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第8章 魔獣襲来
依頼1 ~迷子の猫探し
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「あのね、猫ちゃんがいなくなっちゃったの……」
チャビーはそう言って目を伏せた。
幼女のような小さな手は、不安げにチーズかまぼこを握りしめている。
「この前、おまえが餌やってた茶トラか?」
「うん。チーかまを買って、いつもみたいに遊ぼうと思ったら、猫ちゃんがどこにもいないの。呼んでもこないの。こんなこと今までなかったのに……」
「それで中を探そうと思ったのか……」
「うん……」
萎れたようなチャビーの様子は、普段の煩わしいほど元気な彼女とは程遠い。
「しゃあない」
舞奈は冗談めかして大げさに肩をすくめてみせる。
「ちょっくら見てきてやるから、ここで待ってろ」
「うん。ありがとう、マイ」
「いいってことよ」
不安を和らげるように軽く言う。
そして慣れた調子でチェーンをまたぎ、人気のないビルに入る。
そこは何の変哲もないオフィスビルのエントランスだった。
老朽化であちこちが崩れていて、同じように朽ちた家具が散乱している。
中央の天井は吹き抜けになっていて、2階と繋がっている。
チャビーは以前にも忍びこんで、階段を登る途中に足を滑らして落ちそうになったことがある。
その時に落ちた手すりもそのままだ。
「ねえ、マイ、いたー?」
「今探してるから、覗きこんでないで大人しく待ってろ!」
クラスメートと話しているからか、チャビーの口調は少しいつもに戻った。
舞奈は口元を緩めつつ、意識を研ぎ澄ませて気配を探る。
夕暮れ時の、照明もない廃ビルは薄暗い。
だが舞奈にとっては問題はない。
舞奈は近接攻撃を気配だけで完全に回避する鋭敏な感覚を持つからだ。
だが、そんな感覚をもってしても、小さな獣の気配は感じられない。
廊下の床に、暗い染みがうっすらと滲む。
舞奈は染みを見やって顔をしかめる。
1年前の雨の日の水曜日に、ここで何人かの執行人が逝った。
そのうちのひとりはチャビーの兄だった。
妹思いの良い兄貴だった。
普段の無邪気なチャビーのすべてが虚勢だとは思わないが、懐いていた兄への思慕を易々と忘れられるわけがない。
でなければ、ビルの他に何もないこんなところに来る理由がない。
舞奈ですら、美佳と一樹のことを今だに夢に見るのだ。
感傷を振り切るように、ビルの外に向かって声を張る。
「おーい、名前とかつけてないのかー?」
「ないー」
仕方なく「おーい猫ー」と呼びかけながら探す。
だが、いつか聞いた小さな鳴き声は帰ってこない。
舞奈は1階を重点的に探しつつ全階をひととおり歩いた。
だが収穫はなかった。
「気落ちすんなよチャビー。明日、もうちょっと詳しく探してやるから」
「うん」
「もう遅いから、今日のところは家に帰ろう」
「……うん」
そうしてチャビーを家まで送った。
だが舞奈はすぐに家には帰らなかった。
夕食がてら、繁華街の一角にある中華料理店を訪れた。
中華風の派手な看板に描かれているのは3人の天女と、『太賢飯店』との店名。
赤いペンキが剥げかけた立てつけの悪いドアをガラリと開ける。
「アイヤー。舞奈ちゃん、久しぶりアルね」
「相変わらず美味そうな匂いがするな」
店主の張が満面の笑みを浮かべて出迎える。
「……相変わらず客もいないけどな」
張の表情が渋くなる。
舞奈は我が物顔でカウンターの席に着く。
「んー、担々麺と餃子」
メニューを見ずにそう言って、ポケットから紙幣を取り出して置く。
「舞奈ちゃんが即金で食べるなんて珍しいアルね」
張は言いつつ紙幣を取ってカウンターの裏に回り、調理を始める。
「ちょっと知りたいことがあるんだ」
「そんなことだと思ったアルよ」
張が餃子を焼く側で麺をゆでる匂いを嗅ぎながら、舞奈は足をぶらぶらさせる。
