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警鐘

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 慣れない時間の浅い睡眠。嫌いじゃない。白昼の明るさの中で寝ていると、ゆらゆらと南国の明るい海を漂う感じがする。
 火曜と木曜の早い夕方から夜にかけて、わたしは仮眠を取る。12時からアルバイトがあるから、少しでも休む。がちゃん。玄関の鍵が開く音がしたら、ああ、優菜が帰って来たん、じゃあもういい時間なんだなと思う。それでもまだ眠りの中にいることが許されているから、目を閉じたまま、梟荘の中に人が戻ってくる気配だけを感じている。

 たるちゃんが寝ているから起こしてはいけない。
 そんな気遣いがある優菜の足音。そろそろと廊下を歩き、そっと自室に入って着替える。それから台所に入って行っていく。
 優菜が忙しい思いをしないで良いように、お湯を沸かしたり、晩御飯を作り置きしたりは、一応全部済ませてある。優菜がするのは料理を温めれば良いだけだ。

 沙織はもっと前から梟荘に帰宅している。わたしは沙織におやつを食べさせて、随分早いけれど先にお風呂に入らせてしまう。
 「明るいうちにお風呂に入るのって面白ーい」

 沙織は無邪気に喜ぶ。風呂の窓から昼間の日差しが柔らかく入り込んでおり、電気をつけなくても風呂場は明るい。ちゃぷん。湯気を立てる湯船に天井から滴が落ちる。淡い自然光の中で、梟荘の小さなお風呂はほわほわと揺れる。
 生活のリズムをちょっと変えただけで、ものが違って映る。沙織はそれを楽しんでいる。どうしてこんな時間にお風呂なの、たるちゃん今からどうして寝るの、なんて文句も言わずに、静かに宿題をしたり、遊んだりしている。
 優菜が帰って来たら、小声でオカエリー、タダイマー、シー、シー、と言い合って小さく笑い合っている。

 梟荘に集った人たちは、運が悪いけれど、みんな、とても、優しい。

**

 生活のために仕事をしているんだと偉そうぶる権利は、人が思っているほど絶対的なものではないと思う。
 
 実は、仕事ができるように思いやりや支えをもらいながら、なんとか仕事をさせてもらえているというのが現実なのではないか。
 わたしの場合、今すぐ働かなくては明日のパンにも困るという状況ではないから、余裕たっぷりのイヤラシイ立場から、そんなふうに考えてしまう。
 
 母からの仕送りを当てにして遊んでいられる立場でもない。完全無職でぼうっと家に引きこもっているのは不安だし、性に合わない。つまりは恰好がつかないから仕事をしようというのが、わたしの根底にある。

 根が甘ったれのわたしが、人の姿勢をぐずぐず言い立てるのは図々しいにもほどがある。よく判っている。だけど考えてしまう。

 校正のアルバイトを辞める心づもりで、保険のようにはじめた夜勤アルバイト。
 週二回の夜勤は、正直、わたしに凄く合っていて居心地が良くて、楽しみなくらいだった。
 けれど、わたしが夜勤をすることで、梟荘の住人達に負担がかかっている。優菜は週に二度、早く帰宅してくれる。沙織も週に二度、せかされるように明るい時間帯に風呂に入らされる。でも、誰も文句を言わない。
 自分はなんて恵まれているんだろうと思う。

 一方で、校正のアルバイトでは、女の人たちがわいわいと喋っている。できれば働かずにいたいけれど、子供にはお金がかかるし、旦那の稼ぎだけでは不満だし、仕方がないから仕事に来てやっているんだ、という話をよく聞いた。
 なかには、お姑さんから、子供の面倒は全部見てやるから、正社員としてどこかに働きに行けと言われているけれど、とんでもない話だ、と憤っているひともいる。
 みんな、まるで犠牲者みたいな気持ちをどこかに持ちながら、お仕事に臨んでいるのかもしれなかった。そんな気持ちを持ちながら職場に来ているのだから、いくら楽な仕事でも、ぎすぎすした空気が漂うのかもしれない。

