少し間をおいて、考えるように口にした。

「僕にも見えないでしょうか、その……、ヒューという……存在が。
 僕はアンナのことをもっと知りたいんです」

 するとナオミはまたふうとため息をついた。

「そこまでいうのなら、アンナに直接聞いてみな。
 でも、そこに触れるには相応の覚悟がいるよ。
 あんただって、人に言いたくないことの一つや二つあるだろう。
 ぼんくらのあんたじゃ、アンナを傷つけて逃げだすかもしれない。
 知らないままの方がいいことだってあるんだよ」

 ジェイダンは思わず口を閉じた。
 もし、日向のいったアンナとエリナの空想の友達が本当なら、アンナは日向にそのことを激しく否定されたことに傷つき、今もその傷を払しょくできないでいるのだろうか。
 ジェイダンにヒューが見えない以上、それを確かめることはできない。
 でも、ここ一連で起こった出来事は、ジェイダンの知っている現実をどこか超越している。

「僕はこれまで弁護士として科学的に確証のある物事だけを事実として扱ってきました。正直、今日まで僕は妖精も悪魔祓いも小説や映画の中の話だと思っていました。
 でも、もしこれらがアンナを取り巻く世界で、彼女がそれを僕に拒絶されるのを恐れているのだとしたら、僕は理解したいと思っています」

 ナオミがふんと鼻を鳴らした。

「ご立派な弁舌はけっこうだよ!
 弁護士というだけあってあんたの口はよく回るけど、それに何の意味がある。
 あたしゃあんたのことをそれほど信用してないよ」
「……」

 そこから先は目的地に着くまで誰も口をきくことはなかった。

 翌日、ジェイダンがアンナの家を訪ねると、アンナはすっかり元気そうにキッチンに立っていた。

「あら、いらっしゃい、戸川さん」
「お邪魔します」

 久美子はすでに花束の君がジェイダンだということを知っている。
 娘が連れてきた――正確には図らずも紹介する前に知り合うこととなった初めてのボーイフレンドのことは、母親としてはうれしいもので、応援したいという気持ちは自然と溢れてくる。



 歳が少し離れすぎかとも思うものの、熱心に花束を送ってくれたり、庭師の仕事以外にもなにかと手を貸してくれるというのは、若くして店づくりに精を出す娘にとってはたいへん心強いと思うからだ。

「アンナ、戸川さんが来たわよ」

 アンナはエリナと一緒にお菓子を作っているところだった。

「ジェイダン、改めて紹介するまでもないと思うけど……」

 ジェイダンはうなづいた。

「やあ、エリナちゃん」
「ジェイダン、今ね、ヨーグルトポムポムを作ってるの」
「ポムポム? なんだろう、かわいい名前だね」
「うん、ポムポム」

 人懐こいエリナは新しい友達をすでに受け入れていた。
 ジェイダンはキッチンにあるリンゴをみて、エリナの言うポムポムがリンゴのことだと気がついた。
 仏語でリンゴはポムだからだ。

「もうあとは焼くだけなの。エリナ、はい、オーブンをピッてして?」
「ぴっ」

 エリナはボタンを押しながら口でもそうつぶやいた。
 エリナがアンナを見つめる。

「あと何分?」
「あと四十分よ」

 すると、エリナはジェイダンの隣へやってきて
「あと四十分です」

「あと四十分だね、楽しみだな」

 そんな様子を見ていると、アンナの胸は温まる。
 日向やその兄弟がいて、日向がふたりの兄弟と一緒にエリナをみてくれていてくれた様子を思い出すのだ。

(あの頃はなんの不安も心配もなくいられたけれど……)

 アンナの携帯電話が鳴った。

 着信を見ると、知らない番号だった。

「はい」
「戸川です。マリヤに番号を聞いてかけさせていただきました。いつまでたっても電話を頂けないので」

 ベンだった。
 アンナはとっさにその場を離れ庭に出た。

「金額は決まりましたか? 今言ってくれれば明日にも小切手を送ります」

 ベンの質問にアンナは応えなかった。

「あの……、ベンジャミンさん、一度お会いできませんか?」
「どういうことでしょう」
「できれば、マリヤも一緒に。話したいんです。ジェイダンのことで」
「あなたに我々を説得できる余地はありませんよ。マリヤはあなたと親しくしているからときにあなたを励ますようなことも口にしてしまうこともあったでしょうが。我々と住む世界が違うということは先日話したとおりです。あなたも無駄な時間をついやすより、お金でキッパリ片づけた方が気が身のためですよ」
「そのことじゃないんです。その……ジェイダンの問題について……」
「問題といいますと」
「あなたもマリヤもわかっていますよね? ジェイダンとお父さんのこと……」
「……兄さんはそこまであなたに話したんですか?」
「ジェイダンには家族の支えが必要です」
「……そんなことは、あなたにいわれなくてもわかっています」

 アンナは迷ったが、口にすることにした。

「……でも、恐怖症が出たときのジェイダンは、とても辛くて苦しそうで……」
「なんです?」
「恐怖症です。閉所と暗所の……」
「兄さんが閉所と暗所の恐怖症だなんて、聞いたことがありません」
(え……?)

