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第7章 メメント・モリ

戦闘1-1 ~銃技vsウアブ呪術

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 そして水曜日の夕方。
 舞奈は古びた伊或いある町の大通りで周囲を警戒していた。
 頭には『水素くん』の紙袋。
 側には携帯型の護摩壇を手にした奈良坂。

 舞奈は通りに見えざる何者かの気配を感じとる。

「……来た。奈良坂さん、頼む」
「えっ、あ、はいっ!」
 頼りがいのない返事をしつつ、奈良坂は護摩を焚いて真言を唱える。
 気配が慎重に歩を進める中、密やかな経の音が静寂に溶ける。
 そして奈良坂の施術はつつがなく完成した。

 古びた街が、現実味を欠いた幽玄と化す。
 平屋の家屋の上から仏像が顔を覗かせ、般若心経の細い調べが静かに流れる。

 時空との対話により地蔵菩薩クシティ・ガルバの加護を得る【地蔵結界法クシティ・ガルヴィナ・ホーマ】。
 この妖術によって張り巡らされた戦術結界は、範囲内の空間を周囲から遮断することで仏敵の魔力を遮断する。

 この結界の中にいるのは舞奈と結界の主である奈良坂、そして【偏光隠蔽ニンジャステルス】――否、【秘せられしヴェールヘペス・ハプ】で透明化したメメント・モリだけだ。
 メメント・モリは、不意に結界に取りこまれて動揺する。

「奈良坂さんは下がっててくれ」
 結界を張った時点で奈良坂の役目は終わりだ。
 あとは結界を維持しつつ【孔雀経法マハーマーユーリナ・ラクシャ】で警戒し、奈良坂自身が狙われたり、万が一舞奈が倒れた場合、結界を解除して逃げる手筈になっている。
 彼女を戦闘に巻きこみたくなかったからだ。
 一樹と同じ仏術を使う彼女は、一樹とは正反対に気弱で戦闘には不向きだ。

「また会ったな、メメント・モリ!」
 舞奈は大通りに踊り出て叫ぶ。
 気配が怯む。
 脂虫の不意を突いて殺す以外の戦闘をしたことがないのだろう。
 結界にも、透明化の通じない相手にも彼女は不慣れだ。

 舞奈はジャケットの下の拳銃ジェリコ941を意識する。
 だが彼女との邂逅の目的は、不意を突いて倒すことじゃない。

「姿を見せな。あたしに【秘せられしヴェールヘペス・ハプ】は通用しない」
 言いつつ『水素くん』の紙袋をとる。
 小さなツインテールが揺れる。

「なんで君が……!?」
 空気からにじみ出るように、ひとりの少女があらわれた。
 それは舞奈の予想通り、凛とした顔立ちの美少女だった。

 彼女は中等部の学生ズボンを穿いて、男子の制服を着こんでいた。
 その姿はスレンダーな彼女に不思議と似合っていた。
 カッターシャツの胸元に、古代エジプトのアンクが提げられている。
 一樹を思わせるポニーテールが、夜風に吹かれて揺れた。

 桂木紅葉。
 1年前に弟を亡くした姉妹の片割れ。
 着ている制服は弟の形見か。

「いつぞやはありがとう。猫はどうなった?」
 舞奈は余裕の笑みを浮かべて問う。

「……治ったよ。今はすっかり元気だ」
 メメント・モリ――桂木紅葉は固い声色で答えつつ、構える。
 何らかの武術の構えだ。
 部活を辞めて、弟の死の真相を知って、呪術と共に殺しの技を鍛えたのだろう。
 格闘技を使う時点で、紅葉は舞奈に勝てない。
 だが彼女の真の強みは呪術だ。

「そりゃよかった。けど半月くらい様子を見てやっちゃくれないか? あんたの姉さんの治し方、何かの間違いで消去されると傷口が開いちゃうんだ」
 舞奈は口元に不敵な笑みを浮かべる。
 紅葉は困惑する。

「あと、先々週に人さらいを殺ったろ? さらわれてたのはあたしの友だちだ」
 軽口のように言葉を続ける。
「あいつ自分の立場も考えずに、駆けつけた警官が太ってたって文句言ってやがった。本当の恩人があんただって知ったら、きっと喜ぶよ」
 舞奈は笑う。

