ひとりたりない

井川林檎

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 エレベーターから降りた時、怜はようやく現実に追いついたかのような焦りを感じ始めた。洋子との偶然の再会に気を取られていたせいで、現在のまずい状況を忘れかけていたのである。速足で閲覧室の扉を開くと、しいんとした図書館の風景が広がっていた。閲覧客は皆無で、面白みのなさそうな本棚がえんえんと並んでいるだけである。
 カウンターでは司書がパソコンに向かい、眠そうに作業していた。怜が入ってゆくと、一瞬ちらっと顔をあげただけで、すぐにまた自分の作業に没頭した。かたかたというキーボードの音が古い紙のにおいの中に紛れ、空気と化していた。怜は、あちこち見回しながら奥へ奥へと進む。わかっていた。二人がどこに籠っているのか。けれど、万一ということがあるから、本棚の間を見落とさないよう、右左に目を光らせながら進んだ。

 怜としては、みいなが、できればどこかの本棚の前で、熱心に本を探していてくれればと思っている。偶然にも今日は大友優は来ておらず、みいなはがっかりしながらも、すぐに自分の本分を思い出して自由研究を片付けようと頑張っているーーだけど怜は、それが希望的観測であることを知っている。おそらくそう都合の良いことにはなっていまい。ちょっと目を離したこの十数分の間に、ものごとが悪い方向に進んでいるのは、まず間違いなかった。
 せめて、その「悪い方向」へ向かう歩みが、まだほんの一歩、二歩くらいで済んでいてくれればよいのだけど。まあ、そうそう、ニュースになるような事態にはなるまい、と、怜は考え直す。どうしてもメディアは最悪なことになった事態の、結論部分だけをクローズアップして報道する。心に闇を抱えたロリコンによって、なにも分からない幼い女の子が大変なことになってしまう話は、今までどれほどの例があげられてきたろうか。その中には取り返しのつかないことになったものもある。
 怜は唇を噛んで自分を戒めた。そんなことばかり考えるものではない、みいなは一応、ひとさまの大事なお子様なのだ。
 ふと怜は、非常な虚しさと同時に、物凄い解放感を感じた。「子供を持っている人、持とうとしている人、これから持ってしまうかもしれない人は、皆、こういう不安と恐怖になにかあるごとに、苛まれるのだ」ーー幸いにも、と言ってしまうのは、怜にとっては未だ不本意なことなのだがーー怜は、子供がいなかったし、おそらくこれからも子に恵まれることはなかった。

 すりガラスの向こうの郷土資料館に、2人はいるはずだ。
 思った通り、すりガラスには人の衣服の色が映し出されていた。みいなの着ている黄色いTシャツが映ったので、少しホッとする。だが、次の瞬間、ぞわりと全身に泡が立った。黄色いTシャツにほとんどくっつくような、ほとんど抱きしめているような距離で、黒い陰気な大人のジャージが映っていたのだった。
 怜は無言でがらりと引き戸を開いた。体をくっつけあうようにして、大友優とみいなが立っており、2人は仲睦まじげに一冊の本を見ていた。怜が入ってきた瞬間、みいなは飛び上がって振り向いた。顔は紅潮しており、その表情には、今まで見たことのないような反抗心、うしろめたさ、怒りなどが見えた。対して大友優は、ぼさぼさの前髪の奥で青い顔色をし、黒く催眠的な目を陰気に開いてこちらを見ていた。少なくとも優のほうには、うしろめたさや、後ろ暗さはないように見えた。

 「教えてもらってたのよ、『わらしさま』のこと」
 聞かれもしないうちに、みいなは言った。少々、早口のようだった。
 「良い資料も見せてもらえたし。今回の自由研究、きっと凄いものになるわ。ぜんぶ大友さんのお陰なんだからね」

 まるで、怜のために自由研究をしてやっている、そして大友優がその協力をしてくれているというような言い方だった。怜はじっとみいなに視線を当てた。みいなは眉をひそめて視線を跳ね返し続けたが、やがて根負けしてふっと目を逸らした。怜はため息をついた。

 「姪がお世話になりまして」
 怜は大友優に頭を下げた。
 「資料を教えてもらえたとのことですから、それ、借りていくわ。あとは落ち着いて自分でノートをまとめれば良いと思うので」
 みいながぐっと歯を食いしばる様子が見えた。怜はため息をつきたい気分になった。

 「ああ、それ、貸出禁止だよ」
 しかし大友優は、なにも気にしていない様子で、さらりと言った。みいなは胸に、一冊の薄い本を抱きしめている。優はその本をみいなから預かると、ぱらぱらとページを開いた。
 「必要なページだけコピーしていけばいい。コピーさせてくれるから」
 みいなは恨めしそうな表情になった。

 「ありがとう」
 怜は大友優から本を受け取ると、みいなに「帰るよ」と呼びかけた。穏やかな声音の中に、強制を込めて。
 とぼとぼとみいなはガラス戸から出た。

 「さっき、浜さんに会ったわ」
 まだ郷土資料館の中に居座る気らしい大友優に、怜は言った。大友優は、何ら驚いた様子を示さなかった。ふうん、そう、とだけ返ってきた。
 「岸本さんも上梨にいるんでしょう。みんな、どんなふうになってるんだろう。大友君、みんなのことどれくらい知ってるの」

 怜としては、ただの好奇心で聞いただけだった。もちろん、こんな会話に時間を取るつもりもない。しかし、優は間を置いてから、かみしめるように答えた。

 「だいたい知ってる。君のこともね」

 怜はじっと優を見つめた。怜と優の間には、人間が二人くらい入るくらいの距離ができている。怜は自分でも知らずに後ずさった。大友優は前髪の奥から、じっと怜を見つめている。白い顔色の中で、異様に口元が目立った。その口元が、今にも三日月形ににやりと笑みを作るのではないかと思われて、怜はそっとその場を去った。

 「またね。中華料理屋で今度」
 怜はそう言いながら、本を持って歩き出した。みいなはすねてしまっているし、さぞ扱いづらいだろう。こんなテーマなど選ばなければ良かった。今更のように怜は思う。
 カウンターから離れたところに、みいなはぶらぶらと立っていた。まだパソコンにかじりついている司書に本を差し出しながら、コピーさせてほしい旨を、怜は伝えた。
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