 アンナは思わず窓越しにジェイダンを見た。

「でも……、マリヤは知っていますよね?」
「……マリヤが?……」

 アンナはマリヤとの会話の記憶を遡った。
 ジェイダンの過去を聞いた後、そのことをマリヤに話したあのとき、マリヤは確かにこう言った。

(ジェイダンはあなたにそこまで話したのね。そう……、よっぽどあなたには心を開いているのね)

 その時、アンナはいとこのマリヤ以上に自分がジェイダンのことを知るはずがないと思っていた。
 だからマリヤのその言葉をきいたとき、アンナは自動的にマリヤもジェイダンの恐怖症のことを知っているのだと思い込んでいた。
 だが、実際にはそれはそうではなかったのかもしれない。
 いずれにしても、今はもうマリヤはジェイダンの恐怖症について知っている。

「あの……、わたしマリヤに話しました。マリヤは知っています。ですから、ジェイダンには支えが必要なんです。わたしお金はいりません。その代わりに、どうかあなたやマリヤがジェイダンとよく話してみてもらえませんか?」
「……」
「お願いします……」

 しばらくの沈黙の後、ベンは言った。



「少し時間をください。また連絡します」

 電話は途絶えた。

(よかったわ……。ひとまず、この件は一歩前進。
 マリヤやベンジャミンさんがこれからジェイダンを支えてくれれば、わたしはもう……)

 心の中でそうつぶやく途中で、アンナの心の声はぴたりととまった。

(わたしは、これでもう、ジェイダンとは関わらないですむ……)

 もう関わらない、関わるべきじゃない。
 そう決めたはずなのに。
 ベンの前触れのない電話に乗っかって、これは機とばかりにジェイダンのことで相談を申し入れてしまった。
 その直後に胸に迫った動揺は、自分がジェイダンから身を引く覚悟がまだできていなかった証拠だ。

(ジェイダンを受け入れることもできないくせに、いざとなると離れがたいなんて。わたしはなんて身勝手なの……)

 アンナはひとりでに首を左右に振った。
 アンナは身勝手という言葉を使ったが、それはアンナの几帳面な性格と恋することに否定的な考えがそうさせたのだろう。
 もっと自然に恋を受け入れられるとしたら、アンナはもっと違った言葉を使ったはずだった。

(これでいい、これでいいのよ……。恐怖症のことを理解して手を差し伸べてくれる人がそばにいれば、きっとジェイダンは立ち直れる。お父さんとの関係もきっとよくなっていくはず。ここから先はマリヤとベンジャミンさんに任せよう。
 そして、ちゃんとジェイダンにもう自分とは関わらないように話すのよ。それが、お互いにとって一番いいはずだもの……)

 そしてアンナはふうとため息をはいて空を仰いだ。
 秋晴れの空に雲が一つ流れている。

(わたしは臆病者だわ……。自分でも呆れるくらいよ。
 過去に縛られている自分の現実に向き合えない……。
 きっと一生このままだわ……。
 だけど、私にはできない……。
 ジェイダンに嫌われる前に、ジェイダンと離れたい……。
 好きな人に拒絶されるのはもういやなの……)

 アンナはにじむ目じりを人知れずぬぐった。
 アンナが庭に出ていった後、久美子がティーセットを準備し始めた。

「戸川さん、今日アッサムの新しい缶を開けたんだけど、ミルクティーはいかがかしら」
「ありがとうございます。それと、よかったらジェイダンと呼んでください」
「ふふ、それは娘があなたを彼氏だと紹介したときにとっておくわ」

 久美子がお茶を入れている間、エリナはオーブンの前を行ったり来たりして、ぴったり五分おきにジェイダンに残りの焼成時間を報告したりしている。
 落ち着きのないエリナに久美子は仕事を与えた。

