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#13、 ――病室にて (現代part)*

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 病院の受付で、斎藤拓真は肩で息をしていた。

「あのっ……、はあっ、はあっ。
 救急で運ばれた須山奈々江さんの病室は……!?」
「ご親族の方ですか?」
「いえ、職場の上司です……!」

 部屋の番号を聞いて速足で病室へ向かう。
 会社の近くの銭湯で流した泥のような疲れの代わりに、今は冷や汗が背中にシャツを張り付けている。

(こんなはずじゃなかった……!)

 斎藤拓真はエレベーターを待ちながら、手で顔を覆った。
 社員たちに無理をさせていたことは重々わかっていた。
 今回だけでなく、これまでも連日の残業や徹夜作業を強いてきたことが度々あった。
 今までは、どうにかそれでなんとかなってきた。
 こんなやり方が長く続くはずがないとわかっていながらも、それでも斎藤拓真は自分を顧みることをしてこなかった。
 すべては自分のせいだ、と斎藤はわかりすぎるくらいわかっていた。

(須山くん、俺は君になんてことを! ……)

 斎藤拓真が病室へ着いたとき、すでに処置を終えた奈々江がベッドに横たわっていた。
 奈々江は額の右側にガーゼを当ててはいたものの、その他の外傷はなく、静かに胸を上下させていた。
 病室の担当看護師を捕まえた。

「須山さんの、職場の……はい、はい、そうですか。
 幸い、額を四針縫っただけで済みました。
 脳波も異常はありませんし、今は点滴を打って休息をとることが一番です。
 自然に起きるまでは静かに寝かせてあげてください。
 ただ、とても疲労が強く出ているのと、血液検査ではやや貧血気味でした。
 若いからといって、無理をさせないでくださいね。
 若い女性がバスの中で寝むりこけて、縫うほど強く頭を打つなんて、どれだけ疲れていたのか……。
 打ち所が悪ければ、取り返しがつかないこともあるんですよ」

 顔色のない斎藤拓真が年下の女性看護師に頭を下げた。

「すみません……」
「私に謝られても。
 須山さんが起きたら直接伝えてください」
「そ、そうですね……」
「ご家族に連絡したのですが、遠方なのですぐには来られないそうです。
 入院の手続きと、着替えなど必要な物を準備していただきたいのですが、頼んでも大丈夫ですか?」
「は、はい」
「それから、バス会社が連絡を欲しいそうです。
 損害賠償とかですかね」
「そ、損害賠償?」
「頭とか顔の傷って、結構血が出るんですよ。
 椅子とかのクリーニング代とかじゃないですかね?
 詳しくは受付に記録がありますので、電話して聞いてみてください」
「は、はあ……」

 看護師が会釈して部屋を後にしようと踵を返す。
 斎藤拓真は慌てて呼び止めた。

「あ、あのっ、傷は……。
 傷は痕が残るんでしょうか?」
「ああ……、残るでしょうね。
 でも、今はいくらでも手術で治せますから」
「そ、そうですか……」

 残ったとしても手術で消せる程度の傷だということらしい。
 斎藤拓真は看護師の背中を見送った後、奈々江の額に貼られたガーゼの下を思った。

(こんなことになるなんて……、俺はなんてことを……)

 しばらく黙って見つめていたが、恐る恐る、斎藤拓真は手を伸ばした。
 奈々江の頬に触れると、確かなぬくもりがあり、少しほっとする。

「すまなかった、須山くん……。
 俺は、君に頼り切っていた……。
 俺は……、ばかだ……。
 また、失うまで……失いそうになるまで、自分を顧みないままだった……。
 大ばかだ……、大ばかだ……」

 斎藤拓真。
 大学卒業後、学生時代に知り合った元妻と結婚し、ファストクリエイトエージェンシー社を立ち上げる。
 それから五年。
 社はなんとか大きい仕事も請け負えるようになってはきたが、その実情は社員を酷使するブラック企業。

 プライベートでは、元妻との間に双子の娘を授かったが、家庭を顧みなかったためにその翌年離婚を言い渡されている。
 産辱期、赤子ひとりでさえ大変なのに、双子の世話をワンオペで元妻に任せきりにしただけでなく、立ち上げたばかりの会社にかかりきりで、家に帰らないこともしばしばあった。
 営業のためとはいえ、酔いつぶれて帰宅したことも何度もあった。
 元妻が離婚届を置いて出て行ってから、ようやく彼女の状況を気づかう努力をしたが、元妻はすでに斎藤拓真を見限っていた。
 今は娘たちと元妻の実家で暮している。

 奈々江が入社した三年前。
 そのとき斎藤拓真はまだやり直せると思っていた。
 仕事と家庭のバランスを考えて、もっと元妻や娘たちのことに目を向けて、自分が変ったところを見せれば、元妻と子どもたちは自分の元に帰ってくると信じていた。
 奈々江の年の入社式兼歓迎会で、斎藤拓真は自慢さえしていた。

「一番大事なのは、ライフワークバランスだぞ。
 いいか、社長の俺も、妻と娘たちのために休みを取るからな。
 みんなも、自分の人生の大切なことを大切にできるような働き方をしよう。
 ほら、これが俺の娘たちだ。可愛いだろう?」

 新入社員たちはもれなく斎藤拓真のスマホの待受画面を見せられた。
 奈々江もそのひとりだった。 

「ほら、須山くんも見てみろ。
 こっちが英玲奈で、こっちが茉莉奈だ。
 一卵性だから、どっちがどっちか父親の俺でも間違えるんだけどな、ははは!」
「かわいいですね。
 双子を育てるのって大変だと聞きますけど……」
「うん……。うちはこれまで妻が頑張ってくれてたんだけど、俺ももっと子育てに参加したり、妻の支えになりたいと思っているんだ。
 やっぱり子どもを守ることが、親の最大の役目だと思うんだよね」

 採用面接のときから、斎藤拓真は度々このようなことを口にしていた。
 奈々江はその言葉を聞いて、この人なら信用できそうだ、と思ったのだ。
 特に奈々江に胸に響いたのは、子どもを守る、という言葉だった。

 奈々江は地方都市で暮す両親の元で生まれた一人っ子だ。
 だが、奈々江の家には奈々江以外の子どもがふたりいた。
 ひとつ上の従兄と、ひとつ下のその兄弟だ。
 母親の姉が体の弱い人で、さらに結婚した相手がギャンブル依存症で家庭にお金を入れてくれない人だった。
 結婚生活がうまくいかず、伯父は借金を残して失踪し、伯母は体を壊して闘病ののち亡くなってしまった。
 そして、ふたりの従兄弟は彼らにとっての叔母夫妻である奈々江の家に引き取られたのだった。

 このふたりと奈々江がうまくやれていたかというと、お世辞にもそうだとはいえなかった。
 両親というよりどころを失った兄弟が叔母夫婦や奈々江に心を開くことは難しく、叔母夫婦も懐かない兄弟を次第に手に余すようになっていった。
 奈々江自身、それまで平穏だった親子三人での暮らしが、突然ふたりの従兄弟にかき回されるようになり、戸惑うことばかりだった。
 家庭生活も荒れていたのだろう。
 そうでなくとも女の子にはない粗野で乱暴なふるまいも多く、奈々江はいつも割を食う側だった。
 住まわせてもらっているのに、父と母に感謝しない従兄弟たちに腹立たしく思うときもあった。

 従兄弟のことに関して、父は時々母を責めるようなことをいうときもあった。
 父の気持ちもわかる。
 奈々江も同じ気持ちだったからだ。
 それでも母には、かわいそうな姉と、生まれてくる場所を選べなかった甥たちに、それ以上の追い打ちをかけることなどできなかったのだ。
 手を焼きながらも母はできる限りふたりの成長を手助けしようとしていた。
 彼らが高校を出るか出ないかで、自ら家を出るその日まで。
 母が、ある時ぽつりと奈々江にいった。