 人間関係をうまくこなしながら、深刻にならずに生きていける人は、合わせ上手だ。
 自分はそこまで不満に思っていなくても、攻撃的に不満をまき散らしている強い相手に同調する。その時、相手の感情に引きずられず、表面だけ合わせるのがコツなのだ。
 これは、広義の嘘だと思う。わたしにはできない技だけど、だいたいの女の人はこれを上手にこなしているように見えた。
 (羨ましい……)

 嘘が、つけなかった。
 嘘をつくこと自体がストレスになり、気分が悪くなる。心に溜めて置けない性格なのだと思う。ひとはそれを、大人になっていない、と言うのだろう。
 上手にやってゆくことも、大人の条件のひとつ。それができない人は、誰も手が届かない位に偉くなるか、歯を食いしばって耐えるか、逃げて引きこもるしかない。
 わたしは自分が、人間社会の落ちこぼれであることを、嫌と言う程味わっている。もっと切ないことには、梟荘に住む優しい同居人たちも同じ部類の人なのだ。

 淡い仮眠から覚める手前で、わたしはいつも祈る。楽しみな夜勤のアルバイトに出かける前に捧げる感謝の祈り。
 (神様、神様、どうかお願いだから、優菜と沙織まで虐めないでください。苦しいのはわたしだけで沢山ですから)

 何が苦しいのか。お腹は満たされているし、あたたかな家の中で布団にくるまることもできるのに・我ながらなんて贅沢な苦しみだろうと思う。
 ジリリと目覚ましが鳴り、わたしはゆっくりと目を開く。部屋の中はとっぷりと暗くて、窓は艶やかな夜を映し出していた。
 もう沙織は寝てしまっているだろう。
 トントン、と、優しくドアがノックされて、小声で優菜が、たるちゃん起きてる、時間だよと言う。
 わたしは答える。
 「大丈夫、起きてるよー。あんたもう寝なー」

 ぱたぱたことん。もうパジャマを着た優菜が静かに自室に入り、扉が閉まる。
 台所は消灯してあり、玉暖簾の奥は静まり返っている。
 コートを着込んでわたしは出かける。これから、仕事。

**

 お疲れさまでーす、と、お店の中に入って言ったら、おー、よろしく、と、奥の方から声が返って来た。
 今日は店長がいるのか、と、マフラーを取りながらわたしは思う。店長の井上さんはいい人だ。バツ一の40歳だと、三回目のバイトの時に他のアルバイトの人から聞いた。
 無精ひげを生やして、ひょろひょろな井上さんだけど、バイト達からは「あれで人を見る目は確かだからねー」と、言われている。
 
 「俺はさー、どんなにデキそうな人でも、俺や、店の子たちの負担になるような奴は雇わないの」
 面談の時、井上さんはそう言った。

 店の子たちは、みんな就職に失敗して、なにか傷ついた状態でここにアルバイトに来ている。
 次の仕事が見つかるまでのつなぎとして。あるいは、社会に出るのが怖くて長い間引きこもっていたけれど、一念奮起して、リハビリのようにここで仕事をしている子もいる。
 どうやら、そろいもそろって、バイトさんたちは皆、強い人たちから押しのけられた落ちこぼれ組らしかった。

 このマイナーなコンビニ「町のホットスポット・スター」は、厚生施設でもリハビリ施設でもないのだけど、自然にそういう人が集まってくるのらしい。今回アルバイトの募集を出したのも、一人、ここから「卒業」したバイトさんが出たから、その補充目的だったとか。
 それにしても、週二回の夜勤バイトでその補充が賄えているのか、怪しいとわたしは思った。結局、店長の井上さんが不足している分を自分で動いて解決しているように見えてしょうがないのだ。

 井上さんがいる、と思った瞬間、あったかくなった。
 星マークがプリントされたオレンジ色のユニフォームを着てレジ台に出て来たら、井上さんが煙草の棚の整頓していた。相変わらず無精ひげを生やしていて、細い目をしていた。

