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終
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梟荘に住んだ人たちは、今まで、どれくらいいるんだろう。
ふっと、思う。
中庭に布団を干し、松の木の枝越しに抜けるような青空を見た。久々の休日だ。
まもなく夏を迎えようとしている。そのうに、近所の子供らも夏休みになるだろう。
(沙織、元気かな)
ぴっ。小鳥が一声哭いて、枝から飛び立った。遙か遠い見知らぬ場所に住む、小さな可愛い家族の事を想う。手紙や電話は月に一度くらい、ある。とても元気そうだ。
わたしは今、梟荘に住んでいるけれど、ここは仮住まいだし、いつかここを去る日が来る。
「十年たったら、梟荘同窓会でもしよーよ」と、たまに泊りに来ては酒を飲んで行く優菜が、笑いながら言う。幹事はたるちゃんね、と、勝手に決めやがる。
わたしは苦笑した。十年後、わたしも優菜も、そして沙織も、どうなっていることか。結婚して本物の家族を持ってしまったら、きっと二度と、梟荘の家族の事なんか思い出さなくなるのに違いない。
風が通り抜ける。夏の香りが漂う。
ジーパンの内側が汗ばむほどの陽気だ。わたしは縁側にあがると、伸びをした。このところ忙しすぎて、身体をちゃんと伸ばせていない。PCに向っているか、コンビニで夜勤をしているかのどちらかだ。
今日は昼間の自宅での仕事も、夜の仕事もお休みさせてほしいと井上さんに言ってある。井上さんは良い雇い主だけど、仕事にのめり込みすぎて、こちらの自由時間まで無視してしまうのが玉に瑕だった。うっかり、井上さんに全生活の時間を支配されてしまいかねない。
井上さんも自分のそういうところを分かっていて、わたしが正直に自分の都合を言えば、快く休ませてくれるのだ。
「東京に魔女修行に出た母が、凄く久しぶりにうちに帰ってくると言うので、母が滞在中は仕事を休ませてください」
と、深夜のコンビニでわたしが真面目に言うと、井上さんはげらげらと笑った。山崎さん、休みを取る時の言い訳がいつも嘘っぽいねえ、とイートインのカウンターに手をついて、面白そうに井上さんは言った。
3月、沙織が梟荘を去る際、コンビニを休ませてもらったことがあったが、その時の理由もいかにも嘘っぽかったのを、未だに井上さんは覚えている。
もちろん、嘘ではなくて本当のことを、わたしは喋っている。
井上さんも、わたしが嘘をついているとは思っていない。
「だいたいなにその、魔女修行って」と、早く家に帰って仮眠を取ればいいのに、涙を拭きながら井上さんが追求してきた。そんなのわたしにも分かりません、と答えたら、更に笑われた。
もっとお母さんと話し合った方がいいよと言われたので、そうしますと答えた。笑い死ぬ、とか言いながら、井上さんはフラフラ外に出て行き、キイキイ自転車を軋ませながら去った。
そんなに面白かっただろうか。
わたしは、恵まれている。
物干しの敷布団ごしに空を見上げながら、思う。暗く低い場所に身を置く時期があったとしても、立ち上がるべくサポートしてくれる手は、どこからともなく現れる。きっとこの先、何度も、そんな手は現れる。
じれじれとした、先の見えない時間は今から思えば特殊で不思議な世界だった。あんなふうに、うまくいかない人間が同じ屋根の下に集まって生活共同体を営むなんて、なんと面白いことだろう。
世の中から背中を向けられているような気分のわたしと、まっすぐに夢を追いかけたいのに変な落とし穴にはまってしまった優菜と、数奇な運命に翻弄されて梟荘にやってきた沙織。
全然楽しくない日々をそれぞれ送りながらも、温かい台所で一緒に食べたごはんは確かに美味しかった。
あの生活は、奇跡だった。ほんわりと暗く温かな光に包まれた時間の玉に、あの日々は閉じ込められている。二度と戻らない。思い出すほどに美しく大事な時間になる。
**
「親子丼作っといてよねー」
数日だけ帰省することを電話で告げた母は、わたしにそう注文した。
なんだこの既視感、と思ったけれど、手間のかかるものでもないので、はいはい分かったよ親子丼ね、と適当に答えて置く。もっと手の込んだものを食べたいと言われたら面倒だ。
冷蔵庫には卵と鶏肉と根菜がある。玉ねぎもワゴンに入っていたし、準備は万端だった。