舞奈は低学年の頃からこの店に通っているが、高学年に上がった今でもカウンターの椅子に座ると足がつかない。
「子猫を1匹探してほしい。こういう場合はあんたに頼むのがいいと思った」
舞奈には情報通の友人や知人がたくさんいる。
だがシスターの得手は人間同士の噂話だ。
テックは透明人間をカメラで探させようとして困らせたばかりだ。
明日香の占術は数に入れていない。出会って今まで当たった試しがないのだ。
「うちは占い屋じゃないアルよ」
「頼むよ。あんたの占いだけが頼りなんだ。……まさか食ってないよな?」
「何てこと言うアルか」
張は挽肉のパックを片手に嫌そうに舞奈を見やる。
「……どんな猫アルか?」
「ちっちゃな茶トラの子猫だ」
餃子を皿に盛りつつ問うた張に、舞奈は答える。
「チーかまが好きで、たぶんひと月くらいから――」
言い淀む。
そして冷静を装って言葉を続ける。
「――倉庫街の廃ビルにいた。例のビルだ」
「そうアルか……」
張は一瞬だけ顔を曇らせる。
そして何事もなかったように、椀の中にスープをこしらえる。
湯切りした麺を椀に移し、慣れた手つきで具を盛りつける。
「わかったアル。今晩にでも占っておくから、明日また来るアルよ」
言いつつトレイを持って売り場に出てきて、舞奈の前に料理を並べる。
「へへっ、こいつは美味そうだ」
ザーサイとチンゲン菜と挽肉がたっぷり乗った担々麺の、熱々の湯気に混じる醤油とラー油と芝麻醤の匂いが食欲をそそる。
その隣には、表面がこんがり焼けた大ぶりな焼き餃子。
舞奈は思わず破顔しつつ、備えつけのラー油と餃子のタレを小皿で混ぜる。
張と違って分量は適当だ。
今日は辛目が食べたい気分なのでラー油を多めに。
「……ん? 杏仁豆腐なんか頼んでないぞ?」
「サービスアルよ」
張も笑う。
1年前に倉庫ビルで起きた痛ましい事件の顛末を、張も知っている。
あの時も、舞奈は張に協力を仰いだからだ。
だから舞奈は心づくしの料理を平らげ、杏仁豆腐のほのかな甘さに舌鼓を打った。
そして店を後にした。
そして翌日の放課後。
舞奈は昨日と同じ繁華街をぶらぶら歩いていた。
占術の結果を聞きに張の店に向かうためだ。だが、
「――お、お前ら!? この俺に何するつもりだ!?」
怒声につられて、ふと近くの裏路地を覗きこむ。
くたびれた背広を着た団塊男が、学ラン姿の少年たちに囲まれていた。
「やれやれ、またもめ事か。退屈しない良い街だ」
舞奈はやれやれと肩をすくめる。
「お兄さんたち、おっさんひとりに6人がかりで何やってるんだい?」
舞奈は何気に割って入る。
いきなりあらわれた小学生を、少年たちは怪訝そうに見やる。
そのうちの大柄なひとりが舞奈の前に立ちふさがった。
縦横ともに、舞奈の1.5倍ほどか。
「君、学校帰りかい? ひとりでこんなところに来ちゃダメだよ」
言いつつ舞奈にのしかかるようにかがみこみ、捕まえようと手をのばす。
だが舞奈は動じない。
逆にその手をひねりあげる。
「うわっ、イタタ!」
「先生が!? 気をつけろ! この子、強いぞ!」
巨漢の先生とやらを苦もなく下した舞奈に、少年たちは驚愕する。
どことなく既視感を覚えるシチュエーションだが、舞奈のような生き方をしているとこういうことは何度もある。
相手が子供だからか、困惑と動揺を隠せない様子なのもいつもと同じだ。
少年たちは得物を構える。
木刀が2人と折り畳み式の槍がひとり。
気配の数と合わないのが気になると言えば気になる。
「あんた、助けてくれ! こいつらがいきなり俺に因縁吹っかけてきたんだ!」
団塊男は包囲を逃れ、舞奈の背中にしがみつく。
女子小学生を少年たちにけしかけるように、ぐいぐい背中を押す。
舞奈は露骨に顔をしかめる。
襲われていたとは思えない横柄さもそうだが、男がすさまじく臭かったからだ。
思わず男に向き直る。
「な、なんだよ。俺が何したっていうんだよ!?」
男は舞奈を睨みつける。
舞奈は男の上から下まで順繰りに見やる。
案の定、男は火のついた煙草を手にしていた。