 「あー、良かったらポップ作っといて。苺大福100円って」

 マーカーのセットとカードがレジ台に乗っている。

 「山崎さん、もし週に三回でも四回でも来られるようになったら言って。うち、夜来てくれる子があんまりいないから」
 ほいよ、と、井上さんは熱いコーヒーのカップを渡してくれて、じゃーね、頼むよと言って、店を出ていった。自宅が近いらしくて、夜の間、少しだけ仮眠を取るらしい。商品を運搬するトラックが店に来る時間までにはまた戻ってくるので、井上さんは多分、慢性的な睡眠不足なのではないかと思う。

 井上さんが自転車で夜の道に繰り出してゆくのを、ガラスを通して見送った。
 夜の道は深海みたい。時々車が通り過ぎてゆくと、大きな魚がぬうっと横切ってゆくように思える。店長の自転車は、チョウチンアンコウ。

 有線放送がのんびりと流れる店内は、目が覚めるように明るくて商品はどれも色鮮やかだった。
 残り少なくなったサンドイッチも、ホットドリンクコーナーに並ぶ缶コーヒーたちも、なにか楽し気で、優しく見えた。

 まだ初めて間もないくせに、わたしはこの職場が、すごく好きだった。
 
**

 ポップを作ったり、トイレの掃除をしたりして、暇な時間を潰していると、まるで夢を回想するかのように昼間のことが思い出されてくる。

 夜のバイト中は、昼間の校正アルバイトのことが非現実的に感じる。このお店で仕事をするのと、あの職場でアルバイトをするのとは、まるで違い世界のことだった。

 ぐずぐずと燻る嫌な記憶は、週二回の楽しい夜勤があるおかげで、前ほど苦しまずに済んだ。けれど、やっぱり嫌なものは嫌で、消化しきれなかった黒い物が浮き上がってくる。まるで瞑想しているかのような気持ちで、男子トイレのオシッコ汚れを綺麗にしながら、自分の心の動きを遠目で眺めるのだ。

 大きな声であいさつをしたり、思い切って昼食の輪に飛び込んでみるなどして、一度乗り越えたと思ったハードルには続きがあった。
 この間来たばかりのアルバイトさん、社長のご友人の令嬢とか言う早川芽衣さんのことが、どうにも苦手で仕方がない。

 きゃあきゃあ愛らしい声で笑い、おばさんたちに可愛がられながら、芽衣さんは仕事をよく休んだ。熱を出したとか、具合が悪いとかで、週に一、二度、仕事にくる程度だ。
 にもかかわらず、芽衣さんは人々に溶け込み、芽衣ちゃん芽衣ちゃんと持ち上げられるようになっていた。
 芽衣さんがいない日でも、「こないだ芽衣ちゃんが言ってた店に行ってきたー」とか、必ず名前が出た。

 わたしが気になっているのは、芽衣さんが時々見せる攻撃性だった。

 にこにこ楽しそうに喋っていたかと思ったら、トイレで一緒になった時など、「そこよいてよ」と、冷たい声をぶつけられる。
 あるいは、わたしのことを人懐こく、色々と聞きほじったかと思ったら、「すごーい、信じられなーい」と、侮蔑が入り混じった笑いをはじけさせる。
 芽衣さんは綺麗な子だったけれど、目は虚ろで焦点が合わない感じがした。なにか異質な感じを、最初からわたしは覚えていた。

 芽衣さんとお喋りした日は、気分が悪く、嫌なものを引きずりながら梟荘に帰った。
 梟荘に汚いものを持ち込むのが嫌だから、わたしは極力芽衣さんを避けるようになった。さりげなく離れた席に座ったり、トイレに入るのがかぶらないようにしたり。
 そして芽衣さんは、敏感にわたしの変化を察し、挨拶もよそよそしくなり、やがて校正のアルバイトさん全体的に、なにかわたしに壁を作るようになっていった。
 (ラインでみんな繋がっているからなあ)
 芽衣さんがいる日は、また一人ぼっちで昼食を取るようになった。みんなの輪から離れてごはんを食べていると、芽衣さんのきゃあきゃあ高い声で笑うのが耳障りに聞こえてきた。おまけに、なにか自分の事を笑われているような妄想まで沸いて来たので、居心地が悪くて溜まらなくなった。
 
