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第7章 メメント・モリ
依頼 ~連続殺害事件の捜査
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「何であんたが……ここに……!?」
舞奈は目を見開いて、かすれた声で言った。
年季の入った鉄のドアをガチャリと開けて、彼女があらわれた事実が信じられなかった。失われた幸福な時間を想う心が生み出した幻だとすら思った。
それは太った女だった。
大柄でがっしりしていて、でっぷりと太っていた。
袖をまくった腕も、エプロンの腹も、有り余る肉でタプタプだ。
食堂のばあさんである。
ばあさんの側には鍋や炊飯器が乗ったワゴン。
舞奈の鋭敏な臭覚が、鍋の中身はカレーだと告げた。
失われたはずの今日の給食のメニューと同じ、カレーライスだと。
「他所の支部で珍しい料理を覚えてきてね、せっかくだから、食堂のメニューにする前にあんたらに食わせてやろうと思ったのさ」
ばあさんは不敵に笑い、鍋のフタを開けて見せる。
そして舞奈と明日香の前に、てきぱきと皿を並べる。
皿にご飯を盛り、手際よくカレーをかける。
そして数分後。
カレールーとスパイスの香りが、舞奈の鼻孔をくすぐっていた。
「なあ、明日香」
「何よ?」
「天国って、きっとこういうところなんだろうな」
「近場に天国があって、羨ましいわ」
カレーの香りを堪能する舞奈を、明日香が冷ややかに見やる。
「本当の天国はこれからだよ」
言いつつばあさんはカレーの上にカツを並べる。
舞奈の瞳が輝く。
カツカレーだ!
給食のカレーよりずっとすごい!
口の端からよだれが垂れる。明日香が睨む。
さらにばあさんは、別の鍋から何かをよそう。
黒ずんでいて、独特な甘い香りのするそれは……
「味噌……か? ばあさん、カレーに味噌をかけるってのか!?」
驚愕する舞奈に、ばあさんはニヤリと笑いかける。
そして、カツの上に味噌をかける。
スパイシーなカレーの匂いに混じる、甘い味噌の香り。
「ほおれ、出来上がりだよ。食ってみな」
うながされるままスプーンを握る。
ご飯とカレーと、味噌のかかったカツを一切れすくう。
カレー自体に具が少ないのはカツの食感を引き立たせるためだろう。
口に入れる。
瞬間、舞奈は目を見開いて感嘆した。
カレーは辛口。細く切り分けられたトンカツはやわらかくて肉厚で、カラリと揚がった衣とのコントラストがたまらない。
そして、カツにかけられた味噌。
ピリリと沁みるカレーの辛さと、コクのある味噌の甘さが口の中で混ざり合って得も言われぬハーモニーを奏でる。
「尾張名古屋の味噌カツカレーですね」
「ほう、よく知ってるね」
明日香のうんちくに、ばあさんはニヤリと笑みを返す。
知性派の明日香は舌で味を堪能し、頭で知識を堪能する。
だが舞奈はそんな器用な真似は出来ないので、美味い飯はひたすら喰らう。
「ばあさん! おかわりいいか?」
「おうよ」
空になった皿に軽めにご飯とカレーが盛られ、カツが乗せられ味噌がかかる。
舞奈は待ちきれぬとばかりに喰らう。
「あんまり食い過ぎるんじゃないよ」
「わかってますって」
「デザートもちゃーんと用意してあるんだからね」
「おおっ!」
ばあさんはワゴンの下から皿を取り出す。
上品に食べ終えた明日香とともに、2皿を平らげた舞奈はデザートを見やる。
厚切りトーストの上に、先程と似た黒ずんだ何かとバターが乗っていた。
「小倉トーストですか。かの地では朝食として供されると聞いていますが」
「こいつを朝から食うのか!? そんな国があるのか!?」
「いや、国じゃなくて……」
呆れる明日香を尻目に、トーストを手に取って豪快にかぶりつく。
「お。こいつは、あんこか」
サクサクに焼き上げたトーストの食感と、小倉あんの甘さを楽しむ。
乗せられたバターの風味がハーモニーに彩を添える。
そうやって思いがけぬ異邦の珍味を堪能した舞奈と明日香は、コップ一杯の水をもらって幸せな気分で一息つく。
