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「アディク! 退けっ!」
言い終わるより速く、驃は身体ごとそこへ飛び込んだ。だが、アディクを突き飛ばすのがやっとで、体勢を整えるのには間に合わなかった。
──ガッ!
顔の半分を抉る衝撃に、視界が眩んだ。間髪入れず次の一打を右肩に受けて吹っ飛ばされ、左肩から強烈な勢いで岩壁に叩きつけられる。地面に突っ伏し、一瞬、意識が飛びかけた。咄嗟に身を起こして剣を構え直そうとし、右手の感覚が失われていることに気づく。肩の打撃は肩当てをも砕き、右腕の指先まで血が滴っていた。
「畜生……」
大きく息を吸おうとしたが、それもままならない。浅くなる呼吸。それに──左目が見えない。先ほどの攻撃は、眼球まで達したのだろうか。首の辺りに伝う感触は、汗にしては生温かい。血だ。
目の前では、大型の爬虫類のような鈍く光る皮膚を纏った悍ましい魔物が、二本足で立ち上がり、遂に最後の一打を浴びせようと臨戦態勢に入っている。その背丈は、驃よりわずかに大きい。屈強な爪の先に付着しているのが自分の血だとすると──それ以上、考えるべきではない。獲物を狙う、細めた瞳孔。ちろちろと舌を出し入れする口元からは、唾が垂れている。
そしてその後ろにも、同じ種がもう一体。
「右腕を潰したからって、いい気になるんじゃねぇよ」
左手で、血にまみれた右手から剣を捥ぎ取るように持ち替え、気力をかき集めて立ち上がった。突き飛ばされたアディクが自分を呼ぶ声が、ずい分と遠くに聞こえる。
「お前はそこにいろ!」
アディクに投げた言葉が、どのくらいの声量だったのかは分からない。しかし、目の前の魔物が自分の声に気を取られた瞬間を、驃は見逃さなかった。
痛みを意識してしまったら、もう動けない。どうせ死ぬなら、魔物も道連れだ。
「うおおおおおっ!」
雄叫びをあげて魔物に突進した驃の剣が、まるで吸い込まれるように魔物の心臓部分を貫通し、美しく引き抜かれる。吹き出した返り血を浴びながら、さらにもう一撃、脇腹に剣を突き刺し、そのまま横へ薙ぎ払った。腹から二つに割られた魔物が、ゆっくりと後ろへ倒れて行く。背後に躍りかかってきたもう一体を振り返ると、鮮やかに頸部から斜めに剣を振り下ろした。その勢いで倒れた魔物の上に馬乗り、動かなくなるまで無心に突きを繰り返す。手を緩めたら、もう二度と動けない気がした。
「驃!」
耳馴染みのある声で呼ばれ、驃はようやく、放心状態から回復した。顔を上げた先に、赤いマントを纏った銀髪の剣士が走ってくる姿が見える。
「驃っ!」
ゆるゆると立ち上がった驃の姿に、彼は目を見張った。短く刈った黒い髪は血を被って赤黒い艶に濡れ、顔も身体も鮮血に染まっている。右の肩当てが砕け、腕も真っ赤だ。顔の左側に大きな損傷があるのが見て取れたが、闇が落ちたように赤黒く欠落してよく見えない。無事だった右側の、紅蓮のような赤い瞳がこちらを凝視している。
「お前──」
「……イルギネス」
驃は、自分を見つめる親友の、海のような青い目を見た瞬間、全身の力が抜けて行くのを自覚した。もう、とても立っていられない。
崩れるように倒れかかった驃の身体を、イルギネスが受け止めた。
「驃」
「痛ぇ……」息をするのも辛い。「俺の……顔……どうなってる?」やっと、それだけ聞いた。イルギネスの肩に乗せた自分の顔が、そして右肩が、まるで灼かれているようだ。血がとめどなく溢れてくるのが分かる。どれほどの傷なのか、自分では全く判断ができなかった。
イルギネスが、ぐっと、口元を噛み締めた。彼は、言葉を探しているようだった。
「大丈夫だ……ちゃんと付いてるよ」
ようやく出てきた答えに、こんな状況だというのに、驃は笑った。傷ついた頬が引き攣り、耐え難い痛みが走る。
「馬鹿野郎。それくらい分かってる」
それが限界だった。
<こいつの腕の中で死ぬのか>
イルギネスの腕は、しっかりと自分を抱え込んでいる。
<もう大丈夫だ>
安堵と共に、痛みすらも越えて、激しい眠気が押し寄せてきた。
<お前ともっと、駆け抜けたかったぜ>
だがもう、抵抗する力は残っていなかった。
驃は目を閉じ、やっと、戦い抜いた自分を解放した。
驃、二十二歳。
不慣れな左手一本で、満身創痍の身体のどこにそんな力が残っていたのだろうかと、後にその場にいた者たちが戦きながら語り継ぐことになる、あまりに壮絶な勝利だった。
言い終わるより速く、驃は身体ごとそこへ飛び込んだ。だが、アディクを突き飛ばすのがやっとで、体勢を整えるのには間に合わなかった。
──ガッ!