「この世で一番強い愛情は、子どもを守りたいという気持ちなのよ」

 心に深く残った一言だった。
 奈々江の中に母のその言葉があったからこそ、斎藤拓真が信用に足る人物だと奈々江は判断したのだった。

 斎藤拓真がそのようなことを知る由もなかったが、結果としてその当時の奈々江の判断は誤っていたというしかない。
 いざ奈々江が入社して働き始めたのと同時期に、斎藤拓真と元妻の関係は決定的に破たんした。
 家庭を大切にするために働き方を顧みると豪語した直後に、斎藤拓真は守るべき家庭をすっかり失ったのだ。
 彼のモチベーションが総崩れになるのに時間はかからなかった。

 ライフワークバランスからなり替わった斎藤拓真の生きる目的は、元妻からの離婚調停と財産分与、そして双子の養育費の支払い義務。
 カネ、カネ、カネ。
 働き方を見直すために会社に設備やシステムウェアを投資したばかりだった。
 借入金の返済に、カネ。
 元妻は会社設立時に資金を融通してくれており、名前だけだが役員にも名を連ねていた。
 元妻が所有していた株式を買い戻す、カネ。

 カネが要る。
 無理な仕事を引き受けてでも、とにかく金をつくらなければならない。
 社員たちを使い捨てのようにこき使ってでも、返済を滞らせることはできない。
 心身をすり減らした優秀な人材がどんどん離れていった。
 若手は入ってすぐ勤務の実体を知るや、さっさとやめていく。
 事情を知っている創立時からの社員たちは文句をいいながらも、今までのところなんとかついてきてくれているが、いい加減それも限度かもしれない。

 なんのために仕事をしているのか。
 今そう問われれば、間髪入れず、金のためと答える。
 それまで、家族のためだと大口をたたいていた自分は、滑稽以外の何者でもない。
 だが、その家族の信頼を失ったことで、斎藤拓真は困難な状況に一気に追い込まれたのだ。
 小手先だけやり方を改めようとしたぐらいで、家族とすっかりやり直せると甘い夢を見ていた自分が愚かしい。
 本当に大切なものがなんなのか。
 わかっているつもりで、なにもわかっていなかった。
 失うまで、それがどれほど自分の人生にとって大切なものなのか、斎藤拓真わかっていなかったのだ。

 "恋プレ"の前の案件で、やはり過重労働で何人かの社員が辞めていった。
 ここで抜けられたら、納品まで完全に間に合わない、そういうタイミングだった。
 創立メンバーで学生時代からの友人である野本茂と、栗原友厚。
 彼らが苦言を呈した時のことだ。

「いい加減にしろよ、斎藤」
「そこをなんとか頼むよ、野本」
「あの二人に抜けられたら、もう完全にアウトだ。
 納期を遅らせてもらえるように頼むしかない」

 斎藤拓真は目線すら合わせてくれない野本の疲れの濃い眉間にしわから、今度は栗原に視線を移した。
 もともと無口な栗原はただ黙って首を横に振った。

「た、頼むよ、ふたりとも……!
 先方には絶対にスケジュール通りに納品できるって大見えを切ってあるんだよ!」
「だったら、今すぐ使えるやつを入れてくれ。
 俺も栗本も、もう一カ月以上家にも帰ってないんだぞ。
 栗原は持病の薬がもう切れてるっていうし、病院くらい行かせてやれよ」
「そうだったのか、栗本……。
 なんでいってくれなかったんだよ」
「いえる状況じゃないってわかってるからだろ。
 しっかりしてくれよ、社長!」

 栗本の代わりに野本が荒々しく答えた。
 おろおろするだけで斎藤拓真に二の次は出ない。
 呆れたように野本が栗本の肩をがっしと掴んで引っ張った。

「とにかく、今日のところは俺たちも帰らせてもらう。
 明日は定時に出社するから、とにかく納期の件はお前が責任をもってなんとかしろ」

 気兼ねしてか、栗本には立ち去りがたい様子が見て取れた。
 なんとか引き留める言葉を探していたが、それが斎藤拓真の口から出てくる前に野本が栗本を連れ去っていってしまった。

「栗本、駐車場で待ってろ、病院まで俺が送ってやるよ。
 車で行けばまだ間に合うだろ」

 同僚であり友人を気遣う野本の声が遠くなっていく。
 それに引き換え、斎藤拓真は仲間を思いやるどころか、どうしたら残って仕事をしてもらえるかばかりを考えていただけだった。
 こんなのが社長で、仲間で、友人だなんて、まったくどの口がいえるのだ。
 彼らの優しさに甘えて縋りつくことしか能がない自分。
 自分が自分で嫌になる。

 いよいよ覚悟を決めなければならない。
 これで終わりだ。
 この仕事の支払いが期日までに入らなければ、会社は終わる。
 野本と栗原には技術と経験がある。
 他の会社でも十分にやっていけるだろう。
 他の社員たちも、個々の能力なりに新しい職場を見つけることは難しくないはずだ。
 倒産して困るのは、自分だけ。
 斎藤拓真の個人資産は、ほとんど会社につぎ込んでいる。
 倒産すれば、文字通り丸裸も同然になるのだ。

 ひとりオフィスのデスクに戻ると、深く椅子に沈んだ。
 極限まで疲れているはずなのに、少しも眠くはなかった。
 もうどうにもならない。
 わかっていても、覚悟など簡単に決まるはずもなかった。
 誰もいない薄暗いオフィスで、銅像のようにただじっとしていた。
 人生のどん詰まり。
 闇と自分が一体化して、微動だにもする気も起きなかった。

「――社長、社長」

 呼びかけられて斎藤拓真は顔を上げた。
 いつの間にか、辺りが明るくなっている。
 時計を見ると朝の六時だった。
 眠っていたつもりはなかったが、どうやらあれから今までここで固まっていたらしかった。

「野本さんと栗原さんは帰ったのに、社長は帰らなかったんですね」
「……あ、ああ……。
 須山くん、こんな早くから出社してくれたの……?」
「はい、後藤さんと浜中さんが辞めてしまったので、そのぶんの穴埋めをしないと、ですよね?」
「……あ……、それは……」

 奈々江は席に着くと髪をひとつに縛り、自分の手の平でぱちぱちと頬を打った。

「よし、じゃあ、後藤さんの分わたしが引き継ぎますね。
 途中まで一緒に進めていたので、ある程度は把握しているので」
「あ……」

 斎藤拓真はまぶしいものを見るかのように、奈々江の横顔を見た。
 さっきまで暗く淀んでいた景色に、強い風が通り抜けていくかのように思えた。
 野本や栗本、そして自分でさえ絶対にやり遂げるのは無理だと思っていた状況。
 それなのに、二年目の須山奈々江は完遂するつもりでいるのだ。
 若い気力とエネルギーが輝いて見えた。

 確かに、奈々江の評価は社内でも評判だった。
 とにかく集中力がすごいのだ。
 一旦そのシステムに没入すると、他のことなど一切目にも耳にも入らない。
 そしてそのスピードと正確性は、ベテランの野本や栗林にも匹敵するほどだ。
 奈々江と同期に入った社員はみな辞めていったにもかかわらず、奈々江だけは若手には無理だろうと思われる仕事量をクリアし続けていた。
 単に優秀という言葉だけでは片づけられないような、並みの能力ではないことは明らかだった。

 斎藤拓真の中に、希望が芽生えていた。
 間に合うかもしれない。
 奈々江の空気に背中を押されるように、パソコンの画面に向き合った。
 若手にはまだまだ負けられない。
 死にかけていた心に、もう一度火がついた。
 斎藤拓真は椅子に座りなおすと、猛然とプログラムを叩き始めた。

 このときのことを振り返ると未だに不思議に思う。
 作業を始めたのは六時。
 社員たちが出社してきたのは定時の九時。
 ふたりがかりで三時間の作業。
 にもかかわらず、後藤の分担のすべてと、浜中の分担のおよそ三分の一ほどまで作業が進んでいた。
 眠気眼で出社してきた野本と栗原、そしてほかの社員たちの驚きの表情が今も忘れられない。
 この日から、須山奈々江が社の若いエースの看板を背負うことになったのだ。

