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第10章 亡霊
今へと続く過去、未来へと続く今
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よく晴れた日曜の昼時。
3人の天女と『太賢飯店』の店名が描かれた看板の下。
「ちーっす」
「おや、舞奈ちゃんアルか。いらっしゃいアル」
舞奈は赤いペンキが剥げかけたドアをガラリと開ける。
例によって暇してたらしい張が破顔する。
昼飯時なのに客のいない店内に苦笑しつつ、カウンターにスーツケースを乗せる。
張に確認を促すように開けてみせる。
中身はアサルトライフル、短機関銃、2丁の拳銃。
舞奈が【組合】からの依頼に際して支給された銃器だ。
さすがに銃弾とマントはないが。
「無くしてもいいつもりで貸したものアルから、そのまま持ってて良かったアルよ」
張は言って苦笑する。だが舞奈は、
「銃ってのは弾丸を撃つもんだ。魔法を撃つ銃なんて柄じゃない」
言い放って、スーツケースから手を離す。
かつてピクシオンだった過去など忘れたように。
そして、もうそれは自分とは関係ない代物だと言わんばかりにジャケットのポケットに手を入れ、そっぽを向く。
「……それに【組合】は十分な報酬を支払った。それ以上なにか貰う謂れはない」
ぶっきらぼうに付け加える。
そうしながら、口元に笑みを浮かべる。
張に見られぬように。
張と交わした契約通り、チャビーは無事に救出された。
奈良坂も負傷こそしたものの【組合】の魔道士に救われた。
その上で別の何かを受け取ることが、正規の報酬を割り引くことになるような気がしてならなかった。
だから回収した銃器はすべて丹念にクリーニングした。
メノラーも奈良坂に手入れの仕方を聞いて磨いた。
心からの感謝をこめて。
最強の仕事人が、そんな験担ぎをと笑うなかれ。
自身に手出しのできない事柄に対し、藁にもすがりたいと思うのは自然なことだ。
そんな舞奈を見やって、張も笑った。
途端、店のドアがガラリと開いて、
「あ! マイだ!」
チャビーと園香があらわれた。
張はあわててスーツケースを閉じる。
「こんにちは。マイちゃん、張さん」
「こんにちはー」
だが育ちの良い2人は、そんなの気にせず友人と知人に挨拶する。
「おまえらも昼飯か?」
「うん」
「パパからお金を貰ってきたんだ。ネコポチのご飯も買っていいって!」
チャビーは猫を象った財布を取り出す。
「お、そりゃよかった」
園香と一瞬だけ視線を交わし、そして楽しそうなチャビーを見やって笑う。
幼い少女の笑顔。
これこそがキムと滓田妖一の魔手から舞奈が……否、皆が【機関】と【組合】の垣根すら超え、勝ち取ってくれた最高の報酬だ。
「そのお金は、そのまま仕舞っておくアルよ」
釣られるように笑った張の言葉に、チャビーと園香は首をかしげる。
だが、そんな2人を見やって張はますます相好を崩し、
「今日はおごりアル。ネコポチちゃんのごはんもプレゼントするアルよ」
「ああ、そういやそんな話もあったなあ」
舞奈は、滓田妖一を倒した直後に張とした会話を思い出す。
「ねえねえ、それなら安倍さんも呼ぼうよ!」
「わっ、いい考えだ」
チャビーははしゃいで携帯をかけはじめた。
育ちの良い彼女たちだから、幸運は誰かと分かち合いたいのだろう。
「それにしても、あいつの電話番号なんか何時の間に聞きだしたんだ?」
「ネコポチちゃんを飼うときにね、何かあったら連絡してって教えてもらったんだよ」
舞奈の問いに、隣の園香が代わりに答える。
「ったく、どんだけ猫好きなんだ。あいつは」
言って舞奈は苦笑した。
以前の明日香は、もっとクールで……なんというか、とっつきにくい感じだった。
最初に出会ったときなんて、もっと酷かった。
だがチャビーが喪失を乗り越えたように、舞奈が美佳や一樹のいない世界に順応していったように、彼女も少しずつ変わろうとしているのだ。
そんな明日香は、運よく暇していたらしい。
楽しげに電話するチャビーと、優しく見守る園香を見ながら、舞奈も笑った。
そして時間を少しだけ遡り、伊或町の一角。
歩道もない寂れた通りを、1台のロードバイクが疾走する。
薄汚い暴走自転車に乗っているのは脂虫だ。
煙草を手にした片手運転のせいか、ハンドルさばきがおぼつかない。
周囲の危険も迷惑も顧みず、ハンドルから片手を離して煙草をくわえる。
次の瞬間、ロードバイクの前輪が何かにひっかかった。
薄汚い自転車は勢いのまま前転し、男は宙に投げ出される。
その両手と両脚が、唐突に千切れた。
正確には鋭いレーザー光に切断された。
脂虫ダルマになった男は、くわえ煙草の顔面からアスファルトの地面に激突する。
その側に千切れた手足が転がった。
男の顔は激痛と恐怖に引きつっている。
だが切断面は光熱によって綺麗に焼き潰され、血も出ない。
「おお、見事なものなのだな」
道路の脇の何もない場所からにじみ出るように、糸目の少女があらわれた。
ニュットである。
自身を透明化していた【不可視】の魔術を解除したのだ。
「別に褒められて嬉しいことじゃないけど」
側に明日香が出現する。
こちらも同様の効果を持つ【迷彩】で身を隠していたのだ。
魔術師たちは、光を生み出して周囲の風景を投影することにより透明化する。
そして明日香は重力場で拘束する【力獄】でロードバイクを転倒させた。
ちなみに認識阻害の魔術【隠形】は使っていない。
ヤニ狩りの手伝いにそこまでの必要はないからだ。
それに、認識阻害まではできない同行者がいる
「たいしたことじゃないわ」
道路の中央にあらわれたのは小夜子だ。
呪術師は周囲の光を操り屈折させることで透明化する。