 物知り顔な舞奈の言葉に、紅葉は業を煮やして問いかける。

「君は何を知っている?」
 抑えた声で言う。自分を落ち着かせるように。

「大したことは知っちゃいないさ」
 舞奈も静かに答える。

「あんたがなにをしようとしてるか、とかな。今日はそいつを止めに来た」
「!?」
「この結界はあんたの魔力を削ぐ。だから力技じゃ壊せない」
 舞奈はいきなり間合いを詰める。
「あの豚野郎を殺りたきゃ、先にあたしを倒すんだな!」
 だが紅葉は驚くべき跳躍で後ろに退く。
 反射神経は舞奈に迫り、跳んだ距離は人間の限界をはるかに超える。

「やっぱり呪術で作った筋肉か」
 天使に似た擬似生命によって筋力を強化する【屈強なる身体ジュト・ネケト】の呪術。

 彼女が修めたウアブ呪術は、魔神の力を借りた3つの術を内包する。
 即ち、風や水や大地を操る【エレメントの変成】。
 天使に似た擬似物質として顕現させる【擬似生命の変成】。
 魔神の魔力で猫を操る【動植物との同調と魔力付与】。

 紅葉は胸元のアンクに手をかざす。
 そして小さくコプト語の呪文を唱える。

 呪術に限らず魔法に不可欠なのはイメージだ。
 それを補佐するために神術士は祝詞を唱え、ヴードゥー女神官マンボやナワリ呪術師は神の名を唱え、祓魔師エクソシストは聖句を唱えロザリオに祈る。
 ウアブ呪術を使う神官にとってのアンクも同じだ。
 加えてアンクにはロザリオと同様に魔神の魔力が焼きつけられており、外界の魔力を遮断する結界の中でもある程度の魔力を供給することができる。

 呪文の中に大気を司るシュウ神の名を聞いた刹那、紅葉は舞奈めがけて跳んだ。

 刃の様な空気の流れ。

 紅葉の拳を素早く避ける。
 だがジャケットの端が裂ける。
 魔力で大気を操り掌を覆う【風の手ジェレト・チャウ】の術。
 変幻自在の呪術の風は、籠手にもなれば刃にもなる。

「そうこなくっちゃな!」
 舞奈はニヤリと笑う。
 間髪入れずに肉薄する。

 今度は紅葉も退かない。
 拳に宿った【風の手ジェレト・チャウ】で圧倒できるとふんだか。

 だが舞奈は違和感を感じる。
 距離を取って、さらに強力な呪術を行使する選択もあるはずだ。
 なのにそうしないのは何故だろう?

 舞奈のみぞおちめがけて、風をまとった拳が迫る。
 だが【風の手ジェレト・チャウ】は伸ばしても長剣程度にしかならない。
 だから舞奈は喰らうことも過剰に避けることもなく紅葉の腕をつかむ。
 そして勢いを利用して投げる。

 紅葉は空中で一回転して車道に着地する。

(あの時と同じ動きだ。やっぱり速いな)
 呪術で筋力を強化しているだけじゃない。
 彼女は部活で鍛えていた。
 だから身体を動かすこと自体が得意だし、武術を短期間で習得できた。
 奈良坂に爪の垢でも煎じて飲ませたいくらいだ。

 だが武術では決して舞奈は倒せない。
 そして舞奈も、術を使わぬ相手に切り札を使えない。

 だから、口元に不敵な笑みを浮かべてみせる。
 彼女が大規模な呪術を使わない理由を、舞奈はなんとなく察していた。

「――執行人エージェントバースト。異能力は【偏光隠蔽ニンジャステルス】。得物はナイフ」
 ひとりごちるような舞奈の言葉に、紅葉は思わず動きを止める。

「そいつは異能で姿を消してナイフで急所を突いて、破裂するみたいに倒した。身体強化なんてできないし、ナイフも普通のコンバットナイフだけどな」
 それは1年前の作戦で殉職したひとりの少年の記録。
 楓と紅葉の弟だった瑞葉少年の生きた証。

 紅葉は弟の生き様を体現するように呪術で姿を消し、大気のナイフをふるう。
 かつての舞奈が一樹の背中を追っていたように。

「あんたの弟ができたはずのことじゃない、あんた自身の力を叩きつけてみろ!」
 挑発する。

「でなきゃ、あたしは倒せない」
 凛とした紅葉の顔が怒りに歪む。
 奪われた過去を他人に詮索されるのが嫌なのだろう。
 舞奈だって嫌だ。

「瑞葉のことを……知っているのかぁ!!」
 紅葉は駆ける。
 至近で掌をかざす。呪文。

 轟。

 直感のまま飛び退った舞奈を烈風が襲う。
 小柄な身体が吹き飛ばされる。

 掌から爆風を放って至近距離の対象を打ちすえる【風の一撃ヘディ・チャウ】。
 おそらく前回の追跡劇の際に、自転車の脂虫を吹き飛ばした術だ。

 前回も、紅葉は身体強化と透明化以外の術を使おうとしなかった。
 だが例外があった。
 彼女は弟の死の原因となった脂虫を爆破した。
 そしてトラックに激突しそうだった子供を救うために、地面を裏返した。

