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その20・お仕事と社会と真っ黒い糸
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先日、大学図書館に文献を返しにいったついでに、久々に生協前の掲示板を見た。
そこで、一週間限定の短期アルバイトがあったので、軽い気持ちで電話をかけてみたら、即行で採用された。
それは事務所の雑用係のアルバイトで、今の時期がかきいれ時なので猫の手も借りたいのだという。アルバイトの定員は二名で、もう一人、別の大学の女子が決まっていると言われた。
電話で話している時、応対の荒さやざわざわした感じや、なにより掲示板に貼りつけられてあった紙には何月何日から、ときちんと期間が提示されていたのに、電話口では「いつから来れるの、なんなら今日の午後からでも」という早急さが気になった。
(なんか怖いなあ)
うっすらと予感があったが、乗り掛かった舟だし、なにより、長らくバイトをしていないので寂しかった。お金には困窮していないとは言っても、根本的にわたしはお金が大好きなのだ。
(一週間限定だし、事務所の中の仕事だし)
大学では、そろそろ就職活動のことが囁かれ始めている。女子たちはみんな、外回りや接客は嫌だ、事務がいいと口をそろえて言っている。わたしも何となく、イメージ的に、女の子はみんな、オフィスの制服を着て事務所でお茶くみをするものだと思っていた。
決して、世の中そんなものではないのだけど。分かっているのだけど。なんとなく、ハイソなイメージをデスクワークに抱いてしまっている――多分これは最早、日本の女子みんなの心の底に貼りついてしまっていることなのじゃないかと思う。
そういう思い込みや、たった一週間という安心感が、引き寄せた。
そう、それは魔のアルバイトだった。一週間どころか、その日一日、否、ものの一分ですら長く感じるほどの、悲惨な時間となったのである。
朝の八時半までに職場に行かなくてはならないので、きっちりスーツを着て、七時四十五分に梟荘を出る。昼間からうすぼんやりと暗く、蛍光灯が陰気に灯される白い事務所の中で、怖い女子社員さんたちの指示であれこれ動くお仕事、混雑する社員食堂のなかで、事務所の女子たちが集まっているテーブルに座らせてもらい、話に混じれないので無言で体を小さくして食べる昼食。
わたしには到底、合わないワークだった。
**
明日でバイト最終日という夜、お風呂に入った後で台所でコーヒーを淹れていると、いとちゃんがふらふらと現れた。
きちっと社会人しているわたしと、相変わらずふやけた匂いをさせているヒキコモリのいとちゃん。
いとちゃんが玉のれんを揺らしてぬっと入って来た瞬間、いらっとした自分自身に、わたしはびっくりした。のそのそとテーブルに座り、頬杖をつき、真っ黒い目でこちらを見ているいとちゃん――いいわよねアンタは、甘ったれたヒキコモリでこれからどうするの――尖ったものが込み上げてくる。わたしは自分の内部を、ひっそりと凝視した。
いとちゃんに対し、こんな攻撃的な感情を抱いたのは初めてだったし、なによりわたしが恐ろしかったのは、もし今、もう少し追い詰められていたならば、躊躇なくいとちゃんに対し、冷たい言葉を放っていただろうという予感だった。
(これが、一週間のバイトではなく、もっと長いバイトだったなら、どうなっていたか分からない)
しいんと、背筋が凍るような思いがした。
もう少しで人食いライオンのような人間になりかけているわたしに、いとちゃんは淡々と「わたしにもコーヒー」と言った。
またいらいらっとしかけたが、すでにわたしは自分の異様な精神状態に気づいているので、これ以上感情を暴れさせずに済んだ。そう、わかったよ、といつものように答え、沸かしたてのお湯が入ったポットでドリップ式のコーヒーをもう一人分、淹れたのだった。