母には聞きたいことがある。
あんたわたしにテレパシー送ったでしょ、と、問い詰めなくてはならない。親子丼の準備をしながら、さんざん頭の中でどう言おうか練りまわした。
「鏡に突然出てくるのやめて。あと、怖い顔で夢に出てくるのも勘弁して。トラウマになるから」
そう言ったら、母はどんな反応を返してくるか。
何言ってんのよ、わたしは何もしてないわよ、人をお化けみたいに言わないでちょーだい、と、しらを切るだろうか。
確信しているが、無意識かもしれないが、母は魔女的な能力を使ってわたしの危機を救った。確かに母の声、母のにおいを、わたしは感じたのだ。
情けは無用、と母はきっぱり言い切り、恐ろしい顔をして、わたしの尻を引っぱたいた。何やってんの、しゃんとしなさい、と叱咤した。
わたしは長い間、ある一つのハードルの前でしり込みして、なかなかそこから動けずにいた。他の人は軽々と飛び越えてゆくそのハードルは、わたしには高すぎた。
もたもたしているうちに、時間の経過とともにそのハードルはもっと高く、もっと分厚くなったようだった。もう越えられない、わたしはここから動けないんだと諦めていた。
早川芽衣さんは、ハードルの化身だったのかもしれない。
あの暴力沙汰は、この界隈ではちょっとした事件だった。地方局ではあったけれどテレビにまで取り上げられてしまい、しばらくわたしは、肩身の狭い思いをしたものだ。
人は勝手なもので、わたしが被害者であっても、「なにかあるからこういうことになるんだ」と、色目で見る。
救いだったのは、けやきさんも井上さんも、そんな色目でわたしを見なかったことだ。けやきさんは、大変だったわね、身体は大丈夫、と、ただ気遣ってくれたし、井上さんもしばらくの休養を勧めてくれた。優菜からは興奮したメールが届き、しばらく梟荘に泊ってくれた。
ゆるゆると時間が経って行き、人のうわさもあっという間に鎮まった。わたしは元気に夜はコンビニで働き、昼は梟荘でネットの仕事をする。人は人によって傷つき、だけど人によって立ち直ることができるのだと、しみじみと理解した。
願わくは、早川芽衣にも、落とし穴の中に差しのべられる温かい手があれば良いと思う。
**
ラジオを流しながら親子丼を煮ていると、がらがらと玄関の戸が開いた。
母が帰る時間にしては早いな、と思ったら、間延びした優菜の声が聞こえて来た。
「たるちゃーん、ビール持ってきたー」
今日、仕事は休みらしい。
ショートパンツ姿の優菜が、暑そうに入ってきてTシャツの襟元をぱたぱたした。
喉乾いた、なんかちょうだいと言うので、サンリオ柄のマグカップに麦茶をついで出してやる。流しには未だにマグカップが三つ揃っている。わたしのと、優菜のと、沙織の。
恐らくもう二度と一緒に住むことのない三人だけど、まるでここで過ごした証のように、マグカップはいつまでも流しのところにあった。
冷蔵庫には絵葉書がマグネットで貼り付けてある。
たるちゃん、優菜ねえちゃん元気ですか。沙織は元気です……。
おいしそうに冷たい麦茶を飲み干してから、優菜はにっこりと笑う。
新しい恋を始めて、それがうまくいっているみたいで、優菜はこの頃本当に明るくなった。短くした髪の毛を指で軽くいじりながら、夏休みに沙織来るかなと言った。
「どうだか」
わたしもまた、自分のマグに麦茶をついだ。
ちろんちろん。
座敷の方から風鈴の音が聞こえる。
「今日は親子で飲むんでしょ」
と、優菜は持ってきた半ダースのビールの袋をこちらに押しやった。
「飲まないよ」
わたしは苦笑した。だけどくれるものは有難くいただいておき、冷蔵庫にしまった。
母と酒を飲むことなど、これまで一度もなかった。恐らく今後もないだろう。
わたしにとって母は、「こうやって生きるのよ」と背中を見せてくれながら、がんがんと進んで行く逞しい存在である。生真面目で、冗談が通じなくて、浮ついたものが嫌いなひと。それが母だった。
その母が魔女になりたいなんて、誰に想像ついただろう。
ふと、わたしは、魔女になった母に、どんな顔をして会おうかと戸惑いを感じたのだった。
「どうしよう、きっとかーさんは変わってしまっている。すごく変な人になっているかもしれない」
と、わたしは麦茶のマグを握りしめて言った。母がどんなふうに変化しているのか想像もつかなかった。なんて恐ろしい。
「何言ってんのよ、たるちゃんも変わったよー」
