【完】仕合わせの行く先~ウンメイノスレチガイ~シリーズ1

国府知里

文字の大きさ
上 下
3 / 8

Story-2 縫製工場

しおりを挟む

「マーハリック、マリック、ハゲた猫~♪ 
 マハリック、マリック、ハゲた猫~♪」
「またその歌? なに?ハゲた猫って」

 マリは磨いた足の爪から視線を上げる。

「あら」

 部屋の戸を閉め振り向いたシーラの腕の中には灰色の子猫がいた。

「どうしたのよ、その猫」
「さっき戸口でみつけたの。かわいそうね。ここがハゲてるの」
「ああ、きっと火事でやられたのよ。でももう治ってるみたいじゃない」
「人懐こいの。逃げないから連れてきちゃったわ。今夜はここにいさせてもかまわない?」
「いいわよ、今夜も暑いからどうせ窓を開けておくでしょ。明日にはいなくなってるわ」

 ところが翌朝も子猫はそこにいて、みゃーと鳴きながらシーラとマリを起こした。

「あら、逃げなかったのね。私たちの朝食までねだる気ね」
「動物にやさしいのね、マリ」
「あたしはオスには優しいのよ。ところで名前を付けましょうよ」
「ハゲてるから、ハゲかしら」
「そんな身もふたもない。この子が聞いたら傷つくわよ」

 マリは笑いながら、猫の耳をふさいだ。猫はかわまれているのがうれしいようだ。

「じゃあ、ハゲ―か、ハーゲはどう?」

 マリは、ぶっと吹き出した。

「だから、なんでハゲにこだわるの!?」
「覚えやすいと思ったから。嫌なら…、ゲハにする?」
「ゲハ!?」

 寮に住む女たちは、マリの高らかな笑いでその朝を起こされた。

 結局、猫の名まえはハゲーになった。食堂に連れていくと、幾人かの女たちはかわいいと言ってなでていき、幾人かは毛嫌いしていった。仕事に入る前には外に出したにもかかわらず、ハゲーはシーラを保護者と認識したらしく工場に入ってきた。

「こら、だめでしょ、ハゲー」

 その時、オーナーであるダモがやってきた。ダモは素早くシーラを見た。

「だれが、ハゲだって?」

 マリがまずいという顔をして視線を伏せた。

「だれが、ハゲだと? シーラ・パンプキンソン!」

 シーラはようやくはっとしてオーナーの顔、正確にはその上を見た。答え方によっては、これは仕事を失うな、と覚悟した。

「おはようございます、オーナー。この猫が入ってきてしまいまして、今捕まえようとしていました。
 やけどかなにかで背中がすこし、……損傷をおっているようです。すみません、さっきは夢中で聞こえませんでした。
 なんの御用でしょうか?」

 シーラは背中というより頭の後ろにできたハゲーのハゲを見えるようにしてオーナーの前に差し出した。
 オーナーはすこしばかり苦い顔で黙っていたが、ふんと鼻を鳴らした。

「そんなものは、つまみだしておけ!」

 ダモはゴドに八つ当たりするかのようにして執務室へ入っていった。猫を窓からだすシーラの隣で、マリが息を吐いた。

「あぶなかったわね、シーラ……」
「ええ。今からでもゲハにしたほうがいいかしら」
「それもやめて……」

 マリは笑いをこらえた。

 その周の休日、シーラは近所を回って猫をもらってくれる家を探して歩いた。猫が工場になつきだした様子を見て、ダモの機嫌を損ねることを恐れたゴド捨ててこいといったからだ。

「マーハリック、はげた猫」

 歌いながら行き交う人や子どもたち、軒先で話を聞いてくれそうな人たちに声をかけていったが、子猫の引き取り手はなかなか現れなかった。しかたなくその午後には工場への帰路をあるきはじめると、ちょうどゴドが正面からやってくるのを見えた。シーラはすばやく路地の角を曲がって身を隠したが、そのとき足元でだれかが、きゃっと声を上げた。見ると、中年の婦人がそこへ座り込んでいた。

「あっ、すみません!」
「いえ…、だいじょうぶよ。ちょっとびっくりしただけなの。久しぶりに外に出たものだから」

 婦人はいまにもたおれこんでしまいそうなほど顔色が悪かった。

「あの、大丈夫ですか? 具合がわるそうですけど」
「ええ、そうなの。わるいんだけど、うちはすぐそこなの。手を貸してもらえないかしら」
「ええ、もちろん」

 婦人を家までつれていくと、そこは一人暮らしのわびしい部屋があった。シーラは台所を借りて、白湯をいれた。紅茶の缶はからっぽだった。

「ありがとうお嬢さん。よかったら、あなたとその子猫ちゃんのお名前を教えてくれるかしら」
「わたしはシーラ・パンプキンソンです。この子は、ハーといいます。正しくハー・ゲーと言うんですが、
 ハーゲーではなく、ハー・ゲーです」
「じゃあ…、シーラさんとハーちゃん、ね」
「はい」
「わたしはモロ。モロ・ゲッタといいます」