こちこちと音が耳に触ると思ったら、廊下の壁時計の秒針がここまで響いている。
こんなに音に敏感になったことは今までなかった。ぴりぴりしているわたしに対し、いとちゃんは相変わらず変わっていて、唯我独尊で、静かだった。いとちゃんと向かい合っていると、自分がどうなってしまっているのか不安になる。
「だいたい分かるんだけど、吐き出してみたら」
思いがけず、いとちゃんはそう言った。
いとちゃん、カウンセラーみたいだなと思ったが、そうかこのひとはネットで都市伝説レベルの悩み相談師をしているんだったと気が付いた。
(そう言えばいとちゃん、無料でやってるんだろうか)
「糸を読むひと」について、なにも聞けていないことにも思い当たる。
コーヒーを啜りながら、いとちゃんの真っ黒い目はわたしを見ている。なにを見ているか分からない、ものすごく変わった視線のいとちゃんだけど、今回ばかりはわたしをじいっと見つめていた。
わたしは戸惑いながらいとちゃんの目を見つめ、その真っ暗な深淵を覗いた瞬間、ぷつんとなにかが弾けた。
自分でも驚くほどの勢いで、だらだらだばだばと、職場の愚痴が飛び出してきた。喋っているうちにわたしは、自分がなにをそんなにつらく感じているのか、なにに傷つけられているのかを目の当たりにし、自分の弱さや周囲の世知辛さに愕然とした。
バイト初日、言われていた時間に会社に入ったら、事務所の女の人から苦情を言われたこと。初日は三十分早く来てほしかったと言われ、そんなことを聞かされていなかったので茫然とした。どうやら連絡ミスだったらしいと、この職場の内部事情を知ってから気づいたが、とにかくその女の人は最初からこちらのミスと決めつけていて、言いたいだけ言ったらもう話は終わりと、勝手に切りあげてしまった。
「もう一人の子は、ちゃーんと四十五分前に来ていましたよ」
一週間、同じバイトをすることになる相方の女子は、茶髪をひとつに束ね、ちゃきちゃきとした感じの子だった。
初々しく一生懸命な様子がバイト一日目で早くも周囲から好感を得ていた。そつのない子だ。
もちろんわたしも必死にメモを取り、仕事をしているのだが、その子といると何か調子が狂った。どうしても頑張り切れない違和感が残った。
どうしてこんなふうに思うんだろう、この子は普通に礼儀正しい子だし、わたしにもちゃんとコミュニケーションを取ってくれているのに――最初は首をかしげたわたしだったが、二日目の昼休みあたりから、違和感の理由を悟り始めた。
「上手なんだよ。ものすごく上手なの。なんでも人に良く見られるのが上手くて、もはやそれは天性のものだと思う。それと、なんとなく思ったんだけど、その子はなにか言葉にははっきりできない次元のランキングで自分より劣る者を素早く見分けて、ひっそりと見下したり、出し抜いたり、押しのけたりするのが天才的にうまいんだ」
彼女についての悪口が自分の中から飛び出したので、わたしは唖然とした。
いとちゃんはどんな魔法を使ったんだろう。べらべらと愚痴りながら、わたしはあれを思い出す――よくあるマジックで、口からじゃんじゃかじゃんじゃか、糸でつながった小さい国旗がずらずらと出てくるやつ――あんな感じで、わたしの中から、じゃんじゃかじゃんじゃか、真っ黒く汚れた糸が引き出されている。
よく見ると、いとちゃんはコーヒーカップを持っていないほうの手で、小さく指を動かしている。それはまるで、細い糸をちょっとずつ手繰り寄せているような仕草だった。
「……でね、社員さん達も、その子を大事にして、わたしとは差をつけてしまっていて。なんでもかんでもその子に頼むの。で、その子が空いていないって分かったら、あからさまに落胆しながらわたしの名を呼ぶの。それか、ああ、糸出さんしかいないの、ならいいわ、って薄笑いを浮かべながら言うの」
じゃんじゃかじゃんじゃか。出る出る。わたしの中の黒く染められた汚い糸たちが。