小夜子が修めたナワリ呪術では【幻惑の衣】の術だ。
そして脂虫の手足を斬り飛ばした光線は【光の鉤爪】。
贄を使って強力な光線を放つ【太陽の嘴】を、コンパクトにした術だ。
陽介の死と引き換えに得た太陽の力を、贄を使わずに小規模に呼び起こすことができるのは小夜子が喪失を受け入れ自身の中で消化した証でもある。
小夜子もまた、着実に前へと進んでいた。そして、
「実力は認めざるを得ないわ。流石は諜報部と仕事人のエースね」
ニュットの側にエリコが出現した。
彼女も【燐光の外套】の呪術で透明化していた。
透明化は魔道士にとって標準的な技術だ。
ニュットたちは、エリコのヤニ狩りを手伝っていたのだ。
男子高生の執行人たちは女子小学生のエリコに同行できないので、その代わりだ。
「問題は、わたしがボーナスを貰うのに、わたしがあんまり働いていないってことね」
マスコット風なブタの天使に脂虫を袋詰めさせながら、エリコが言う。
エリコはただボーナスを貰って家にお金を入れたいだけなので、口調も淡泊だ。
「エリコちんは真面目なのだなあ」
糸目を細めてニュットが笑う。
四肢をもがれてもがく脂虫の顔面を、面白半分にげしげし踏む。
ニュットは以前からヤニ狩りをしてみたかったらしく、ウキウキだ。
そして明日香は先日、脂虫が呪物と化して永遠に生きる悪夢のような末路を知った。
だが正直、自業自得な彼らを積極的に救済したいとまでは思わない。
明日香の目的は、臭くて不潔な彼らを手際よく目の前から消すことだけだ。
逆に小夜子は、脂虫を痛めつけて惨たらしく殺すのが目的だ。
だから手際よく捕まえて、とっとと支部に持って帰りたい。
なのでニュットひとりが楽しそうな、なんとも士気の上がらないヤニ狩りだ。
「ならば次は2人で無力化するのだよ。エリコちんは【光の矢】を撃つのだ。小夜子ちんはさっきのを遠くから撃てるかね?」
ニコニコと提案しながらニュットに踏まれ、脂虫がうめく。
煙草がヤニで下唇に癒着するらしく、こんなになってもくわえたままだ。
何やら暴言を吐こうと口を開くときも、下の歯にくっついている。
ニュットはそれを踏み消そうとしているようにも見える。
あるいはベティみたいに、単純に踏むのが楽しいようにも見える。
だが他の3人にとってはどっちでもいい。
「飛んでる目標を部位攻撃するのは多分無理。わたしは志門舞奈じゃないわ」
「無理に出力を上げると、向かいの壁に穴が開くと思う」
「むう、それは残念なのだ」
2人に駄目だしされたニュットは糸目を歪めて凹む。
その足を、脂虫がくわえ煙草のまま噛んだ。
「うぉぅち!」
ニュットは面白い悲鳴をあげながら跳び上がる。
声色がツボに入ったらしく、小夜子がぷっと噴き出した。
ニュットはむむっと口元を歪め、仕返しとばかりに手足のない脂虫を蹴り飛ばす。
自身を機械化して強化する【強身】の魔術を使ったのだろう、脂虫は向かいの塀に激突して跳ね返って宙を舞う。
それをエリコ操る2体の天使が、広げたゴミ袋でキャッチした。
ナイスプレイ! 神ってる!
もちろんゴミ袋は、表の保健所から仕入れている市指定の純正品だ。
明日香はあわてて【冷波】を行使する。
大魔法として用いれば対象を氷像に変えて屠る致死の術は、普通に行使されて袋の中の煙草を消すだけの穏やかな効果を発揮した。
「気を付けてください。袋に穴が開いたら意味ないですよ」
明日香は露骨に咎めるようにニュットを見やる。
「ごめんなさい」
勘違いしたエリコが凹み、
「……いえ、今のは技術担当官が悪いわ」
諜報部に属する小夜子もまた、技術部のニュットをジト目で見やる。
執行人の活動での脂虫の死は、諜報部・法務部が行方不明や事故死として処理する。
なので今ので塀に叩きつけられて脂虫が死んだりすると、エリコはボーナスが出ないのに諜報部の手間だけ増えて大迷惑だ。
そんな2人を明日香は冷ややかに見やる。
明日香はそもそも仕事人だ。執行人の部署間の確執なんか関係ない。
そんな明日香の胸元で、携帯のバイブが着信を告げた。
明日香は無言ででる。そして、
「みなさん、失礼」
ウキウキの表情で宣言する。そして、
「友人に呼ばれたので、行ってきます」
言い残し、足取りも軽く立ち去った。
だが数刻後、明日香はチャビーが別にいつもネコポチを連れ歩いている訳じゃないと知ることになる。
同じ頃、九杖邸で、
「携帯に不正規のアプリがインストールされた形跡があるわ。自動的にアンインストールされたみたいだし、悪さはしていないみたいだけど……」
テックはちゃぶ台の上のパソコンから顔を上げ、調査結果を語った。
「ふえ……い……あい?」
サチは珍妙な返事を返した。
なにも理解していない顔をしている。
ちゃぶ台に乗った古びたパソコンには、1台の携帯電話がケーブルで繋がれている。
紅葉のだ。
脂虫を斬り刻む共通の趣味により、サチには理解不能な絆を深めた小夜子と楓。
そんな楓の妹である紅葉と、サチは親しくするようになっていた。
もとより明るく社交的なサチである。
親友に他の友人ができるのは嬉しいし、その妹とは仲良くしたいと素直に思う。
そんな紅葉から、先日サチは相談を受けた。
携帯がオカルトめいた異常な挙動をしたというのだ。
先日の事件の際、前触れもなく笑いだしてチャビーの居場所を示した。
それ自体は有難いのだが、そのまま放っておくのも気味が悪い。
なので防御魔法を得手とする神術士のサチに相談することにしたらしい。
気の良いサチは二つ返事で引き受けた。
だが魔力感知でも他の探知魔法でも何の異常も発見できない。
なので以前にパソコンの使い方を教えてくれたテックに相談することにした。
ちなみにテックへの報酬は昼食だ。
先日の日比野邸でのパーティーでは失態を晒したものの、料理自体は得意なのだ。