「お、俺は、ただ、煙草吸ってるだけじゃねえか!?」
助けを乞うたばかりの舞奈を怒鳴り、これ見よがしに煙草を吸って煙を吐く。
悪臭と犯罪をまき散らす喫煙者を【機関】は脂虫と呼称し、人に仇成す怪異だと規定している。彼らは人に似て人ではなく、死んでも【機関】が後始末する。
舞奈は改めて少年たちを見やる。
武装こそしているものの、身なりは整っていて表情も真面目そうだ。
そう。まるで任務を遂行中の――
「ひょっとして、貴女は志門舞奈さんですね」
少年たちの周囲にいくつもの人影があらわれ、中央に集まって少女になった。
ゆるくウェーブがかかった長髪が印象的な女子高生だ。
先日の事件で知り合った桂木紅葉の姉、桂木楓である。
「なんで『ひょっとして』の後が断定なんだ?」
舞奈は楓をジト目で見やる。
「だいたい、あんたとは前に1回、会ってるだろう」
「ふふふ、星がまたたく魔術の夜に、人は昼間とは違う顔を見せるものです」
「? ……そうかい」
言ってる意味がわからない。
桂木楓は元脂虫連続殺害事件の主犯であり、1年足らずで魔術を修めた才女だ。
そして現在は、舞奈とは別の仕事人《トラブルシューター》コンビ【メメント・モリ】の魔術師だ。
そんな彼女の素の顔は、何というか奈良坂と少し似ていた。
「っていうか、あんたのほうが人相変わってるぞ」
あの夜に、明日香と死闘を演じた彼女は上品な顔立ちをした美女だった。
その美貌を、今は野暮ったい黒ぶちメガネが台無しにしていた。
「ああ、これですか? 学校や『仕事』のときはコンタクトにしてたんですけど、普段はこうですよ。こっちのほうが楽なので」
楓は舞奈の視線に気づき、うふふと笑って眼鏡の位置を直す。
「今は仕事中なんじゃないのか?」
「ふふ、明日香さんと少し話をしまして、仕事中も眼鏡にしたんです」
「明日香の入れ知恵だと?」
「はい。眼鏡に見えますが、実は眼鏡そっくりに創ったメジェド神でして……」
メジェド神とはウアブ魔術師が【魔神の創造】によって創造する簡易的な魔神であり、他流派の魔術師が用いる式神と同等の存在だと聞いている。
「ちょっと待ってくれ」
「はい?」
「胸に手を当てて、公共の往来でその先を言っても誰かに怒られないかどうか考えてみちゃあくれないか? あんたが大丈夫だと判断したら、その先を聞くよ」
楓は自身のふくよかな胸に手を当てて、しばし考える。
そして何も言わないまま、笑った。
「おいおい、大丈夫なのか……」
舞奈はやれやれと肩をすくめる。
「君があの【掃除屋】の舞奈ちゃんだったのか。なら僕が負けるのも無理ないな」
先ほど倒した大柄な少年が頭をかいた。
「まったくですぞ、閣下が言ってた通りの強さですな」
他の少年たちも、舞奈に尊敬のまなざしを向ける。
楓は彼らに何を吹きこんだのやら。
閣下なんて言い回し、明日香の式神が明日香を呼ぶ時くらいしか聞かない。
そういえば、楓が仕事人《トラブルシューター》になった理由は『弟のような犠牲を出さないため』だと聞いた。だから執行人と仕事などしているのだろうか。彼らを守るために。
なので喉まで出かかった『オタサーの姫』という言葉を、笑顔で飲みこんだ。
「お、おい嬢ちゃん! こいつらをやっつけてくれるんじゃないのか!?」
少年たちにちやほやされ始めた舞奈の顔を、男は煙草を片手に覗きこむ。
舞奈は男を不快げに見やり、言い放つ。
「……安心しな、おっさん。こいつらは別に悪いことしてるわけじゃなかったよ」
今度は男が困惑する。
「要は保健所のバイトみたいなことをしてて、今は害虫の駆除中なんだ」
舞奈はジャケットをつかむ男の手をはらいのけ、少年たちを見やる。
「……ヤニ狩りの任務ってことでいいんだよな?」
ヤニ狩りというのは、読んで字の如く脂虫を駆り集める仕事だ。
集められた脂虫は【断罪発破】による発破や、呪術の贄として用いられる。
実戦訓練代わりに低ランクの新人執行人に命じられることが多く、諜報部にナワリ呪術師の小夜子が移籍してからは需要も増えたらしい。