いとちゃんの左手に巻き取られて、もうどれくらいの糸が出たんだろう。
「お昼休みとか最悪で。その子は女子社員さん達から話題を振られて、その話題を上手にこなして応対して、笑いの中に入ることができているんだけど、わたしはその子と社員さん達に挟まれて愛想笑いしているの。今日は愛想笑いに疲れて俯いていたら、仕事してないくせに疲れた顔してるとか陰口を聞かれたの。いっそ、ランチの時、一番隅っこの席につけたらと思うんだけど、なぜかいつも、その子と社員さん達の真ん中に挟まれるの。居心地が悪くてたまらない。逃げたいの。でも、そこでしかごはんを食べることが許されないし、みんなが離席するまで我慢していなくてはならない。息が詰まってしまいそうなの」
いとちゃんの目は真っ黒だ。わたしを見ていると思っていたけれど、違う、わたしの心の中を見ているんだと気づいた。
いとちゃんは無感情に淡々と手繰り寄せ、わたしの中を覗き続けている。
色々な愚痴が出てくる。
良い年して同僚の悪口を言い合っている女の人たちのこと。その顔つき、攻撃的な口調、みんな一致団結して嫌っている対象のことを言い合っている様子を見ていると、頭がフリーズしてしまう。
一見、すごく良い子の、もうひとりのアルバイトの子だけど、そういう女の人たちとうまくやっていて、しかも本人も楽しそうに混じっているのを見るにつけ、恐ろしくなった。
だけど、その会社ではみんなで楽しくしているのが当たり前のようだし、わたしのように居心地が悪そうにしている人は少数派だった。混じることができない人がおかしい、変で、社会性がない、駄目な人と見なされて、自然、嘲笑や噂話の対象にされる。
「わたしきっと、会社に入ったら、マイノリティになって、虐められて、心も壊れて頭も壊れて人生も壊れながら、何かの中毒みたいにただ通い続けるだけの人になると思う」
悲しくなってきた。
涙が一粒流れたと思ったら、じゃばじゃばと溢れて来たのでびっくりした。
いとちゃんは構わず、左手をもそもそ動かし続けている。わたしの口から黒い糸が、勢いよく噴き出している。
「わたしだけ、どうしてこんなんだろう。やっぱり育ち方のせいだろうか。お母さんがあんな人だからだと思う。あんな汚い変なアパートで、思春期を過ごしたんだよ。本当に許せない、むかつく、今も変な島で笑っていると思ったら、腹が煮えくり返るようだよ」
怒りの矛先が、アルバイトとは無関係な母にまで向かったので、とうとうわたしは唖然としてしまい、最後には泣きながら笑いだしてしまったのだった。一体、この黒い糸はどこまで続いているんだ。果てしなすぎる。そのうち、生まれる前の、前世の因縁やら、この世の理やら、カミサマまで呪い出すかもしれない。
泣き笑いしながらコーヒーを飲んで心を落ち着かせた。
いとちゃんはコーヒーを飲み終わっていて、ことんとマグをテーブルに置いた。左手の動きは止まっていた。
夜はゆったりと穏やかで、窓の外は夏のかえるたちが賑やかに合掌している。
ぬるい昼間の温もりが気持ち悪くもあり、安心できるようでもあり、台所は奇妙なまほろばになっていた。
コーヒーの匂いがすごく良い香りであることに、ようやくわたしは気が付いた。
いとちゃんは何も言わなかった。
わたしも特に意見を求めなかった。
ぬるくて穏やかな時間が流れ、心は次第にいつもの自分に戻っていった。
ふいに、ああ、明日もあるんだよな、あの仕事と思い出して、いきなりずどんと突き落とされた。
「休めば。いいじゃん、もう何を言われようと」
いきなりいとちゃんが言った。
流石に、アルバイト最終日を欠席するのはまずいので、わたしは苦笑いでごまかした。だけど、休めば、という言葉に大きく心が揺れたのは事実だった。
そうだ。休んでも差支えがない。
だって、あの職場で、わたしがいたって回ってくる仕事はそんなにないし、誰からも話しかけられないし。