台所にかまどさえあれば、けっこう本格的な和食を作ることができる。
そんな手作りのごはんに釣られて引き受けた調査の結果が、これだ。
「つまり、携帯に……こう……悪いものが」
テックはサチが理解できる言葉を使って説明しようとする。
だがそれは、実質的に何も言えないのと同じだ。だから、
「呪いね!」
「………………。そんな感じ」
サチも自分のわかる言葉で理解しようとした。
テックは苦笑するしかなかった。
「でも、紅葉ちゃんをチャビーちゃんのところに案内してくれたんですもの、きっと悪いまじないじゃないわね」
「だといいけど」
まじないも、魔術も、携帯アプリも、善悪を決めるのは使う人間だ。
「でも、誰がまじないをかけたのかしら……?」
サチは首をかしげた。
途端、庭で「キュイ~~」と何かが鳴いた。
「あれは何?」
「う~ん、カワウソじゃないかしら?」
「……そう」
テックは開け放たれた障子の向こうを見やる。
和風の庭の池のほとりで、みゃー子がくねくねと身体をくねらせていた。
テックはカワウソを見たことはない。
「お魚を捕ったらダメよー」
「キュイ~~」
みゃー子はカワウソの物まねをしながら池の周りを練り歩く。
池の鯉は迷惑そうに逃げ惑う。
ししおどしがタンと鳴る。
九杖邸は今日も平和だった。
そして学校の校庭では、
「紅葉先輩、バスケ部の助っ人お疲れさまです!」
「光ちゃんもお疲れさま。相変わらずいい動きだったよ」
紅葉は後輩と笑い合う。
紅葉は運動部の助っ人を始めていた。
今日は古巣でもあるバスケ部の練習試合だ。
キムとの戦闘で受けた傷は、楓の【治癒の言葉】で代用されている状態だ。
紅葉の【かりそめの治癒】はすぐに解けてしまうから、後で術を上書きしたのだ。
だが代替部位が代謝を利用して正常な肉体に置き換わるまで、もうしばらく時間がかかるのは変わらない。
それでも仮初の肉体は消去に弱い以外は普通の肉体と変わらない。
スポーツだって問題なくできる。
「先輩も……何ていうか、前より動きのキレが良くなった気がします。気迫を感じるっていうか。何かトレーニングとかしてるんですか?」
「うーん、特別なことは何も……」
後輩の問いに、思わず答える。
だが仕事人としての活動がプラスに働いているのだろう。
なんせ文字通り命をかけた戦いを経験しているのだ。集中力が違う。
そんなことを考えていると、
「あ、それじゃボクはこれで!」
そう言い残して後輩は走って行った。なぜなら、
「あら、バスケ部の後輩ですか?」
入れ違いに楓がやって来た。
こちらは単に暇を持て余して、妹の付き添いだ。
「ううん、彼女も助っ人だよ」
「……大丈夫なんですか? 我が校のバスケ部は」
「まあ、うちの学校は運動部にあんまり力入れてないからね……」
紅葉は苦笑する。
だが考えてみれば、【機関】だって執行部の主力は傭兵である仕事人だ。
「それより、紅葉ちゃんがスポーツを始めてくれて、ちょっと安心したわ」
「ああ、仕事人の仕事もあるから部には戻れないけど、このくらいはね」
そう言って紅葉は笑う。
そして、ふと気づき、
「おっと。君、姉さんに用かい?」
「あっあのっ、桂木先輩! また絵を描き始めたって本当ですか?」
紅葉が場所を譲ったところに、中等部の頃の後輩がやって来た。
「モデルが必要じゃないですか? そ、それなら是非わたしがっ!」
顔を赤らめて言い募る。
モデルを申し出る自信もうなずける美少女である。
だが緊張のあまりか距離感が近すぎて、流石の楓も引き気味だ。
あと頬が赤い。不自然に。
紅葉はやれやれと苦笑する。だが、
「貴女は美を追求するために。芸術家を志したのでしょう? 美を他人に委ねるべきではありませんよ」
「そうですよね! わたし! 先輩の言葉を胸に頑張ります!」
そう言って後輩は笑顔で走り去った。
「すごいなあ、姉さん」
紅葉は笑う。
「……新興宗教の教祖様みたいだ」
「紅葉ちゃん……」
微妙な褒め方をしてきた紅葉を、楓はジト目で見やる。
紅葉は基本的に他人を貶さない。
なので、今のは割と本気でドン引きしている証拠だ。双方に。
「……それはともかく、姉さんは描かないの?」
「ふふ、これからは学業にも力を入れたいと思いましてね」
楓は問いに笑顔で答える。
「成績は学年トップなのに、これ以上何を……?」
「医学部のある大学を受験しようと思いまして。なので学校でもかけられるように眼鏡を新調したんですよ。楓さんバージョン2です」
冗談めかして楓は言った。
以前の楓は学校ではコンタクトをしていたが、今は眼鏡をかけている。
それもオフでかけている黒ぶち眼鏡とは違ってフレームがお洒落だ。
そして以前の楓は、医者への道を強要する両親へ反発していたはずだ。
「姉さん!? 母さんや父さんのこと……!?」
「そういうわけじゃありませんが」
楓は笑う。
そして目を見開いて驚く紅葉を、その向こう側にあるものを見やる。
それはチャビーを取り戻した皆の笑顔。
魔術によって傷を癒された紅葉の笑顔。
そしてチャビーを、紅葉を救うことができた自分自身の安堵。
幼い頃、楓は魔法使いになりたかった。
そして芸術と出会ってからは、芸術家になりたかった。
それが紅葉や瑞葉に笑顔をもたらしたから。
だから、
「ふふ、これまでの戦いの中で、人間の身体の中身は芸術的だと気づいたのですよ」
冗談めかして言った。
「姉さんが先生をしている病院は……なんだか行きたくないな……」
紅葉は苦笑した。
そんなフォローすら放棄した紅葉を、楓はジト目で見やった。
そして、それから数日後。
これまた晴れた日の放課後。
「チャビーじゃないか。そんなところで何やってるんだ?」