 白湯を飲んで少し落ち着いてきたのか婦人の頬に赤みがさしてきた。

「お一人で暮らしているんですか」
「ええ…」

 婦人はぽつぽつと身の上を話し始めた。先の火災で家と息子夫婦を失ってから、ずっと一人で暮らしているという。国からの見舞金があるのでなんとか暮らしはたっているが、以来生きがいを感じられず、食べるも飲むも億劫に感じるのだという。息子たちの命日の今日は、慰霊碑参りに行こうと思って外に出たが、暑さと体力の低下のために立てなくなっていたところだったのだ。

「この歳だし、もう死ぬだけだと思ってはいるんだけれど、なかなかお迎えってこないものね」
「まだそんなお歳に見えませんよ」
「いいえ、もう心が年寄なの」

 シーラはすこしの間じっと考えてから、そしてハー・ゲーをモロの前に差し出した。
 寮の部屋では窓辺で風を仰ぎながらマリが振り向いた。

「それで、そのおばさんにハー・ゲーをあずけてきたの?」
「飼い主が見つかるまでのあいだお願いしたの。猫好きみたいだったし」
「紅茶も空っぽだったんでしょ? ハー・ゲーったらきっとお腹をすかせてるわよ」
「明日食べ物を持ってようすを見にいってくるわ」

 翌日、昼食のパンとチーズを持ってモロの家へいった。すると、驚いたことにモロは昨日よりずいぶんと元気そうな顔をしていた。

「シーラさん、いらっしゃい。ハーちゃん、いい子にしてたわよ」
「ありがとうございます。モロさん、今日は調子がよさそうですね」
「おかげさまで」

 それから数日のあいだ、訪ねるたびにモロは少しずつ元気をとりもどして、十日も過ぎた頃にはハー・ゲーのミルクを買いに町まで出たり、ハー・ゲーを連れてあたりを散歩できるほどになっていた。

 そんなある日、工場ではダモがスーツを決め込んで出勤してきた。手には一重咲きのオレンジ色の花を持っている。ダモは五十をまえにした中年男だが、いまだ未婚でしかも結婚生活を経験したことがない。

「あら、また性懲りもなく振られにいく気になったのね」

 マリはシーラにだけ聞こえるようにささやいた。

「オーナーはずっと昔から愛した女性がいて、いまだに通いつづけてるのよ。だけど、旦那さんが亡くなっても、息子夫婦が亡くなってもなびかないんじゃあ、なにがあったって、振りむきゃしないわよねぇ」
「筋金入りね」
「迫られるほうはたまったもんじゃないでしょうね」

 仕事に取り掛かろうというとき、女工仲間の一人が声をかけてきた。シーラが猫の飼い主を探していることを知っているひとりだ。

「シーラ、猫を飼ってもいいっていう人がいるんだけど。もうだれかにあげちゃった?」


 ・・・・・・


 シーラはその昼、モロの家へ向かった。部屋の前まで来ると、ドアの前にはあのオレンジ色の花びらが落ちていた。

「きみがこんな暮らしをしているのが、おれには絶えられないんだ。モロ、君もどうかどうか素直になってくれないか」

 わずかにあいたドア越しにダモの声が聞こえた。そして、あしもとではどうやらシーラがきたことに気がついたハー・ゲーがドアのほうよってきた。ハー・ゲーが出ていってしまうと気がついたモロがドアを開け、シーラは気まずい立場に立たされた。

「すみません。あの、猫を引き取りにきました。モロさん、また、いずれ。あ、ありがとうございました」

 びっくりした様子のモロと、苦々しい顔のダモから目をそらし、シーラはすぐに立ち去った。シーラはそのまま急いで工場に戻った。そしらぬ顔で女工たちの中に戻ろうとしたが、顔を真っ赤にしたダモが戻ってくるなり、シーラは執務室に呼びつけられた。

「わたし、だれにも話してません」
「いや、いいや…ちがうんだ」
「え?」
「おれがモロの家に通っていたことは、工場の女たちはおろか、この西南地区中の人が知っている…」
「そうだったんですか…」
「おれの用件をきいてくれ、シーラ・パンプキンソン」
「はあ」