休んだとして何がネックかと言えば、最後の日に休んだ非常識さを、面白おかしく悪口にされることくらいだ。あとは、経理担当のお局さんがバイト料について責任を持っているので、もしかしたらその人から直接携帯から電話に連絡が入るかもしれない。
(もういいよ、それくらい)
一瞬、わたしは休むという魅力に引き寄せられ、全てを放り出そうとした。
だけど、すぐにはっとした。だめだ。なぜなら、この会社は大きくてハイソな会社のくせに、バイト代は最終日に現金で渡してくれることになっていたからだ。
もし明日休んだら別の日に改めて取りに行くことになる。あの、陰険なオフィスまで。
仕事した分のお金だから、泥棒でもなんでもないはずなのに、どうせあの女の人たちは皆でこちらを見て、ひそひそ言い合うに違いないと簡単に予想がついた。
いっそ、そんなお金などいらないと思おうとしたが、根本的にお金が大好きなわたしは、どうしてもそう思いきることができなかった。
お金、大事。
「……明日さ、給料出るから、ケーキ買って来る。なにが良い」
そう言ったわたしの顔は、台詞に反して、さぞ渋い顔だったに違いない。いとちゃんは彼女にしては珍しく、にやにや笑った。その面白がるような笑顔が、なぜかわたしの暗い気持ちを救った。
「モンブラン」
と、いとちゃんは答えた。
そして、軽く握っていた左手をふわっと開き、まるで手に着いた塵を払うように、ぱさぱさと両手をこすりあわせたのだった。
「ひとつ聞いて良い」
わたしはきいてみた。
あの、「糸を読むひと」の悩み相談は有料なのか、無料なのか。
いとちゃんは淡々と答えてくれた。
「今は無料だけど、そのうち、お金をもらうつもり」
仕事だから、これ。
いとちゃんは真っ黒い目で、わたしを見た。
そこで、一週間限定の短期アルバイトがあったので、軽い気持ちで電話をかけてみたら、即行で採用された。
それは事務所の雑用係のアルバイトで、今の時期がかきいれ時なので猫の手も借りたいのだという。アルバイトの定員は二名で、もう一人、別の大学の女子が決まっていると言われた。
電話で話している時、応対の荒さやざわざわした感じや、なにより掲示板に貼りつけられてあった紙には何月何日から、ときちんと期間が提示されていたのに、電話口では「いつから来れるの、なんなら今日の午後からでも」という早急さが気になった。
(なんか怖いなあ)
うっすらと予感があったが、乗り掛かった舟だし、なにより、長らくバイトをしていないので寂しかった。お金には困窮していないとは言っても、根本的にわたしはお金が大好きなのだ。
(一週間限定だし、事務所の中の仕事だし)
大学では、そろそろ就職活動のことが囁かれ始めている。女子たちはみんな、外回りや接客は嫌だ、事務がいいと口をそろえて言っている。わたしも何となく、イメージ的に、女の子はみんな、オフィスの制服を着て事務所でお茶くみをするものだと思っていた。
決して、世の中そんなものではないのだけど。分かっているのだけど。なんとなく、ハイソなイメージをデスクワークに抱いてしまっている――多分これは最早、日本の女子みんなの心の底に貼りついてしまっていることなのじゃないかと思う。
そういう思い込みや、たった一週間という安心感が、引き寄せた。
そう、それは魔のアルバイトだった。一週間どころか、その日一日、否、ものの一分ですら長く感じるほどの、悲惨な時間となったのである。
朝の八時半までに職場に行かなくてはならないので、きっちりスーツを着て、七時四十五分に梟荘を出る。昼間からうすぼんやりと暗く、蛍光灯が陰気に灯される白い事務所の中で、怖い女子社員さんたちの指示であれこれ動くお仕事、混雑する社員食堂のなかで、事務所の女子たちが集まっているテーブルに座らせてもらい、話に混じれないので無言で体を小さくして食べる昼食。
わたしには到底、合わないワークだった。