「ええ、そうなんですよ。期限までにあと10人ほど必要らしくて」
楓の答えに苦笑する。
「ずいぶん多いな。隣町のパチンコ屋で狩った方が早いだろうに」
まとまった数の脂虫を手っ取り早く集めるには、たまり場で狩るのが一番だ。
舞奈が仕事人《トラブルシューター》になる以前には、この街にもそういう店があったのだと聞いたことがある。だが執行人が客を狩りすぎて潰れたらしい。
「たまり場の脂虫を狩るのは誰でも出来ますけど、この界隈にも脂虫はいます。奴らを野放しにしておくのも道理に反する気がしませんか?」
そう言って楓は微笑む。
彼女の弟は脂虫に殺された。
この世界に脂虫なんていないほうがいい。
けど様々な理由から誰も脂虫を殲滅することができない。
彼女は妹と2人でそれを成し遂げようとしたけど、無理だった。
だから姉妹は仕事人《トラブルシューター》になった。
そして楓は脂虫による被害を少しでも減らそうと、執行人に協力していた。
彼らが狩場ではなく街中を徘徊する脂虫を狩っていたのも、楓が何かを働きかけたからだろう。
彼女も新たな仲間とともに、正しいことをしようとしていた。
「そっか」
舞奈も笑う。
逃げようとした男が、大柄な少年に拘束される。
「邪魔してスマン。借りにしとくよ」
舞奈は口元に笑みを浮かべる。
「あと、脂虫の数え方は『人』じゃなくて『匹』だよ。それに脅して同行を願うんじゃなくて、折りたたんで袋に入れて持っていくんだ」
年下の先輩の言葉に、楓も少年たちも目を輝かせてうなずく。
舞奈は大柄な少年を見やる。
「……そうそう。受付じゃなくて、支部の裏にある受け入れセンターに持って行ってくれよ。臭いものを受付に持ってくと、スゴイ目で睨まれるから」
「ああ、気をつけるよ」
少年たちに見送られて、舞奈は裏路地を後にした。
背後で男の悲鳴と、何かがへし折れる小気味良い音がした。
中々に飲みこみの良い少年たちだ。
「それにしても、脂虫をダースで集めて何するつもりなんだ?」
どうやら張の店に行く前に、寄る所ができたようだ。
チャビーはそう言って目を伏せた。
幼女のような小さな手は、不安げにチーズかまぼこを握りしめている。
「この前、おまえが餌やってた茶トラか?」
「うん。チーかまを買って、いつもみたいに遊ぼうと思ったら、猫ちゃんがどこにもいないの。呼んでもこないの。こんなこと今までなかったのに……」
「それで中を探そうと思ったのか……」
「うん……」
萎れたようなチャビーの様子は、普段の煩わしいほど元気な彼女とは程遠い。
「しゃあない」
舞奈は冗談めかして大げさに肩をすくめてみせる。
「ちょっくら見てきてやるから、ここで待ってろ」
「うん。ありがとう、マイ」
「いいってことよ」
不安を和らげるように軽く言う。
そして慣れた調子でチェーンをまたぎ、人気のないビルに入る。
そこは何の変哲もないオフィスビルのエントランスだった。
老朽化であちこちが崩れていて、同じように朽ちた家具が散乱している。
中央の天井は吹き抜けになっていて、2階と繋がっている。
チャビーは以前にも忍びこんで、階段を登る途中に足を滑らして落ちそうになったことがある。
その時に落ちた手すりもそのままだ。
「ねえ、マイ、いたー?」
「今探してるから、覗きこんでないで大人しく待ってろ!」
クラスメートと話しているからか、チャビーの口調は少しいつもに戻った。
舞奈は口元を緩めつつ、意識を研ぎ澄ませて気配を探る。
夕暮れ時の、照明もない廃ビルは薄暗い。
だが舞奈にとっては問題はない。
舞奈は近接攻撃を気配だけで完全に回避する鋭敏な感覚を持つからだ。
だが、そんな感覚をもってしても、小さな獣の気配は感じられない。
廊下の床に、暗い染みがうっすらと滲む。
舞奈は染みを見やって顔をしかめる。
1年前の雨の日の水曜日に、ここで何人かの執行人が逝った。
そのうちのひとりはチャビーの兄だった。
妹思いの良い兄貴だった。
