風は遠き地に

香月 優希

文字の大きさ
上 下
18 / 96
第二章 未知なる大地

出会い 4

しおりを挟む
 その夜、啼義ナギは眠れずにいた。
 まだ少し混乱しているが、大体のことは整理できた。
 ダムスの街は、なんとドラガーナ山脈竜の背を越えたすぐ南に位置する街だった。気温が高めなのは、ある程度の距離を南下したせいだ。羅沙ラージャやしろで馴染んでいた木材ではなく、石材のタイル状の床の部屋の雰囲気は、どこかしら慣れない。
 彼らがいるのは二間続きの部屋で、隣の間ではイルギネスが大の字で熟睡していた。自分という得体の知れない人間と一緒でも、全く気にしていないかのような無警戒ぶり──無事だった愛用の剣が手放せずに、抱き抱えてベッドの上で身を固くしている自分とは、正反対だ。
 自分が生きているならば、ダリュスカインも──生きていると考えて間違いないだろう。それは否定しようのない予感だった。ここが山脈を越えているのなら、すぐに見つかる心配はなさそうだが、自分が生きていることが分かれば、必ず追ってくるはずだ。そう思うと、とても警戒を緩められる気分ではなかった。
 ダリュスカインは、打ち解けているとは言い難い相手ではあったが、レキが認める手腕の魔術師として、尊敬してもいた。好かれてるとは思っていなかったものの、あんなふうに、敵意を剥き出しにされたこともなかった。なのに──
<靂……>
 ぼんやりと、心の中で名を呼んだ。ダリュスカインは本当に、靂を──? 確かに、あの様子は尋常ではなかった。だが、自分は決定的瞬間を見ていないのだ。でも──きっと間違いではないという理解が、心の片隅で疼いた。
 急に身体が冷え、思わず目を閉じる。剣を抱きしめ、瞼の裏に、いつも大樹に登って眺めていた景色を浮かべて、啼義は耐えた。それはどこか夢のようで、懐かしい記憶に彷徨ううちに、彼の意識はやっと、眠りへと引き込まれていった。