 ダモの話によると、シーラが猫を引き取って去っていったあと、モロは突然泣き崩れた。あの火傷をおった猫が、まるで死んだ息子が自分を心配して帰ってきてくれたような気がしていたのだという。猫の世話をしていると、生きる力が湧いてくる。あの子猫がいないとわたしはだめだ。モロはそういって泣いたのだという。

「シーラ、あの猫を譲って欲しい。たのむ!」

 そのあと、シーラは作業しながら隣のマリにことの経緯を話しながら、できあがったシーツを手際よくたたんだ。マリはシーツをミシンにかけながら頷いている。

「猫が死んだ息子さんのかわりとはね…。でも、ちょっと感動的ね」
「ええ。モロさんにとっては、すっかりもうゲッタ家の一員だったのよ」
「ハー・ゲーにとってもよかったわね」
「あ、今はハー・ゲッタって呼ばれてるの」


 ・・・・・・


 執務室で、モリスとベンジーはハリーが口を開くのを待っていた。

「つまり、西南地区でそれらしき人物を見つけ、追っていったがその人物は突如に角を曲がってしまった。そして見失ったと」
「はい…。あの付近にいるのは間違いなさそうです」

 ベンジーが言うのに続いて、モリスは胸を張った。

「わたしはあと少しというところまできていましたので、娘の声を聞きました。まちがいありません」
「娘がまだ西南地区のいるのがわかったのはいいとして、どうしてモリスまで娘探しを? 監督生としての責務はちゃんと果たしている
 んだろうな」
「はっ、もちろんです! ベンジーだけでは力不足かと思い、わたしもお手伝いさせていただければと」
「ふうん。ベンジー、あのことをモリスに話してはいないだろうね」
「へっ!? なんのことでありましょうか」
「まあ、いいが」

 ふたりの嘘はハリーにはお見通しだったが、それ以上は言わぬことにした。

「それで、モリスは声を聞いて彼女だとわかったのか」
「はい、大会のあの日、あの声といいますか、あの一言は印象的でしたので。聴き間違えはないかと」
「それでどんな話しをしていたのだ」
「話し声ではなく独り言というか、歌のようでした。マンとかナンとか、猫がハゲたとか、ハゲた猫とか、そんなような歌です」
「ハゲた猫? なんだそれは」
「わかりませんよ! ……ですから、殿下はすぐにでもあんなおかしな平民の娘のことなど忘れたほうがよろしいのでは?」
「結局おまえの言いたいことはそれか」

 ハリーはため息をついて見せた。

「とにかく、手がかりはあるんだ。西南地区へいってみよう」

 西南地区を歩き回り「ハゲた猫」のことを聞いて回ると、たしかに、娘が猫を引き取ってくれる人を探していたという証言が数々あった。

「つまり、ハゲた猫を探せば、娘にたどりつくということだな」
「この町に何匹猫がいるのか検討もつきません。これは娘を探し出すより大変ですよ」

 ベンジーが肩をすくめる隣で、モリスは、はっとしていった。

「猫がハゲているというのは、火傷かなにかをおったんじゃないですか? だとしたら、飼い主が薬を買っている可能性はありませんか」
「いってみるか」

 地区内には四軒の薬屋がある。三人は近い順に三店を回った。そして収穫のないままに、最後の店にやってきた。

「このところそういった用途で傷薬をお買いもとめになったお客は思い当たりませんね」
「そうか」
「お役に立てませんで申し訳ありません。でも…」
「なんだ?」
「この辺りで猫に薬代を出すほど余裕のある人は少ないですよ。火災の後でみないろいろ物入りですから」
「うむ、たしかにそうだろうな」
「飲めといったって薬を飲まない人だっておりますから。……あ、そういえば」
「どうした?」
「そうです、先日珍しいお客さんが来たんですよ。火災で一人身になってしまった奥さんですがね、ずっと塞いでいたのに、先日久しぶりにみえて、ずいぶんと元気な様子でいらしたんですよ」
「ほう、それで?」
「それで、何かあったんですかって聞きましたらば、最近猫を飼い始めたっていいましてね。いやあ、なにかの世話を焼いたり、そういう生きがいを持つというのは本当に、人に活力を与えてくれるものです。薬なんかよりよっぽど効き目があると思いましたよ」