 思えば、この日からだ。
 斎藤拓真の中で奈々江という存在が際立ちはじめた。
 初めて会ったのは採用面接のときだが、とりわけ特徴や個性がある女性ではなかった。
 例え十人並みの容姿だとしても、普通は若さという人生の花を楽しもうとするのが普通だろうと思う。
 身ぎれいにはしているがしかし、服装もメイクも地味で、女性らしい華やかさとは無縁のようだった。
 社会適応性にはなんら問題がないが、とっかかりや面白みには欠ける。
 不躾だが男なら必ずこういう目で一度は女性を判断する。
 恋人もいたことがないんだろう。
 服装だけでなく話し言葉や身振り素振りからも、男っ気は一ミリも見て取れなかった。

 それでも、女性社員同士で話しているときなどは朗らかな顔を見せたりすることもある。
 その笑顔を見れば、なかなか雰囲気は可愛らしい。
 だが、いざ話しかけてみると、世代間ギャップのせいか性別的感覚の違いなのか、入り込むすき間がない。
 淡々としていて、まるでカスタマーセンターの電話対応みたいに事務的に扱われるのだ。
 確かにデジタルネイティブ世代の感覚は、上の世代とは相いれないところがあって、下手なことをいえばすぐにハラスメントと煙たがれる。
 若手ほど、前時代的な働き方や人間関係を嫌がるものだ。
 だが、これほどの逸材、なんがなんでも手元に置いておきたい。
 現状においては彼女の能力に社の命運がかかっているといっても過言ではないのだ。
 彼女をつなぎ止めておくことは、斎藤拓真に残された唯一の活路に思えた。

 だが、彼女を辞めさせない手立てが、今の斎藤拓真にはまったくない。
 過酷な労働を強いるブラック企業。
 返済がきつくて給料はとても上げられない。
 上げたところで、クオリティ・オブ・ライフを重視する世代が喜んで受け入れるかどうか怪しい。
 いっそのこと、恋人関係にでもなれれば……。
 それこそパワハラ、セクハラのなにものでもないが、この際背に腹は替えられない。
 そんな下心ありきで、斎藤拓真は仕事の打ち上げと称して飲み会を開き、奈々江と親睦を深めようと試みた。

 職場近くの安居酒屋。
 案の定飲み会をパスしようとした奈々江を、今回の功労者を労うためだからと強引に参加させた。
 一杯だけだというので、とにかく奈々江の隣に陣取り、話をしようと息巻いていた。
 ところが、乾杯の音頭を取るや否や、今回の仕事のやり方に対する非難が斎藤拓真に一斉に向けらた。
 古株から始まり、酒が進むにつれて中堅が口を出し、遠慮がちだった若手たちも無礼講の笠を着てぶっちゃけ始めた。

「お前、今回はどうにかなったけど、次はこうも上手くいくと思うなよ!」
「しゃっ……、社長、マジで、鬼っす、うぃっく……!」
「俺達、いつ辞めようかって、相談してたんすよ、なあ?」
「僕は、今も退職願を鞄の中に入れてある」

 無下にするわけにもいかなくて、話に耳を傾けるいい社長のふりを続けた。
 けれども、彼らの不満は尽きることがなく、肝心の奈々江と話すタイミングが全くない。
 酒がそれほど得意ではないという奈々江がノンアルコールカクテルを飲み干すのを、じりじりしながら横目で見つめるしかなかった。

「それじゃあ、わたしはこれで。
 お疲れ様です」

 全然飲んでないじゃん、というオヤジどもの声など気にもせず、奈々江が立ち上がる。
 同時に何人かの若手も、じゃあ自分もと立ち上がった。
 思わず、顔に手をやった。
 そうだ、そもそもこんな安居酒屋で若い女性社員を引き留めようというほうが無理なのだ。
 しかも、相手は前時代を引きずったアップデートもままならない中年オヤジたち。
 若い彼らにとっては、仕事の延長上にある苦行でしかないんだろう。
 奈々江を見ると、淡々と周りに挨拶をしている。
 自分を含めてオヤジどもには全く興味のない顔だった。

「所詮、無理ゲーか……」

 思わず洩れた。
 若いころならいざ知らず、今の斎藤拓真はバツイチ男で借金漬けの吹けば飛ぶような頼りない社長。
 若い女性が好むような外見ではないし、そもそも社では無精極まりない姿も往々に見せている。
 それなりに場数は踏んでいても、乙女ゲームやホストのように女性をうっとりさせるようなセリフをいえるわけではないし、夢中にさせるほどの手練手管があるわけでもない。
 女性が魅力を感じてくれる要素がなにひとつ見当たらない。

 それでなくとも、奈々江は男性に対して恋愛的なアンテナをほぼ全くといっていいほど張っていない。
 入社当初、リサーチを兼ねてスマホにどんなアプリを入れているか見せてもらったことがあるが、奈々江のスマホにはテトリスとそのほかのいくつかのパズルゲームが入っていた。
 若い女性が入れていそうなSNS、美容やファッション関係のアプリ、乙女ゲーム、そんなものはひとつもなかった。
 聞けば、特別にのめり込んでいるというわけではなく、日ごろから集中したいときや他のことを考えないようにしたいときに、ただひたすらパズルゲームをするのだという。
 好きだからやるのではなく、精神集中やルーティンワークのようなものらしかった。
 男の斎藤拓真から見て、志向性という意味では奈々江の感覚は男性に近いと思う。
 ただ、男性が求めやすい探究心や達成感というものが奈々江にないだけに、彼女と感覚を通わすのは難しそうに思えた。
 斎藤拓真には、須山奈々江という人物が、どういう人物なのか、未だによくわからない。
 彼女はなにに喜んだり、悲しんだりするのだろうか。
 誰ならば、彼女の心の中に入れてくれるのだろうか。……

 ぼんやり見つめていたら、奈々江が斎藤拓真の元へやってきた。

「社長、今日はごちそうさまでした」
「いや……、ははは、こんなのごちそうしたうちに入らないよ。
 須山くん、君一杯しか飲んでないでしょ」
「食事をいただきました」
「ああ……、本当なら焼き肉のうまい店とかだったら須山くんにも楽しんでもらえたんだろうと思うけど、すまないね。
 俺にもっと甲斐性があればよかったんだけどさ」

 自嘲していると、奈々江がすっと膝を折って、視線を合わせてきた。
 眼鏡の奥から、斎藤拓真をじっと見て、驚くべきことをいった。

「周りからなにをどんなにいわれても、守るべきもののために踏ん張る姿は尊敬に値します」

 なにをいわれたのかわからなくて、斎藤拓真はぽかんと口を開けて奈々江を見つめた。
 それじゃあ失礼します、という響きだけ残して、奈々江の姿は颯爽と店の外へ消えていった。
 奈々江が去ってしばらくしてもなお、なんのことをいわれたのかわからなかった。
 誰のことだ? 俺のことか?
 自問しても、答えが見つからない。
 守るべきもののため、会社を守るために踏ん張る姿、といってもらえればそれは耳触りがいいが、実際は、一歩後退すれば崖から破産という大嵐に転落するから、なりふり構っていられないだけだ。

 こんな自分を尊敬?
 リップサービスか? 
 だとしても自分におべっかをいったところでなんの得があるのだろう。
 余りの責められように哀れに思った? 
 そのほうがありえそうだ。

 それとも、出たくもない会社の飲み会をうまくやり過ごすテンプレートのようなものが若者の間にはあるだろうか? 
 それとも奈々江がいくらカスタマーセンター対応だからといって、まさか、だめ上司への対応マニュアルがあるわけでもあるまい。
 わからない。
 奈々江の言葉がなぜか頭の片隅に残って離れなかった。

 その晩、飲み会が終わって斎藤拓真は待つ者のいない家に帰った。
 数年前までは、玄関ポーチには小さな明かりがともっていて、家の中は赤ちゃんの匂いや元妻の匂いで満たされていた。
 今は冷たくこごった暗闇と溜め込んである自分の洗濯物のしけった臭いがするだけだ。
 そのとき、スマホに通知が来ていることに気がついた。
 見ると、元妻からのメッセージだった。

「恵令奈と茉莉奈は今日で三歳になりました。
 一応報告しておきます」

 事務的な文面に、双子の可愛い寝顔の写真が添えられていた。
 その写真を見た瞬間、斎藤拓真の胸はぐっと詰まった。
 ぐわっと体が熱くなり、目は涙で溢れた。
 元妻が双子を出産したのもちょうど今ぐらいの深夜だった。
 長い陣痛の後、英令奈はほぼゼロ時過ぎに生まれ、茉莉奈はそこからさらに五時間もかかったのだ。
 あのときの元妻の痛みと闘う叫びと苦しみに耐える表情が瞼の裏に浮かんだ。
 あのときから元妻は、いやそれより前、妊娠中からもずっと、そして今も、元妻は双子を守るために戦っているのだ。
 誰よりも。