特売のモヤシを手にした舞奈が倉庫街を歩いていると、チャビーがいた。
「あ、マイ」
チャビーは気づいて舞奈を見やる。
先ほどまで見ていたのは、ビルの解体現場だ。
1年前にあの痛ましい事件が起こり、チャビーがネコポチと出会い、先日はチャビーを誘拐したキムが儀式を行おうとしていた無人のビルが、解体されているのだ。
「やれやれ、ようやく取り壊す気になったのか」
「ネコポチの元のお家、なくなっちゃうね……」
チャビーは手にしたキャリーバッグに、ひとりごちるように言った。
チャビーにとって、この場所は別れと出会いの象徴だ。
だから、その最後を目に焼きつけようとしているのだろうか。
あるいは兄との別れにまだ実感が持てなくて、ビルがなくなることで兄との絆が完全に断ちきれてしまうと思っているのだろうか。
幼女みたいなクラスメートの表情からは、わからない。だから、
「……あ」
舞奈はキャリーバッグを持ち上げ、窓を飼い主に向けた。
その中で茶トラの子猫は……
……股を広げて毛づくろいをしていた。
視線に気づいて座りなおし、取り繕うように「にゃぁー」と鳴いた。
解体現場なんて見ていなかったのは明確だ。
舞奈は笑う。
「こいつの今の家は、お前ん家だけだってさ」
「うん、そうだね」
チャビーも笑う。
猫は過去に執着しない。
未来を心配しない。
人間もそんな生き方ができたなら、幸せだろうと舞奈は思う。
そんなことを考えていた、そのとき、
「あ、マイちゃん、チャビーちゃん、こんなところにいたんだ」
「あら、ネコポチちゃんも一緒なのね」
園香と明日香がやってきた。
「おまえら、こんなところでどうしたよ?」
「遊びに来たのに、出かけたって言うから探しに来たのよ」
「……猫をか?」
言った舞奈を明日香が睨む。
茶トラの子猫が「にゃー」と鳴く。
「明日香ちゃんがね、ケーキ買ってきてくれたんだよ」
「わーい! ケーキだ!」
「お、気が利くじゃねぇか」
「貴女と違ってね」
「んだと? ……いや、あたしだって持ってるぞ」
「何を?」
「…………モヤシ」
「……」
そんなどうでもいい会話をしながら、4人は笑顔で歩き出した。
そんなことがあった数日後。
看板の『画廊・ケリー』のネオンは、相変わらず『ケ』の横線が消えていた。
「大きいテーブルだ!」
舞奈の対面に座ったリコがはしゃぐ。
店の奥から、昔に使っていたテーブルを出してもらったのだ。
チャビーは、皆は、過去と向かい合い受け入れつつあった。
なのに自分だけが、美佳と一樹がいた過去から目をそらそうとしている気がしてフェアじゃないと思ったからだ。
「この前のワイヤーショット、さっそく役にたったよ。さんきゅ、命拾いした」
「あら、それは嬉しいわ」
言いつつ普段の水色のスーツの上からエプロンをかけたスミスが、普段の食事に使っている商談用のそれの倍ほど大きい丸テーブルにビーフストロガノフの鍋を置く。
「あと、ジェリコの様子はどうだ?」
「だめね、撃針もリコイルスプリングも完全にイカレちゃってたわ」
「直せそうか?」
「……部品を総交換すればね」
目の前の皿に湯気香るストロガノフをよそいながら、スミスは言って苦笑する。
滓田妖一の最後の息子を屠るべく、明日香の【力弾】を放った拳銃。
その後のメンテナンスを依頼した結果がこれだ。
「予備の方の部品で代用できるか?」
「そりゃできるわよ。銃種は同じなんだから」
健康体操に使っていた予備の拳銃も、銃種は普段使いのそれと同じなのだから今後はこちらを使えばいい。
それでも使い慣れた方を修理したいと思う我儘に、スミスは笑って答えてくれた。
そして口元の笑みをいたずらっぽく歪め、
「折角なら、代わりに予備の方の部品をカスタムパーツに交換してみない? 同じことをしたときに安全なだけじゃなくて、大口径強化弾を撃てるわ」
「……んじゃ、それも頼む」
舞奈も笑顔で答える。
人は生きてる限り、同じままではいられないなんてことはわかってる。
それでも変えたくないものもある。
けど変わらなくちゃいけないものだって、もちろんある。
それでいいじゃないかと舞奈は思う。
それはいいのだが……。
「大きいテーブルは大きいなー」
「ああ、大きいなー」
さすがにいつぞやのチャビーの家の夕食と比べるべきでないはわかる。
だが、かつて4人で囲んでいたテーブルを、2人で使うと寂しいのも事実だ。
どうせ奈良坂も来るんだろうから3人で使うことになるのだろうけど、折角なら4人で賑やかに食べたいなあとも思う。
「マミとマコをよんでもいいか?」
「大丈夫なのか?」
リコが友人と仲良くするのはいいことだ。
だが店の奥は作業室だ。わりと洒落にならない危険物もある。だが、
「だいじょうぶだ!」
リコは自信満々の笑顔で答えた。
ちっちゃなリコだって成長している。
舞奈の影響を受けたのか、人を見る目も養われつつあると思う。
「マミとマコは、しごとのどうぐを、ぜったいにさわらないんだ。メガネのおねえちゃんがおいていったどうぐにも、さわらないんだ」
「……奈良坂さんは友だちの家に魔道具を置き忘れてるのか」
むしろ、そっちが心配になった。
まあ粗忽な彼女のおかげでリコの友人がしっかりしたと思えば有難いと言えなくもないが、なんというか奈良坂には、もうちょっとしゃんとしてほしい。
そう思って苦笑した途端、
「あ! おみせにきゃくがきた!」
来客を知らせるベルが鳴った。
リコは席を立って走って行く。
「おい食事中だぞ」
舞奈はやれやれと苦笑する。
そして、ふと、自分も誰か友人を呼んでみたらどうだろうと思った。
明日香は誘えば来るだろうが、通うようにはならない気がする。
舞奈が明日香の家に遊びに行かないのと、おそらく同じ理由で。
なら園香を呼んでみたら、彼女はここを気に入ってくれるだろうか?
