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第六話 大陸人の歌姫
片羽のオトは愛を歌う
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「サヨもアタラ様とユミばあに会いたかったのに!」
むくれる幼鳥が書類の塔を運んで来た。これで三つ目だ。「領事様がお仕事溜めちゃうから! もぉ!」と机に叩きつけられ、不機嫌な塔が揺れる。
サヨには悪いが、今はオトの喉を治す薬を調達することが最優先だ。こんなところで書類に埋もれているわけにはいかない。そもそも仕事を三日放棄したくらいでこの様とは。もっと部下へ効率的に仕事を押しつけて……失礼、割り振ってやる。見えない角を生やしたノアは「島主殿と面談があるんだった」と思いついたように言い放ち、執務室の窓から華麗に飛び出した。
監獄から逃げた先は賑やかな港。リュクスの行商人に薬の手配を依頼したのだが。
「薬は輸入禁止物です。いくらうちでも手配できませんよ。商売ができなくなっちまう」
「領事が頼んでいるのにか?」
「領事ならなおさらだめでしょうが!」
ド正論を食らって口がへの字に曲がる。貿易条約を改定するか、島に自生する代用品で調薬するしかない。どちらがより手早いか思案しているうちに日が傾いてしまった。仕方なく長い白亜の階段を上り帰路へ着く。
ふと顔を上げると、中段の踊り場に片羽の雛鳥が立っていた。夕焼けを纏う彼女の姿を見て、残りの階段を一気に駆け上る。
「オト、どうし……」
間近で見たその姿に、驚きで言葉が詰まる。
それまで頑なに施しを受けなかった彼女が、青藍色に大きな牡丹がふんだんに描かれた美しい着物を着ていたのだ。
淡い紅を差した唇が照れくさそうに弧を描く。その全てが花咲くように可憐で、目を奪われた。
「ユミさんが昔着ていた着物を譲ってくださったんです。私が持っているものより派手だろうって。お化粧はハンナさんが。何だか自分じゃないみたいです。……でも私は、ノア様からいただいた着物だと思っています」
「それは、どういう……」
ノアが勝手に用意した着物は全て返されたはず。戸惑うノアとの距離を、オトの草履が一歩ずつ踏みしめた。
「ノア様がユミさんに取り次いでくださったから、この着物をいただくことができました。だからこれはノア様が繋いでくださった縁です」
「大袈裟じゃないか? 俺はただ楽器の修理を依頼しただけで――」
「それでも。そのお気持ちが、私はとても嬉しいのです。ノア様が私の歌ではなく、歌おうとする気持ちを必要としてくれたように……」
怯えた表情は影を潜め、思いの丈を一つずつ確実に吐露していく。それまでの彼女とはまるで見違えるようだ。
「ノア様」
最後の一歩を踏み出して、憧れの群青色を真正面で見つめる。
「私を鳥籠から連れ出してくださって、ありがとうございました」
引け目を感じてずっと言えなかった言葉。自分のことで精いっぱいで、彼の心根に向き合うことができなかった。だがもう逃げない。逃げたくない。
「外の世界を見せてくださったことも、無知な私にたくさんのことを教えてくださったことも、ピアノの伴奏も……あなたがしてくださったことの全てが、私はこんなにも嬉しくて堪らないのです。だから……」
こんなに喋ったのはいつぶりだろう。それくらい溢れる想いを言葉にすることに必死だった。一字一句、全てが伝わってほしいから。少しも取りこぼしてほしくないから。
「――私、ここで歌いたいです」
自分の目で見て、知って、自分の意志で歌う場所を決めた。ノアがそうさせてくれた。オトの世界は、間違いなく変わったのだ。
「大陸人の皆さんのために歌いたいんです。どんなに醜い声でも一生懸命歌います。だから……おそばに置いていただけませんか……?」
一世一代の大願をぶつけて、胸の前で組んだ手が震えた。拒絶されたくない。必要だと言ってほしい。こんなに狂おしい感情は今まで抱いたことがない。
「あの、ノア様……?」
反応がないことに不安を募らせた肩と腰へ長い腕が回された。ぐいと引き寄せられ、至近距離から見下ろされる。
「本当にいいのか? 鳥籠に帰りたいと泣いても、もう放してやれないぞ?」
最後の最後までオトに選ばせようとする優しさに胸が詰まった。そんなことを言われたら、ますますそばにいたくなってしまう。
「不束者の片羽ですが、どうかおそばで歌わせてください、ノア様」
早鐘を打つ胸元でそう告げた途端、ふっと美しい笑みが向けられた。愛おし気に羽耳を撫でる指先がくすぐったくて、パタパタとはためく。
「じゃあ、これで正真正銘俺の小鳥だな」
「……はい、私はノア様の小鳥です」
じわりと胸に広がった幸福を噛み締めていると、膝裏に手を回されてふわっと持ち上げられてしまう。突然の浮遊感に大きく目を見開いた。
「きゃぁっ!」
「ハハッ、オトは軽いなぁ! さすが羽が生えているだけある!」
「も、もう……ふふっ」
無邪気に笑うノアにつられて、オトも満面の笑みを零す。こうして声を上げて笑ったのは、生まれて初めてかもしれない。
幸せそうな二人を夕焼けと海風が包んだ。