 「外でゴハン食べていいですか。新鮮な空気を吸いたくて」

 社員さんに断ってから、わたしはテナントの外の小さい公園で弁当を広げるようになった。
 そんなふうに外でご飯を食べるアルバイトさんは他にいないので、まるで異様なことをしているみたいだったけれど、公園ではサラリーマンの男性や、子連れのママなどが弁当を広げていて、外でご飯を食べるのは悪いことではないんだと気づかされる。
 芽衣さんの声が聞こえてこないだけ、このほうがよっぽど気が楽だ。

 けれど、余計に芽衣さんの心証を悪くしてしまった。
 この頃わたしは毎日、今日は芽衣さん休んでくれればいいけれど、と、憂く思いながらアルバイトに出勤するようになっている。
 辞めたい気持ちはもう、止まらなくなっていた。

 「山崎さんあのね……」
 密かに仲良くしてくれている、優しいおばさんが、ぼそっとトイレで教えてくれた。
 「早川さんね、山崎さんには彼氏がいるのかとか、山崎さんの家族構成とか、しつっこくしつっこく聞いてきたのよ」
 
 そのおばさんにだけは、わたしは自分の特殊な家族構成を打ち明けていた。
 おばさんは「わからない、聞いていない」と繰り返し答えたけれど、本当にしつこくて困っている、と言っていた。

 (なんでわたしのことを知りたがるんだろう) 
 どうしてか、芽衣さんが恐ろしかった。甘くて愛らしい顔が、わたしを振り向いた瞬間、目をぐっと見開き、眉を吊り上げ、悪霊のような表情を浮かべる。
 アンタが憎い、と、芽衣さんはわたしに巧妙に伝えてくる。
 どうしてわたしのことが憎いんだろう、他の人達みたいにヨイショしたり、会話に付き合って一緒に笑ったりしないから気に入らないのだろうか。
 思い出せば、最初から芽衣さんは、なにかわたしに対してだけ、特別な顔を見せていた。

 これ以上、芽衣さんと関わってはいけないと、本能が警鐘を鳴らしている。
 芽衣さんのことが嫌いと言うより、わたしは、恐怖していたのだった。

 男子トイレの便器に落ちた煙草の吸殻を拾い上げてゴミ袋に捨てた。
 便器を掃除し、床のタイルをふきあげ、もうなくなってしまっていた消臭剤を交換した。すっかりトイレは綺麗になった。
 
 「いつもトイレを綺麗に使っていただき、ありがとうございます」の、ポスターは、わたしがパソコンで作った。セロテープがはがれかけていて、汚れていたので、それも作り直すことにした。

 有線放送は、穏やかなボーカルの洋楽を流している。
 トイレ掃除の後で、お店のパソコンをいじりながら、なんでここは居心地がいいんだろう、と、わたしは思った。
 もっとここで仕事をしたい、もっとここで役に立ちたいと、心からわたしは願った。

 ゴシックで「トイレを綺麗に使っていただきありがとうございます」と感謝の文字を打ち込みながら、わたしは今までになく強く、こう思った。

 誰かを憎む権利はみんなに平等に与えられている。
 トイレを汚しても罪にはならないみたいに。

 だけど、憎まれたくない、汚されたくないと願う権利も、当然みんなに平等に与えられているはずで。
 お店のトイレが綺麗で気持ちが良いのが、別に特別なことでもなんでもないのと、同じように。

 大好きなお店の中で、自分らしく過ごしながらも、それでもわたしは、芽衣さんの怖くて異質な目つきをフラッシュバックするように何度も思い出した。
 常に嫌な記憶に囚われてしまうようになったら、それが潮時だった。逃げることを許されている間はまだ良いのだけど、逃げ道をふさがれたなら、もうどうしようもないのだ。

 (芽衣さんから逃げよう)
 と、わたしは決心し、ついに本当に、校正のアルバイトを辞める決意を固めた。
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