スミスと料理の話などする彼女を見るのは、楽しいだろうと舞奈は思う。
そんなことを考えて、笑った途端、
「しもん! たいへんだ!!」
「どうしたんだよ騒々しいなあ」
リコが戻って来た。
まん丸な目をして言い募る様に、舞奈はやれやれと苦笑する。
だが、リコはそれどころじゃない様子で、叫んだ。
「はだかんぼうがきた!!」
舞奈の目も、リコみたいにまん丸になった。
3人の天女と『太賢飯店』の店名が描かれた看板の下。
「ちーっす」
「おや、舞奈ちゃんアルか。いらっしゃいアル」
舞奈は赤いペンキが剥げかけたドアをガラリと開ける。
例によって暇してたらしい張が破顔する。
昼飯時なのに客のいない店内に苦笑しつつ、カウンターにスーツケースを乗せる。
張に確認を促すように開けてみせる。
中身はアサルトライフル、短機関銃、2丁の拳銃。
舞奈が【組合】からの依頼に際して支給された銃器だ。
さすがに銃弾とマントはないが。
「無くしてもいいつもりで貸したものアルから、そのまま持ってて良かったアルよ」
張は言って苦笑する。だが舞奈は、
「銃ってのは弾丸を撃つもんだ。魔法を撃つ銃なんて柄じゃない」
言い放って、スーツケースから手を離す。
かつてピクシオンだった過去など忘れたように。
そして、もうそれは自分とは関係ない代物だと言わんばかりにジャケットのポケットに手を入れ、そっぽを向く。
「……それに【組合】は十分な報酬を支払った。それ以上なにか貰う謂れはない」
ぶっきらぼうに付け加える。
そうしながら、口元に笑みを浮かべる。
張に見られぬように。
張と交わした契約通り、チャビーは無事に救出された。
奈良坂も負傷こそしたものの【組合】の魔道士に救われた。
その上で別の何かを受け取ることが、正規の報酬を割り引くことになるような気がしてならなかった。
だから回収した銃器はすべて丹念にクリーニングした。
メノラーも奈良坂に手入れの仕方を聞いて磨いた。
心からの感謝をこめて。
最強の仕事人が、そんな験担ぎをと笑うなかれ。
自身に手出しのできない事柄に対し、藁にもすがりたいと思うのは自然なことだ。
そんな舞奈を見やって、張も笑った。
途端、店のドアがガラリと開いて、
「あ! マイだ!」
チャビーと園香があらわれた。
張はあわててスーツケースを閉じる。
「こんにちは。マイちゃん、張さん」
「こんにちはー」
だが育ちの良い2人は、そんなの気にせず友人と知人に挨拶する。
「おまえらも昼飯か?」
「うん」
「パパからお金を貰ってきたんだ。ネコポチのご飯も買っていいって!」
チャビーは猫を象った財布を取り出す。
「お、そりゃよかった」
園香と一瞬だけ視線を交わし、そして楽しそうなチャビーを見やって笑う。
幼い少女の笑顔。
これこそがキムと滓田妖一の魔手から舞奈が……否、皆が【機関】と【組合】の垣根すら超え、勝ち取ってくれた最高の報酬だ。
「そのお金は、そのまま仕舞っておくアルよ」
釣られるように笑った張の言葉に、チャビーと園香は首をかしげる。
だが、そんな2人を見やって張はますます相好を崩し、
「今日はおごりアル。ネコポチちゃんのごはんもプレゼントするアルよ」
「ああ、そういやそんな話もあったなあ」
舞奈は、滓田妖一を倒した直後に張とした会話を思い出す。
「ねえねえ、それなら安倍さんも呼ぼうよ!」
「わっ、いい考えだ」
チャビーははしゃいで携帯をかけはじめた。
育ちの良い彼女たちだから、幸運は誰かと分かち合いたいのだろう。
「それにしても、あいつの電話番号なんか何時の間に聞きだしたんだ?」
「ネコポチちゃんを飼うときにね、何かあったら連絡してって教えてもらったんだよ」
舞奈の問いに、隣の園香が代わりに答える。
「ったく、どんだけ猫好きなんだ。あいつは」
言って舞奈は苦笑した。
以前の明日香は、もっとクールで……なんというか、とっつきにくい感じだった。
最初に出会ったときなんて、もっと酷かった。
だがチャビーが喪失を乗り越えたように、舞奈が美佳や一樹のいない世界に順応していったように、彼女も少しずつ変わろうとしているのだ。
そんな明日香は、運よく暇していたらしい。
楽しげに電話するチャビーと、優しく見守る園香を見ながら、舞奈も笑った。
そして時間を少しだけ遡り、伊或町の一角。
歩道もない寂れた通りを、1台のロードバイクが疾走する。
薄汚い暴走自転車に乗っているのは脂虫だ。
煙草を手にした片手運転のせいか、ハンドルさばきがおぼつかない。
周囲の危険も迷惑も顧みず、ハンドルから片手を離して煙草をくわえる。
次の瞬間、ロードバイクの前輪が何かにひっかかった。
薄汚い自転車は勢いのまま前転し、男は宙に投げ出される。
その両手と両脚が、唐突に千切れた。
正確には鋭いレーザー光に切断された。
脂虫ダルマになった男は、くわえ煙草の顔面からアスファルトの地面に激突する。
その側に千切れた手足が転がった。
男の顔は激痛と恐怖に引きつっている。
だが切断面は光熱によって綺麗に焼き潰され、血も出ない。
「おお、見事なものなのだな」
道路の脇の何もない場所からにじみ出るように、糸目の少女があらわれた。
ニュットである。
自身を透明化していた【不可視】の魔術を解除したのだ。
「別に褒められて嬉しいことじゃないけど」
側に明日香が出現する。
こちらも同様の効果を持つ【迷彩】で身を隠していたのだ。
魔術師たちは、光を生み出して周囲の風景を投影することにより透明化する。
そして明日香は重力場で拘束する【力獄】でロードバイクを転倒させた。
ちなみに認識阻害の魔術【隠形】は使っていない。
ヤニ狩りの手伝いにそこまでの必要はないからだ。
それに、認識阻害まではできない同行者がいる
「たいしたことじゃないわ」
道路の中央にあらわれたのは小夜子だ。
呪術師は周囲の光を操り屈折させることで透明化する。
小夜子が修めたナワリ呪術では【幻惑の衣】の術だ。
