泥中の蓮【完結】

米派

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針の先で突くような微かな痛みが、ずっと脳を刺激している。まるで病のように、それはしつこく付き纏ってきた。
痛みを少しでも抑えようと手を当てると、下から心配そうな赤い瞳が向けられていることに気が付いた。クレアはテオドールの外套を掴むと、しゅんと眉を下げる。

「テオ様、まだ顔色よくない……」
「少し夢見が悪いだけだから心配ない」

そう返してやっても、クレアの表情が晴れることはない。どうしたものかと思考を巡らせるよりも先に、クレアはテオドールの前に回って小さな両拳を握った。ぐっと意気込むように見上げられ、僅かにたじろぐ。

「わたしが治すの!」

クレアが片手を上げると、何もなかったはずの掌には何時の間にか箒が握られていた。クレアはそのまま箒を掲げると、ぎゅっと瞼を閉じる。そうして桜色の唇を震わせて、愛らしい声で言った。

「夢幻の支配者よ、契約の名の元に姿を現せ。堕ちろ、ナイトメア!」

クレアの足元から濃く黒い霧が立ち上る。それは彼女の姿を覆い隠し、晴れた頃には彼女の首に細い腕が回っているのが見えた。その肌は血の気が失せたように青褪めており、こちらを見据える金の眼差しは全てを見通すかのような恐ろしさを抱かせる。縦線が入っているせいか、山羊の瞳を彷彿とさせた。

『ぼくに何か用かな』

くるりと巻いた角に話す際にちらりと覗く牙は、それを人ならざるものだと証明している。
ナイトメアは蝙蝠の羽をゆったりと羽ばたかせ、ウェーブの掛かった紫の髪を空に揺蕩わせていた。

「テオ様を治してあげてほしいの」
『それが愛し子の望みなら容易いことさ』

ナイトメアはクレアの首から手を離し、ふわりとテオドールの前に舞い降りる。剥き出しの肩や見せつけるように晒された太腿に、目のやり場に困ってしまう。

「……寒そうだな」

暗にもう少し着込んでくれと頼んだのだが、ナイトメアは愉しげに目を細めた。

『そう緊張するな。ぼくたちに性別はない。契約者の望む姿を取っているに過ぎず、これは言わば仮の姿さ』

クレアの使役する精霊は、全てが女性だ。そういうことだったのかと納得していると、ナイトメアの冷たい手が頬に触れた。氷を押し当てられかのような温度のなさにビクリとして、反射的に顔を背けそうになる。けれど、がっちりと掴まれているせいで、それも叶わなかった。こつりと額が合わさり、どこまでも透き通った金の瞳に呑まれそうになる。

『仮初めなれど、僅かなる安らぎを与えよう』

ナイトメアの言葉が終わると、今までまざまざと思い出せた夢が朧気になる。自然と頭痛も遠退いた。

『これは夢を遠ざける術ではあるが、全てを消し去るわけではないよ。君自身が解決しなければ、悪夢はひたひたと貴方の背に忍び寄るだろう』
「……そうか。忠告には感謝する」
『あまりぼく達の愛し子に心配させないでおくれよ』

ナイトメアは間近で微笑むと、その姿を霧のように四散させ消えてしまった。
くいっと外套を引かれて顔を下向けると、クレアが憂慮の眼差しでテオドールを見上げていた。

「テオ様、もう頭いたくない?」
「ああ、クレアのお蔭だな。ありがとう」
「うん!」

クレアはトンガリ帽子の唾を持ち上げると、頬を淡く染めて小さく笑った。

「テオ様の笑顔は、わたしの笑顔だもん」

にんまりと嬉しそうな笑みを向けられて、自然とテオドールの頬も弛んだ。クレアはテオドールの腰に手を回して、満足そうに頬をすり寄せてくる。その背を軽く叩いてやりながら、テオドールは道の先へと目を向けた。

「それにしても遅いな」

今日は図書館で、子どもたちに勉強を教える予定だ。情勢が不安定なためオズワルドは良い顔をしていなかったが、最終的には自らが護衛に就くことで妥協してくれた。

勉強会を暫く休むにしても、せめて彼らには自分の口から理由を伝えておきたい。急に止めてしまえば、子どもたちも困惑するだろう。それに、せっかく勉学に興味を持ってくれていたのに、自分のせいで離れてしまうのは避けたかった。だからこそ、こうして護衛を伴って向かっているわけだが、いつまで経ってもオズワルドが帰ってこない。

