軌跡一路

香月 優希

文字の大きさ
上 下
1 / 10

しおりを挟む
「アディク! 退けっ!」
 言い終わるより速く、しらかげは身体ごとへ飛び込んだ。だが、アディクを突き飛ばすのがやっとで、体勢を整えるのには間に合わなかった。

 ──ガッ!

 顔の半分をえぐる衝撃に、視界が眩んだ。間髪入れず次の一打を右肩に受けて吹っ飛ばされ、左肩から強烈な勢いで岩壁に叩きつけられる。地面に突っ伏し、一瞬、意識が飛びかけた。咄嗟に身を起こして剣を構え直そうとし、右手の感覚が失われていることに気づく。肩の打撃は肩当てをも砕き、右腕の指先まで血が滴っていた。

「畜生……」
 大きく息を吸おうとしたが、それもままならない。浅くなる呼吸。それに──左目が見えない。先ほどの攻撃は、眼球まで達したのだろうか。首の辺りに伝う感触は、汗にしては生温かい。血だ。
 目の前では、大型の爬虫類のような鈍く光る皮膚を纏ったおぞましい魔物が、二本足で立ち上がり、遂に最後の一打を浴びせようと臨戦態勢に入っている。その背丈は、驃よりわずかに大きい。屈強な爪の先に付着しているのが自分の血だとすると──それ以上、考えるべきではない。獲物を狙う、細めた瞳孔。ちろちろと舌を出し入れする口元からは、唾が垂れている。
 そしてその後ろにも、同じ種がもう一体。
「右腕を潰したからって、いい気になるんじゃねぇよ」
 左手で、血にまみれた右手から剣をぎ取るように持ち替え、気力をかき集めて立ち上がった。突き飛ばされたアディクが自分を呼ぶ声が、ずい分と遠くに聞こえる。
「お前はそこにいろ!」
 アディクに投げた言葉が、どのくらいの声量だったのかは分からない。しかし、目の前の魔物が自分の声に気を取られた瞬間を、驃は見逃さなかった。

 痛みを意識してしまったら、もう動けない。どうせ死ぬなら、魔物おまえも道連れだ。

「うおおおおおっ!」
 雄叫びをあげて魔物に突進した驃の剣が、まるで吸い込まれるように魔物の心臓部分を貫通し、美しく引き抜かれる。吹き出した返り血を浴びながら、さらにもう一撃、脇腹に剣を突き刺し、そのまま横へ薙ぎ払った。腹から二つに割られた魔物が、ゆっくりと後ろへ倒れて行く。背後に躍りかかってきたもう一体を振り返ると、鮮やかに頸部から斜めに剣を振り下ろした。その勢いで倒れた魔物の上に馬乗り、動かなくなるまで無心に突きを繰り返す。手を緩めたら、もう二度と動けない気がした。

しらかげ!」
 
 耳馴染みのある声で呼ばれ、驃はようやく、放心状態から回復した。顔を上げた先に、赤いマントを纏った銀髪の剣士が走ってくる姿が見える。
「驃っ!」
 ゆるゆると立ち上がった驃の姿に、彼は目を見張った。短く刈った黒い髪は血を被って赤黒い艶に濡れ、顔も身体も鮮血に染まっている。右の肩当てが砕け、腕も真っ赤だ。顔の左側に大きな損傷があるのが見て取れたが、闇が落ちたように赤黒く欠落してよく見えない。無事だった右側の、紅蓮のような赤い瞳がこちらを凝視している。
「お前──」
「……イルギネス」
 驃は、自分を見つめる親友の、海のような青い目を見た瞬間、全身の力が抜けて行くのを自覚した。もう、とても立っていられない。
 崩れるように倒れかかった驃の身体を、イルギネスが受け止めた。
「驃」
「痛ぇ……」息をするのも辛い。「俺の……顔……どうなってる?」やっと、それだけ聞いた。イルギネスの肩に乗せた自分の顔が、そして右肩が、まるで灼かれているようだ。血がとめどなく溢れてくるのが分かる。どれほどの傷なのか、自分では全く判断ができなかった。
 イルギネスが、ぐっと、口元を噛み締めた。彼は、言葉を探しているようだった。
「大丈夫だ……ちゃんと付いてるよ」
 ようやく出てきた答えに、こんな状況だというのに、驃は笑った。傷ついた頬が引きり、耐え難い痛みが走る。
「馬鹿野郎。それくらい分かってる」
 それが限界だった。
<こいつの腕の中で死ぬのか>
 イルギネスの腕は、しっかりと自分を抱え込んでいる。
<もう大丈夫だ>
 安堵と共に、痛みすらも越えて、激しい眠気が押し寄せてきた。
<お前ともっと、駆け抜けたかったぜ>
 だがもう、抵抗する力は残っていなかった。
 驃は目を閉じ、やっと、戦い抜いた自分を解放した。


 驃、二十二歳。
 不慣れな左手一本で、満身創痍の身体のどこにそんな力が残っていたのだろうかと、後にその場にいた者たちがおののきながら語り継ぐことになる、あまりに壮絶な勝利だった。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

Dear sword

香月 優希
ファンタジー
銀髪の魔術剣士イルギネスは二十四歳。 弟を病で亡くしてから一年が経とうとし、両親や周りに心配をかけまいと明るく振る舞う一方、自らの内に抱える苦しみをどうすることも出来ずに、気づけば夜の街に繰り出しては酒を煽り、時には行きずりの出会いに身を投げ出して、職務にも支障が出るほど自堕落になりかけていた。そんなある日、手入れを怠っていた愛剣を親友に諌(いさ)められ、気乗りしないまま武器屋に持ち込む。そこで店番をしていた店主の娘ディアにまで、剣の状態をひどく責められ──そんな踏んだり蹴ったりの彼が、"腑抜け野郎"から脱却するまでの、立ち直りの物語。 ※メインで連載中の小説『風は遠き地に』では、主人公ナギの頼れる兄貴分であるイルギネスが、約二年前に恋人・ディアと出会った頃の、ちょっと心が温まる番外短編です。 <この作品は、小説家になろう、pixiv、カクヨムにも掲載しています>

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

この度、皆さんの予想通り婚約者候補から外れることになりました。ですが、すぐに結婚することになりました。

鶯埜 餡
恋愛
 ある事件のせいでいろいろ言われながらも国王夫妻の働きかけで王太子の婚約者候補となったシャルロッテ。  しかし当の王太子ルドウィックはアリアナという男爵令嬢にべったり。噂好きな貴族たちはシャルロッテに婚約者候補から外れるのではないかと言っていたが

王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る

家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。 しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。 仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。 そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

処理中です...