 三人は顔を合わせた。

「その婦人の住まいは?」

 有力な情報に三人の足取りも軽い。教えられた場所に行くと、たしかに婦人の一人暮らしだった。

「もし、ご婦人、ちょっとおたずねしてもいいか」

 ハリーを見て驚いた婦人だったが、その腕には灰色の子猫を抱いていた。

「たしかに猫を譲り受けました」
「その娘の名前は?」
「シーラ・パンブキンソンです。ダモ縫製工場で働いています」


 ・・・・・・


「まったく、いつになったら包帯が取れるのかしら」

 マリは恨めしそうにシーラを見た。
 女工たちのあいだで通称ハゲたハー・ゲッタ事件と呼ばれたあの日、マリはベテランらしからぬ大失敗をしてしまった。思わず笑い吹き出したついでにミシンを踏んでしまい、自分の指を縫ってしまったのだ。
 以来、モリはシーラに荷物持ちをさせながら、近所のレム医院に通うのが習慣となっている。

「ごめんなさい、いまでも悪かったと思ってるわ。だけど傷が指先だけでほんとうによかった」
「よくないわよ」
「でも、わたしに悪気はなかったのは知ってるでしょ、マリ」
「わたしの美しい爪の形が治るまではゆるさないんだからね」

 その帰り道、シーラはマリを促して、道の途中のわき道に折れた。

「どこへいくの、シーラ」
「オーナーにビスケットとミルクを買ってくるよういわれているの」
「ビスケット?」

 二人は回り道をして、近所のベーカリーに足を運んだ。時間通りぴったりにビスケットは焼きあがっていた。マリはかぐわしいにおいをかいで、顔をほころばせる。指が痛いはずなのにそれも忘れて気分よくミルクの瓶を持ってくれた。

「焼き立てって、ほんといいにおいね」
「ほんと」
「でもオーナーがまさかわたしたちにお菓子を振まうなんて、なにかあったのかしら」

 シーラはなにもいわずに微笑んだ。ふたりはほくほくとしながら工場にもどったが、一方の工場は空気が張り詰めていた。シーラを見るや、血相を変えたゴドが、強引な様子でシーラを呼びつけた。執務室でダモはするどい視線でシーラを待ちかまえていた。

「いったいおまえはなにをしたんだ!」
「な、なんですか?」
「聞いているのはこっちだろ。質問に答えろ」
「なにを答えればいいんですか」
「さっき、おまえを探しに憲兵がきた。いったいなにをしたのか白状しろ」
「なんのことだか、わたしにはわかりません」

 窓の外をみはっていたゴドが小さくさけんだ。

「オーナー!さっきのやつらがもどってきました! あ、なにか相談しています」
「くそっ」

 ダモはシーラの腕を掴むと、そのまま裏口からシーラを追い出した。

「ちょっとまってください! わたしなにもしりません!」
「だまってろ!」
「待ってください、オーナー!」
「だまってさっさとこれをもって消えちまえ!」

 ダモは投げつけるようにして給金を渡し、裏口を閉め鍵をかけた。そして、ドア越しにダモがマリに怒鳴る声がきこえた。

「マリ! シーラの荷物を二階の窓から投げ捨てろ。いますぐだ、行け!」

 そしてそのすぐあと、二階の窓からマリが顔を出した。同情と厳しさの入り混じった顔をしている。マリにとってこんなことは初めてではないのかもしれなかった。

「よくわからないけど、ひとまず消えたほうがいいわ。なげるわよ!」
「え、ええ……」

 投げられた荷物を抱きとめると、マリが引き返していくのを見送った。シーラはわけもわからず、その場を去るしか方法はなかった。
シーラは工場の裏口から回って、南へ向かった。町より開けた場所を見たい気持ちだったからだ。海に近づくにつれて潮風が濃くなる。波止場までやって来た。

「いったい、なにがどうなっているのかしら」

 はるかかなたの海上で薄く暗い雲が、低くうめき声を立てた。シーラの今の状況にぴったりだった。この空では漁師ではないシーラでさえ、雨になるとわかった。まだ暖かいビスケットの包みをみた。

「このままじゃビスケットまでびしょぬれね」

 シーラは握り締めたままだったお金をしまい、荷物を背負いなおすと、気を取り直して歩きした。シーラは人が集まっている南地区中央公園に行った。そしてその真ん中に立ち、そこで遊んでいる子どもたちのほうを向いた。