 翌朝──目が覚めた啼義の身体は、ほとんど回復していた。あちらこちらにあった切り傷は、瘡蓋になっているか、ほとんど薄れていて、さほど痛みもない。右肩は相当の深傷ふかでだったのか、まだ完全に自由が利く状態ではないが、とりあえず大事はなさそうだ。
 起き上がることも、ほぼ難なく出来た。いつもの癖で髪をまとめようと手を回し──その手が空を切って、髪が肩先までしかないことを思い出した。頭が軽い。
<そうだった。ねえんだ>
 もう、結ばなくてもいい。そこから繋がる事実が、冷たい風のように心を吹き抜けた。ぐっと胸の奥が支える。知らず歯を食いしばって息が詰まり、込み上げた感情が溢れそうになったその瞬間、扉が開き、イルギネスが姿を見せた。パンとミルクピッチャーを乗せたトレーを持っている。
「よう。起きていたのか」
 その時、自分はどんな顔をしていたのだろう。イルギネスの表情が一瞬動き、「大丈夫か?」と問うた。
「──大……丈夫」目元を腕で拭って、啼義は答えた。心を掻き乱す感情を押し戻すように、「大丈夫」ともう一度、しっかりした口調で繰り返す。イルギネスは何か言いたげに啼義を見つめたが、トレーをベッドの横の小さなテーブルに置くと、柔らかく微笑んだ。
「お前も、腹が減ってると思ってさ」
 言われて、昨日目覚めてから、水分と、林檎をいくらか口にしただけだったことを思い出した。あとは、薬草を煮込んだ、苦いスープを飲んだくらいだ。その時は、さして食欲も湧いていなかったが、今は空腹を感じる。
「俺はもう食ったから、全部食っていいぜ。ほら、ミルクも飲め」
 そう言って、ピッチャーからマグカップにミルクを注いだ。啼義は、やや躊躇ためらいの表情を浮かべて、皿に盛られた大小のパンと、マグカップを眺めながら考え──ほどなくして、香ばしい匂いに空腹が勝った。パンをひとつ、そっと手に取り、それとイルギネスに交互に視線を投げてから、意を決したように齧った。
「うまい」自然と言葉に出た。
「だろ? すぐ隣のパン屋が、毎朝持って来てくれるんだそうだ。焼き立てだぜ」
 まるで自分が作ったかのように得意げな口調で、イルギネスが言った。
「あんまり、食ったことなかった」
「そうか」笑顔を向けられ、啼義もやっと、少しだけ口元をほころばせた。それでも久し振りに、こんな風に表情を緩めた気がする。
「食欲が出れば、大丈夫だな。今日のところはゆっくりして、明日以降、様子を見ながら出発の準備をしよう」
 その言葉で、啼義の心に新たな疑問が浮かんだ。
「そういえば、どこへ行くんだ?」
「まあ、まずは南下して、ミルファの港町まで行く。そこで仲間と落ち合う約束をしてるんだ」
 言われたところで、土地勘のない啼義には全く分からない。それに、一緒に来ないかと言われて、そのまま着いて行っていいのか、まだ判断に迷うところだ。
「その後は?」なんとなく、答えを探すように尋ねる。イルギネスは穏やかな青い瞳で啼義を見返し、「そうだな」と続けた。
「イリユスの神殿が、最終目的地というか、俺の帰る場所だ」
 一瞬、喉にパンが詰まりそうになり、啼義は慌ててミルクを喉に流し込んだ。そこは確か、蒼空そうくうの竜の信仰の拠点ではなかったか。
「……えっ?」
「ああ。俺が所属している場所さ。ちょっと人探しで出されてたんだが、見つからなくて──あ」
 イルギネスはそこでふと、何かを思い出したように啼義を見つめた。真っ向から探るような視線を向けられ、啼義は少し警戒して身を引く。
「なんだよ」腰掛けているベッドに置いている剣に無意識に手を掛け、啼義が聞いた。
「──いや」
 イルギネスは顎に手を当てて視線を外したが、「ふむ」とまた啼義に向き直った。
「お前、親は?」
「は?」
 いきなり質問され、啼義は狼狽うろたえた。しかも、答えようがない質問だ。
「……いない。っていうか、知らねえんだよ」
 今度はイルギネスが、やや驚きの顔を浮かべる。「知らない?」
「……ああ。拾われて育ったから」
 どこまで言ったらいいのか迷い、啼義はそこで言葉を切った。自分がいた羅沙ラージャやしろでは、淵黒えんこくの竜を信仰していた。この男がイリユスの神殿に所属している者なら、それを知られるのは避けたい。これ以上追及されたらどうしようかと思ったが、次の質問は全く違った。
「北の育ちか?」
「え?」
「いや、なんとなく。名前の音が、東字あがりじを当ててそうだなって」
 東字というのは、北部独特の字体のことだ。エディラドハルドの東にある大陸から流れ込んだ文化のひとつで、普段から使われているわけではないが、人名や地名に意味合いを込めて付けられることが多い。南部にはない風習だ。
「──うん」
「じゃあ、山を越えてきたのか?」
 どう答えるべきか、今度こそ答えに詰まった。
「ああ、怪我人にあれこれ聞いてすまん。まあ、話せるところだけでいいさ」
 啼義の沈黙をどう捉えたのか、イルギネスは引き下がり、会話は一度そこで終わった。啼義は少しほっとして、食事に戻る。黙々とパンを平らげミルクを飲み干すのを、イルギネスが傍で見ていたが、居心地の悪い雰囲気はしなかった。むしろ、どこか安堵のようなものを、啼義は感じていた。
「あのさ……」
 空腹が満たされると、思考も回り出す。そうなると、急にいろいろ気になり始めた。
「……ここの宿代とか……服とかも、買ってきてくれたんだろ? その、金とか……どうしたらいいか……」
 途端に不安になってきた。そもそも、金を入れていた袋が無事かどうかも、確認できていない。
 するとイルギネスは「なんだ、そんなことか」と陽気に笑い、どこか悪戯っぽい笑顔になって、こう答えた。
「気にするな。経費で落とす」