そして脂虫の手足を斬り飛ばした光線は【光の鉤爪】。
贄を使って強力な光線を放つ【太陽の嘴】を、コンパクトにした術だ。
陽介の死と引き換えに得た太陽の力を、贄を使わずに小規模に呼び起こすことができるのは小夜子が喪失を受け入れ自身の中で消化した証でもある。
小夜子もまた、着実に前へと進んでいた。そして、
「実力は認めざるを得ないわ。流石は諜報部と仕事人のエースね」
ニュットの側にエリコが出現した。
彼女も【燐光の外套】の呪術で透明化していた。
透明化は魔道士にとって標準的な技術だ。
ニュットたちは、エリコのヤニ狩りを手伝っていたのだ。
男子高生の執行人たちは女子小学生のエリコに同行できないので、その代わりだ。
「問題は、わたしがボーナスを貰うのに、わたしがあんまり働いていないってことね」
マスコット風なブタの天使に脂虫を袋詰めさせながら、エリコが言う。
エリコはただボーナスを貰って家にお金を入れたいだけなので、口調も淡泊だ。
「エリコちんは真面目なのだなあ」
糸目を細めてニュットが笑う。
四肢をもがれてもがく脂虫の顔面を、面白半分にげしげし踏む。
ニュットは以前からヤニ狩りをしてみたかったらしく、ウキウキだ。
そして明日香は先日、脂虫が呪物と化して永遠に生きる悪夢のような末路を知った。
だが正直、自業自得な彼らを積極的に救済したいとまでは思わない。
明日香の目的は、臭くて不潔な彼らを手際よく目の前から消すことだけだ。
逆に小夜子は、脂虫を痛めつけて惨たらしく殺すのが目的だ。
だから手際よく捕まえて、とっとと支部に持って帰りたい。
なのでニュットひとりが楽しそうな、なんとも士気の上がらないヤニ狩りだ。
「ならば次は2人で無力化するのだよ。エリコちんは【光の矢】を撃つのだ。小夜子ちんはさっきのを遠くから撃てるかね?」
ニコニコと提案しながらニュットに踏まれ、脂虫がうめく。
煙草がヤニで下唇に癒着するらしく、こんなになってもくわえたままだ。
何やら暴言を吐こうと口を開くときも、下の歯にくっついている。
ニュットはそれを踏み消そうとしているようにも見える。
あるいはベティみたいに、単純に踏むのが楽しいようにも見える。
だが他の3人にとってはどっちでもいい。
「飛んでる目標を部位攻撃するのは多分無理。わたしは志門舞奈じゃないわ」
「無理に出力を上げると、向かいの壁に穴が開くと思う」
「むう、それは残念なのだ」
2人に駄目だしされたニュットは糸目を歪めて凹む。
その足を、脂虫がくわえ煙草のまま噛んだ。
「うぉぅち!」
ニュットは面白い悲鳴をあげながら跳び上がる。
声色がツボに入ったらしく、小夜子がぷっと噴き出した。
ニュットはむむっと口元を歪め、仕返しとばかりに手足のない脂虫を蹴り飛ばす。
自身を機械化して強化する【強身】の魔術を使ったのだろう、脂虫は向かいの塀に激突して跳ね返って宙を舞う。
それをエリコ操る2体の天使が、広げたゴミ袋でキャッチした。
ナイスプレイ! 神ってる!
もちろんゴミ袋は、表の保健所から仕入れている市指定の純正品だ。
明日香はあわてて【冷波】を行使する。
大魔法として用いれば対象を氷像に変えて屠る致死の術は、普通に行使されて袋の中の煙草を消すだけの穏やかな効果を発揮した。
「気を付けてください。袋に穴が開いたら意味ないですよ」
明日香は露骨に咎めるようにニュットを見やる。
「ごめんなさい」
勘違いしたエリコが凹み、
「……いえ、今のは技術担当官が悪いわ」
諜報部に属する小夜子もまた、技術部のニュットをジト目で見やる。
執行人の活動での脂虫の死は、諜報部・法務部が行方不明や事故死として処理する。
なので今ので塀に叩きつけられて脂虫が死んだりすると、エリコはボーナスが出ないのに諜報部の手間だけ増えて大迷惑だ。
そんな2人を明日香は冷ややかに見やる。
明日香はそもそも仕事人だ。執行人の部署間の確執なんか関係ない。
そんな明日香の胸元で、携帯のバイブが着信を告げた。
明日香は無言ででる。そして、
「みなさん、失礼」
ウキウキの表情で宣言する。そして、
「友人に呼ばれたので、行ってきます」
言い残し、足取りも軽く立ち去った。
だが数刻後、明日香はチャビーが別にいつもネコポチを連れ歩いている訳じゃないと知ることになる。
同じ頃、九杖邸で、
「携帯に不正規のアプリがインストールされた形跡があるわ。自動的にアンインストールされたみたいだし、悪さはしていないみたいだけど……」
テックはちゃぶ台の上のパソコンから顔を上げ、調査結果を語った。
「ふえ……い……あい?」
サチは珍妙な返事を返した。
なにも理解していない顔をしている。
ちゃぶ台に乗った古びたパソコンには、1台の携帯電話がケーブルで繋がれている。
紅葉のだ。
脂虫を斬り刻む共通の趣味により、サチには理解不能な絆を深めた小夜子と楓。
そんな楓の妹である紅葉と、サチは親しくするようになっていた。
もとより明るく社交的なサチである。
親友に他の友人ができるのは嬉しいし、その妹とは仲良くしたいと素直に思う。
そんな紅葉から、先日サチは相談を受けた。
携帯がオカルトめいた異常な挙動をしたというのだ。
先日の事件の際、前触れもなく笑いだしてチャビーの居場所を示した。
それ自体は有難いのだが、そのまま放っておくのも気味が悪い。
なので防御魔法を得手とする神術士のサチに相談することにしたらしい。
気の良いサチは二つ返事で引き受けた。
だが魔力感知でも他の探知魔法でも何の異常も発見できない。
なので以前にパソコンの使い方を教えてくれたテックに相談することにした。
ちなみにテックへの報酬は昼食だ。
先日の日比野邸でのパーティーでは失態を晒したものの、料理自体は得意なのだ。
台所にかまどさえあれば、けっこう本格的な和食を作ることができる。
そんな手作りのごはんに釣られて引き受けた調査の結果が、これだ。
「つまり、携帯に……こう……悪いものが」