後世に残るクレセンティア史には、愛を歌った片羽の雛鳥が最後の献上だったと記されている――。
むくれる幼鳥が書類の塔を運んで来た。これで三つ目だ。「領事様がお仕事溜めちゃうから! もぉ!」と机に叩きつけられ、不機嫌な塔が揺れる。
サヨには悪いが、今はオトの喉を治す薬を調達することが最優先だ。こんなところで書類に埋もれているわけにはいかない。そもそも仕事を三日放棄したくらいでこの様とは。もっと部下へ効率的に仕事を押しつけて……失礼、割り振ってやる。見えない角を生やしたノアは「島主殿と面談があるんだった」と思いついたように言い放ち、執務室の窓から華麗に飛び出した。
監獄から逃げた先は賑やかな港。リュクスの行商人に薬の手配を依頼したのだが。
「薬は輸入禁止物です。いくらうちでも手配できませんよ。商売ができなくなっちまう」
「領事が頼んでいるのにか?」
「領事ならなおさらだめでしょうが!」
ド正論を食らって口がへの字に曲がる。貿易条約を改定するか、島に自生する代用品で調薬するしかない。どちらがより手早いか思案しているうちに日が傾いてしまった。仕方なく長い白亜の階段を上り帰路へ着く。
ふと顔を上げると、中段の踊り場に片羽の雛鳥が立っていた。夕焼けを纏う彼女の姿を見て、残りの階段を一気に駆け上る。
「オト、どうし……」
間近で見たその姿に、驚きで言葉が詰まる。
それまで頑なに施しを受けなかった彼女が、青藍色に大きな牡丹がふんだんに描かれた美しい着物を着ていたのだ。
淡い紅を差した唇が照れくさそうに弧を描く。その全てが花咲くように可憐で、目を奪われた。
「ユミさんが昔着ていた着物を譲ってくださったんです。私が持っているものより派手だろうって。お化粧はハンナさんが。何だか自分じゃないみたいです。……でも私は、ノア様からいただいた着物だと思っています」
「それは、どういう……」
ノアが勝手に用意した着物は全て返されたはず。戸惑うノアとの距離を、オトの草履が一歩ずつ踏みしめた。
「ノア様がユミさんに取り次いでくださったから、この着物をいただくことができました。だからこれはノア様が繋いでくださった縁です」
「大袈裟じゃないか? 俺はただ楽器の修理を依頼しただけで――」
「それでも。そのお気持ちが、私はとても嬉しいのです。ノア様が私の歌ではなく、歌おうとする気持ちを必要としてくれたように……」
怯えた表情は影を潜め、思いの丈を一つずつ確実に吐露していく。それまでの彼女とはまるで見違えるようだ。
「ノア様」
最後の一歩を踏み出して、憧れの群青色を真正面で見つめる。
「私を鳥籠から連れ出してくださって、ありがとうございました」
引け目を感じてずっと言えなかった言葉。自分のことで精いっぱいで、彼の心根に向き合うことができなかった。だがもう逃げない。逃げたくない。
「外の世界を見せてくださったことも、無知な私にたくさんのことを教えてくださったことも、ピアノの伴奏も……あなたがしてくださったことの全てが、私はこんなにも嬉しくて堪らないのです。だから……」
こんなに喋ったのはいつぶりだろう。それくらい溢れる想いを言葉にすることに必死だった。一字一句、全てが伝わってほしいから。少しも取りこぼしてほしくないから。
「――私、ここで歌いたいです」
自分の目で見て、知って、自分の意志で歌う場所を決めた。ノアがそうさせてくれた。オトの世界は、間違いなく変わったのだ。
「大陸人の皆さんのために歌いたいんです。どんなに醜い声でも一生懸命歌います。だから……おそばに置いていただけませんか……?」
一世一代の大願をぶつけて、胸の前で組んだ手が震えた。拒絶されたくない。必要だと言ってほしい。こんなに狂おしい感情は今まで抱いたことがない。
「あの、ノア様……?」
反応がないことに不安を募らせた肩と腰へ長い腕が回された。ぐいと引き寄せられ、至近距離から見下ろされる。
「本当にいいのか? 鳥籠に帰りたいと泣いても、もう放してやれないぞ?」
最後の最後までオトに選ばせようとする優しさに胸が詰まった。そんなことを言われたら、ますますそばにいたくなってしまう。
「不束者の片羽ですが、どうかおそばで歌わせてください、ノア様」
早鐘を打つ胸元でそう告げた途端、ふっと美しい笑みが向けられた。愛おし気に羽耳を撫でる指先がくすぐったくて、パタパタとはためく。
「じゃあ、これで正真正銘俺の小鳥だな」
「……はい、私はノア様の小鳥です」
じわりと胸に広がった幸福を噛み締めていると、膝裏に手を回されてふわっと持ち上げられてしまう。突然の浮遊感に大きく目を見開いた。
「きゃぁっ!」
「ハハッ、オトは軽いなぁ! さすが羽が生えているだけある!」
「も、もう……ふふっ」
無邪気に笑うノアにつられて、オトも満面の笑みを零す。こうして声を上げて笑ったのは、生まれて初めてかもしれない。
幸せそうな二人を夕焼けと海風が包んだ。
後世に残るクレセンティア史には、愛を歌った片羽の雛鳥が最後の献上だったと記されている――。
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