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

Dear sword

香月 優希
ファンタジー
銀髪の魔術剣士イルギネスは二十四歳。 弟を病で亡くしてから一年が経とうとし、両親や周りに心配をかけまいと明るく振る舞う一方、自らの内に抱える苦しみをどうすることも出来ずに、気づけば夜の街に繰り出しては酒を煽り、時には行きずりの出会いに身を投げ出して、職務にも支障が出るほど自堕落になりかけていた。そんなある日、手入れを怠っていた愛剣を親友に諌(いさ)められ、気乗りしないまま武器屋に持ち込む。そこで店番をしていた店主の娘ディアにまで、剣の状態をひどく責められ──そんな踏んだり蹴ったりの彼が、"腑抜け野郎"から脱却するまでの、立ち直りの物語。 ※メインで連載中の小説『風は遠き地に』では、主人公ナギの頼れる兄貴分であるイルギネスが、約二年前に恋人・ディアと出会った頃の、ちょっと心が温まる番外短編です。 <この作品は、小説家になろう、pixiv、カクヨムにも掲載しています>

『収納』は異世界最強です 正直すまんかったと思ってる

農民ヤズ―
ファンタジー
「ようこそおいでくださいました。勇者さま」 そんな言葉から始まった異世界召喚。 呼び出された他の勇者は複数の<スキル>を持っているはずなのに俺は収納スキル一つだけ!? そんなふざけた事になったうえ俺たちを呼び出した国はなんだか色々とヤバそう! このままじゃ俺は殺されてしまう。そうなる前にこの国から逃げ出さないといけない。 勇者なら全員が使える収納スキルのみしか使うことのできない勇者の出来損ないと呼ばれた男が収納スキルで無双して世界を旅する物語(予定 私のメンタルは金魚掬いのポイと同じ脆さなので感想を送っていただける際は語調が強くないと嬉しく思います。 ただそれでも初心者故、度々間違えることがあるとは思いますので感想にて教えていただけるとありがたいです。 他にも今後の進展や投稿済みの箇所でこうしたほうがいいと思われた方がいらっしゃったら感想にて待ってます。 なお、書籍化に伴い内容の齟齬がありますがご了承ください。

ダンジョン発生から20年。いきなり玄関の前でゴブリンに遭遇してフリーズ中←今ココ

高遠まもる
ファンタジー
カクヨム、なろうにも掲載中。 タイトルまんまの状況から始まる現代ファンタジーです。 ダンジョンが有る状況に慣れてしまった現代社会にある日、異変が……。 本編完結済み。 外伝、後日譚はカクヨムに載せていく予定です。

異世界で穴掘ってます!

KeyBow
ファンタジー
修学旅行中のバスにいた筈が、異世界召喚にバスの全員が突如されてしまう。主人公の聡太が得たスキルは穴掘り。外れスキルとされ、屑の外れ者として抹殺されそうになるもしぶとく生き残り、救ってくれた少女と成り上がって行く。不遇といわれるギフトを駆使して日の目を見ようとする物語

俺たちの結婚を認めてくれ!~魔法使いに嵌められて幼馴染に婚約破棄を言い渡された勇者が婚約したのはラスボスでした~

鏡読み
ファンタジー
魔法使いの策略でパーティから外れ一人ラストダンジョンに挑む勇者、勇者太郎。 仲間を失った彼はラスボスを一人倒すことでリア充になると野心を抱いていた。 しかしラストダンジョンの最深部で待ち受けていたラスボスは美少女!? これはもう結婚するしかない! これは勇者と見た目美少女ラスボスのラブコメ婚姻譚。 「俺たちの結婚を認めてくれ!」 ※ 他の小説サイト様にも投稿している作品になります 表紙の絵の漫画はなかしなこさんに描いていただきました。 ありがとうございます!