けらけらと、優菜は笑った。おばさんびっくりするんじゃないのかな、全然違うもん、たるちゃん。優菜はそう言うと、すっと立ち上がる。スマホを見て何かを気にしていた。待ち合わせがあるのかもしれない。
「また、聞かせて」
再会の様子とか。
優菜は良い匂いを漂わせながら梟荘の玄関を出た。
ビールありがとう、と言いながら、わたしは見送りに出る。小尻な優菜の後姿は綺麗で色っぽい。これから恋人と遊びに行くのかもしれない。
まだ正午を迎えていない太陽が、透明な光を落としている。
日差しは強くなる。どんどん、強くなるだろう。
**
まっすぐな平らな道を歩いてゆくだけの人生だったら、どんなに楽だろう。
その道を、みんな平等に並んで、なんとなく歩いて行けたら、心が傷つくことも、悲しいこともない。そうなればどんなに良いだろうと、わたしは思う。未だに思う。
けれど現実は、ハードルの連続で、楽々と越えられるハードルもあれば、恐ろしくてまたぐことができないものもある。
ハードルを越えたらまた次のハードルが巡ってくる。もういいよ、もう十分だと嘆きたくなるけれど、神様は意地悪だ。人生が終わるまで、きっとこのハードルは途切れない。
わたしのハードルも、優菜のハードルも、沙織のハードルも、きっとみんな違う。
誰もが自分のハードルを前にして、立ちすくんだり、果敢にトライしたり、誰にも分らない戦いをしているのだと思う。
同じ世界、同じ屋根の下で息をしているけれど、戦っているものは全く違う。だけどやっぱりわたしたちは、同じ方向に進んで行くのだろう。
優菜を見送ってから梟荘に入ったら、ジリリリと黒電話が鳴っていた。
ああ、母からだ。直感してわたしはサンダルを脱ぎ捨てて梟荘に飛び込んだ。駅に着く時間を連絡してくれるのかもしれない。
息せき切って、わたしは電話に飛びつく。
「はい、山崎……」
台所からは、しみじみと、親子丼の甘い匂いが廊下に流れ出していた。
ふっと、思う。
中庭に布団を干し、松の木の枝越しに抜けるような青空を見た。久々の休日だ。
まもなく夏を迎えようとしている。そのうに、近所の子供らも夏休みになるだろう。
(沙織、元気かな)
ぴっ。小鳥が一声哭いて、枝から飛び立った。遙か遠い見知らぬ場所に住む、小さな可愛い家族の事を想う。手紙や電話は月に一度くらい、ある。とても元気そうだ。
わたしは今、梟荘に住んでいるけれど、ここは仮住まいだし、いつかここを去る日が来る。
「十年たったら、梟荘同窓会でもしよーよ」と、たまに泊りに来ては酒を飲んで行く優菜が、笑いながら言う。幹事はたるちゃんね、と、勝手に決めやがる。
わたしは苦笑した。十年後、わたしも優菜も、そして沙織も、どうなっていることか。結婚して本物の家族を持ってしまったら、きっと二度と、梟荘の家族の事なんか思い出さなくなるのに違いない。
風が通り抜ける。夏の香りが漂う。
ジーパンの内側が汗ばむほどの陽気だ。わたしは縁側にあがると、伸びをした。このところ忙しすぎて、身体をちゃんと伸ばせていない。PCに向っているか、コンビニで夜勤をしているかのどちらかだ。
今日は昼間の自宅での仕事も、夜の仕事もお休みさせてほしいと井上さんに言ってある。井上さんは良い雇い主だけど、仕事にのめり込みすぎて、こちらの自由時間まで無視してしまうのが玉に瑕だった。うっかり、井上さんに全生活の時間を支配されてしまいかねない。
井上さんも自分のそういうところを分かっていて、わたしが正直に自分の都合を言えば、快く休ませてくれるのだ。
「東京に魔女修行に出た母が、凄く久しぶりにうちに帰ってくると言うので、母が滞在中は仕事を休ませてください」
と、深夜のコンビニでわたしが真面目に言うと、井上さんはげらげらと笑った。山崎さん、休みを取る時の言い訳がいつも嘘っぽいねえ、とイートインのカウンターに手をついて、面白そうに井上さんは言った。
3月、沙織が梟荘を去る際、コンビニを休ませてもらったことがあったが、その時の理由もいかにも嘘っぽかったのを、未だに井上さんは覚えている。
もちろん、嘘ではなくて本当のことを、わたしは喋っている。
井上さんも、わたしが嘘をついているとは思っていない。
「だいたいなにその、魔女修行って」と、早く家に帰って仮眠を取ればいいのに、涙を拭きながら井上さんが追求してきた。そんなのわたしにも分かりません、と答えたら、更に笑われた。