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明日でバイト最終日という夜、お風呂に入った後で台所でコーヒーを淹れていると、いとちゃんがふらふらと現れた。
きちっと社会人しているわたしと、相変わらずふやけた匂いをさせているヒキコモリのいとちゃん。
いとちゃんが玉のれんを揺らしてぬっと入って来た瞬間、いらっとした自分自身に、わたしはびっくりした。のそのそとテーブルに座り、頬杖をつき、真っ黒い目でこちらを見ているいとちゃん――いいわよねアンタは、甘ったれたヒキコモリでこれからどうするの――尖ったものが込み上げてくる。わたしは自分の内部を、ひっそりと凝視した。
いとちゃんに対し、こんな攻撃的な感情を抱いたのは初めてだったし、なによりわたしが恐ろしかったのは、もし今、もう少し追い詰められていたならば、躊躇なくいとちゃんに対し、冷たい言葉を放っていただろうという予感だった。
(これが、一週間のバイトではなく、もっと長いバイトだったなら、どうなっていたか分からない)
しいんと、背筋が凍るような思いがした。
もう少しで人食いライオンのような人間になりかけているわたしに、いとちゃんは淡々と「わたしにもコーヒー」と言った。
またいらいらっとしかけたが、すでにわたしは自分の異様な精神状態に気づいているので、これ以上感情を暴れさせずに済んだ。そう、わかったよ、といつものように答え、沸かしたてのお湯が入ったポットでドリップ式のコーヒーをもう一人分、淹れたのだった。
こちこちと音が耳に触ると思ったら、廊下の壁時計の秒針がここまで響いている。
こんなに音に敏感になったことは今までなかった。ぴりぴりしているわたしに対し、いとちゃんは相変わらず変わっていて、唯我独尊で、静かだった。いとちゃんと向かい合っていると、自分がどうなってしまっているのか不安になる。
「だいたい分かるんだけど、吐き出してみたら」
思いがけず、いとちゃんはそう言った。
いとちゃん、カウンセラーみたいだなと思ったが、そうかこのひとはネットで都市伝説レベルの悩み相談師をしているんだったと気が付いた。
(そう言えばいとちゃん、無料でやってるんだろうか)
「糸を読むひと」について、なにも聞けていないことにも思い当たる。
コーヒーを啜りながら、いとちゃんの真っ黒い目はわたしを見ている。なにを見ているか分からない、ものすごく変わった視線のいとちゃんだけど、今回ばかりはわたしをじいっと見つめていた。
わたしは戸惑いながらいとちゃんの目を見つめ、その真っ暗な深淵を覗いた瞬間、ぷつんとなにかが弾けた。
自分でも驚くほどの勢いで、だらだらだばだばと、職場の愚痴が飛び出してきた。喋っているうちにわたしは、自分がなにをそんなにつらく感じているのか、なにに傷つけられているのかを目の当たりにし、自分の弱さや周囲の世知辛さに愕然とした。
バイト初日、言われていた時間に会社に入ったら、事務所の女の人から苦情を言われたこと。初日は三十分早く来てほしかったと言われ、そんなことを聞かされていなかったので茫然とした。どうやら連絡ミスだったらしいと、この職場の内部事情を知ってから気づいたが、とにかくその女の人は最初からこちらのミスと決めつけていて、言いたいだけ言ったらもう話は終わりと、勝手に切りあげてしまった。
「もう一人の子は、ちゃーんと四十五分前に来ていましたよ」
一週間、同じバイトをすることになる相方の女子は、茶髪をひとつに束ね、ちゃきちゃきとした感じの子だった。
初々しく一生懸命な様子がバイト一日目で早くも周囲から好感を得ていた。そつのない子だ。
もちろんわたしも必死にメモを取り、仕事をしているのだが、その子といると何か調子が狂った。どうしても頑張り切れない違和感が残った。
どうしてこんなふうに思うんだろう、この子は普通に礼儀正しい子だし、わたしにもちゃんとコミュニケーションを取ってくれているのに――最初は首をかしげたわたしだったが、二日目の昼休みあたりから、違和感の理由を悟り始めた。
