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第一章

03 ベルクの闇

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 昼か夜か朧げな真夜中に全身の空気ごと包み込まれて。投げ入れられた。

 ——そこは冷たく、身に凍える深海のようにどこまでもどこまでも続き⋯⋯
 ——ゆっくりと、緩慢に。深淵へと落ちてゆく。

「⋯⋯⋯⋯っ」
 
 酷い臭いに目を覚ました少年は、瞼を始めて開ければ————⋯⋯そこには何も映らなかった。

 皮膚に粗い布の織り目で擦れる感触に。
 視界を塞がれている事実を思い出す。

『魔物』、『化け物』、『気持ち悪い目』、『恐ろしい魔族の子』、『あんたなんか死ねばいいのに』、『何で生てるんだ』⋯⋯⋯⋯

 普通とは違う燃え上がる業火を連想させる”紅蓮の瞳”——別名『地獄の血瞳』

 地獄に落ちた者の生き血を示した皮肉めいた名前。
 魔族という、禍々しい——災厄”魔神”の血脈種族の証拠。

 その特徴は魔族の血を半身に流れている自分にもあらわしていた。
 人々にとっての——忌まわしき禍源かげんである“それ”を隠すが為に。
 
 光ひとつ通さない真っ黒な世界に。
 普通の幼な子なら不安で、すでに泣を流して喚き叫んでいたかもしれないのに⋯⋯

 ——心は妙に平静だった。
 ⋯⋯すでに何度も経験してるかのように。

 陽の当らない狭い空間、黴の染み付いた地下室、鉄錆に似た鮮血の臭い。

 ——ここは、見知らぬ環境ではないと。
 頭より体が先に示してくれた。

「ぅっ⋯⋯痛い⋯」

 あちこち鈍器で叩かれ、殴られた慣れ親しんだ後味、骨が軋むほどの鈍い痛みが身体中襲う。

 初冬の寒風が吹き、地底の空気を凍らせる。
 冷たい地面に倒れた自分の痩せ細った体を横向きにし。
 すでに薄皮と骨しか残ってない両腕で膝をきつく抱きしめ隅に小さくうずくまる。
 それはまるで、息絶え絶えの幼獣が最後の温もりを守ろうとする——脆くもか弱い姿と重なった。

「⋯⋯あと、少しっ」

 口にした声は弱々しく今にも消え入りそうなか細い呻き⋯⋯
 その先にある見えない微かな希望を胸に、自分は今ままでの苦痛を耐え忍んでいた。

 でも、本当に⋯⋯? 本当に希望はあるのか⋯⋯? 

 外に出られたとしても周りは悪意を含む凍りついた視線。

 そんな魔族の血を持つ自分の居場所なんて
 ⋯⋯——どこにも⋯⋯

 ここから解放されたとしても再び続くであろう地獄に似た辛い日々を過ごすくらいなら⋯⋯
 いっそ、このまま————この寒くも静かな地下で、じわじわと近づいて来る死を受け入れてしまった方が、楽になれるのかも。

 か細い息を吐きながら、目元に縛られた布裏でゆっくりと重い瞼を閉じきる前に——光が刺した。

 閉ざされた地下貯蔵庫の重い扉が開かれ、上か下へと降り注ぐ数日ぶりの眩しい光が遮る物体を通過しうっすらと視界に白い靄がかかる。

 死を求める心情を打ち切るように階段から降りてくる足音は軽くも、何か陰鬱めいた憎しみに近い怒りの感情を含んでいた。

 「起きなさい!! 死んだふりなんかしてるんじゃないわよ!」

 嫌悪を込めた声高い荒声を耳にする、と。
 同時に少年の放置されていた頭から腰まで覆い被さる、バサつき汚れでくすんでしまった長い長い黒髪を、女性の強い力で顔ごと吊り上げられた。

 頭皮を無理やり引き剝がせられる激痛に、条件反射で髪を引っ張る女のやつれた細い腕に掴もうとする。
 
 「その汚らわしい手で触ろうとするなんて!!!」
 
 それを目にした女性は、少年が自分の腕に触れる直前に、 腫れ物の何かを遠ざけるかのように地面へと強く投げ捨て、すでにぼろぼろな小さな体に何度も何度も皮鞭を降り下ろす。