もっとお母さんと話し合った方がいいよと言われたので、そうしますと答えた。笑い死ぬ、とか言いながら、井上さんはフラフラ外に出て行き、キイキイ自転車を軋ませながら去った。
そんなに面白かっただろうか。
わたしは、恵まれている。
物干しの敷布団ごしに空を見上げながら、思う。暗く低い場所に身を置く時期があったとしても、立ち上がるべくサポートしてくれる手は、どこからともなく現れる。きっとこの先、何度も、そんな手は現れる。
じれじれとした、先の見えない時間は今から思えば特殊で不思議な世界だった。あんなふうに、うまくいかない人間が同じ屋根の下に集まって生活共同体を営むなんて、なんと面白いことだろう。
世の中から背中を向けられているような気分のわたしと、まっすぐに夢を追いかけたいのに変な落とし穴にはまってしまった優菜と、数奇な運命に翻弄されて梟荘にやってきた沙織。
全然楽しくない日々をそれぞれ送りながらも、温かい台所で一緒に食べたごはんは確かに美味しかった。
あの生活は、奇跡だった。ほんわりと暗く温かな光に包まれた時間の玉に、あの日々は閉じ込められている。二度と戻らない。思い出すほどに美しく大事な時間になる。
**
「親子丼作っといてよねー」
数日だけ帰省することを電話で告げた母は、わたしにそう注文した。
なんだこの既視感、と思ったけれど、手間のかかるものでもないので、はいはい分かったよ親子丼ね、と適当に答えて置く。もっと手の込んだものを食べたいと言われたら面倒だ。
冷蔵庫には卵と鶏肉と根菜がある。玉ねぎもワゴンに入っていたし、準備は万端だった。
母には聞きたいことがある。
あんたわたしにテレパシー送ったでしょ、と、問い詰めなくてはならない。親子丼の準備をしながら、さんざん頭の中でどう言おうか練りまわした。
「鏡に突然出てくるのやめて。あと、怖い顔で夢に出てくるのも勘弁して。トラウマになるから」
そう言ったら、母はどんな反応を返してくるか。
何言ってんのよ、わたしは何もしてないわよ、人をお化けみたいに言わないでちょーだい、と、しらを切るだろうか。
確信しているが、無意識かもしれないが、母は魔女的な能力を使ってわたしの危機を救った。確かに母の声、母のにおいを、わたしは感じたのだ。
情けは無用、と母はきっぱり言い切り、恐ろしい顔をして、わたしの尻を引っぱたいた。何やってんの、しゃんとしなさい、と叱咤した。
わたしは長い間、ある一つのハードルの前でしり込みして、なかなかそこから動けずにいた。他の人は軽々と飛び越えてゆくそのハードルは、わたしには高すぎた。
もたもたしているうちに、時間の経過とともにそのハードルはもっと高く、もっと分厚くなったようだった。もう越えられない、わたしはここから動けないんだと諦めていた。
早川芽衣さんは、ハードルの化身だったのかもしれない。
あの暴力沙汰は、この界隈ではちょっとした事件だった。地方局ではあったけれどテレビにまで取り上げられてしまい、しばらくわたしは、肩身の狭い思いをしたものだ。
人は勝手なもので、わたしが被害者であっても、「なにかあるからこういうことになるんだ」と、色目で見る。
救いだったのは、けやきさんも井上さんも、そんな色目でわたしを見なかったことだ。けやきさんは、大変だったわね、身体は大丈夫、と、ただ気遣ってくれたし、井上さんもしばらくの休養を勧めてくれた。優菜からは興奮したメールが届き、しばらく梟荘に泊ってくれた。
ゆるゆると時間が経って行き、人のうわさもあっという間に鎮まった。わたしは元気に夜はコンビニで働き、昼は梟荘でネットの仕事をする。人は人によって傷つき、だけど人によって立ち直ることができるのだと、しみじみと理解した。
願わくは、早川芽衣にも、落とし穴の中に差しのべられる温かい手があれば良いと思う。
**
ラジオを流しながら親子丼を煮ていると、がらがらと玄関の戸が開いた。
母が帰る時間にしては早いな、と思ったら、間延びした優菜の声が聞こえて来た。
「たるちゃーん、ビール持ってきたー」
今日、仕事は休みらしい。
ショートパンツ姿の優菜が、暑そうに入ってきてTシャツの襟元をぱたぱたした。
喉乾いた、なんかちょうだいと言うので、サンリオ柄のマグカップに麦茶をついで出してやる。流しには未だにマグカップが三つ揃っている。わたしのと、優菜のと、沙織の。