テックはサチが理解できる言葉を使って説明しようとする。
だがそれは、実質的に何も言えないのと同じだ。だから、
「呪いね!」
「………………。そんな感じ」
サチも自分のわかる言葉で理解しようとした。
テックは苦笑するしかなかった。
「でも、紅葉ちゃんをチャビーちゃんのところに案内してくれたんですもの、きっと悪いまじないじゃないわね」
「だといいけど」
まじないも、魔術も、携帯アプリも、善悪を決めるのは使う人間だ。
「でも、誰がまじないをかけたのかしら……?」
サチは首をかしげた。
途端、庭で「キュイ~~」と何かが鳴いた。
「あれは何?」
「う~ん、カワウソじゃないかしら?」
「……そう」
テックは開け放たれた障子の向こうを見やる。
和風の庭の池のほとりで、みゃー子がくねくねと身体をくねらせていた。
テックはカワウソを見たことはない。
「お魚を捕ったらダメよー」
「キュイ~~」
みゃー子はカワウソの物まねをしながら池の周りを練り歩く。
池の鯉は迷惑そうに逃げ惑う。
ししおどしがタンと鳴る。
九杖邸は今日も平和だった。
そして学校の校庭では、
「紅葉先輩、バスケ部の助っ人お疲れさまです!」
「光ちゃんもお疲れさま。相変わらずいい動きだったよ」
紅葉は後輩と笑い合う。
紅葉は運動部の助っ人を始めていた。
今日は古巣でもあるバスケ部の練習試合だ。
キムとの戦闘で受けた傷は、楓の【治癒の言葉】で代用されている状態だ。
紅葉の【かりそめの治癒】はすぐに解けてしまうから、後で術を上書きしたのだ。
だが代替部位が代謝を利用して正常な肉体に置き換わるまで、もうしばらく時間がかかるのは変わらない。
それでも仮初の肉体は消去に弱い以外は普通の肉体と変わらない。
スポーツだって問題なくできる。
「先輩も……何ていうか、前より動きのキレが良くなった気がします。気迫を感じるっていうか。何かトレーニングとかしてるんですか?」
「うーん、特別なことは何も……」
後輩の問いに、思わず答える。
だが仕事人としての活動がプラスに働いているのだろう。
なんせ文字通り命をかけた戦いを経験しているのだ。集中力が違う。
そんなことを考えていると、
「あ、それじゃボクはこれで!」
そう言い残して後輩は走って行った。なぜなら、
「あら、バスケ部の後輩ですか?」
入れ違いに楓がやって来た。
こちらは単に暇を持て余して、妹の付き添いだ。
「ううん、彼女も助っ人だよ」
「……大丈夫なんですか? 我が校のバスケ部は」
「まあ、うちの学校は運動部にあんまり力入れてないからね……」
紅葉は苦笑する。
だが考えてみれば、【機関】だって執行部の主力は傭兵である仕事人だ。
「それより、紅葉ちゃんがスポーツを始めてくれて、ちょっと安心したわ」
「ああ、仕事人の仕事もあるから部には戻れないけど、このくらいはね」
そう言って紅葉は笑う。
そして、ふと気づき、
「おっと。君、姉さんに用かい?」
「あっあのっ、桂木先輩! また絵を描き始めたって本当ですか?」
紅葉が場所を譲ったところに、中等部の頃の後輩がやって来た。
「モデルが必要じゃないですか? そ、それなら是非わたしがっ!」
顔を赤らめて言い募る。
モデルを申し出る自信もうなずける美少女である。
だが緊張のあまりか距離感が近すぎて、流石の楓も引き気味だ。
あと頬が赤い。不自然に。
紅葉はやれやれと苦笑する。だが、
「貴女は美を追求するために。芸術家を志したのでしょう? 美を他人に委ねるべきではありませんよ」
「そうですよね! わたし! 先輩の言葉を胸に頑張ります!」
そう言って後輩は笑顔で走り去った。
「すごいなあ、姉さん」
紅葉は笑う。
「……新興宗教の教祖様みたいだ」
「紅葉ちゃん……」
微妙な褒め方をしてきた紅葉を、楓はジト目で見やる。
紅葉は基本的に他人を貶さない。
なので、今のは割と本気でドン引きしている証拠だ。双方に。
「……それはともかく、姉さんは描かないの?」
「ふふ、これからは学業にも力を入れたいと思いましてね」
楓は問いに笑顔で答える。
「成績は学年トップなのに、これ以上何を……?」
「医学部のある大学を受験しようと思いまして。なので学校でもかけられるように眼鏡を新調したんですよ。楓さんバージョン2です」
冗談めかして楓は言った。
以前の楓は学校ではコンタクトをしていたが、今は眼鏡をかけている。
それもオフでかけている黒ぶち眼鏡とは違ってフレームがお洒落だ。
そして以前の楓は、医者への道を強要する両親へ反発していたはずだ。
「姉さん!? 母さんや父さんのこと……!?」
「そういうわけじゃありませんが」
楓は笑う。
そして目を見開いて驚く紅葉を、その向こう側にあるものを見やる。
それはチャビーを取り戻した皆の笑顔。
魔術によって傷を癒された紅葉の笑顔。
そしてチャビーを、紅葉を救うことができた自分自身の安堵。
幼い頃、楓は魔法使いになりたかった。
そして芸術と出会ってからは、芸術家になりたかった。
それが紅葉や瑞葉に笑顔をもたらしたから。
だから、
「ふふ、これまでの戦いの中で、人間の身体の中身は芸術的だと気づいたのですよ」
冗談めかして言った。
「姉さんが先生をしている病院は……なんだか行きたくないな……」
紅葉は苦笑した。
そんなフォローすら放棄した紅葉を、楓はジト目で見やった。
そして、それから数日後。
これまた晴れた日の放課後。
「チャビーじゃないか。そんなところで何やってるんだ?」
特売のモヤシを手にした舞奈が倉庫街を歩いていると、チャビーがいた。
「あ、マイ」
チャビーは気づいて舞奈を見やる。
先ほどまで見ていたのは、ビルの解体現場だ。
1年前にあの痛ましい事件が起こり、チャビーがネコポチと出会い、先日はチャビーを誘拐したキムが儀式を行おうとしていた無人のビルが、解体されているのだ。
「やれやれ、ようやく取り壊す気になったのか」