顔の半分を抉る衝撃に、視界が眩んだ。間髪入れず次の一打を右肩に受けて吹っ飛ばされ、左肩から強烈な勢いで岩壁に叩きつけられる。地面に突っ伏し、一瞬、意識が飛びかけた。咄嗟に身を起こして剣を構え直そうとし、右手の感覚が失われていることに気づく。肩の打撃は肩当てをも砕き、右腕の指先まで血が滴っていた。
「畜生……」
大きく息を吸おうとしたが、それもままならない。浅くなる呼吸。それに──左目が見えない。先ほどの攻撃は、眼球まで達したのだろうか。首の辺りに伝う感触は、汗にしては生温かい。血だ。
目の前では、大型の爬虫類のような鈍く光る皮膚を纏った悍ましい魔物が、二本足で立ち上がり、遂に最後の一打を浴びせようと臨戦態勢に入っている。その背丈は、驃よりわずかに大きい。屈強な爪の先に付着しているのが自分の血だとすると──それ以上、考えるべきではない。獲物を狙う、細めた瞳孔。ちろちろと舌を出し入れする口元からは、唾が垂れている。
そしてその後ろにも、同じ種がもう一体。
「右腕を潰したからって、いい気になるんじゃねぇよ」
左手で、血にまみれた右手から剣を捥ぎ取るように持ち替え、気力をかき集めて立ち上がった。突き飛ばされたアディクが自分を呼ぶ声が、ずい分と遠くに聞こえる。
「お前はそこにいろ!」
アディクに投げた言葉が、どのくらいの声量だったのかは分からない。しかし、目の前の魔物が自分の声に気を取られた瞬間を、驃は見逃さなかった。
痛みを意識してしまったら、もう動けない。どうせ死ぬなら、魔物も道連れだ。
「うおおおおおっ!」
雄叫びをあげて魔物に突進した驃の剣が、まるで吸い込まれるように魔物の心臓部分を貫通し、美しく引き抜かれる。吹き出した返り血を浴びながら、さらにもう一撃、脇腹に剣を突き刺し、そのまま横へ薙ぎ払った。腹から二つに割られた魔物が、ゆっくりと後ろへ倒れて行く。背後に躍りかかってきたもう一体を振り返ると、鮮やかに頸部から斜めに剣を振り下ろした。その勢いで倒れた魔物の上に馬乗り、動かなくなるまで無心に突きを繰り返す。手を緩めたら、もう二度と動けない気がした。
「驃!」
耳馴染みのある声で呼ばれ、驃はようやく、放心状態から回復した。顔を上げた先に、赤いマントを纏った銀髪の剣士が走ってくる姿が見える。
「驃っ!」
ゆるゆると立ち上がった驃の姿に、彼は目を見張った。短く刈った黒い髪は血を被って赤黒い艶に濡れ、顔も身体も鮮血に染まっている。右の肩当てが砕け、腕も真っ赤だ。顔の左側に大きな損傷があるのが見て取れたが、闇が落ちたように赤黒く欠落してよく見えない。無事だった右側の、紅蓮のような赤い瞳がこちらを凝視している。
「お前──」
「……イルギネス」
驃は、自分を見つめる親友の、海のような青い目を見た瞬間、全身の力が抜けて行くのを自覚した。もう、とても立っていられない。
崩れるように倒れかかった驃の身体を、イルギネスが受け止めた。
「驃」
「痛ぇ……」息をするのも辛い。「俺の……顔……どうなってる?」やっと、それだけ聞いた。イルギネスの肩に乗せた自分の顔が、そして右肩が、まるで灼かれているようだ。血がとめどなく溢れてくるのが分かる。どれほどの傷なのか、自分では全く判断ができなかった。
イルギネスが、ぐっと、口元を噛み締めた。彼は、言葉を探しているようだった。
「大丈夫だ……ちゃんと付いてるよ」
ようやく出てきた答えに、こんな状況だというのに、驃は笑った。傷ついた頬が引き攣り、耐え難い痛みが走る。
「馬鹿野郎。それくらい分かってる」
それが限界だった。
<こいつの腕の中で死ぬのか>
イルギネスの腕は、しっかりと自分を抱え込んでいる。
<もう大丈夫だ>
安堵と共に、痛みすらも越えて、激しい眠気が押し寄せてきた。
<お前ともっと、駆け抜けたかったぜ>
だがもう、抵抗する力は残っていなかった。
驃は目を閉じ、やっと、戦い抜いた自分を解放した。
驃、二十二歳。
不慣れな左手一本で、満身創痍の身体のどこにそんな力が残っていたのだろうかと、後にその場にいた者たちが戦きながら語り継ぐことになる、あまりに壮絶な勝利だった。
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