ばあさんは鮮やかな手つきで食器を片づけて退室した。
「さて、腹もくちくなったところで本題に移りたいのだが」
「ああ」
舞奈たちの対面にフィクサーが座った。
依頼の前に食事を振舞って気分を良くさせる。
張がよく使う手だ。
だが舞奈は気にせずフィクサーをうながす。
どちらにしろ舞奈は今回の依頼を断る気はなかった。
わざわざ【機関】が【掃除屋】を指定する依頼は、執行人の手には負えない危険で厄介なものばかりだ。
舞奈が断れば、他の誰かが犠牲になる。
それが戦うすべを持たない市井の人々か、代わりに任務に狩り出されて力及ばず倒れるAランクたちなのかはわからないが。
それに、何より供された食事が絶品だった。
これだけでも依頼を受けるのに十分だ。だが、
「昨晩の誘拐事件及びひき逃げ事件については聞いているだろうか?」
「ああ。さらわれたのは、あたしのクラスメートだ」
「そうか、無事に発見されたようで何よりだ。君たちには、その誘拐犯兼ひき逃げ犯を捕らえて欲しい」
「ちょっと待ってくれ」
舞奈は思わず声をあげる。
「さすがにそいつは警察の仕事なんじゃないか?」
側で明日香も頷く。
舞奈も明日香もそこらの大人より遥かに強いが、2人はあくまで怪異退治のプロだ。
人間の犯罪者を追いかけるのは勝手が違う。
それに仕事人《トラブルシューター》は警察じゃないから捜査権も逮捕権もない。
犯人を力まかせにぶちのめして事件をもみ消すくらいなら、素直に専門家にまかせるべきだろう。
だがフィクサーは、そんな事は百も承知とばかりに苦笑する。
そして机の上に旧式のノートパソコンを置く。
「これを見てくれたまえ」
外付けメモリを差しこみ、キーボードを操作して画面に何かを映し出す。
やや画像の粗いドライブレコーダーの動画だ。
ドライバーは讃原町の夜道を、安全運転で走っているようだ。
見知った夜道も、普段は縁のない車の視点から見ると少し新鮮に見える。
十字路の信号が黄色になったので、視点は交通ルールを守って停止する。
目の前をセダンが通り、白いライトバンが通る。
舞奈はふと違和感を感じる。
だが、ここまでは普通の夜のドライブだ。
「ここからだ」
フィクサーの合図とともに、ライトバンは交差点の中央で不意に止まった。
舞奈はライトバンに注目する。
女児誘拐に多用される車種だ。
闇夜すら見透かす鋭敏な感覚が、舞奈をライトバンの後方に注視させる。
後のバンパーに何かがくくりつけられ、引きずられていた。
結婚式の車がガラガラさせる空き缶を彷彿とさせる。
だが舞奈も明日香も、それが何かを知っていた。
ライトバンの後の路面は、何かを塗りたくられたように黒ずんている。
舞奈は「うへっ」と顔をしかめる。
撮ったのが夜で良かったと思った。
明日香は平然と見やっている。いい面の皮だ。
その交差点は、今朝方に通行止めになっていた場所だ。
「車のドアが開く。注目してくれ」
フィクサーに言われて見やる視線の先で、ライトバンの前のドアが開く。
中には誰もいなかった。
舞奈は先ほどの違和感の正体に気づいた。
ライトバンの運転席には人がいない。
――否。
「【偏光隠蔽】ね」
「ああ」
明日香の言葉に、舞奈も同意する。
それは周囲の光を捻じ曲げることで透明化する異能力だ。
音も立てれば気配もするし、明日香は魔力で見破ることができる。
舞奈や明日香にとっては取るに足らない異能力だ。
だが目には見えないし、カメラにも映らない。
ライトバンのドアが、風のせいではない不自然な挙動でひとりでに閉じる。
そして、そこに黒いシミが浮かび上がった。
――否、それは文字のようだ。
見えざる何者かが、ドアに文字を書いている。
フィクサーはノートパソコンを操作してドアを拡大する。
『memento mori』
夜闇に黒い何かによって、だが流れるように美しい書体で、そう記されていた。
「メメント・モリ。死を想え……?」
明日香がひとりごちる。
「ああ、言われてみればローマ字だな」
「……ラテン語よ」
「現場検証の結果、犯行に使われた車には犯人のものらしい指紋は発見されなかった。科学鑑定の結果も同様だ」