 握りしめたスマホの画面に、涙と鼻水が垂れて落ちた。
 暗闇の中で、双子の寝顔だけが人生を照らすかのように光を放ち、斎藤拓真は嗚咽を漏らした。

「英令奈……、茉莉奈……。
 美里……、ごめんっ……!」

 ようやくわかった気がした。
 元妻が必死で家族を守ろうとしているとき、自分はなにもしてこなかった。
 なんどもなんども言葉や態度で頼まれていたのに、自分の戦場は職場や社会の中にあるだけだと勘違いしていたのだ。
 本当に大切なものを守るべき戦いに、自分は一度も参戦してこなかった。

 それで、須山奈々江はああいったのだ。
 守るべきもののために踏ん張る姿。
 あれは会社を守るという意味じゃない。
 子どもたちを守るという意味だったのだ。
 元妻と別れた今、斎藤拓真はもはや彼女たちの家族の中に入れてはもらえない。
 ひとりよがりのプレーヤーはパーティから外されて当然だ。
 それでも、双子の娘たちとは父子の関係が続いている。
 金を稼ぎ、養育費を払う事だけが、今の斎藤拓真にできる子どもたちを守る方法。
 家族としてつながることを許される唯一の手立て。
 それが今の自分の戦いなのだ。

 須山奈々江が入院した翌日、郷里から両親が駆けつけた。
 斎藤拓真は最大限の謝罪と、状況の説明をした。
 命に別条がないことを理解すると、ひとまず夫妻は落ち着いて話を聞いてくれた。
 斎藤拓真は奈々江の家族のことを一通りここで知ることができた。

 奈々江の父、須山真は、国内屈指のバルブメーカーのエンジニアで、国内外問わず今も各地を飛び回ってバルブの設計と設置に携わっている。
 母の日夏は、長らく専業主婦だったが子どもが自立したのを機に、フラワーアレンジメント教室とスポーツクラブに通いながら、ときどき近所のスーパーのパートで働いているそうだ。
 話し言葉や服装からしても、しっかりとした家庭の雰囲気がある。
 古き良き時代なら一億総中流家庭という感じで、現代日本ならそれはもはや上流家庭といってもいいだろう。
 こういう品の良さというか育ちの良さは、首都より地方都市のほうが持ち崩さずに済むのだろう。

「本当に申し訳ありませんでした。
 奈々江さんの入院費用や生活の保証、それに傷を消すための手術費用など、私が責任をもってお支払いします。
 もちろん、お二人の宿泊代も。
 ホテルはもう取られましたか?」
「いや、そこまでしてくれなくても大丈夫だよ」
「いえいえ、本当に悪いのはすべて社長である私なので。
 どうか遠慮なさらないでください。
 まかり間違えばお嬢さんの命の危険があったのを、私が見過ごしてしまったんです。
 この程度では罪滅ぼしにもならないかもしれませんが、手配させてください」
「そういってくださるんだから、お願いしましょうよ、お父さん。
 慌てて出てきたから、どこになんのお店があるのかもよくわからないし。
 これから奈々江のアパートまで着替えを取りにも行かなきゃいけないわ」
「お前がいうなら、そうするか……。
 では斎藤さん、お願いします」
「はい、では追ってお知らせします。
 あと、着替えなどは一応院内の売店にあるのと、近くの量販店で一通りは揃えてあります。
 ただ、サイズや女性が必要なものがよくわからなかったので、やはりお母様に準備して頂いほうがいいかと思います」
「あらあら、男性のあなたがそこまでしてくださったの?
 やっぱり若い方は違うわね。
 うちの人は、自分の下着すらどこにあるのかわからないのに」
「おい、今そんな話をしなくてもいいだろう」
「あら、ごめんなさいね」

 斎藤拓真は頭をかいた。
 自分の父親と母親もこの夫婦とかなり近い夫婦関係だったからだ。
 世代的なところが大きいだろう。
 だが、斎藤拓真の父はいわゆる古い時代の男で、家では亭主関白があたりまえだと思っていた。
 母は母で働いていたが、父が家事を手伝うという姿はついぞ見たことがない。
 そんな父を時代遅れだと内心呆れていたのに、振り返れば自分も父親と同じことをしていたのだ。
 刷り込まれた家庭環境というものは簡単に塗り替えられるものではないらしい。

「い、いえ……。
 私も妻の出産のときに入院の準備をしたことがなかったら、なにがなにやら全くわからなかったと思います」
「あら、そうだったのね。
 奥さんがうらやましい」
「おい」
「あら、うらやましいといっただけですよ。
 お子さんはおいくつなの?」
「四歳です、双子の女の子で」
「まあ、それはそれは。
 今が一番かわいい時よね。
 でも、奥様はさぞご苦労なさっているでしょう?
 ……あ、でも今の若い方はイクメンっていって育児や家事にも参加するそうね。
 今の人はいいわね。
 ふたりで子育ての楽しみを分かち合っているのね」
「我々の時代と違って、今の働き世代には男にも育児休暇があるそうだからな。
 我々の時代では考えられん」
「……あ、いや、その……。
 つ、妻といっても、元妻でして……」

 気まずくて顔を伏せた。
 須山日夏が、あらぁとため息を吐いたのが聞こえた。
 須山真がなぜか威張ったように鼻を鳴らした。

「男が旗印となって一つの組織を率いていくんだ。
 女は女でそういう夫を支える覚悟がなければ、回るもんも回っていかんのだ」
「あらまあ、そういうものですかね」
「い、いえ、私の場合は、本当に家庭を顧みることがなく、元妻に苦労をさせていたので……」

 擁護されると、気持ちとしてはますます苛まれて居たたまれない。
 斎藤拓真は気まずい苦笑いを顔に張り付けた。
 そのとき、須山日夏が労わるようにほほ笑みながら隣の夫を見た。

「妻はね、苦労には耐えられるものですよ。
 でも、孤独には耐えられないんです。
 まあ、今の人にしたら、古い考えかもしれませんけどね」

 須山真が面食らったような表情をにわかに映して、含んだようにわずかに口元を動かしたのが見えた。
 はっとした。
 そうだったのだ。
 自分は、苦労だけをさせていたんじゃない。
 元妻を、孤独にしていたのだ。
 須山日夏の言葉が、全てを表していた。
 あの当時、久しく見ていなかった元妻の顔。
 彼女の顔に、ふたりで暮らしていたときのような、あるいは付き合っていたときのような笑顔や親しみがなくなってから、自分はそれをどれくらいの間それを見て見ぬふりして放置していたのだろう。
 最近いつも機嫌が悪い。
 仕事から疲れて帰って来たのに、愛想のひとつもいえないのか。
 そんなことを思っていたはずだ。
 あのとき、元妻がその胸中にどれだけの孤独を抱えていたのかを計りもしないで。

 須山奈々江の口からあの言葉が出てきたのは、この両親あってこそなのだろう。
 出張で留守がちの夫であっても、妻は夫からの情をしっかり感じていた。
 そして、妻は母としてふたり分の愛情を娘に注いで育ててきたのだろう。
 両親に愛され、守られているという自負が子どもの心を育てると聞いたことがある。
 須山奈々江はそういうふうに育てられたのだ。
 そんな大切に育てられた人様の娘を、自分は物のように扱い、怪我まで負わせたのだ。
 自分の娘が同じ立場にあわされたらどう思うだろう。
 はらわたが煮えくり返って、目の前の社長の首を締めずにおけるだろうか。

「ほ、本当に、申し訳ありませんでした……!」

 斎藤拓真は百八十度腰を折って、深く頭を下げた。
 脈絡が不明だった突然の謝罪に、夫妻がいぶかし気に顔を見あわせる。

「お二人が本当に大切にしている奈々江さんを傷つけることになってしまい……。
 自分の娘が同じ目にあったらと思うと、とても……とても……。
 こんな頭を何度下げたところで、許されるはずもありませんが……」
「お、おい、斎藤さん。
 謝罪はもう受け取ったよ。
 いいから、頭を上げてくれ」
「そうですよ、とにかく娘は無事だったんですから」