「上手なんだよ。ものすごく上手なの。なんでも人に良く見られるのが上手くて、もはやそれは天性のものだと思う。それと、なんとなく思ったんだけど、その子はなにか言葉にははっきりできない次元のランキングで自分より劣る者を素早く見分けて、ひっそりと見下したり、出し抜いたり、押しのけたりするのが天才的にうまいんだ」
彼女についての悪口が自分の中から飛び出したので、わたしは唖然とした。
いとちゃんはどんな魔法を使ったんだろう。べらべらと愚痴りながら、わたしはあれを思い出す――よくあるマジックで、口からじゃんじゃかじゃんじゃか、糸でつながった小さい国旗がずらずらと出てくるやつ――あんな感じで、わたしの中から、じゃんじゃかじゃんじゃか、真っ黒く汚れた糸が引き出されている。
よく見ると、いとちゃんはコーヒーカップを持っていないほうの手で、小さく指を動かしている。それはまるで、細い糸をちょっとずつ手繰り寄せているような仕草だった。
「……でね、社員さん達も、その子を大事にして、わたしとは差をつけてしまっていて。なんでもかんでもその子に頼むの。で、その子が空いていないって分かったら、あからさまに落胆しながらわたしの名を呼ぶの。それか、ああ、糸出さんしかいないの、ならいいわ、って薄笑いを浮かべながら言うの」
じゃんじゃかじゃんじゃか。出る出る。わたしの中の黒く染められた汚い糸たちが。
いとちゃんの左手に巻き取られて、もうどれくらいの糸が出たんだろう。
「お昼休みとか最悪で。その子は女子社員さん達から話題を振られて、その話題を上手にこなして応対して、笑いの中に入ることができているんだけど、わたしはその子と社員さん達に挟まれて愛想笑いしているの。今日は愛想笑いに疲れて俯いていたら、仕事してないくせに疲れた顔してるとか陰口を聞かれたの。いっそ、ランチの時、一番隅っこの席につけたらと思うんだけど、なぜかいつも、その子と社員さん達の真ん中に挟まれるの。居心地が悪くてたまらない。逃げたいの。でも、そこでしかごはんを食べることが許されないし、みんなが離席するまで我慢していなくてはならない。息が詰まってしまいそうなの」
いとちゃんの目は真っ黒だ。わたしを見ていると思っていたけれど、違う、わたしの心の中を見ているんだと気づいた。
いとちゃんは無感情に淡々と手繰り寄せ、わたしの中を覗き続けている。
色々な愚痴が出てくる。
良い年して同僚の悪口を言い合っている女の人たちのこと。その顔つき、攻撃的な口調、みんな一致団結して嫌っている対象のことを言い合っている様子を見ていると、頭がフリーズしてしまう。
一見、すごく良い子の、もうひとりのアルバイトの子だけど、そういう女の人たちとうまくやっていて、しかも本人も楽しそうに混じっているのを見るにつけ、恐ろしくなった。
だけど、その会社ではみんなで楽しくしているのが当たり前のようだし、わたしのように居心地が悪そうにしている人は少数派だった。混じることができない人がおかしい、変で、社会性がない、駄目な人と見なされて、自然、嘲笑や噂話の対象にされる。
「わたしきっと、会社に入ったら、マイノリティになって、虐められて、心も壊れて頭も壊れて人生も壊れながら、何かの中毒みたいにただ通い続けるだけの人になると思う」
悲しくなってきた。
涙が一粒流れたと思ったら、じゃばじゃばと溢れて来たのでびっくりした。
いとちゃんは構わず、左手をもそもそ動かし続けている。わたしの口から黒い糸が、勢いよく噴き出している。
「わたしだけ、どうしてこんなんだろう。やっぱり育ち方のせいだろうか。お母さんがあんな人だからだと思う。あんな汚い変なアパートで、思春期を過ごしたんだよ。本当に許せない、むかつく、今も変な島で笑っていると思ったら、腹が煮えくり返るようだよ」