 蓄積した相手への恨みを晴らすかのように。
 罵声と鞭に込める力をさらに込める。
 
 「あんた⋯⋯あんた達のせいで! このいやしいどぶ水みたいな所で暮らす羽目に!」

 「忌まわしい魔族が!! あんた達は生きてちゃいけない存在なのよ!! 早くっ! 早く死になさいよっ!」
 まだ癒えない傷に鞭の強打が肉の瘡蓋かさぶたを引き裂いでゆく。

 薄汚れた一枚布の上着にみるみると古い深紅の花びらと新しく咲きほこる赤い華が交互に染めてゆく。

 全身血まみれになっても少年は何も言わず。
 ただただ、残りわずかの自尊心を守るため、奥歯をくいしばり。無言に母である彼女の暴力に耐えしのぐ。

 だが、加害者にとってその苦しみを表さない淡泊とした態度は逆に相手を激昂させる。

 「あんたも私を馬鹿にするの??!!」

 「私を騙して全てを失わされたあの男のように!!! こうなったのも、全部全部あんた達が悪いのよ!!!」

 いつの間にか拓けた視野に映す先は。
 目の前に立つ、半狂乱になった母。
 充血した眼には深い憎悪がにじみ出て、女の人の酷く歪んだ血色のない蒼白な顔と周囲に纏う淀んだ空気。

 それでも、面影でわかる、美しい顔立ちはかつて多くの者を魅了したであろう。
 
 切歯扼腕せっしやくわんに再び髪を引っ張り、無理やり目線を合わささせたら彼女は不意にニヤリと笑い。
 口からは毒々し言葉を吐き綴る。

「⋯⋯私が憎い? ⋯⋯ねぇ、今の魔族の境遇知ってる? 『邪悪な魔神の血脈を絶やすべし』、そうよ。国々から皆殺しにするべきと判断された害虫扱いだわ。だから感謝しなさい私がここにいさせてあげる事を、ふふふっ」

 狭暗い空間に母の言葉が響き渡り反響する。
 
 それはまるで彷徨うさまよう深淵の魂のように部屋の隅々までと徘徊し、いつまでも留まり残る。

「災厄の血脈であるあんたに、一生幸せになる権力はないわ」

「こうしてまだ面倒を見てあげるのも私だけよ⋯⋯? ここから出ても、あんたはどこに行けるというの?」

 掴まれた首筋に深々と爪がめり込み、少年は息を苦しそうに眉を顰る。

 耳元にはすぐ側で母の発狂した強い感情を染み込んだ声が。

「邪悪な血筋はこの世に生きてはならない⋯⋯誰があんたを気にする⋯⋯? 誰があんたに近ずく⋯⋯? この気色悪い化け物!」

 もはや呪うように、怨念を込めた言葉をまだ十も超えない我が子に当てる。

 それは少年に対してか、少年を通してみるその父親か。
 おそらくどっちもだろう。
 
 城は焼かれ、路頭に迷い、家も皆殺しにされた貴族のお嬢様。
 女であり魔法の使えない凡人の彼女に、魔力も体格もはるかに優れる高位魔族に復讐は到底不可能だった。

 幸い、お腹には宿ったこの子がある。

 死んでしまった憎い相手父親に対する膨れ上がる行き場のない憎しみを子である少年に代わりとして、その感情を発散するが為にこの小さな命を産み落としたのだろう。

 少年の瞳に表す多くは自分に対する悪意への茫然と戸惑い。 
 ただそれよりも母親という相手に傷つけられた倉皇そうこうとした鋭い痛み。

 ——何かが砕ける音がした。
 そのかけらは影に溶け込み、瞳の奥底に散ってゆく。

 母の呪いじみた言葉が耳に残り、脳裏から離れない。

 自分は——生きてちゃいけないんだ。

 ——邪な血が流れる化け物なんだから。

 ——幸せなんか、望んちゃいけない。

 ——誰も、側には近づかない。

 【——そうだぜぇ。だから何もかも壊してしまえ】

  ⋯⋯“何か”が呟いた。

 『欲しいもんは力で奪う』

 『さもないと、側から離れていく』

 (⋯⋯⋯⋯離れて、行く⋯⋯)

 『欲のままに、己の心のままに』

 (⋯⋯心の、⋯⋯ままに⋯⋯)

 「俺に任せろ、望む物は全てこの手に。逆らう物は消せばいい』

 『俺の名を呼べ——ベルク』

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