 それでも顔を上げられずにいると、須山真が斎藤拓真の肩に手をやった。

「そうでなくても、あの子はいつも無理をしてしまうところがあるんだ。
 なにも今に始まったことじゃない。
 我々親のほうにも責任があるんだよ」
「え……?」
「そうですね。
 こうなる前に、私たちがもっと奈々江を気にかけてやるべきでした。
 この子にはいつも気を使わせてしまって。
 いつも、大丈夫といって、私たちに心配させまいとするんですよ」

 夫妻が、一人娘の寝顔に視線をやった。
 須山日夏が奈々江の前髪を整える。

「この子が小学四年生の時、私の姉夫婦の息子たちを引き取ることになったんですけれど、これがなかなか……手に負えない難しい子たちで……。
 私は甥っ子ふたりに本当に手を焼きました。
 奈々江は女の子で素直な子だったし、いうなれば扱いやすいいい子だったんですけれど。
 和左と右今、ふたりとも新しい環境になじめなくて……。
 私も最初は男の子というのがどうにもよくわからなくてね。
 夫も留守がちですし、子どもたちの気持ちをうまく汲み取ってやれなかったんですよ」
「今思えば、私がもっと彼らとコミュニケーションを積極的に取っていればよかったのかもしれないが……」
「まあ、私たち夫婦が甥っ子たちに手を焼いている間、奈々江はなんでも自分でやるようになっていったんです。
 運動会の鉢巻きをつくるとか、ゼッケンに名前を入れるとか。
 ほら、学校の家庭科の授業で縫物とか料理とかって習うでしょう?
 奈々江は私に気を使って、そういうことを自分でやって、私の手がかからないように気を遣うようになりました」
「偉いですね……。
 自分の子ども時代とは大違いです」
「ええ、高校生からは黙っていても自分からお弁当を作るようになってね。
 私が忙しそうにしているときは、家事も進んでやっておいてくれて。
 でもね、奈々江が小学校六年生のとき、自分のおこずかいで生理用品を買っているとに気がついたときには、正直母親としてとてもショックでしたよ。
 男の方だからわからないかしら。
 普通こういうものって、そうなったときに母親にいって、一緒にお店に行って揃えたりするものなのよ。
 今は学校でそういう教育もしてくれるのね。
 奈々江に聞いたら、近くのコンビニで買っていたというの。
 いくら奈々江がしっかりしているからって、娘のこんな大事なことまで気がつかないでいたなんて悲しくなったわ。
 それに、心も体も成長途中の小さな女の子が人目もあるコンビニで、店員さんだって女性ばかりではなかっただろうに、どんな気持ちでひとりでレジの前に立っていたと思うと、本当にやるせなくってね」
「父親の私じゃきっと一生気づきもしなかったよ。
 まあ、その話を聞いたところで、私のような父親ではなにもしてやれなかった」
「それから私も夫も、以前よりもっと奈々江の様子には気を配るようにしたんだけれど、いつの間にか奈々江はすっかり、割り切っているというか、あきらめたというのかしら、とにかくそういう意味では大人になっていてね。
 なにか心配事はない? って聞いても、いつも大丈夫っていうの。
 実際、学校の連絡事項だとか進学のことだとか、たいてい学校の先生にも事前に話を通してあって、私たちは奈々江の決めた通りにすればいいというだけだったわ、それはもう、ほとんどのことがね。
 その代わり、甥っ子たちのことでは幾度も学校に呼ばれたり、進学のことでもめたり、それ以外でも本当にそれはいろいろなことがあって……。
 実際あの当時は、奈々江が自分で自分のことをしっかりやっていてくれたから、なんとかやってこれたという感じだったのよ」
「そうだったんですか……。
 確かに、奈々江さんは年齢にしてはしっかりしすぎるくらいしっかりしているかもしれません。
 恥ずかしながら、そういう奈々江さんに甘えてしまった結果が今ということなのですが……」

 夫妻が各々にふうとため息を吐いた。

「そう、しっかりしすぎているんだ、この子は。
 昔、奈々江の誕生日に、なんといったかな……、子どもたちの間で人気だった持ち運べるゲーム機を買ってあげたことがあったんだ。
 出張から帰ってくると、新しいモンスターだか何だかが、増えたとか強くなったとかいって、嬉しそうに見せてくれたりもしたんだが、あるときからぱったりとそのゲームの話をしなくなった。
 私は単に興味を失ってしまったのだろうと思っていたが、そうじゃなかったんだ。
 ゲーム機を和左と右今に奪われてしまっていたんだ。
 その後ふたりにも同じものを買ってあげたが、結局奈々江が和左と右今たちと一緒にそのゲームで遊んでいるところを見たことがない。
 和左と右今も心細かったのか、お互いだけの世界に閉じこもりがちで、奈々江がそこに入っていけるという雰囲気ではなかったんだと思う。
 仕方のない状況だったとはいえ、奈々江には気苦労の多い子ども時代を過ごさせてしまったと思う」
「そうそう、新しいゲームソフトもすぐ二人に取られてしまってね。
 奈々江はいつも同じゲームばかりしてました。
 天井から落ちてくるマスをすき間なく埋めて消すゲーム」
「テトリスですか?」
「あ、そう、テトリス。さすがゲーム会社の社長さん、よくご存じね」

 思いもよらぬ話を聞くことになった。
 須山奈々江の子ども時代と従兄弟たちとの関係。
 奈々江の驚異的な集中力は、もしかするとそのときのテトリスゲームが影響したのだろうか。
 全く無関係とは言い切れなそうだ。
 それもそうだが、ともすると、奈々江に男っ気がないのも、どうかするとその従兄弟たちの影響のような気もする。
 小学四年生ともなれば、子どもとはいえ社会性やジェンダー意識だけでなく、個人の嗜好や価値観などもはっきりしているはずだ。
 馬が合ったなら特別問題になかっただろう。
 だがそうとはいいきれない相手と小中高と成長期、思春期を共に過ごしたとなると、それなりに複雑だったはずだ。
 幼いなりに処世術を身に付けないことにはやっていけなかったのかもしれない。
 男に興味がない、持てないというよりは、雑音のように意識からシャットアウトしたのかもしれない。
 日常を平穏に過ごすために。

「その従兄弟のふたりは、今は?」
「幸い、ふたりとも元気でやっています。
 今はK県でふたりで暮らしているので、奈々江の目が覚めたら、足を延ばそうと思っているんですよ」
「そうなんですね。
 今は関係も良好なんですか?」
「まあ、そうですね……」

 須山日夏が少し小首をかしげて、須山真を見た。
 夫がその続きを口にした。

「正直、胸を張って口にできるような職業ではないですね。
 彼らの父親が、いうなれば筋者に近い人間だったようですから。
 その影響があるんでしょう。
 それでも今は、まじめに働いて人様に迷惑をかけずに暮らしているようです。
 それに、時々ですが我々に連絡をくれますしね」
「そうなんですよ。
 あれだけ手を掛けたのは私なのに、どういうわけだか連絡はこの人のところに行くんです。
 男同士って、本当にわけがわからないわ」

 須山真がぽりぽりと頭をかく。
 なぜかつられて、斎藤拓真も頭をかいてしまった。
 確かにこれまでの話や素振りからすると、須山日夏には苦労知らずで育ってきたような、どこか品格を持ち崩さない雰囲気がある。
 やくざ崩れの父親を持つ従兄弟たちにはにわかに近づき難かったのかもしれない。
 ともすれば、奈々江が負ったであろう気苦労も、なんとなしにわかるような気がしてくる。

 斎藤拓真はひとり静かにため息をかみ殺した。
 いくら頑張ってみたところで、この防波堤を崩すのは並ではない。
 それがよくわかった気がする。
 斎藤拓真は夫妻のホテルの予約を取るために、一端病室を出た。