怒りの矛先が、アルバイトとは無関係な母にまで向かったので、とうとうわたしは唖然としてしまい、最後には泣きながら笑いだしてしまったのだった。一体、この黒い糸はどこまで続いているんだ。果てしなすぎる。そのうち、生まれる前の、前世の因縁やら、この世の理やら、カミサマまで呪い出すかもしれない。
泣き笑いしながらコーヒーを飲んで心を落ち着かせた。
いとちゃんはコーヒーを飲み終わっていて、ことんとマグをテーブルに置いた。左手の動きは止まっていた。
夜はゆったりと穏やかで、窓の外は夏のかえるたちが賑やかに合掌している。
ぬるい昼間の温もりが気持ち悪くもあり、安心できるようでもあり、台所は奇妙なまほろばになっていた。
コーヒーの匂いがすごく良い香りであることに、ようやくわたしは気が付いた。
いとちゃんは何も言わなかった。
わたしも特に意見を求めなかった。
ぬるくて穏やかな時間が流れ、心は次第にいつもの自分に戻っていった。
ふいに、ああ、明日もあるんだよな、あの仕事と思い出して、いきなりずどんと突き落とされた。
「休めば。いいじゃん、もう何を言われようと」
いきなりいとちゃんが言った。
流石に、アルバイト最終日を欠席するのはまずいので、わたしは苦笑いでごまかした。だけど、休めば、という言葉に大きく心が揺れたのは事実だった。
そうだ。休んでも差支えがない。
だって、あの職場で、わたしがいたって回ってくる仕事はそんなにないし、誰からも話しかけられないし。
休んだとして何がネックかと言えば、最後の日に休んだ非常識さを、面白おかしく悪口にされることくらいだ。あとは、経理担当のお局さんがバイト料について責任を持っているので、もしかしたらその人から直接携帯から電話に連絡が入るかもしれない。
(もういいよ、それくらい)
一瞬、わたしは休むという魅力に引き寄せられ、全てを放り出そうとした。
だけど、すぐにはっとした。だめだ。なぜなら、この会社は大きくてハイソな会社のくせに、バイト代は最終日に現金で渡してくれることになっていたからだ。
もし明日休んだら別の日に改めて取りに行くことになる。あの、陰険なオフィスまで。
仕事した分のお金だから、泥棒でもなんでもないはずなのに、どうせあの女の人たちは皆でこちらを見て、ひそひそ言い合うに違いないと簡単に予想がついた。
いっそ、そんなお金などいらないと思おうとしたが、根本的にお金が大好きなわたしは、どうしてもそう思いきることができなかった。
お金、大事。
「……明日さ、給料出るから、ケーキ買って来る。なにが良い」
そう言ったわたしの顔は、台詞に反して、さぞ渋い顔だったに違いない。いとちゃんは彼女にしては珍しく、にやにや笑った。その面白がるような笑顔が、なぜかわたしの暗い気持ちを救った。
「モンブラン」
と、いとちゃんは答えた。
そして、軽く握っていた左手をふわっと開き、まるで手に着いた塵を払うように、ぱさぱさと両手をこすりあわせたのだった。
「ひとつ聞いて良い」
わたしはきいてみた。
あの、「糸を読むひと」の悩み相談は有料なのか、無料なのか。
いとちゃんは淡々と答えてくれた。
「今は無料だけど、そのうち、お金をもらうつもり」
仕事だから、これ。
いとちゃんは真っ黒い目で、わたしを見た。
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主人公の宵宮環《よいみやたまき》は都会で暮らす小説家。
そんな彼女のマンションに、就職のために上京してきた妹の宵宮いのりが転がり込んできた。
いのりは言う。
「ねえ、お姉ちゃん。わたし、二十歳になったんだ。だからお酒のこと、たくさん教えて欲しいな」
これは姉妹の柔らかな日常と、彼女たちを取り巻く温かな人々との交流の日々を描いたお酒とグルメの物語。
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