「ん~っ、おいしい!」

 シーラはビスケットをおいしそうに食べはじめた。すると、子どもがひとりふたりと集まってきて、シーラをじっと見つめてきた。

「いちまい食べる?」

 それからはパンくずに群がる鳩のごとくだ。子どもたちはあっという間にシーラの紙袋からビスケットを奪い去っていった。

「もうないの?」
「うん、もうおしまい」

 そういうと、最後の男の子が走って去っていった。

「あんた、お菓子やさんなの」

 振り返ると、シーラよりふたつかみっつ年下という格好の少女が立っていた。

「いいえ。今仕事を探しているの」
「ふうん」

 少女はじろじろとシーラを一通り眺めたあと、こんなことをいった。

「あたしの仕事をあげてもいいけど」
「え?」
「一応聞くけど、あんたモリって名前じゃないよね?」


 ・・・・・・


 ダモ縫製工場からレム医院に向かったが、すぐに行き違いになったとわかった三人は、そのまますぐに折り返して、縫製工場へ戻る道を進んでいた。工場の入り口が見える角にさしかかったそのとき、モリスは思慮深そうに眉を寄せた。

「ちょっと待ってください、殿下」
「なんだ」
「今回も裏口を見張ったほうがいいと思います」
「その必要はないと思うが……」
「いいえ! 誤解を恐れずにいわせていただきますが、平民たちは我々が思うほど、正直に生きてはいないとわたしは思っております。
 ですから、さきほどわたしとベンジーが正面玄関を訪ねているあいだ、殿下にはあえて裏口を見張っていただきました」
「それでおまえの気が済むのならと思ってな」
「ご理解いただけて感謝いたします」
「そしてご覧ください殿下、工場の中にいるあの男を。左の男は先ほど我々に対応した男です。右の男はおそらくここのオーナーでしょう。なにやら動きがせわしなくあやしいです」
「まあ、たしかにな」
「左の男はわれわれにさきほど、娘はレム医院に行っていて、今はいないといいました。そのときは、裏口から逃げだすようなあやしげな者はいなかったので一応信用しましたが、今となっては、これこそがわれわれをはめる手だったのかもしれません」
「つまり?」
「つまり、あの男が嘘で我々を陽動し、その間に娘はまんまと逃げたおおせたかもしれないということです」

 ハリーはモリスのよった眉間に、ぐいと指を押し当てた。

「では、なぜ関係のない医者までも、あの男の嘘に荷担する必要があるのだ。さっきまではここにいたが、ついさっき帰ったなど」
「そ、それは」
「理由がないだろう」
「医者もグルだったのでは! 町医者など金を握らせればなんとでも」

 平民の娘をあきらめさせたいモリスは、平民全部をまとめてバイアスをかけたつもりだろうが、どうしても無理がある。ハリーはため息をつきながら、ベンジーを見た。モリスに余計なことを言ってくれたお陰だ。

「わかリました、モリスさん! 今度は僕が裏口を見張ります!」

 ベンジーは逃げるように裏口へ回った。ハリーとモリスは改めで工場のドアを叩いた。工場の女たちは色めき立って騒ぎ出し、そして今度は殿下まででてきたとあって、ゴドはすっかり動転した。

「いっ、いま、オーナーを呼んでまいります」
「オーナーじゃなくて、呼んで欲しいのは、シーラ・パンプキンソンだ!」

 モリスは平民相手だとついいらいらと声を荒げた。そしてすぐ血色をなくしたダモが執務室から出てきた。

「シーラならさっきやめさせました! なにをしたか知りませんが、あの娘はうちとはなにも関係ありません!」

 ハリーとモリスは二人で顔を見あせた。今度はモリスに変わってハリーが前に出た。

「おまえがこの工場のオーナーか?」」
「ダモともうします…」
「シーラ・パンプキンソンをやめさせたのは、どういう理由だ」
「どうって、…それは殿下のほうがご存知かと…」
「いいや、おれはしらない」
「へえっ? ですが…、そちらのかたの制服は憲兵服。憲兵に追われるには、それなりの理由があったからでしょう? わたしたちは面倒な問題に巻き込まれたくなかっただけで」
「面倒な問題だとなぜおもった?」
「…ええ?」
「簡単なことを面倒にしたのはおまえたちのほうだ」

 モリスが自分の胸のバッジを親指でさした。

「なにか勘違いしているようだが、よくみろ。これは士官候補生のバッジだ。士官候補生が校外に出るときは、一憲兵と同じ制服で外出が決められている。バッジのことは子どもですら知っていることだぞ。どうやらよっぽど憲兵服に気がかりなことあるようだな」
「あ、いや、その、そ…」

 モリスは意地の悪い顔で、ダモの襟をちょんと指ではじいた。

「自分で墓穴を掘ったようだな。確かにこの服、叩いたらよほどのほこりが出そうだ」

 ダモのシャツは襟から脇から汗しみがくっきりとにじんでいた。

 後日、ダモ縫製工場がおこなってきた不正、不届きな所業の数々が明かるみにでた。工場は別のオーナーに買い取られ、女工たちはそのまま雇用されることになった。労働条件が改善し、ずいぶん働きやすくなったらしい。