「……だろうな」
フィクサーの言葉に頷く。
光学迷彩による透明化の異能力である【偏光隠蔽】は、身体を薄い気功のフィールドで覆うことで光を捻じ曲げる。
なので何かに触っても指紋の跡はつかないし、汗も変質して鑑定できない。
警察ではお手上げだ。
「犯人が魔道士ってことはないのか?」
ふと思いつきを口にする。
「光学迷彩の術って結構いろんな流派にあるし。おまえも使えるだろ?」
「使えるけど、わたしが犯人だったら、もう少し効率的にするわ」
「……ま、そりゃそっか」
明日香の答えにおざなりに同意する。
エネルギーやエレメントを自在に操る魔道士にとって【偏光隠蔽】を模倣した隠形術は初歩の技術だ。かくいう明日香も【迷彩】の魔術を使える。
だが魔道士にとって隠形は手札のひとつに過ぎない。
見せしめに珍走団を惨殺したいなら他に安易かつ身の毛のよだつような手段がいくらでもあるし、こっそり殺したいなら自然死に見せかけることもできる。
わざわざ透明になって車で引きずり回す必要はない。
そう考えれば、単一の異能しか使えない【偏光隠蔽】だと考える方が自然だ。
「それに、術を使って事件を起こせば【組合】が何らかの動きを見せるはずだ」
こちらはフィクサーだ。
魔道士の相互扶助組織である【組合】は、魔道士を余人からの偏見から守るために魔法に関する知識を隠蔽する役割をも受け持つ。
たとえ珍走団のメンバーとはいえ、一般市民を術を使って殺した同志には相応の処置がなされるはずだ。
そういう動きがないということは、やはり犯人は【偏光隠蔽】なのだろう。
異能力者は【組合】の同志ではない。【機関】の管轄だ。
まあ、舞奈としても、その方がありがたい。
隠形術に長けたひとりの魔道士を探し出すなんて、雑踏の中でコンタクトレンズを探すようなものだ。
「だが間の悪いことに、占術士たちは他の重要な案件を抱えているため、犯人を特定するために探知魔法を用いることはできない」
「それで、あたしたちの出番ってわけか」
フィクサーの言葉に、舞奈はやれやれと苦笑する。
この支部には数百の執行人が在籍しているが、使い物になる人材は僅かだ。
舞奈たち仕事人《トラブルシューター》は、いうなれば彼らの尻拭いをしているようなものだ。
そして魔道士ほど無理筋ではないとはいえ、犯人を見つけ出すのは困難だろう。
姿が見えないことと、メメント何とかというメッセージしか手がかりがない。
だが、それでも、
「いいさ、引き受けるよ。いいだろう明日香?」
「ええ」
口元に笑みを浮かべる。
明日香も頷く。
舞奈は身近だったものをたくさん失ったばかりだ。
だから、子供をさらって人をひく何者かを野放しにしたくなかった。
舞奈は目を見開いて、かすれた声で言った。
年季の入った鉄のドアをガチャリと開けて、彼女があらわれた事実が信じられなかった。失われた幸福な時間を想う心が生み出した幻だとすら思った。
それは太った女だった。
大柄でがっしりしていて、でっぷりと太っていた。
袖をまくった腕も、エプロンの腹も、有り余る肉でタプタプだ。
食堂のばあさんである。
ばあさんの側には鍋や炊飯器が乗ったワゴン。
舞奈の鋭敏な臭覚が、鍋の中身はカレーだと告げた。
失われたはずの今日の給食のメニューと同じ、カレーライスだと。
「他所の支部で珍しい料理を覚えてきてね、せっかくだから、食堂のメニューにする前にあんたらに食わせてやろうと思ったのさ」
ばあさんは不敵に笑い、鍋のフタを開けて見せる。
そして舞奈と明日香の前に、てきぱきと皿を並べる。
皿にご飯を盛り、手際よくカレーをかける。
そして数分後。
カレールーとスパイスの香りが、舞奈の鼻孔をくすぐっていた。
「なあ、明日香」
「何よ?」
「天国って、きっとこういうところなんだろうな」
「近場に天国があって、羨ましいわ」
カレーの香りを堪能する舞奈を、明日香が冷ややかに見やる。
「本当の天国はこれからだよ」
言いつつばあさんはカレーの上にカツを並べる。
舞奈の瞳が輝く。
カツカレーだ!
給食のカレーよりずっとすごい!