普段の無邪気なチャビーのすべてが虚勢だとは思わないが、懐いていた兄への思慕を易々と忘れられるわけがない。
でなければ、ビルの他に何もないこんなところに来る理由がない。
舞奈ですら、美佳と一樹のことを今だに夢に見るのだ。
感傷を振り切るように、ビルの外に向かって声を張る。
「おーい、名前とかつけてないのかー?」
「ないー」
仕方なく「おーい猫ー」と呼びかけながら探す。
だが、いつか聞いた小さな鳴き声は帰ってこない。
舞奈は1階を重点的に探しつつ全階をひととおり歩いた。
だが収穫はなかった。
「気落ちすんなよチャビー。明日、もうちょっと詳しく探してやるから」
「うん」
「もう遅いから、今日のところは家に帰ろう」
「……うん」
そうしてチャビーを家まで送った。
だが舞奈はすぐに家には帰らなかった。
夕食がてら、繁華街の一角にある中華料理店を訪れた。
中華風の派手な看板に描かれているのは3人の天女と、『太賢飯店』との店名。
赤いペンキが剥げかけた立てつけの悪いドアをガラリと開ける。
「アイヤー。舞奈ちゃん、久しぶりアルね」
「相変わらず美味そうな匂いがするな」
店主の張が満面の笑みを浮かべて出迎える。
「……相変わらず客もいないけどな」
張の表情が渋くなる。
舞奈は我が物顔でカウンターの席に着く。
「んー、担々麺と餃子」
メニューを見ずにそう言って、ポケットから紙幣を取り出して置く。
「舞奈ちゃんが即金で食べるなんて珍しいアルね」
張は言いつつ紙幣を取ってカウンターの裏に回り、調理を始める。
「ちょっと知りたいことがあるんだ」
「そんなことだと思ったアルよ」
張が餃子を焼く側で麺をゆでる匂いを嗅ぎながら、舞奈は足をぶらぶらさせる。
舞奈は低学年の頃からこの店に通っているが、高学年に上がった今でもカウンターの椅子に座ると足がつかない。
「子猫を1匹探してほしい。こういう場合はあんたに頼むのがいいと思った」
舞奈には情報通の友人や知人がたくさんいる。
だがシスターの得手は人間同士の噂話だ。
テックは透明人間をカメラで探させようとして困らせたばかりだ。
明日香の占術は数に入れていない。出会って今まで当たった試しがないのだ。
「うちは占い屋じゃないアルよ」
「頼むよ。あんたの占いだけが頼りなんだ。……まさか食ってないよな?」
「何てこと言うアルか」
張は挽肉のパックを片手に嫌そうに舞奈を見やる。
「……どんな猫アルか?」
「ちっちゃな茶トラの子猫だ」
餃子を皿に盛りつつ問うた張に、舞奈は答える。
「チーかまが好きで、たぶんひと月くらいから――」
言い淀む。
そして冷静を装って言葉を続ける。
「――倉庫街の廃ビルにいた。例のビルだ」
「そうアルか……」
張は一瞬だけ顔を曇らせる。
そして何事もなかったように、椀の中にスープをこしらえる。
湯切りした麺を椀に移し、慣れた手つきで具を盛りつける。
「わかったアル。今晩にでも占っておくから、明日また来るアルよ」
言いつつトレイを持って売り場に出てきて、舞奈の前に料理を並べる。
「へへっ、こいつは美味そうだ」
ザーサイとチンゲン菜と挽肉がたっぷり乗った担々麺の、熱々の湯気に混じる醤油とラー油と芝麻醤の匂いが食欲をそそる。
その隣には、表面がこんがり焼けた大ぶりな焼き餃子。
舞奈は思わず破顔しつつ、備えつけのラー油と餃子のタレを小皿で混ぜる。
張と違って分量は適当だ。
今日は辛目が食べたい気分なのでラー油を多めに。
「……ん? 杏仁豆腐なんか頼んでないぞ?」
「サービスアルよ」
張も笑う。
1年前に倉庫ビルで起きた痛ましい事件の顛末を、張も知っている。
あの時も、舞奈は張に協力を仰いだからだ。
だから舞奈は心づくしの料理を平らげ、杏仁豆腐のほのかな甘さに舌鼓を打った。
そして店を後にした。
そして翌日の放課後。
舞奈は昨日と同じ繁華街をぶらぶら歩いていた。
占術の結果を聞きに張の店に向かうためだ。だが、
「――お、お前ら!? この俺に何するつもりだ!?」