「また逃げられてしまいましたね」

 ベンジーはハリーの執務室で頭をかいた。
 モリスは再度、監督生としての責務に励むようハリーから言い渡されたので、この場にはいなかった。ハリーは、ふふふと笑いながら、承認を待つ書類から目をあげた。

「だが、なかなか面白かった。こうした肩の凝るような仕事の合間には、ちょうどいい息抜きだ」
「はあ…、殿下が楽しんでいらっしゃるなら何よりですが…」
「俄然、興味がわいてきた。いったい何者なんだ。シーラ・パンブキンソンという娘は」
「女工たちからは、たいした情報を聞き出せませんでしたね」

 ダモとゴドを憲兵に引き渡したあとで、ハリーたちは何人かの女たちに話を聞いた。

「いつからこの町にいるのかをきいたことはあるか?」
「つい最近だといってました」
「どこから来たといっていたか」
「どこだったかしら、セとかソとかなんとか…聞きなれない名前でした」
「いろんなところを転々としてきたっていってましたねぇ」
「たとえばどこだ?」
「どこって、わすれちまいましたよ。あたしゃこの町から出たことないんで、聞いたって行く予定もないんだから、わかりませんねぇ」
「では、なんのためにこの町に来たかは?」
「さあ……。でも故郷へ帰るために金を貯めたいとはいってましたよ」

 その中にはソナもいた。

「シーラは字が書けるんです。うらやましい……」
「どうしてそれを?」
「どうしてって、仕事中もよくメモをとってましたから。それにこの靴下はシーラのお陰なんです」
「というと?」
「あたし、工場長がどうして新人のあたしに靴下をくれたのか、工場長に直接聞いたんです。そうしたら……」
「シーラ・パンプキンソンというのは本名なのか?」
「鼻見栄の一音だということは本当みたいでした」
「両親の話をきいたことは?」
「故郷で両親が心配してるとか、してないとか」
「どっちなんだ」
「同室だからってそんなこと、いちいち深く立ち入りませんよ」


 ・・・・・・


 ベンジーは気にかかった事柄をあげた。

「あのルームメイトはもう少しなにか知っていそうでしたね」
「知っていたとしても話さなかっただろう。見返りをなにか握らせれば違っていたかもしれないが」
「それから、パンプキンソンという性ですが、戸籍部で調べてみました」
「ああ」
「王都を含む近隣の町村には合致する者はいませんでした。すでに地方の戸籍との照会を頼んであります。ですが、戸籍部でも言っていたのですが、偽名の可能性が高いそうです」
「鼻見栄なら、主人にもらった愛称をそのまま使っている可能性がある。あるいは芸名をつかうような仕事の経歴があるのかもしれない」
「シーラという名は、もとはシラですので、シラでも照会をしてみましたが、数が多すぎて絞り込めませんでした。
 一箇所ずつ貴族の屋敷に勤めた者がいるかを聞いて当たれば、いずれは見つかるかもしれません」
「おれの一存で憲兵と士官候補生と消防隊を全員借り出せるのなら、今すぐそうするんだがな。だが素性については今は問うつもりはない。本人に会えればおのずとわかることだ」
「ともかくシーラがこの町から出るということはまずないだろう。縫製工場の一件が落ち着いた今、縫製工場に戻っていることも考えられる」
「近いうちにもう一度訪ねてみます」
「もし戻っていなかったとしても見つけ出すのにこれまで以上に難しいということはあるまい。名前が明らかなのだ」
「そうですね」

 ハリーはくすくすと思い出し笑いのように笑った。

「シーラ・パンプキンソン。おかしな名前だな。消防車両を置物呼ばわりしたり、茶屋では茶葉の目利きをしたり。恋文の代筆に、ハゲた猫の里親探し。そして上司に靴下やビスケットをかわせてみたり。なかなか想像のつかないことをやってくれる。ユニークな娘だ」
「その茶葉の目利き、というのはなんのことですか」
「うむ。リベル中央大学のシェフの話では、あの茶房はいい茶葉をそうと知らずに安い値段で卸していたらしい。だからシェフはわざわざあの店で仕入れていたのだ」
「そんなことがあるんですか」
「どうやらな。おれたちが行ったあの日、茶葉の瓶は産地やランクによって順位がつけられ、見るものが見ればそうとわかるように並んでいた。となると、茶葉の真価を知らないあの店主が並べたものではない」
「ではそれは、あの日店番をしたシーラがやったことだと」
「確かめてはいないが、そういうことだろう。まがりなりにも商人以上に紅茶の銘柄に詳しくなるとすれば、それをそうと知りながら飲んだことのある者だけだ」
「でしたら、単なるメイドというより家庭教師や話し相手のようことをしていたかもしれませんね。教師というには若すぎる気もしますが」
「そうだな」
「でしたらいっそ、屋敷を持っている紅茶好きの貴族たちに、昔シーラと名づけた娘と一緒に、高い紅茶を飲みませんでしたか? ――と聞けたらいいんですが」
「それは極力つかいたくない手だな。そんなことをすれば、またことをかき回す輩が増えるだろうから」