口の端からよだれが垂れる。明日香が睨む。
さらにばあさんは、別の鍋から何かをよそう。
黒ずんでいて、独特な甘い香りのするそれは……
「味噌……か? ばあさん、カレーに味噌をかけるってのか!?」
驚愕する舞奈に、ばあさんはニヤリと笑いかける。
そして、カツの上に味噌をかける。
スパイシーなカレーの匂いに混じる、甘い味噌の香り。
「ほおれ、出来上がりだよ。食ってみな」
うながされるままスプーンを握る。
ご飯とカレーと、味噌のかかったカツを一切れすくう。
カレー自体に具が少ないのはカツの食感を引き立たせるためだろう。
口に入れる。
瞬間、舞奈は目を見開いて感嘆した。
カレーは辛口。細く切り分けられたトンカツはやわらかくて肉厚で、カラリと揚がった衣とのコントラストがたまらない。
そして、カツにかけられた味噌。
ピリリと沁みるカレーの辛さと、コクのある味噌の甘さが口の中で混ざり合って得も言われぬハーモニーを奏でる。
「尾張名古屋の味噌カツカレーですね」
「ほう、よく知ってるね」
明日香のうんちくに、ばあさんはニヤリと笑みを返す。
知性派の明日香は舌で味を堪能し、頭で知識を堪能する。
だが舞奈はそんな器用な真似は出来ないので、美味い飯はひたすら喰らう。
「ばあさん! おかわりいいか?」
「おうよ」
空になった皿に軽めにご飯とカレーが盛られ、カツが乗せられ味噌がかかる。
舞奈は待ちきれぬとばかりに喰らう。
「あんまり食い過ぎるんじゃないよ」
「わかってますって」
「デザートもちゃーんと用意してあるんだからね」
「おおっ!」
ばあさんはワゴンの下から皿を取り出す。
上品に食べ終えた明日香とともに、2皿を平らげた舞奈はデザートを見やる。
厚切りトーストの上に、先程と似た黒ずんだ何かとバターが乗っていた。
「小倉トーストですか。かの地では朝食として供されると聞いていますが」
「こいつを朝から食うのか!? そんな国があるのか!?」
「いや、国じゃなくて……」
呆れる明日香を尻目に、トーストを手に取って豪快にかぶりつく。
「お。こいつは、あんこか」
サクサクに焼き上げたトーストの食感と、小倉あんの甘さを楽しむ。
乗せられたバターの風味がハーモニーに彩を添える。
そうやって思いがけぬ異邦の珍味を堪能した舞奈と明日香は、コップ一杯の水をもらって幸せな気分で一息つく。
ばあさんは鮮やかな手つきで食器を片づけて退室した。
「さて、腹もくちくなったところで本題に移りたいのだが」
「ああ」
舞奈たちの対面にフィクサーが座った。
依頼の前に食事を振舞って気分を良くさせる。
張がよく使う手だ。
だが舞奈は気にせずフィクサーをうながす。
どちらにしろ舞奈は今回の依頼を断る気はなかった。
わざわざ【機関】が【掃除屋】を指定する依頼は、執行人の手には負えない危険で厄介なものばかりだ。
舞奈が断れば、他の誰かが犠牲になる。
それが戦うすべを持たない市井の人々か、代わりに任務に狩り出されて力及ばず倒れるAランクたちなのかはわからないが。
それに、何より供された食事が絶品だった。
これだけでも依頼を受けるのに十分だ。だが、
「昨晩の誘拐事件及びひき逃げ事件については聞いているだろうか?」
「ああ。さらわれたのは、あたしのクラスメートだ」
「そうか、無事に発見されたようで何よりだ。君たちには、その誘拐犯兼ひき逃げ犯を捕らえて欲しい」
「ちょっと待ってくれ」
舞奈は思わず声をあげる。
「さすがにそいつは警察の仕事なんじゃないか?」
側で明日香も頷く。
舞奈も明日香もそこらの大人より遥かに強いが、2人はあくまで怪異退治のプロだ。
人間の犯罪者を追いかけるのは勝手が違う。
それに仕事人《トラブルシューター》は警察じゃないから捜査権も逮捕権もない。
犯人を力まかせにぶちのめして事件をもみ消すくらいなら、素直に専門家にまかせるべきだろう。
だがフィクサーは、そんな事は百も承知とばかりに苦笑する。
そして机の上に旧式のノートパソコンを置く。
「これを見てくれたまえ」
外付けメモリを差しこみ、キーボードを操作して画面に何かを映し出す。
やや画像の粗いドライブレコーダーの動画だ。
ドライバーは讃原町の夜道を、安全運転で走っているようだ。
見知った夜道も、普段は縁のない車の視点から見ると少し新鮮に見える。
十字路の信号が黄色になったので、視点は交通ルールを守って停止する。
目の前をセダンが通り、白いライトバンが通る。
舞奈はふと違和感を感じる。
だが、ここまでは普通の夜のドライブだ。
「ここからだ」
フィクサーの合図とともに、ライトバンは交差点の中央で不意に止まった。