百花繚乱 〜国の姫から極秘任務を受けた俺のスキルの行くところ〜

幻月日
ファンタジー
ーー時は魔物時代。 魔王を頂点とする闇の群勢が世界中に蔓延る中、勇者という職業は人々にとって希望の光だった。 そんな勇者の一人であるシンは、逃れ行き着いた村で村人たちに魔物を差し向けた勇者だと勘違いされてしまい、滞在中の兵団によってシーラ王国へ送られてしまった。 「勇者、シン。あなたには魔王の城に眠る秘宝、それを盗み出して来て欲しいのです」 唐突にアリス王女に突きつけられたのは、自分のようなランクの勇者に与えられる任務ではなかった。レベル50台の魔物をようやく倒せる勇者にとって、レベル100台がいる魔王の城は未知の領域。 「ーー王女が頼む、その任務。俺が引き受ける」 シンの持つスキルが頼りだと言うアリス王女。快く引き受けたわけではなかったが、シンはアリス王女の頼みを引き受けることになり、魔王の城へ旅立つ。 これは魔物が世界に溢れる時代、シーラ王国の姫に頼まれたのをきっかけに魔王の城を目指す勇者の物語。

Fragment-memory of future-Ⅱ

黒乃
ファンタジー
小説内容の無断転載・無断使用・自作発言厳禁 Repost is prohibited. 무단 전하 금지 禁止擅自转载 W主人公で繰り広げられる冒険譚のような、一昔前のRPGを彷彿させるようなストーリーになります。 バトル要素あり。BL要素あります。苦手な方はご注意を。 今作は前作『Fragment-memory of future-』の二部作目になります。 カクヨム・ノベルアップ+でも投稿しています Copyright 2019 黒乃 ****** 主人公のレイが女神の巫女として覚醒してから2年の月日が経った。 主人公のエイリークが仲間を取り戻してから2年の月日が経った。 平和かと思われていた世界。 しかし裏では確実に不穏な影が蠢いていた。 彼らに訪れる新たな脅威とは──? ──それは過去から未来へ紡ぐ物語

虹の向こうへ

もりえつりんご
ファンタジー
空の神が創り守る、三種の人間が住まう世界にて。 智慧の種族と呼ばれる心魔の少年・透火(トウカ)は、幼い頃に第一王子・芝蘭(シラン)に助けられ、その恩返しをするべく、従者として働く日々を送っていた。 しかしそれも、透火が種族を代表するヒト「基音」となり、世界と種族の繁栄を維持する「空の神」候補であると判明するまでのこと。 かつて、種族戦争に敗れ、衰退を辿る珠魔の代表・占音(センネ)と、第四の種族「銀の守護者」のハーク。 二人は、穢れていくこの世界を救うべく、相反する目的の元、透火と芝蘭に接触する。 芝蘭のために「基音」の立場すら利用する透火と、透火との時間を守るために「基音」や「空の神」誕生に消極的な芝蘭は、王位継承や種族関係の変化と共に、すれ違っていく。 それぞれの願いと思いを抱えて、透火、芝蘭、占音、ハークの四人は、衝突し、理解し、共有し、拒絶を繰り返して、一つの世界を紡いでいく。 そう、これは、誰かと生きる意味を考えるハイファンタジー。 ーーーーーーーーー  これは、絶望と希望に翻弄されながらも、「自分」とは何かを知っていく少年と、少年の周囲にいる思慮深い人々との関係の変化、そして、世界と個人との結びつきを描いたメリーバッドエンドな物語です。   ※文体は硬派、修飾が多いです。  物語自体はRPGのような世界観・設定で作られています。​ ※第1部全3章までを順次公開しています。 ※第2部は2019年5月現在、第1章第4話以降を執筆中です。

処理中です...