 ハリーの言葉にベンジーは気まずそうに笑ってごまかした。ハリーも笑顔を返した。執務室のドアの前で待ち構えていたモリスをみるや、ベンジーはため息をついた。

「それで、どうだった。殿下はあの娘シーラのことをあきらめそうか?」
「あんな露骨なのはかんべんしてください。陛下の僕への心象がわるくなります!」
「そんなことより、次はどうするのだ」
「そんなことじゃありませんよ…。それに、モリスさんがいろいろといってみたところで、逆効果だと思いますよ」
「なんだと」
「だって、殿下はこの件をどうも楽しんでいるようなんです」
「楽しむだと」
「この、いたちごっこといいますか、運命のすれ違いといいますか」
 そのとき、モリスはベンジーを壁に押し付けて、鋭い目をむけた。
「だれが…運命だって?」
「こ、言葉の綾ですよ…」

 ベンジーに促されて士官学校まで戻ってきた二人は、モリスの監督生の個室にはいった。

「しかしですね、僕が思うに」
「なんだ」
「殿下に限らず、こういうものはつかまると思ってつかまらないから、よけい捕まえたくなるのです。
 いったんつかまえてしまえば、なんだこんなもの、と思うものですよ。ですから、ここはさっさとあのシーラをつかまえてしまうことです」
「たしかに、それはいえている」
「ですから、シーラを早いところ見つけて、殿下にお目通りさせるのです。あわせないようにするよりも、いったんあわせてしまえばきっと殿下のご執心も消えることでしょう」
「そうか、そういうことなら、わたしもそのつもりで協力しよう。とにかく早いほうがいいからな」
「そうです!今月末までには決着をつけておかなければ」
「今月末? 何か予定があったか」
「王宮夜会ですよ!」
「ああ…」

 ベンジーはまた唐突に熱っぽい顔つきになる。

「ノエル姉様とマチルちゃんが、すばらしいドレスを新調しているんです! ノエル姉さまはスイートピーのピンク色、マチルちゃんは淡い黄色シルクのリップルなんです。それは、それは、かわいらしいんです! ああ、陛下にぜひご覧いただかなくて!」
「お、おお…」


*おせらせ*  本作は便利な「しおり」機能をご利用いただく読みやすいのでお勧めです。さらに本作を「お気に入り登録」して頂くと、最新更新のお知らせが届きますので、こちらもぜひご活用ください。

丹斗大巴(検索もしくは、ユーザープロフィールから)で公開中。こちらもぜひお楽しみください!

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

とまどいの花嫁は、夫から逃げられない

椎名さえら
恋愛
エラは、親が決めた婚約者からずっと冷淡に扱われ 初夜、夫は愛人の家へと行った。 戦争が起こり、夫は戦地へと赴いた。 「無事に戻ってきたら、お前とは離婚する」 と言い置いて。 やっと戦争が終わった後、エラのもとへ戻ってきた夫に 彼女は強い違和感を感じる。 夫はすっかり改心し、エラとは離婚しないと言い張り 突然彼女を溺愛し始めたからだ ______________________ ✴︎舞台のイメージはイギリス近代(ゆるゆる設定) ✴︎誤字脱字は優しくスルーしていただけると幸いです ✴︎なろうさんにも投稿しています 私の勝手なBGMは、懐かしすぎるけど鬼束ちひろ『月光』←名曲すぎ

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません

ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは 私に似た待望の男児だった。 なのに認められず、 不貞の濡れ衣を着せられ、 追い出されてしまった。 実家からも勘当され 息子と2人で生きていくことにした。 * 作り話です * 暇つぶしにどうぞ * 4万文字未満 * 完結保証付き * 少し大人表現あり