つい先刻、通りで引ったくりが起きて、テオドールは咄嗟に追いかけようとした。それを遮り、オズワルドが代わりに行ってくれたのだ。彼ならば心配はいらないだろうが、あまりにも遅いので不安になってきた。

目の前に張られた簡易的な防御壁を前に、僅かに逡巡する。オズワルドが去る直前で、魔道具を足元に放り投げて行ったことで出来たものだ。小さな四角い箱から放出された青い光が、今テオドールとクレアを囲むようにして張られている。

すぐに戻ると言ったが、様子を見に行った方がいいだろうか。そう思い足元に落ちた箱を拾った瞬間だった。首筋を冷たい殺気が撫ぜていき、咄嗟に剣を抜き放つ。

細い道の先に、両手を突き出した男の姿を捉えた。その手に徐々に光が集まっていくのが見える。

「あんたには死んでもらう!!」

男が魔法を放つよりも早く、真横を風が駆け抜けていった。次の瞬間、勝ち誇った男の頬に赤い飛沫がかかる。黒く長いものが宙に投げ出され、くるくると回転しながら足元に落ちた。じわりと断面から溢れ出した赤が、石畳を濡らしていく。

「ぁ?」

男の口から間抜けた音が漏れて、肘から先の無くなった腕を見て大きく開かれる。そこから悲鳴が溢れ出す前に、男は喉ぼとけを掴まれ勢いよく壁へと叩きつけられた。

「黙んな」

掠れた呼気を吐き出して、男は苦しげに眉を寄せた。

テオドールはクレアの目を後ろから覆い、オズワルドが締めあげている男の顔を見た。見覚えはないが、恐らくアルフォンスの派閥が差し向けた刺客だろう。アルフォンスが王になった今、下手に残った親族は邪魔でしかない。しかも、それが男となれば玉座を狙う危険性も在るため、支持者たちにとって自分は排除したい対象であることは明白だった。

オズワルドは視線だけを此方に寄越すと、申し訳なさそうに眉を下げた。

「すみません。ちょっと足止めされちまいまして遅れました」
「いや、俺の方こそ勝手な真似をしてすまない。迷惑をかけたな……怪我はないか?」
「大丈夫です。こんな奴らに遅れは取りませんよ」

オズワルドはそう言って笑ったが、急に真面目な顔つきになると男の口に拳を打ち込んだ。

「おっと、自決すんなよ。それは、手前の主に関して始めからケツまで話してからだ」

背を向けたオズワルドがどんな表情をしているのか、自分からは見ることが出来ない。けれど、男の顔が恐怖に引き攣ったことで何となく想像はついた。

「オズワルド」
「わかってますよ。さくっと聞きだして、さくっと殺ります。心配なさらなくても、無駄に傷めつけはしません」
「……ああ、頼んだ」

この件に関しては、折り合いを付けるのに随分と掛かってしまった。
命を狙われたからと言って容易く殺すことなど出来ないと、昔の自分は刺客を見逃したことがある。そのときもオズワルドは渋りながらも従ってくれた。だが、そのせいでもう一度狙われることになり、次はオズワルドが瀕死の重傷を負ってしまった。そのときに言われたことは未だに重く残っている。

「殿下。貴方の優しさは美徳ではありますが欠点でもあります。今回は俺だったから良かったものを、御身が傷つくようなことになっていたらどうするんですか」

寧ろ自分が傷ついたほうが、どれほど良かっただろうか。包帯に血が滲んでいた。そのときになって漸く、自分の甘さでオズワルドを失いかけたことを思い知らされたのだ。

それ以来、ある程度の線引きは決めている。他への牽制の意味も込めて、暗殺者は捕えたら必ず主を吐かせて殺すようにしていた。自分の行動の始末をつけるのは自分ではない。良くも悪くも、この立場は多くの命を背負うことになる。そのことが分かったからだ。

此処に来るまでに連絡を飛ばしていたのか、幾つもの足音が道にこだまする。そして見慣れた顔触れが角から現れた。

「テオドール様、ご無事ですか!?」
「ああ、心配ない。オズワルドがいるからな」

そう返すなり、部下たちはほっと表情を弛ませた。やはり今回のことは控えるべきだっただろうか。そんなことを考えている間にも、オズワルドは男を地面に落としたようだ。どさりと鈍い音がして、男がくぐもった悲鳴を上げたのが分かった。