怒声につられて、ふと近くの裏路地を覗きこむ。
くたびれた背広を着た団塊男が、学ラン姿の少年たちに囲まれていた。
「やれやれ、またもめ事か。退屈しない良い街だ」
舞奈はやれやれと肩をすくめる。
「お兄さんたち、おっさんひとりに6人がかりで何やってるんだい?」
舞奈は何気に割って入る。
いきなりあらわれた小学生を、少年たちは怪訝そうに見やる。
そのうちの大柄なひとりが舞奈の前に立ちふさがった。
縦横ともに、舞奈の1.5倍ほどか。
「君、学校帰りかい? ひとりでこんなところに来ちゃダメだよ」
言いつつ舞奈にのしかかるようにかがみこみ、捕まえようと手をのばす。
だが舞奈は動じない。
逆にその手をひねりあげる。
「うわっ、イタタ!」
「先生が!? 気をつけろ! この子、強いぞ!」
巨漢の先生とやらを苦もなく下した舞奈に、少年たちは驚愕する。
どことなく既視感を覚えるシチュエーションだが、舞奈のような生き方をしているとこういうことは何度もある。
相手が子供だからか、困惑と動揺を隠せない様子なのもいつもと同じだ。
少年たちは得物を構える。
木刀が2人と折り畳み式の槍がひとり。
気配の数と合わないのが気になると言えば気になる。
「あんた、助けてくれ! こいつらがいきなり俺に因縁吹っかけてきたんだ!」
団塊男は包囲を逃れ、舞奈の背中にしがみつく。
女子小学生を少年たちにけしかけるように、ぐいぐい背中を押す。
舞奈は露骨に顔をしかめる。
襲われていたとは思えない横柄さもそうだが、男がすさまじく臭かったからだ。
思わず男に向き直る。
「な、なんだよ。俺が何したっていうんだよ!?」
男は舞奈を睨みつける。
舞奈は男の上から下まで順繰りに見やる。
案の定、男は火のついた煙草を手にしていた。
「お、俺は、ただ、煙草吸ってるだけじゃねえか!?」
助けを乞うたばかりの舞奈を怒鳴り、これ見よがしに煙草を吸って煙を吐く。
悪臭と犯罪をまき散らす喫煙者を【機関】は脂虫と呼称し、人に仇成す怪異だと規定している。彼らは人に似て人ではなく、死んでも【機関】が後始末する。
舞奈は改めて少年たちを見やる。
武装こそしているものの、身なりは整っていて表情も真面目そうだ。
そう。まるで任務を遂行中の――
「ひょっとして、貴女は志門舞奈さんですね」
少年たちの周囲にいくつもの人影があらわれ、中央に集まって少女になった。
ゆるくウェーブがかかった長髪が印象的な女子高生だ。
先日の事件で知り合った桂木紅葉の姉、桂木楓である。
「なんで『ひょっとして』の後が断定なんだ?」
舞奈は楓をジト目で見やる。
「だいたい、あんたとは前に1回、会ってるだろう」
「ふふふ、星がまたたく魔術の夜に、人は昼間とは違う顔を見せるものです」
「? ……そうかい」
言ってる意味がわからない。
桂木楓は元脂虫連続殺害事件の主犯であり、1年足らずで魔術を修めた才女だ。
そして現在は、舞奈とは別の仕事人《トラブルシューター》コンビ【メメント・モリ】の魔術師だ。
そんな彼女の素の顔は、何というか奈良坂と少し似ていた。
「っていうか、あんたのほうが人相変わってるぞ」
あの夜に、明日香と死闘を演じた彼女は上品な顔立ちをした美女だった。
その美貌を、今は野暮ったい黒ぶちメガネが台無しにしていた。
「ああ、これですか? 学校や『仕事』のときはコンタクトにしてたんですけど、普段はこうですよ。こっちのほうが楽なので」
楓は舞奈の視線に気づき、うふふと笑って眼鏡の位置を直す。
「今は仕事中なんじゃないのか?」
「ふふ、明日香さんと少し話をしまして、仕事中も眼鏡にしたんです」
「明日香の入れ知恵だと?」
「はい。眼鏡に見えますが、実は眼鏡そっくりに創ったメジェド神でして……」
メジェド神とはウアブ魔術師が【魔神の創造】によって創造する簡易的な魔神であり、他流派の魔術師が用いる式神と同等の存在だと聞いている。
「ちょっと待ってくれ」
「はい?」