 斎藤拓真はスマホで近くのホテルの予約を取り、タクシーの呼び出し番号や、奈々江のアパートへ行く移動方法と乗り換えや、近隣の店や食事処などを簡単にまとめた。
 今時地図の検索機能を使えないというわけではないだろうが、出てきた膨大な情報からどれをピックアップするかというのは、自分の親世代にとっては、けっこう面倒な作業なのだ。
 奈々江の両親もそうだという決めつけではないが、須山日夏がいっていた通り慣れない場所なのだから、先に情報を絞っておいてあげるくらいの気遣いがあってもいい。
 昼食は院内のレストランか、そうでなければ自分が誘ってみるのがいいだろう。
 土地感のない場所で、ましな食事をできるところを探すのは意外と大変だ。
 そうでなくとも、両親は奈々江の世話に集中したいはず。
 こういうときだからこそ、余計な心配事を取り除いたり、優先順位の低いことは代わりに手助けをしてあげてもいいはずだ。

 以前の自分ならば、きっとそこまでしなかっただろうと斎藤拓真は考える。
 こういうことに気づけるように変われたのは、奈々江のお陰なのだ。
 今さらだが、こういうことを、元妻にもしてあげれていたらよかったのだ。
 もう一度は思い出してみた。
 奈々江がくれたあの言葉を胸に刻んで、もう一度前に進もうとしていたときのことを。

 飲み会の後、無様に泣いた夜。
 斎藤拓真は、心に強く誓ったことがある。
 二度と、娘たちを失わない。
 自分の人生で大切なものを、今度こそ守りたい。
 だからこそ、会社は絶対につぶさない。
 娘たちの父親であり続けるために、例え離れて暮らしていても、毎月養育費をきちんと元妻に払い、面会日には必ずふたりに会いに行く。
 それが自分のいま最も大切な目的なのだ、と。

 その晩はぐだぐたのままにベッドに潜り込んだが、翌朝の頭は冴えていた。
 娘たちとの親子の絆を守るために、自分を振り返り、あるべきところへ立ち返らなくてはならない。
 きちんと会社の運営を見直して、自転車操業から立ち直ることだ。
 斎藤拓真はおよそ二年ぶりに家を大掃除して、大量のごみを袋にまとめた。
 チーズが焦げて使えなくなっていたトースターも捨てると決めた。
 元妻が忘れていったブレンダー。
 いつか使うかもと置いておいたが、一度も使ったことがない。
 高かった記憶があるが、思い切って処分。
 溜まっていた洗濯物は半分洗って干し、半分はごみ袋に突っ込んだ。
 糸のほつれたシャツ、穴の開いた靴下。
 元妻がいたときには、自分のクローゼットの中にこんなものが入っていたことなどなかった。
 これからは、すべて自分でやるのだ。

 掃除をしただけで、気分がぐんとよくなった。
 世にいう断捨離は運気も上げるというのは、あながち嘘じゃない気がする。
 ついでに不要になったパソコンの周辺機器やケーブル、暇があったら手を入れようと思っていたパーツの類もまとめて処分した。
 趣味と実益を兼ねたゲームに関わるものも、精査して大切にしたいものだけを棚にきちんと並べた。
 最後に家中の窓を拭いたら、最高にすがすがしい気分になった。

 片付いたその部屋で、斎藤拓真はようやくパソコンを開いた。
 返済計画の見直しと、新規営業先への売り込み、そして社員たちの働く環境を整えること。
 今までになく、頭がすっきりとして、なにをすべきかはっきりわかるようになっていた。
 今なら、何でもできそうな気がする。
 いざ、やることが決まりリストアップできると、本当に前に進めている、という実感があった。
 そのとき、斎藤拓真の頭をよぎったのは、不思議と娘たちの顔ではなく、須山奈々江の顔だった。

 その日から、斎藤拓真は社内社外共にてこ入れを始めた。
 今まで一度もやったことはなかったが、社に一番に来て、フロアの窓という窓を全て拭いた。
 それだけで空気が変わったような気がした。
 トイレ掃除はまだしたことがないが、トイレに神様がいると信じてみてもいいかもしれない、とさえ思った。
 銀行に返済計画の見直しを相談し、株主に追加の出資をお願いして回った。
 思ったより反応は悪くなかった。
 断捨離と窓拭きが利いたのかもしれない。
 今度はトイレ掃除をしよう、そう思い、後日朝一番に来て、掃除業者が入る前にフロアのトイレを掃除した。

 掃除が習慣化し、トイレや窓ガラスや自分のデスクだけでなく、今までごみ溜めになっていた資料室を整頓した。
 汚れたおっさんしか使っていなかった、というより使えなかった仮眠室も、女子社員の意向を踏まえて改めた。
 社員たちも、少しずつ社長が本気で悔い改めたらしいぞと感じ始めたのか、自然とそれぞれが自分のデスクやデータを整理したり、放置されていた事務仕事や雑務を片付け始めた。
 決心した夜から二カ月。
 斎藤拓真の元に、まぎれもない最大のチャンスがやってきた。
 ”恋プレ”という大仕事が社に舞い込んだのだ。
 もはや、斎藤拓真にとってトイレの神様を疑う余地は万に一つもない。
 即決で受注を請けた後、嬉々として社に持ち帰った。
 だが、斎藤拓真を待ち受けていたのは、社員たちの総ブーイングだった。
 一番初めにかみついたのは野本だった。

「間に合うわけないだろ、このスケジュール!
 お前、馬鹿なのか! 
 つうか、馬鹿なんだよな、知ってたわ!」
「だけど、こんな大仕事を取らないわけにいかないだろう!
 据え膳食わぬは男の恥っていうだろう」
「食える膳と食えない膳の違いくらいわかれよ!」
「大丈夫だ、今チームに入ってくれるメンバーを当たっている。
 前回の二の舞にはしない。
 ちゃんと目算は立ててあるんだ」
「本当かよ……。
 怪しいな……」

 その言葉通り、翌日には仕事の割り振りが社員たちに提示された。
 社外に依頼する部分を差し引けば、確かに社内作業の容量には余裕があり、無理のないスケジュールが組まれていた。
 心配していた社員たちの顔に安堵が漏れた。

「社長、ようやく人並みの生活を保障してくれる気になったんすね」
「よかったあ~、これなら猫ちゃんの夕ご飯に間に合いそう~!」
「おおっ、よっしゃ! 今月の坂道エンジェルズのライブに余裕で行けるわ」
「斎藤、お前にしては上出来だよ。
 俺も、息子の参観日に行けそうだ。
 栗原も、お前も無理しなくて済みそうだな」

 野本の言葉に栗原が無言のままうなづくのを見て、斎藤拓真は笑った。

「みんな、いろいろ苦労を掛けたけど、これからは俺も頑張るから、宜しく頼むよ」
「今まで頑張ってなかったんかい!」

 野本のツッコミに、フロアにわっと明るい笑い声が響いた。
 そっと見ると、奈々江も表情を崩していた。
 その柔らかな笑顔を見ると、なぜか斎藤拓真の胸が温まった。
 なぜだ。
 自分で自分に聞いてみる。
 そんなのは……、と言い訳を考えようとしたとき、ぱっと奈々江と目が合った。
 奈々江が、小さく口角を上げて微笑みを映した。
 不意打ちだ。
 今まで、あんな顔を見せられたことなどない。
 歳がいもなく、胸を貫かれた。
 漫画だったら、きゅんとかずきゅんという効果音が鳴ってる。
 焦って、わざと大きな声を上げた。

「さあっ、みんな"恋プレ"頑張っていこう!」
「頼むぞ、斎藤!」
「頼むっすよ、社長」
「お願いします~、社長~」
「社長、しっかりお願いします」
「えっ、えっ? ……俺?」
「自覚しろよ。
 我が社一番のトラブルメイカー、お前だから!」

 再びの野本のツッコミで、それぞれが笑いながら作業に取り掛かり始めた。
 へらっと笑い頭を掻きながら、視線は奈々江を追っていた。
 もうこちらを見てもいなかった。 
 言い訳しようとしても、だめだった。
 奈々江の瞳の先に入りたい。
 もうこの気持ちに嘘はつけない。

 斎藤拓真、四十一歳。
 一回り以上年下の須山奈々江くんに、恋、してます!
 だめかもしれない。
 いや、だめだろ!
 普通に考えて自分が女だったら、俺のようなのを相手にするか?
 しないだろ!
 いや、だけど、須山くんが本当に男性との交際経験がなかったら、ワンチャンあるかもしれない。
 いやだとしても、ありえないだろ!
 いやいや、それでも、ないとはいい切れないだろ!?
 いやいやいや!
 いやいやいやいや!