額は脂光りし、その顔は苦悶に濡れている。男の腕を中心として、まるで小さな池のように血が溜まっていた。思わず目を逸らしそうになるが、ぐっと堪えて男の顔を見下ろした。部下がしたということは、それは俺がしたことだ。憐れむ権利は、俺にはなかった。

男は腕から血を滴らせながらも、意志を感じさせる強い眼差しでテオドールを睨み付けた。

「貴様が望む望まない関わらず、無駄な権力は争いを呼ぶ。貴様はこの国に必要では……ぐッ!!」

オズワルドの靴底が、男の腹にめり込んだ。男は体をくの字に折り曲げて、激しく咳き込む。それでも尚、涙の滲む目でオズワルドを睨み上げた。

「余計なお喋りは必要ねぇんだよ」
「帝国の人間が、俺たちの国を語るか」
「……こそこそ鼠みたいな奴だな。過去の話なんざ持ち出す時点で、手前の主の底も知れるってもんだ」
「俺の主を愚弄するな!!」

男は無事な方の手を、ぐわりとオズワルドに向けて伸ばした。けれど、間髪入れずに顎を蹴り上げられて、そのまま後方に転倒する。ガツッと後頭部を壁にぶつけた衝撃で意識を飛ばしたようだった。

気絶までさせるつもりではなかったのか。オズワルドは短く舌を打ち、クレアの方に顔だけを動かして見た。

「クレア、そのままで良いから死なないように回復だけ掛けてくれ」
「……わかった」

クレアは掌によって視界を覆われたまま状況をよく理解していないみたいだった。それでも、小首を傾げつつ箒を掲げる。そして医術の精霊であるベルナデッタを召喚し、昏倒したまま目覚めない男に治癒を施した。男の傷が癒えても、壁を彩った赤が消えることも男の腕が帰ってくる訳ではない。

部下たちに引き摺られていく男の背を眺めていると、何時の間にかオズワルドが隣に立っていた。男の背が完全に見えなくなったところで手を離すと、クレアはくるりと回転して腹にくっついてくる。笑い返してやろうと思ったが上手くいかずに、不格好に口の端が震えるだけになってしまった。

「殿下、先ほどの言は所詮は世迷い事です。気になさる必要なんてないですよ」
「……ああ」
「あいつらは自分の正義に酔っているだけです。殿下のしてきた事を鑑みることもしない奴らの声にまで耳を傾ける必要はありません」

そうだろうか。あの男が言っていることは間違いではない。王子が二人、しかもそれが敵対していると在っては貴族連中が不安になるのも理解できる。ましてや、アルフォンスが名実ともに王になった直後だ。これからは、余計にこういったことが増えるだろう。

自分がアルフォンスの前に膝を折ればいい。少なくとも、そう見せるように振る舞えば、彼らの何人かには安心を与えられるはずだ。だが。

手が、濡れているような気がした。鉄臭さが鼻孔を突き抜けたような感覚に襲われ、咄嗟に手を下ろす。母の血を全身に浴びた日が、未だに瞼の裏にこびり付いていた。

オズワルドは何も言わずにテオドールを見ていたが、不意に剣を抜き放った。他の者なら身構えるところだが、オズワルドならば間違っても自分を害することはない。静かに見返すと、オズワルドはテオドールの胸に剣の柄を押し当てた。

「俺たちは貴方の物です。剣を捧げると決めたときから、この命は預けてあります。どう使うかはお任せしますが、殿下さえ望むなら必ず手に入れて御覧に入れますよ」
「……俺には必要ない」

騎士の誓いを求められているのは分かったが、テオドールはその申し出を跳ねのけた。確かに命を狙われるのは避けたいが、その為に玉座を取るというのはあまりにも飛躍しすぎている。

「……でしょうね」

オズワルドは目を伏せて、僅かに口許を緩めた。そして、諦めたように剣を鞘へと戻す。

クレアはきょとんとした様子で二人を眺めていたが、何を思ったのかオズワルドとテオドールの手を掴んだ。そうして二人の視線を集めた先で、クレアはふわりと柔らかく笑う。薄暗いことなど何も感じさせない笑顔を前に、一気に毒気を抜かれてしまった。それはオズワルドも同じだったらしく、彼は肩を竦めるとクレアの手を握り返してやっていた。

「行きますか」
「……そうだな」

クレアは大きく頷くと、テオドールとオズワルドを引っ張るようにして踏み出した。その小さな背に励まされるように、二人もまた歩き出したのだった。




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