「ネコポチの元のお家、なくなっちゃうね……」
チャビーは手にしたキャリーバッグに、ひとりごちるように言った。
チャビーにとって、この場所は別れと出会いの象徴だ。
だから、その最後を目に焼きつけようとしているのだろうか。
あるいは兄との別れにまだ実感が持てなくて、ビルがなくなることで兄との絆が完全に断ちきれてしまうと思っているのだろうか。
幼女みたいなクラスメートの表情からは、わからない。だから、
「……あ」
舞奈はキャリーバッグを持ち上げ、窓を飼い主に向けた。
その中で茶トラの子猫は……
……股を広げて毛づくろいをしていた。
視線に気づいて座りなおし、取り繕うように「にゃぁー」と鳴いた。
解体現場なんて見ていなかったのは明確だ。
舞奈は笑う。
「こいつの今の家は、お前ん家だけだってさ」
「うん、そうだね」
チャビーも笑う。
猫は過去に執着しない。
未来を心配しない。
人間もそんな生き方ができたなら、幸せだろうと舞奈は思う。
そんなことを考えていた、そのとき、
「あ、マイちゃん、チャビーちゃん、こんなところにいたんだ」
「あら、ネコポチちゃんも一緒なのね」
園香と明日香がやってきた。
「おまえら、こんなところでどうしたよ?」
「遊びに来たのに、出かけたって言うから探しに来たのよ」
「……猫をか?」
言った舞奈を明日香が睨む。
茶トラの子猫が「にゃー」と鳴く。
「明日香ちゃんがね、ケーキ買ってきてくれたんだよ」
「わーい! ケーキだ!」
「お、気が利くじゃねぇか」
「貴女と違ってね」
「んだと? ……いや、あたしだって持ってるぞ」
「何を?」
「…………モヤシ」
「……」
そんなどうでもいい会話をしながら、4人は笑顔で歩き出した。
そんなことがあった数日後。
看板の『画廊・ケリー』のネオンは、相変わらず『ケ』の横線が消えていた。
「大きいテーブルだ!」
舞奈の対面に座ったリコがはしゃぐ。
店の奥から、昔に使っていたテーブルを出してもらったのだ。
チャビーは、皆は、過去と向かい合い受け入れつつあった。
なのに自分だけが、美佳と一樹がいた過去から目をそらそうとしている気がしてフェアじゃないと思ったからだ。
「この前のワイヤーショット、さっそく役にたったよ。さんきゅ、命拾いした」
「あら、それは嬉しいわ」
言いつつ普段の水色のスーツの上からエプロンをかけたスミスが、普段の食事に使っている商談用のそれの倍ほど大きい丸テーブルにビーフストロガノフの鍋を置く。
「あと、ジェリコの様子はどうだ?」
「だめね、撃針もリコイルスプリングも完全にイカレちゃってたわ」
「直せそうか?」
「……部品を総交換すればね」
目の前の皿に湯気香るストロガノフをよそいながら、スミスは言って苦笑する。
滓田妖一の最後の息子を屠るべく、明日香の【力弾】を放った拳銃。
その後のメンテナンスを依頼した結果がこれだ。
「予備の方の部品で代用できるか?」
「そりゃできるわよ。銃種は同じなんだから」
健康体操に使っていた予備の拳銃も、銃種は普段使いのそれと同じなのだから今後はこちらを使えばいい。
それでも使い慣れた方を修理したいと思う我儘に、スミスは笑って答えてくれた。
そして口元の笑みをいたずらっぽく歪め、
「折角なら、代わりに予備の方の部品をカスタムパーツに交換してみない? 同じことをしたときに安全なだけじゃなくて、大口径強化弾を撃てるわ」
「……んじゃ、それも頼む」
舞奈も笑顔で答える。
人は生きてる限り、同じままではいられないなんてことはわかってる。
それでも変えたくないものもある。
けど変わらなくちゃいけないものだって、もちろんある。
それでいいじゃないかと舞奈は思う。
それはいいのだが……。
「大きいテーブルは大きいなー」
「ああ、大きいなー」
さすがにいつぞやのチャビーの家の夕食と比べるべきでないはわかる。
だが、かつて4人で囲んでいたテーブルを、2人で使うと寂しいのも事実だ。
どうせ奈良坂も来るんだろうから3人で使うことになるのだろうけど、折角なら4人で賑やかに食べたいなあとも思う。
「マミとマコをよんでもいいか?」
「大丈夫なのか?」
リコが友人と仲良くするのはいいことだ。
だが店の奥は作業室だ。わりと洒落にならない危険物もある。だが、
「だいじょうぶだ!」
リコは自信満々の笑顔で答えた。
ちっちゃなリコだって成長している。
舞奈の影響を受けたのか、人を見る目も養われつつあると思う。
「マミとマコは、しごとのどうぐを、ぜったいにさわらないんだ。メガネのおねえちゃんがおいていったどうぐにも、さわらないんだ」
「……奈良坂さんは友だちの家に魔道具を置き忘れてるのか」
むしろ、そっちが心配になった。
まあ粗忽な彼女のおかげでリコの友人がしっかりしたと思えば有難いと言えなくもないが、なんというか奈良坂には、もうちょっとしゃんとしてほしい。
そう思って苦笑した途端、
「あ! おみせにきゃくがきた!」
来客を知らせるベルが鳴った。
リコは席を立って走って行く。
「おい食事中だぞ」
舞奈はやれやれと苦笑する。
そして、ふと、自分も誰か友人を呼んでみたらどうだろうと思った。
明日香は誘えば来るだろうが、通うようにはならない気がする。
舞奈が明日香の家に遊びに行かないのと、おそらく同じ理由で。
なら園香を呼んでみたら、彼女はここを気に入ってくれるだろうか?
スミスと料理の話などする彼女を見るのは、楽しいだろうと舞奈は思う。
そんなことを考えて、笑った途端、
「しもん! たいへんだ!!」
「どうしたんだよ騒々しいなあ」
リコが戻って来た。
まん丸な目をして言い募る様に、舞奈はやれやれと苦笑する。
だが、リコはそれどころじゃない様子で、叫んだ。
「はだかんぼうがきた!!」
舞奈の目も、リコみたいにまん丸になった。
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