 中年の頭の中で、脳内会議が続く。
 久しぶりにアドレナリンとセロトニンが大放出だ。
 恋はそれだけで人を活性化させる。
 斎藤拓真は、高ぶった気持ちそのままに、デスクに戻り仕事に取り掛かった。
 思いのままにぶつけられるほど若くはない。
 社会人の恋愛には節度が大切だ。
 伝えるにしても、今じゃない。
 まずは、この仕事をきちんと納品して、以前とは違うというところを見せたい。
 子どもも、会社も、社員も立派に守れる、頼りがいのある男だというところを見せたい。
 この思いは、仕事で結果を出して見せつける。
 それで奈々江の気を簡単に引けるとは思ってはいない。
 だが、今の自分にできることを精一杯やれば、周りはどうあれ自分の自信にはなる。
 斎藤拓真は久しぶりに燃えていた。

 "恋プレ"の滑り出しは好調で、社員たちにも気力と笑顔が満ち溢れ、フロアの雰囲気は最高に良かった。
 外注先との契約も問題なく済み、製作は順調のものだった。
 そして、スケジュールはほぼ予定通りに進み、進捗は丁度折り返しという時期だった。
 その日の仕事を終え、自宅に帰った斎藤拓真が風呂から出たときスマホが光っているのが目に入った。
 見ると、システムプログラムの一部を依頼していた協力会社からだった。
 折り返してみると、なぜか電話がつながらない。
 用があるならまたかけてくるだろう、そう思ってスマホを置いた。
 思えば、それが運命の分かれ目だったかもしれない。

 翌朝出社すると、野本ら社員たちが慌てていた。

「斎藤! 今連絡しようと思っていたんだ!」
「どうしたんだ、野本、みんなも」
「これ、このメール見ろよ!」

 パソコン画面をのぞき込んだ。
 昨日つながらなかった協力会社からのメールだった。
 斎藤拓真は目を疑った。

「と、倒産……!?」

 思わずパソコンを両手で掴んでいた。
 メールにはいろいろ書かれていたが要約すると、資金繰りが回らなくなってやむえず倒産するしかなくなったということだった。
 引き受けた仕事については、すでにパソコンを差し押さえられてしまったので、もはやデータを送ることもできないという。
 昨日の電話、それがこれだったのだ。
 頭を殴られてような気がしたが、周りの不安げな雰囲気を察するや、斎藤拓真は弱腰な姿を見せることはできなかった。

「と、とりあえず、直接話を聞いてくる!
 大丈夫だよ、みんなは通常通り仕事に取り掛かってくれ!」
「お、おう……」
「はい……」
「……」
「……っす……」
「う、うん、みんな、頼むな!」

 電話を掛けながら、急いで外注先に向かった。
 タクシーを拾っている間に電話がつながった。

「あっ、もしもし、星田さん!?」
「……」
「も、もしもし!?」
「……斎藤さん、すいません……」
「星田さん、あのメールは一体……、と、とにかく、今向かってますから会えませんか?」
「すみません、ほんと、すみません……」
「それはわかりましたから、とにかく今行きます!」
「……でしたら、B町駅前のスタバで待ってます……」
「は、はい、すぐ行きます」

 ぞっとした。
 星田の声が、もう消え入れそうなくらいかぼそかったのだ。
 これはもう、星田に仕事を続けてもらうことは無理だろうと感じた。
 と同時に、一歩間違えば自分も星田と同じ立場になっていたかもしれない。
 そう思うと、他人ごとではなかった。
 ちゃんと店に来てくれるだろうか。
 良からぬことを考えはしないかと、頭によぎる。
 斎藤拓真はいつ電話が来てもいいようにスマホを握りしめたまま、急いで店に向かった。

 タクシーを降りて店に駆け込むと、その奥で小さくなっている星田を見つけた。
 これまでなんどか一緒に仕事をしていて星田を知っていたが、以前よりもひとまわりほど小さくなったように見えた。
 目は落ちくぼんで、肌は朝黒く、唇は色がなかった。
 病気か、さもなくば貧乏神にでも取りつかれているかのようだった。

「だ……、大丈夫ですか、星田さん……」
「……さ、斎藤さん、この度は本当にすみません……!」

 星田がテーブルに手をついて頭を下げた。
 テーブルに着いた指が、ぶるぶると震えていた。
 同じ社長として、その辛さがわかる気がした。
 いいたいことはあったがそれを胸に納めて、斎藤拓真は星田の話を聞くことに徹した。
 聞いたところで、状況は変わりはしない。
 昨夜の電話の時点でもうどうしようもなかったらしい。

「星田さん、それで、このあとは……?」
「とりあえず、清算に弁護士に入ってもらって……。
 斎藤さんにも、こちらの弁護士から連絡が行くと思います……」
「わかりました……。
 というか、簡単にわかったとかいいたくないですけど、明日は我が身なんで、これから新しい外注先を探します。
 星田さん、こんなこといわれなくてもわかっているとは思うけど」
「……はい……」

 恨み言を覚悟した星田の顔が固まる。
 喉まで出かかっている言葉を飲み込んだ。

「命あっての物種っていいますから……。
 ……なんていうか、すっかりきれいになったら、また顔見せに来てくださいよ。
 なんならうちで働いてもらっても、なんて、ははは……」

 生気のなかった星田の顔ににわかに苦笑が浮かんだ。

「そうですね……。
 今は会社の整理に手がかかってあれなんですが、もしその、お許しいただけるのならそのときは、ぜひ……」

 お人よしが過ぎる。
 自分でも思った。
 今いったばかりの明日は我が身という言葉を、もう忘れたのだろうか。
 いや、忘れられるわけがなかった。
 星田と別れた後、斎藤拓真は気持ちを入れ替えて、これまでの伝手と使えるコネを総動員して新しい外注先探しに邁進した。
 日程はもう半分が過ぎている。
 だが、星田から途中までのデータも受け取ることができなかったので、丸っと手つかずの状態と同じことだ。
 こんな急ピッチの仕事を請けてもらえるところが簡単に見つかるはずがない。
 数日間、とにかく請けてくれそうな相手を探しまくった。
 何社か価格さえ合えばといってくれるところがあったが、赤を出せば今度は斎藤拓真の首が回らない。
 出来るだけの数字を投げてはみたが、予算があるから限度がある。
 結局折り合いがつかず、引き請けてはもらえなかった。

 数日間の間、プログラミングをそっちのけで電話をかけまくり、アポが取れるや否や飛び出していくという社長の姿。
 彼を見ていた社員たちも次第に危機的状況の匂いを感じ取っていた。
 ついに朝礼で斎藤拓真が新しいスケジュールと割り当てを発表した時、大半の社員が、やっぱりかと思った。

「なんだこの鬼のようなスケジュールは……」
「短かい平和だったな……よし、会社辞めるか」
「よし、辞めよう」
「俺も」
「おいおい、みんな! 
 みんなの気持ちはわかる! 」
「よっし、社長は社員の気持ちをわかってるらしいぞ。
 みんな、退職願出せ」
「い、いや、そうじゃなくて!
 わかるんだけど、そこをなんとか、みんなの力を貸して欲しいんだ。
 今回予測できない事態に見舞われたが、だからといって納期は本当に伸ばせないんだ」

 なんとか社員たちに承知してもらえるように説得しようと口を開きかけた時だ。
 野本が頭をガシガシと掻いた。

「っとに、お前はよう!
 みんな、打ち合わせするぞ!
 この仕事が終わったら今度こそ、A5ランクの焼き肉で打ち上げ、これ決定な!」
「え……」

 ぽかんと口を開けていると、社員たちが口々にいう。

「しょうがないですね~、まあ、今回は大目に見てあげますかね~」
「……ま、なんだかんだいって、前回の仕事に比べれば今回かなり余裕があったから、これまでの分は早めに終わりそうだし」
「っても、これ仏の顔も三度までの三度目だと思ってくださいよ!」
「社長、俺のわさビーフ、切らさないでくださいよ、あれがないと能率だだ下がるんで」
「そだな、社長が俺達の働き方をよくしようとしてくれてたのはわかるし、まあ、いいっすよ」
「あっ、俺もコーラ切らさないよう頼みます、あ、ゼロカロリーじゃない普通の奴っすよ」