 舞奈の口元に笑みが浮かぶ。
 鉄槌の如く風をいなし、電柱を蹴って地に降り立つ。

 紅葉は続けてアンクに手をやり呪文を唱える。
 奉ずるは大地を統べるゲブ神。

 舞奈は着地と同時に地を蹴る。
 横に跳んだ舞奈の残像を、アスファルトを砕いた巨大な手が握りしめる。
 大地を操り対象を拘束する術の名は【地の拘束ケファ・ター】。
 以前にトラックを止めた【地の一撃ヘディ・ター】の応用だ。
 太陽系の各惑星に宿る魔神から力を得るウアブの【エレメントの変成】は、魔王の力を借りる祓魔術エクソシズムより柔軟で、天地に宿る魔力を操るその他の呪術より力強い。

(それでも、あたしを傷つけたくないって思うのか)
 舞奈は笑う。

 かつて舞奈は、教会で見かけた彼女と姉に一樹と美佳の面影を見ていた。
 なるほど凛々しいポニーテールの彼女は、姉代わりだった一樹と少し似ている。
 だが一樹は敵を殺せるチャンスを逃さなかった。

(それに――)
 舞奈は幽玄の空を見やる。

 紅葉は結界を維持している奈良坂を狙っていない。
 そのほうが手っ取り早く結界から逃れられるのに。奈良坂は舞奈より弱いし、奇襲察知の妖術で警戒しつつ狙われたら結界を解除して逃げる手筈になっている。
 そうしないのは、たぶん彼女の前身がコートの中で戦うスポーツ選手だからだ。
 一樹のような人斬りじゃなくて。

 そんなかつての仲間と彼女との違いが、今は何故か心地良かった。

「あたしは異能を持ってない」
 不意に舞奈は語りかける。

 紅葉は戸惑い、立ち止まる。
 たとえ戦闘の最中であっても相手が話せば聞き手に回る。
 復讐のために辞めてしまった部活では、人望のあるエースだったのだろう。

「魔術も使えない、古文書や魔導書を読み解く知恵がないからだ。呪術もだ、天地に満ちる魔力の声を聞くことすらできないからな」
 舞奈は口元に感情を覆い隠す笑みを浮かべ、言葉を続ける。

「それに異能力もない。あれは若い男にしか発現しないんだ」
 口元の笑みが歪む。

 修練を要する術と異なり、異能力は発現する。
 異能に目覚めた少年たちは意味もわからず闇の戦いに身を投じ、多くは死ぬ。
 姉たちが知らぬ間に目覚め、姉たちが知らぬ間に逝った瑞葉少年のように。

「じゃあ君には何があるっていうんだ!?」
 紅葉は叫ぶ。
「そいつはわたしの力を……瑞葉の無念を受け止められるほどの力なのか!?」
 彼女の怒りに応じて、アスファルトの地面がきしむ。
 拳にまとった風が砂や小石を巻きこみ、凶悪な砂嵐の剣と化して吹きすさぶ。

 桂木紅葉は呪術師ウォーロックだ。
 風も大地も、周囲のあらゆるものが彼女の力だ。
 対して舞奈は、

「人間の力だよ」
 そう言って笑う。

「2本の足で走って、5本の指で得物を握って、2つの目で見てきた。あんたよりちょっとだけ、いろんなものをな」
 超常の力で武装した紅葉の怒りを、慟哭を真正面から見据えて、それでも笑う。

 小5の舞奈は中3の紅葉より、はるかに子供だ。
 だが紅葉が普通の小学生だった3年前に、舞奈はピクシオンだった。
 2年前には仕事人《トラブルシューター》になった。

 そして1年前に彼女から弟を奪った忌まわしい事件を解決したのも舞奈たちだ。

 舞奈は人の姿をした怪異を討ち滅ぼす感触を知っている。
 群れ成す脂虫が、数多の銃弾の前に崩れ去る光景を知っている。
 守れなかった痛みを知っている。
 側にいた大事な人がいなくなる喪失感を知っている。

「だから――」
 そんな感情を覆い隠すように軽薄に笑う。
 ジャケットの裏に、そっと手をやる。

「――あたしはこいつで、あんたを止める」
 次の瞬間、舞奈の手には黒光りする拳銃ジェリコ941がにぎられていた。
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