ひとりたりない

井川林檎

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 結局、怜は車で岸辺久美と浜洋子の仮住まいに立ち寄り、彼女らを拾い上げてから、大友優の自宅に向かうこととなった。
 古い軽四は大人三人の重みで痛々しく軋んでいる。特に、岸辺久美を乗せた瞬間に「ぎしい」と悲鳴のような音を立てた。二人とも後部座席に座っているのだが、岸辺久美が二人分を埋めているようなもので、車の中はみっちりと詰まっていた。

 「それって犯罪じゃん」
 岸辺が久々に仲間に会った感慨すらない様子で、ぼそっと言い捨てた。むくむくと太りに太った岸辺は、脂肪に顔が埋もれているせいで表情が読めないのだった。しかし声が十分に気持ちを表現している。岸辺は決して、機嫌がよくはない。

 「もやし、ついにやっちゃったわね」
 浜洋子が言った。それは不謹慎な感じがした。洋子の声音は不愛想ではない代わりに、この事態をどこか面白がっているような色が見られた。洋子にとって、怜の姪のことなど他人事に過ぎないのだった。

 「ごめんね、いきなりお願いしてしまって」
 怜は淡々と謝った。狭い上梨の中である。車はもう、大友優の古い自宅のある狭くて一方通行の路地に入り込んでいた。洋子が外を見て、ヤダ、ここまだこんな道のままなんだ、対向車が来たら最悪だよねえ、と、どこかはしゃいだ声をあげた。一方、久美はそんな洋子をじろっと見ているようだーーなにしろ脂肪に埋もれているので目つきすら分からないのだ。
 「別にいいよ。することなんもないし」
 久美は不機嫌そうに答えた。久美がむっとしているのは、突然呼び出した怜に対してではない。こんな緊急事態でも、自分だけきっちりメイクして、洒落たワンピースを纏っている浜洋子に対する嫌悪感のせいだ。浜洋子は既に隠すことなく、シースルーのハンドバッグに財布と携帯と母子手帳を入れている。

 「あれ」
 突然、怜が首を傾げた。
 後部座席の二人は、怜の様子に気づかないままそれぞれの思考の中に入り込んでいる。洋子は悪阻のためにやつれていて、それがかえって色気を呼んでいた。相変わらず洋子は、この子供が生まれたらどうするべきか、両親にはどう説明するべきか、頭の中でぐるぐる思考をもてあそんでいた。まるで中学で妊娠して困惑している小娘となんら変わらない、と自分の有様に苦笑しながらも、やっぱりそればかり考えてしまうのだった。一方、久美の方は嫌なのに洋子の様子を見ずにはおられず、不快感が一秒ごとに増していたーーこの人、ますます嫌な女になったわーーでっぷり張り出したおなかのせいで、椅子に座っているのと色々ときつい。洋子がこじゃれた姿をしているのと対照的に、久美は、がばっとかぶるような、茶色の大きなTシャツを纏っている。選べないのよねえ、服なんか。どうしてこうも太るのかしら。よく幸せ太りって聞くけれど、不幸太りって言わないわよね。久美はじれじれと不満を募らせ、どんどん眉間にしわを寄せているのだった。

 「おかしいな」
 怜がまた呟いた。
 その頃になると、ようやく後部座席の二人も異変に気が付いた。車は何度も同じところを走っている。古い家がみっちりと並ぶ道。赤いゼラニウムの鉢は、確かにさっきも見た。
 
 「どうしたの」
 洋子が声をあげた。「家、忘れた」
 久美は黙って通りを眺めた。怜は首を傾げながら運転をしている。久美の記憶に間違いがなければ、これで同じ場所を行くのは四度目だ。
 同じ場所をぐるぐる回っているのだ。

 「ごめん」
 怜は言った。
 「このへんにあるのは確かなんだけど、どうしても見当たらなくって。さっきからぐるぐる回りながら、大友君の家を探しているのよ。一緒に探してくれる」
 
 大友優の家は古い木造で、手すりがついている。玄関は引き戸だ。表札は古めかしい木でできていて、毛筆で「大友」と書いているはずだった。
 それで、久美と洋子は窓の外に注意を払った。もう一回いくね、と、怜は断ってから、ゆっくりと車を進めた。赤いゼラニウム。階段が特徴的な家。猫の置物。朽ちかけた犬小屋が放置されている家。何度も見ている景色が通り過ぎてゆく。
 「ここのはず」
 と、久美ははっきり言った。
 「タヌキの置物がある家と、水色の変な色の壁の家の間に挟まってたもん、あいつの家」
 
 タヌキの置物も、水色の壁も、確かにあった。しかし、その間に大友優の家は存在しなかった。そこはただの空き地になっており、草が人の背丈ほどになって、ぼうぼうと茂って風に揺れていた。
 「あいつ引っ越したぁ」
 と、洋子が言った。
 「引っ越したとしても、こんなふうに、最初からなにもなかったみたいな空き地になってる、普通」
 久美が言い返した。二人はなんとなく険悪になった。

 おかしかった。なにかが変だった。怜は車を空き地前に停めた。とにかく歩いて探して見なくては。怜は車から出た。さあっと夏の風がよぎり、じいわじいわと油蝉のやかましい合唱が耳に飛び込む。確かに既視感がある。こんなふうな夏だった。非常に暑くて、むうっとしていて、油蝉がやたらに発生した。三十年前の夏。
 
 「おなかすかないー」
 その時、車の窓を開いて、久美がいきなり言った。
 「これから食べに行くんでしょ、早く行こうよ」
 
 怜は振り向いた。
 久美が空腹のために不快そうな顔をしているのと、洋子が綺麗にネイルした指でスマホをいじっているのが見えた。その様子は、さっきまで、怜の姪のみいなと大友優のことを一応は案じてくれていた二人とは、まるで違っていた。まるで、久々に戻ってきた故郷を旧友の三人で楽しんでいるかのような様子に見えた。

 「わたしのモノにするの」
 不意に、そんな声が聞こえたような気がした。
 口を三日月の形に笑み崩れさせた「あいつ」が、雑草の波の中に立っている。怜は愕然としてそれを眺める。
 みいなを連れ戻さなくてはならない、という焦りが急激に引いて行く。

 なんでわたし、みんなを乗せてこんなところを走っていたんだっけ。

 怜は車の中に戻る。怜は危うく敵の術中に陥るところだったのだ。怜を正気に返したのは、助手席に置き去りになっていた一枚の子供じみたハンカチだった。みいなのだ、気が付かなかった、こんなところにハンカチを置き去りにして。
 あ。みいな。

 後部座席では、中華がいいとか、そんなの食べたくないとか、まともに会話する気もなく、独り言のようにつぶやきあう二人の声が賑やかしかった。
 怜はスマホを開いた。そして、息を飲んだ。
 奈津からのメールも着信も消えている。みいなを案じる内容だった連絡の痕跡が、まるごと綺麗に消えているのだった。

 (そんなことが)
 あるはずがない、と、思いたかったが、残念ながら、現実にそれは起きてしまっていた。
 大山みいなが大友優の家に家出した事実は消えてしまっていた。
 くすくす、うふふ。楽し気に笑う子供の声が耳の奥であぶくのように踊って消えた。
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