 驚きに言葉が出なかった。
 いつの間にか、社員たちがやる気になっている。
 前回同様にきつい仕事になるのはわかっているのに、みなそれぞれが前向きな表情を見せていた。
 にわかには信じられない。
 これもトイレ掃除の効果なのだろうか。

 確かに、この数か月社員たちが働きやすいように業務時間は社則通りに守れるよう気を配ってきた。
 作業が遅れがちの社員に声を掛けたり、栗本の通院日をカレンダーにチェックを入れて忘れないように心がけた。
 なにもいわずに辞めてしまわないように、若手の仕事に対する態度には特に気を使った。
 若者の気持ちは簡単にはわからない。
 仕事の内容だったらいくらでも経験者として教えられる。
 だが、彼らとの当たり前が違いすぎて、互いに見落とていることというのがよくあった。
 こればかりは相手に教えてもらうというつもりで、彼らを観察し理解しようと努めた。
 そうしてみると、彼らのやりやすいやり方や考え方は、古参にとっても合理性に適っている場合もあった。

 それと並行して、社内環境の充実も図った。
 自由につまめるスナックコーナーを作ったり、ビーズクッションソファやアロマ加湿器や観葉植物を増やした。
 その際は、社員ひとりひとりに声をかけてなんのお菓子がいいかを尋ねたり、女子社員にクッションソファの色やアロマの香りを選んでもらったりもした。
 仮眠室の毛布やタオルのこまめな取り換えや、空気清浄機の設置、ノイズキャンセリングの高級ヘッドフォンを備えて置いたりもした。
 子どもではあるまいし、まさかスナック菓子や炭酸飲料を用意してくれたから頑張ってくれるわけではないことはわかっている。
 仮眠室を整えたとはいっても、それでも女子社員たちはやはり敬遠して使っているところは見たことがない。
 すべての是正が効果を上げているわけではないだろう。
 それでも、これまでの小さな気遣いの積み重ねが、今こうして自分の身に返ってきているのだろうか。
 そう思うと、胸がじわっと温かくなった。

「よしっ、"恋プレ"が仕上がったら、高級焼肉だ!
 だけど、事前に絶対外せない予定を組んでいるものは、遠慮せずにいってくれ。
 そこだけは死守できるように調整するから」
「おっしゃー、牛タン死ぬほど食うぞ」
「俺は参観日の日だけは無理だ」
「わたしも猫ちゃんの検診日だけは譲れないです~」
「俺も譲れないっす、人生初のシャトーブリアン」

 この仕事、乗り切れる。
 核心が胸の中を熱くした。
 遠巻きに奈々江の様子を確認した。
 ヘアゴムで髪を縛った奈々江が、またぱちぱちと頬を叩いていた。
 あれがやる気スイッチなんだろうな、かわいい……とほのぼのしてしまった。
 思わず心の中で頭を左右に振って、仕事に取り掛かる。
 今度こそ、奈々江にさしの入った最高級の牛肉をたらふく食べさせるのだ。

 そして、"恋プレ"は納期に間に合った。
 社員たちの頑張りがあったからこそだった。
 誰もが死力を尽くして、最期は落ち武者のようにヨレヨレだった。
 あの日、仮眠室で仮眠を取って帰る者や、帰らずにそのまま机で落ちる者、半目を開けながら、あるいはドアにぶつかりながら帰宅する者さまざまだった。
 ふたりしかいない女子社員はやはり帰宅することを選んだ。
 いつもそうだが、数日間風呂にも入っていない男ばかりのフロアには一秒だっていたくないのだ。
 今更いっても遅いが、あのとき斎藤拓真は開発者用のアプリの話をして別れたが、あの日すべきことはそんなことではなかった。
 ふたりにタクシーを呼んでやるべきだったのだ。
 ふたりとも帰る方向が同じだったし、須山奈々江は特にしっかりしているから今回きっと大丈夫だろうと思い込んでしまった。
 それが、こんなことになるなんて、上司としてあるまじき大失態だ。
 いやそれ以上に、ひとりの男として。

 奈々江にいいところを見せたい。
 そう思っていたが、結局"恋プレ"でも奈々江の力を頼って、頼り切ってしまっていた。
 頼りがいのある男だと見せつけたいと思いながら、実際に頼りがいがあるのは奈々江のほうだ。
 あれほど社に尽くしてくれた須山奈々江。
 腐りかけて死にかけていた斎藤拓真の心を焚きつけてくれた。
 それなのに寝落ち寸前の状態で帰宅させ、あろうことか怪我まで負わせた。
 傷は消せるとはいっていたが、女性にとって大事な顔。
 一昔前だったら、責任を取って嫁に貰わねば収まらない……というくらい昔だったら逆にありがたいくらいだが、現代ではそうはいかない。
 その都度、適切な誠意を見せていくしかない。

 斎藤拓真は病院の喫茶コーナーでひといき入れた後、奈々江の病室に戻り両親と今後の話をした。

「今夜のホテルは今SNSで送らせていただいた通りです。
 請求は私に回ってくることになっていますから、支払いは必要ありません。
 奈々江さんのアパートに行きがてら、場所を案内します。
 それと、昼食がまだでしたら、よかったらご案内したいのですが」
「あらまあ、そこまで気を使ってくださらなくても……。
 今の若い方はこれが普通なのかしら、本当に気が利くのね。
 でも、私は奈々江のそばにもうしばらくいたいですから、あなたご一緒させてもらったら?」
「私では奈々江のアパートに行ってもなにがどこにあるかわからん」
「私だって行ってみなければわかりませんよ。
 困ったわねぇ、あなた、新幹線でもなにも喉を通らないっていって、お茶しか飲んでなかったじゃないですか」
「私は大丈夫だ。
 ここにいるから、お前が斎藤さんと一緒に行って先に食べてこい」

 どうしましょうね、と須山日夏が小首をかしげた。
 須山真の言葉はいいまわしが古いせいか少々乱暴にも聞こえるが、娘や妻を思いやっているのが伝わってくる。
 動かない二人を見ていると、このままでは二人とも昼食を食べ損ねてしまうのではないかと思えてくる。
 大事な娘のためなのだから、当然かもしれない。
 せめて、奈々江の目が覚めれば、ふたりも安心できるのだと思うが、こればかりはしかたない。

「斎藤さん、あなたもお忙しいでしょう。
 ここはもう大丈夫。
 さっきいろんな情報も教えてもらったし、後はなんとかできるわ」
「そうだな。
 社長が何日も社を空けては示しがつかんだろう」
「いえ、納品が済んだばかりで小休止といったところです。
 社員もほぼ連休を取ってもらっていますし、問題ありません。
 できるかぎり私も奈々江さんの様子を見にくるつもりでいますので」

 実際、心底から安心できないというのは両親ばかりではない。
 斎藤拓真自身も奈々江の目が覚めないことには、どうにも落ち着かないのだ。
 ついでにこんな機に乗じてだが、奈々江の寝顔をとくと眺められるという僥倖をそうそう逃す手はない。
 しかし、これでは三人ともここに詰めてしまうことになる。
 それならそれで、なにか軽く食べられるものでも買ってきた方が良いかもしれない。

 そう思ったところに、突然病室のドアを誰かが勢いよく開けた音が響いた。
 誰もが驚いて振り返る。
 かなりの強さだったのだろう、スライド式のドアが弾んで細かく揺れていた。
 そのドアの先に一人の男性が立ち尽くしている。
 男の手から落ちたらしい紙袋から、なぜか大量の即席茶漬けの素がこぼれ広がっていた。
 永谷園、と書いてあるその見慣れたパッケージから上に視線を滑らせていくと、斎藤拓真と男の目がかち合った。
 その瞬間、男の顔が烈火のごとく豹変し、獣のように斎藤拓真に襲い掛かってきた。
 突然襟元を掴まれ、強い力で締め上げられた。
 斎藤拓真は、一瞬の間に息ができなくなり、突如としてパニックに陥った。



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