「エリナ、戸川さんにこれ持って行って」
「戸川さん?」
「戸川ジェイダンさんよ」
「うん」
「こぼさないのよ」
「うん」

 エリナはうまくジェイダンの前にカップを置くと、母親の元に戻って
「ヒューのは?」

「ヒューの……、出すの?」

 久美子は渋い顔をする。

「ヒューの」
「……わかったわ」

 洗い物が増えるうえに、開封したばかりの高い茶葉がまるまる一杯分無駄になるのだと思うと、久美子はついしぶってしまうのだが、ここで断ってエリナがぐずるのはもっと困りものだ。
 久美子が出した五つ目のカップに、エリナはミルクティーをそそぎ、それをジェイダンにしたのとおなじように、誰もいない席に丁寧に差し出した。

「ヒュー、どうぞ」

 エリナは返事をもらったかのように満足げだ。

「この子の空想のお友達なんです。昔っからずうっと」

 久美子は椅子に腰かけて、カップに口をつけた。

「おかしいでしょう? でも、この子にとっては大事な友達らしいので……」
「そうですか」
「こういうことにもようやく慣れてきたんですが、いまも正直まだ違和感を感じます。
 母親なのに、ありのままの娘をうけいれることができなくて、ついきつく叱ったりしてしまうんです」

 以前、アンナが母親の告白について語っていたことをジェイダンは思い返していた。

「こんな話をされても困りますね」
「そんなことありません。聞かせてください」
「あら……。実は、最近ようやく自分の本当の気持ちを人に話せるようになってきたので、できるだけ話すようにしてるんです。こういうのは慣れも大事だと思って」
「慣れですか、リハビリみたいなものですか?」
「そう、リハビリね。今までは誰にも話すこともできなくて、自分で自分を追い詰めてしまったりしてね。
 障害を持つ子の親同志で話し合えることもあるんだけど、わたしはそれがなかなかできない質で」



「それじゃあ、僕でよければいつでもリハビリに使ってください」
「あらそう?」
「ええ」

 久美子は意外そうにジェイダンの顔を見て笑った後、そうねぇと斜め上を見上げた。

「最近、アンナと昔の話をして思い出したことがあるの。昔、こどもたちがキッチンを真っ白けにしたことがあって。
 ちょうど義理の母が入院することになって、わたしの頭や心は処理能力が限界だったわ。
 そんな日に限って、キッチンの大惨事。すぐに病院に戻らなきゃいけないのに、アンナとエリナは喧嘩したのか何なのかふたりとも泣いて泣いてちっとも泣き止んでくれない。
 アンナもエリナも、その見えない友だちがどうのこうのって言っているんだけど、わたしはついに頭なのか心なのか、とにかくなにかの神経がきれて、大声で叫んでいたわ。ヒューなんて、そんなのはいないの、……って」

 すると突然エリナが立ち上がった。

「ばか、ばか、お母さんのばか!」

 突然エリナが母親を拳でたたき始めた。

「ごめん、ごめん、エリナ。今のは違うの、今のは昔の話」
「お母さんのばか! きらい!」

 エリナはぱっと背を向けると、庭にかけ出ていった。
 そして、アンナを見つけると縋りつくようにアンナに抱きついた。
 窓の向こうでアンナはちらりとこちらを向いた。

「アンナはね、こういうことがすごく上手なの。なんていうか、エリナの世話がとても上手くて、エリナの言いたいことが不思議となんでもわかるのよ。
 この間もね、エリナがオレンジっていうから、わたしがその言葉通りオレンジだと思って買ってきたんだけど、アンナはオレンジのマーマレードが入ったチョコレートガレットだっていうのよ。
 そんなの、わかる?
 本当に姉妹って不思議だわ。それでエリナは今もアンナにべったりなの」

 アンナがエリナを連れて戻ってきた。

「お母さん、きらい」

 エリナはぶすっとして母親をにらんでいる。

「ごめん、エリナ。許して?」

 久美子がエリナの機嫌を直そうとなだめていると、久美子の携帯電話が鳴った。

「あら、お父さんだわ。もしもし、え? あらほんとう? わかったわ、迎えに行くわね」

 電話を切ると、久美子はすぐに立ちあがった。

「アンナ、お父さんが一本速い新幹線に乗れたっていうから、迎えに行ってくるわ。
 ああ、早くリニアモーターカーが開通してくれないかしらねぇ」
「そういえば、リニアの長野県駅ができるのはこの辺りでしたよね」

 ジェイダンは何かのニュースでみたのを思い出した。

「ええ、それさえできれば名古屋まで二十分、品川までわずか四五分。科学の進歩ねぇ。夫は出張が多いからとても助かるのよ」
(そうか、リニアができればここまでたったの四十五分か)
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