僕は君を思うと吐き気がする

月山 歩
恋愛
貧乏侯爵家だった私は、お金持ちの夫が亡くなると、次はその弟をあてがわれた。私は、母の生活の支援もしてもらいたいから、拒否できない。今度こそ、新しい夫に愛されてみたいけど、彼は、私を思うと吐き気がするそうです。再び白い結婚が始まった。

最強令嬢とは、1%のひらめきと99%の努力である

megane-san
ファンタジー
私クロエは、生まれてすぐに傷を負った母に抱かれてブラウン辺境伯城に転移しましたが、母はそのまま亡くなり、辺境伯夫妻の養子として育てていただきました。3歳になる頃には闇と光魔法を発現し、さらに暗黒魔法と膨大な魔力まで持っている事が分かりました。そしてなんと私、前世の記憶まで思い出し、前世の知識で辺境伯領はかなり大儲けしてしまいました。私の力は陰謀を企てる者達に狙われましたが、必〇仕事人バリの方々のおかげで悪者は一層され、無事に修行を共にした兄弟子と婚姻することが出来ました。……が、なんと私、魔王に任命されてしまい……。そんな波乱万丈に日々を送る私のお話です。

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

【完結】獅子の威を借る子猫は爪を研ぐ

綾雅(ヤンデレ攻略対象、電子書籍化)
ファンタジー
 魔族の住むゲヘナ国の幼女エウリュアレは、魔力もほぼゼロの無能な皇帝だった。だが彼女が持つ価値は、唯一無二のもの。故に強者が集まり、彼女を守り支える。揺らぐことのない玉座の上で、幼女は最弱でありながら一番愛される存在だった。 「私ね、皆を守りたいの」  幼い彼女の望みは優しく柔らかく、他国を含む世界を包んでいく。 【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ 2022/06/20……完結 2022/02/14……小説家になろう ハイファンタジー日間 81位 2022/02/14……アルファポリスHOT 62位 2022/02/14……連載開始

《後日談追加》辺境伯一家の領地繁栄記~辺境伯末っ子令嬢はしょぼしょぼ【魔法スキル?】で努力を忘れない~

しのみやあろん
ファンタジー
メリル・アクアオッジは北の辺境伯の末っ子として生まれた。 かつてのアクアオッジ領は領土面積こそ広大だったが、豊かな土地とは言い難かった。 だが今のアクアオッジは寒い土地ながらも美味しい食べ物で有名になりつつある。近隣諸国からもわざわざ観光で人々が訪れるほどになっていた。 けれどまだまだ面倒な土地をひとまとめにして厄介払いしたような領土を、アクアオッジ辺境伯が頑張って治めている。 平らな土地が少ない・山が多い・海に面した土地は漁獲量が増えてきた・人がまだまだ少ない・魔物の森と面しちゃってる・魔王の国と面しちゃってる・東の隣国がキナ臭い・勇者に目を付けられている(New!)・国土の北部なので寒い・王都からちょっぴり遠い, etc.…  アクアオッジ領のあるこの国はラザナキア王国という。 一柱たる女神ユニティと四大|精霊《エレメント》たる地・水・風・火、それぞれの精霊王が興した国なのである。   ラザナキア国民には【スキルツリー】という女神の加護が与えられる。 十歳になると国民は教会に行き、スキルツリーの鑑定をしてもらえるのだ。 ただスキルツリーの鑑定をしてもらうのにお布施が必要だった。 しかも銀貨七枚もする。十年前のアーサーの時代は五枚だったが値上がりしていた。世知辛い。 銀貨四枚はだいたいセバスチャンの一日分の給与相当である。セバスチャンって誰?執事長。 執事一人しかいないけれど、執事長。セバスチャンの御眼鏡にかなう後継者がなかなか現れないからである。 メリルが十歳になったとき両親から鑑定代をもらったが、欲しいものがあったのでこっそりと懐にしまった。 両親には自分のスキルのことを【魔法スキル?】と伝えてある。きちんと鑑定したわけじゃないので、疑問形なのは仕方ない。 メリルの家族は全員の【スキルツリー】がとんでもなくて、今やアクアオッジ辺境伯一家は超、のつく有名人だらけだ。 そんな中にあってメリルのスキルはとんでもないみそっかすだった。【魔法スキル?】と言えばカッコいいけれど、メリルが放つ魔法は誰がどう見ても……しょっぱい威力でしかないのだ。 メリルは今日も『三枚の銀貨』に向かって深々とおじぎをする。 「わたしの魔法がしょぼしょぼじゃなくなりますように」 このお話は執筆中の長編『辺境伯一家の領地繁栄記』から、アクアオッジ一家を知って頂くための中編シリーズです。

処理中です...