恐らくもう二度と一緒に住むことのない三人だけど、まるでここで過ごした証のように、マグカップはいつまでも流しのところにあった。
冷蔵庫には絵葉書がマグネットで貼り付けてある。
たるちゃん、優菜ねえちゃん元気ですか。沙織は元気です……。
おいしそうに冷たい麦茶を飲み干してから、優菜はにっこりと笑う。
新しい恋を始めて、それがうまくいっているみたいで、優菜はこの頃本当に明るくなった。短くした髪の毛を指で軽くいじりながら、夏休みに沙織来るかなと言った。
「どうだか」
わたしもまた、自分のマグに麦茶をついだ。
ちろんちろん。
座敷の方から風鈴の音が聞こえる。
「今日は親子で飲むんでしょ」
と、優菜は持ってきた半ダースのビールの袋をこちらに押しやった。
「飲まないよ」
わたしは苦笑した。だけどくれるものは有難くいただいておき、冷蔵庫にしまった。
母と酒を飲むことなど、これまで一度もなかった。恐らく今後もないだろう。
わたしにとって母は、「こうやって生きるのよ」と背中を見せてくれながら、がんがんと進んで行く逞しい存在である。生真面目で、冗談が通じなくて、浮ついたものが嫌いなひと。それが母だった。
その母が魔女になりたいなんて、誰に想像ついただろう。
ふと、わたしは、魔女になった母に、どんな顔をして会おうかと戸惑いを感じたのだった。
「どうしよう、きっとかーさんは変わってしまっている。すごく変な人になっているかもしれない」
と、わたしは麦茶のマグを握りしめて言った。母がどんなふうに変化しているのか想像もつかなかった。なんて恐ろしい。
「何言ってんのよ、たるちゃんも変わったよー」
けらけらと、優菜は笑った。おばさんびっくりするんじゃないのかな、全然違うもん、たるちゃん。優菜はそう言うと、すっと立ち上がる。スマホを見て何かを気にしていた。待ち合わせがあるのかもしれない。
「また、聞かせて」
再会の様子とか。
優菜は良い匂いを漂わせながら梟荘の玄関を出た。
ビールありがとう、と言いながら、わたしは見送りに出る。小尻な優菜の後姿は綺麗で色っぽい。これから恋人と遊びに行くのかもしれない。
まだ正午を迎えていない太陽が、透明な光を落としている。
日差しは強くなる。どんどん、強くなるだろう。
**
まっすぐな平らな道を歩いてゆくだけの人生だったら、どんなに楽だろう。
その道を、みんな平等に並んで、なんとなく歩いて行けたら、心が傷つくことも、悲しいこともない。そうなればどんなに良いだろうと、わたしは思う。未だに思う。
けれど現実は、ハードルの連続で、楽々と越えられるハードルもあれば、恐ろしくてまたぐことができないものもある。
ハードルを越えたらまた次のハードルが巡ってくる。もういいよ、もう十分だと嘆きたくなるけれど、神様は意地悪だ。人生が終わるまで、きっとこのハードルは途切れない。
わたしのハードルも、優菜のハードルも、沙織のハードルも、きっとみんな違う。
誰もが自分のハードルを前にして、立ちすくんだり、果敢にトライしたり、誰にも分らない戦いをしているのだと思う。
同じ世界、同じ屋根の下で息をしているけれど、戦っているものは全く違う。だけどやっぱりわたしたちは、同じ方向に進んで行くのだろう。
優菜を見送ってから梟荘に入ったら、ジリリリと黒電話が鳴っていた。
ああ、母からだ。直感してわたしはサンダルを脱ぎ捨てて梟荘に飛び込んだ。駅に着く時間を連絡してくれるのかもしれない。
息せき切って、わたしは電話に飛びつく。
「はい、山崎……」
台所からは、しみじみと、親子丼の甘い匂いが廊下に流れ出していた。
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素敵な物語でした。ありがとうございました。
華音さん、最後までお読みいただき、貴重なご感想を寄せていただき、ありがとうございます。
お読みいただき、丁寧なご感想までいただけたこと、今後の励みにさせていただきます。
感謝でございます。
ありがとうございます!
夜明け前まで拝読しました。
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読了後、また感想送ります。
華音さん、お読みいただけて、ご感想までいただけて、ありがとうございます!
とても嬉しく、励みにさせていただきます。
感謝ですm(__)m