舞奈はライトバンに注目する。
女児誘拐に多用される車種だ。
闇夜すら見透かす鋭敏な感覚が、舞奈をライトバンの後方に注視させる。
後のバンパーに何かがくくりつけられ、引きずられていた。
結婚式の車がガラガラさせる空き缶を彷彿とさせる。
だが舞奈も明日香も、それが何かを知っていた。
ライトバンの後の路面は、何かを塗りたくられたように黒ずんている。
舞奈は「うへっ」と顔をしかめる。
撮ったのが夜で良かったと思った。
明日香は平然と見やっている。いい面の皮だ。
その交差点は、今朝方に通行止めになっていた場所だ。
「車のドアが開く。注目してくれ」
フィクサーに言われて見やる視線の先で、ライトバンの前のドアが開く。
中には誰もいなかった。
舞奈は先ほどの違和感の正体に気づいた。
ライトバンの運転席には人がいない。
――否。
「【偏光隠蔽】ね」
「ああ」
明日香の言葉に、舞奈も同意する。
それは周囲の光を捻じ曲げることで透明化する異能力だ。
音も立てれば気配もするし、明日香は魔力で見破ることができる。
舞奈や明日香にとっては取るに足らない異能力だ。
だが目には見えないし、カメラにも映らない。
ライトバンのドアが、風のせいではない不自然な挙動でひとりでに閉じる。
そして、そこに黒いシミが浮かび上がった。
――否、それは文字のようだ。
見えざる何者かが、ドアに文字を書いている。
フィクサーはノートパソコンを操作してドアを拡大する。
『memento mori』
夜闇に黒い何かによって、だが流れるように美しい書体で、そう記されていた。
「メメント・モリ。死を想え……?」
明日香がひとりごちる。
「ああ、言われてみればローマ字だな」
「……ラテン語よ」
「現場検証の結果、犯行に使われた車には犯人のものらしい指紋は発見されなかった。科学鑑定の結果も同様だ」
「……だろうな」
フィクサーの言葉に頷く。
光学迷彩による透明化の異能力である【偏光隠蔽】は、身体を薄い気功のフィールドで覆うことで光を捻じ曲げる。
なので何かに触っても指紋の跡はつかないし、汗も変質して鑑定できない。
警察ではお手上げだ。
「犯人が魔道士ってことはないのか?」
ふと思いつきを口にする。
「光学迷彩の術って結構いろんな流派にあるし。おまえも使えるだろ?」
「使えるけど、わたしが犯人だったら、もう少し効率的にするわ」
「……ま、そりゃそっか」
明日香の答えにおざなりに同意する。
エネルギーやエレメントを自在に操る魔道士にとって【偏光隠蔽】を模倣した隠形術は初歩の技術だ。かくいう明日香も【迷彩】の魔術を使える。
だが魔道士にとって隠形は手札のひとつに過ぎない。
見せしめに珍走団を惨殺したいなら他に安易かつ身の毛のよだつような手段がいくらでもあるし、こっそり殺したいなら自然死に見せかけることもできる。
わざわざ透明になって車で引きずり回す必要はない。
そう考えれば、単一の異能しか使えない【偏光隠蔽】だと考える方が自然だ。
「それに、術を使って事件を起こせば【組合】が何らかの動きを見せるはずだ」
こちらはフィクサーだ。
魔道士の相互扶助組織である【組合】は、魔道士を余人からの偏見から守るために魔法に関する知識を隠蔽する役割をも受け持つ。
たとえ珍走団のメンバーとはいえ、一般市民を術を使って殺した同志には相応の処置がなされるはずだ。
そういう動きがないということは、やはり犯人は【偏光隠蔽】なのだろう。
異能力者は【組合】の同志ではない。【機関】の管轄だ。
まあ、舞奈としても、その方がありがたい。
隠形術に長けたひとりの魔道士を探し出すなんて、雑踏の中でコンタクトレンズを探すようなものだ。
「だが間の悪いことに、占術士たちは他の重要な案件を抱えているため、犯人を特定するために探知魔法を用いることはできない」
「それで、あたしたちの出番ってわけか」
フィクサーの言葉に、舞奈はやれやれと苦笑する。
この支部には数百の執行人が在籍しているが、使い物になる人材は僅かだ。
舞奈たち仕事人《トラブルシューター》は、いうなれば彼らの尻拭いをしているようなものだ。
そして魔道士ほど無理筋ではないとはいえ、犯人を見つけ出すのは困難だろう。
姿が見えないことと、メメント何とかというメッセージしか手がかりがない。
だが、それでも、
「いいさ、引き受けるよ。いいだろう明日香?」
「ええ」
口元に笑みを浮かべる。
明日香も頷く。
舞奈は身近だったものをたくさん失ったばかりだ。
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