「胸に手を当てて、公共の往来でその先を言っても誰かに怒られないかどうか考えてみちゃあくれないか? あんたが大丈夫だと判断したら、その先を聞くよ」
楓は自身のふくよかな胸に手を当てて、しばし考える。
そして何も言わないまま、笑った。
「おいおい、大丈夫なのか……」
舞奈はやれやれと肩をすくめる。
「君があの【掃除屋】の舞奈ちゃんだったのか。なら僕が負けるのも無理ないな」
先ほど倒した大柄な少年が頭をかいた。
「まったくですぞ、閣下が言ってた通りの強さですな」
他の少年たちも、舞奈に尊敬のまなざしを向ける。
楓は彼らに何を吹きこんだのやら。
閣下なんて言い回し、明日香の式神が明日香を呼ぶ時くらいしか聞かない。
そういえば、楓が仕事人《トラブルシューター》になった理由は『弟のような犠牲を出さないため』だと聞いた。だから執行人と仕事などしているのだろうか。彼らを守るために。
なので喉まで出かかった『オタサーの姫』という言葉を、笑顔で飲みこんだ。
「お、おい嬢ちゃん! こいつらをやっつけてくれるんじゃないのか!?」
少年たちにちやほやされ始めた舞奈の顔を、男は煙草を片手に覗きこむ。
舞奈は男を不快げに見やり、言い放つ。
「……安心しな、おっさん。こいつらは別に悪いことしてるわけじゃなかったよ」
今度は男が困惑する。
「要は保健所のバイトみたいなことをしてて、今は害虫の駆除中なんだ」
舞奈はジャケットをつかむ男の手をはらいのけ、少年たちを見やる。
「……ヤニ狩りの任務ってことでいいんだよな?」
ヤニ狩りというのは、読んで字の如く脂虫を駆り集める仕事だ。
集められた脂虫は【断罪発破】による発破や、呪術の贄として用いられる。
実戦訓練代わりに低ランクの新人執行人に命じられることが多く、諜報部にナワリ呪術師の小夜子が移籍してからは需要も増えたらしい。
「ええ、そうなんですよ。期限までにあと10人ほど必要らしくて」
楓の答えに苦笑する。
「ずいぶん多いな。隣町のパチンコ屋で狩った方が早いだろうに」
まとまった数の脂虫を手っ取り早く集めるには、たまり場で狩るのが一番だ。
舞奈が仕事人《トラブルシューター》になる以前には、この街にもそういう店があったのだと聞いたことがある。だが執行人が客を狩りすぎて潰れたらしい。
「たまり場の脂虫を狩るのは誰でも出来ますけど、この界隈にも脂虫はいます。奴らを野放しにしておくのも道理に反する気がしませんか?」
そう言って楓は微笑む。
彼女の弟は脂虫に殺された。
この世界に脂虫なんていないほうがいい。
けど様々な理由から誰も脂虫を殲滅することができない。
彼女は妹と2人でそれを成し遂げようとしたけど、無理だった。
だから姉妹は仕事人《トラブルシューター》になった。
そして楓は脂虫による被害を少しでも減らそうと、執行人に協力していた。
彼らが狩場ではなく街中を徘徊する脂虫を狩っていたのも、楓が何かを働きかけたからだろう。
彼女も新たな仲間とともに、正しいことをしようとしていた。
「そっか」
舞奈も笑う。
逃げようとした男が、大柄な少年に拘束される。
「邪魔してスマン。借りにしとくよ」
舞奈は口元に笑みを浮かべる。
「あと、脂虫の数え方は『人』じゃなくて『匹』だよ。それに脅して同行を願うんじゃなくて、折りたたんで袋に入れて持っていくんだ」
年下の先輩の言葉に、楓も少年たちも目を輝かせてうなずく。
舞奈は大柄な少年を見やる。
「……そうそう。受付じゃなくて、支部の裏にある受け入れセンターに持って行ってくれよ。臭いものを受付に持ってくと、スゴイ目で睨まれるから」
「ああ、気をつけるよ」
少年たちに見送られて、舞奈は裏路地を後にした。
背後で男の悲鳴と、何かがへし折れる小気味良い音がした。
中々に飲みこみの良い少年たちだ。
「それにしても、脂虫をダースで集めて何するつもりなんだ?」
どうやら張の店に行く前に、寄る所ができたようだ。
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