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第九話 まるで夢のような噺

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 裏長屋に戻った頃は日も暮れる間際。薄暗い中、そのまま正太郎のいる部屋まで二人でやってくる。

「父上、今帰りました」

 少し遅れて、煎餅布団の上に横になっていた正太郎が身体を起こす。

「おお……、大分遅かったな。そんな遠くに行ってたのか」

 長次は草履を脱ぎ捨てると、滑り込むように父の前へ座り込む。

「父上聞いてください! 寿三郎様が芝居小屋に連れて行ってくださったのです! それはそれはもう……言葉にできないくらい、素晴らしかった!」

 興奮気味に口を開く息子の様子に圧倒されながら、正太郎は寿三郎に視線を移す。

「旦那……ど、どういうことで?」
「うむ。昨日……ひょんなことから旅一座に顔見知りができてな。芝居を見せてくれると言っていたのだが、生憎俺は興味が薄く、どうしようかと思っていたところだったのだ。丁度いいので、長次に見せてやった」
「それは……」

 正太郎は感謝が言葉にならず、ため息をつきながら頭を下げた。裏長屋に住む貧しい庶民にとって芝居は贅沢な道楽、見たくても中々見られるものではない。

「なんとお礼を言ったらいいか……」
「いや、いい。掛け小屋の安い小芝居だし、どうせ只だ。ああ、あと、長次を両国に連れて行ったのは良かった。鍋を渡したら、色々ともらえたぞ」

 袖や懐から頂戴した品を取り出して見せ、長次に手渡す。

「父上のお土産に持って帰ってきました。まだ夕飯を食べていないでしょう? 今用意します」
「そうか……ありがてえ。今度あっちの方まで足を伸ばさねぇとなんねぇな……」

 そう言いながら、正太郎は身体を横にする。

「随分辛そうだが……今日無理しすぎたのではないか?」
「なぁに、ちぃとばかし疲れただけですよ。病み上がりで張り切って動くもんじゃねえなあ」

 いつものように正太郎は笑い、大きく息をついた。長居しては気を使うだろうと、寿三郎は入ってきた戸を開ける。

「今日はもう遅い。給金は明日の朝でいい。今晩はゆっくり休んでくれ」
「ありがとうございます。そうさしてもらいます。もう暗くて、勘定を間違えたらいけねえや」

 長次が見送りに来たのを手で制し、寿三郎は一人戸を閉めてから空を見上げた。赤い陽はすでに西のどこかへ沈み、空には星あかりがちらついている。

 芝居に興味がないと言ったが、見てみれば中々面白いものだった。胸がすくような話だったのもまた良かった。余韻がいつまでも身体に残るようで、初夏の暖かさも相成り、ほかほかと心が躍りだす。
 吉祥天女が仰ぐ扇は俗世の薬。その風に当てられて調子が良くなった気持ちさえし、寿三郎は機嫌良くあの妙な一座の歌を口ずさむ。

「あ元気あ元気……」

 正太郎の部屋の丁度ま裏にある自分の部屋に戻り、中に入って戸を閉めようという時、ふと遠くに浮かぶ月が目に入る。それは美しい吉祥の白い肌を思わせ、寿三郎は見てはならぬと目を伏せた。

 部屋に入れば暗がりで何も見えず。ただ隣から、長次が今日見た芝居を正太郎に興奮気味に話す声だけが聞こえてくる。それを聞きながら寝に入るのも悪くないと、寿三郎は煎餅布団に寝転び、もう一度芝居を見ている気分で夢に落ちた。


 翌朝になって、雀の歌で起こされた。まだ薄暗かったが、寿三郎はそのまま身体を起こして大きく欠伸と伸びをする。
 手桶を持って戸を開け、井戸に向かうがまだ誰も見かけない。少し早すぎたかとは思ったが、まあどの道すぐ後に女衆が慌てて動き出すだろうと、井戸の水を汲み始める。

 顔を洗って房楊枝で歯の隙間をつついているうち、長屋の中から欠伸が聞こえて来た。手ぬぐいを濡らして身体を拭いていると、中から女衆が手桶を持って忙しそうに井戸に集まりはじめる。

「おはよう、寿三郎さん。早いねえ」
「うむ、おはよう。今どく」

 部屋に向かう途中で幾人かにすれ違い、挨拶を交わしながら戻った途端、隣に住む長次の声が耳に飛び込んできた。
 何やら慌てている様子で父の正太郎と会話をしている。寿三郎は気に掛かり、そのまま裏手に回って正太郎の部屋の戸を叩いた。

「長次、どうした」

 一拍空けて中の長次が勢いよく戸を開けた。

「寿三郎様! 父上の様子がおかしくて……」

 寿三郎が中に入ると、布団の上で正太郎が青い顔をして団子虫のようにうずくまっている姿が目に飛び込んだ。

「正太郎、どうした」
「あいてて……あ、あはは、こりゃちっと、まずい。胃の腑が……ううっ……」
「待ってろ、医者を呼んでくる」

 言うや部屋を飛び出した寿三郎は、井戸端で炊事をしている女衆の視線を受けつつ、長屋の木戸から通りに飛び出した。
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